5.3.義体化市民の法的人格保護に関する法律
テーブルの上に、紙が積み上がっていた。
法案草稿。修正案。反論書。再修正案。さらに修正されたもの。それが三センチ以上の厚みになっている。一枚ずつ違う筆跡で、違う主張が書かれている。その中の一枚に、太いフォントで印刷された文字があった。
「義体化市民の法的人格保護に関する法律(草案・第四稿)」
シェリーはその表紙を見て、一瞬だけ目を止めた。
法的人格保護。
言葉にすると四文字だ。四文字で収まる問いのはずなのに、この四文字のために三センチの紙束ができている。そしてまだ、答えが出ていない。
(おかしな話だ)
今朝、サキの病室を出た。サキは生きている。声が少し戻ってきた。頷いてくれた。それは事実だ。だがその一方で——今この瞬間も、サキが廊下を歩いたとき誰かにぶつかられたとして、それは「怪我」か「器物損壊」か、現行法では答えが出ない。サキが奨学金の申請をしようとした場合、「人間」の欄に記入できるかどうか、誰にも判断できない。学籍がこのまま維持できるかどうかも、まだ決まっていない。
これが、法的空白というものだ。
シェリーの周囲に並ぶのは、全員大人だった。王室顧問。各院の代表者。弁護士が二人。法学者。誰一人として、シェリーより若くない。
ーーー
「まず本法案の所管についてですが」
最初の発言は、内務省系の顧問からだった。「義体化は医療行為であると同時に、義体部位が機械製品でもあることから——純粋に法的人格の問題として扱うか、医療機器管理の延長として扱うか、あるいは種族法の枠組みで扱うかについて、まだ省庁間での合意が取れていません」
「医療機器管理局としては」と別の男が続けた。「義体化手術の認可基準は我々の管轄ですが、術後の人格の取り扱いに関しては、そもそも我々の所管外ではないかと——」
「種族法の枠組みで言えば」と右端の女が口を挟んだ。「現行の種族分類は天族・魔族・人族・亜人の四区分です。義体化した人間が『人族』の分類に留まるのか、新たな区分を設けるのかという問題は、種族調停委員会の審議事項になるかと思われますが——」
「種族調停委員会は現在、亜人権利の再整備で手がいっぱいで——」「その審議が完了するまでに、どのくらいかかりますか」「最低でも二年は——」「二年」
(二年)
シェリーは言葉を飲み込んだ。今朝、サキが頷いた。その光景を思った。
ーーー
「所管の問題と並行して、法案の名称についても検討が必要かと」と、法学者の一人が言った。眼鏡をかけた、疲れた顔の男だった。「『法的人格』という概念は、現行法体系の中で厳密な定義を持ちます。義体化した人間に同じ概念を適用することが、既存の判例体系と整合するかどうかについて——」
「判例がないのであれば整合性も確認できないのでは」と別の弁護士が言った。「むしろ整合性を判断するための先例を作ることが今回の目的では——」「先例となる立法は慎重さが求められます。後から修正が難しい」「修正できるように条項を設ければ——」「修正条項を入れると施行後の解釈が複雑になって——」「解釈は下位規則で整備——」「下位規則の整備には各省令との調整が——」「省令の調整は何ヶ月——」「最低三ヶ月、ただし関係省庁が十三ありますので——」
(十三)
(十三の省庁が調整を終えた先に、やっと下位規則ができて、下位規則の先にやっと——)
シェリーは紙の束を見た。第四稿だ。第一稿から三回書き直している。
ーーー
「法的人格の問題とは別に」と、王室顧問が静かに口を開いた。老齢の男だった。声に棘はない。むしろ穏やかだ。それがかえって、重かった。「本法案の審議は、現在国民感情が非常にセンシティブな時期に重なっています。先の戦後処理が完全に落ち着いていない段階で、これだけの影響を持つ法案を推進することが——政治的なリスクを持つことは、殿下もご承知かと思いますが」
「義体化倫理審査委員会からは」と新しい声が入った。「本法案が義体化技術への社会的容認度を高めた場合の、倫理的影響についての評価書の提出を求めています。これが揃わないと委員会としては賛否を明言できません」
「評価書の提出にはどのくらい——」「調査設計に三ヶ月、実施に六ヶ月、分析に三ヶ月ですので——」「一年、ですか」「最短で。政治的に問題が起きた場合はさらに——」
「調査の間、当事者の方々の法的地位は——」「現状維持——というか、現行法に基づいて判断されます」「現行法では義体化者の法的人格は——」「規定がありません」「規定がないということは——」「現行では人間として扱われる可能性も否定できませんが、明文規定がない以上は担当者の裁量に——」「裁量が人によって違う場合は——」
「統一見解が必要になります」「統一見解は誰が出しますか」「法務局ですが、法務局は現在——」
(また戻る)
円を描いている、とシェリーは思った。どこかへ向かっているように見えて、どこへも行っていない。大きな円を。丁寧に。全員が真剣な顔で。
ーーー
「シェリー殿下」と最初に発言した男が言った。五十代か六十代、目が疲れている。敵意はない。それが分かるから、かえってやりにくかった。「義体化市民の法的人格保護法案は、趣旨としては理解できます。しかしながら、前例が一例しかない段階での立法には、慎重さが求められると考えます。サキ・ニノマエ氏のケースは確かに先駆的ですが——制度設計上、一例だけを根拠にした立法は危険です。今後発生するであろうケースを想定した十分な調査と議論が——」
「前例が一例しかないのは」とシェリーは言った。「一例しか起きていないからではありません」
男が少し止まった。
「現行法に、記録する場所がないんです。完全義体化者という法的カテゴリが存在しないから、記録されていない。たとえば——」
シェリーは机の上の草稿から視線を上げた。
「先月、街中で義体化した男性が暴行を受けた事件がありました。加害者は起訴されましたが、検察は罪状の選択に三週間かかった。傷害罪の適用には生物的損傷の証明が必要で、義体部位への暴力が物的損壊にあたるかどうかの先例がなかったから。最終的に傷害罪で起訴されましたが——もし被害者が完全義体化者だったら、その議論すら成立しなかった可能性があります」
会議室が静かになった。
「法的空白は中立ではありません」とシェリーは続けた。「規定がない状態は、既存の体系が自動的に適用される。つまり『人間ではない物』として扱われる。立法を先送りすることは、義体化した人間には権利がないという立場を取り続けることと同じです」
ーーー
男が口を開いた。「しかし、脳が生物であるかどうかを外部から証明する手段が——」
「それは正当な問題です」とシェリーは言った。
男が少し驚いた顔をした。
「証明の問題は、法案の次の課題として取り組むべき問題です。でも今は、その前段階の話をしています。証明方法が確立するまで権利を与えないという立場は——証明方法が確立するまで、その人間は人間として扱わないということです。技術の問題が政治の問題に先行してはいけない」
場が揺れた。
全員ではなかった。壁は、まだそこにある。でも——さっきより、少しだけ薄くなった気がした。
「……本日の議論は記録に残して、次回の審議で継続検討という形を取りましょうか」と誰かが言った。
(また来週)
でも——今日、この部屋の空気は変わった。変わらなかったのかもしれない。でも少なくとも、静かな場所に何かを落とした。それだけは確かだ。
ーーー
会議が終わって廊下に出ると、エディが壁にもたれていた。
何も言わずにシェリーの顔を見た。
「……少し揺れた気がした。わからないけど」
「まあ、一回でいきなり倒れるもんでもなかろうもん」
そうだよね、とシェリーは思った。倒れるまで、続けるしかない。
廊下を歩き始めると、少し遅れてマリアが合流した。白衣の上に修道服の外套を羽織っている。
「お疲れ様ですわ、シェリー」
「マリアも。今日もアキヅキ先生のとこ?」
「ええ。——そういえば」とマリアが少し声を落とした。「ルシアン様が、アキヅキ先生のところで療養中なんですの。ご存知でした?」
シェリーは少し驚いた。「ルシアンが?」
「はい。容体は安定しているそうですけれど……」
マリアがそれ以上を言わなかった。言わなくてよかった。シェリーもそれ以上を聞かなかった。
「ラゼルは?」とエディが言った。
「フジシロ残党の監視。表の仕事には顔を出さないって言ってた。ラゼルなりに動いてるとは思う」
三人で廊下を歩いた。
ーーー
廊下のモニターの前を通り過ぎるとき、映像が目に入った。
街頭だった。人が集まっている。マイクを持った男が、カメラに向かって話していた。
「——神が人間に与えた肉体を、機械に置き換えることは、創造への冒涜であり——」
シェリーは立ち止まった。
エディが「行かんとね?」と言った。
「うん。行く」
でも、もう一秒だけ見た。
あの男は悪い人間ではないかもしれない、とシェリーは思った。信じているものがあって、それに従って話している。信じているものが違うだけだ。でも——その言葉が、サキが今朝病室で聞いたニュース音声と同じ言葉だと思ったら、胸の中に何かが固まった。
言葉では足りない。
法案が通っても、足りないかもしれない。
それでも——今持っているものが、それしかない。
(言葉で、どこまで行けるんだろう)
問いに答えを出す前に、足が動き始めた。
ーーー
窓から外が見えた。病院のある方角に、夕方の光が落ちていた。
「……ちょっと行ってくる」
「どこ?」とエディが言った。
「サキのところ。もう一回だけ」
「また夜中まで居座るんじゃなかろうもん」
「一時間だけ」
「どうせ一時間じゃ終わらんたい」
「……二時間だけ」
エディが呆れた顔をした。マリアが小さく微笑んだ。
シェリーはもう一度窓の外を見た。今朝、サキは頷いた。声が戻ってきた。それだけで十分だと思った——と思いながら、また会いに行きたいと思っている。
夕方の光の中を、病院の方角へ歩き始めた。




