5.2.最初の来訪者
ドアノブを握ったまま、シェリーは少しだけ止まった。
ピクニックのとき、サキは倒れた。
あのときのことは、今も正確に覚えている。草の匂い。サキが突然黙った瞬間。地面に崩れ落ちる前の、たった一秒。そのとき何が起きたかを理解する前に、シェリーはもう叫んでいた。
病院で、医師から聞いた。エーテル解離症候群の末期症状。全身の生体機能が低下を続けており、部分的な処置では間に合わない。全身義体化しか、道がない。
シェリーは何も言えなかった。
頷くことも、「わかりました」と言うことも、できなかった。隣にいたジュンイチが静かに答えた。「わかりました」と。それをシェリーはただ聞いていた。
手術が始まった。
手術室の前の廊下に、椅子が三つあった。シェリーは真ん中の椅子に座った。エディが左に座った。右の椅子は空いた。マリアが水を持ってきてくれたが、飲まなかった。何時間待ったかわからない。廊下の時計を何度も見たが、数字が頭に入らなかった。
ただ、待った。
できることが、それしかなかった。
(大丈夫。泣かない。泣かないって決めた)
深呼吸する。一回。もう一回。
ドアを開けた。
ーーー
白かった。
病室の白さというものは知っているつもりだったが、入った瞬間、改めてそう思った。白い壁。白いシーツ。天井に埋め込まれた蛍光灯の光。機器の低い駆動音。窓からの灰色の空。
全部知っているはずの要素なのに、組み合わさると知らない部屋になる。ここは病院で、ベッドがあって、そこにサキがいる——それだけの情報なのに、足が重かった。
ベッドに、サキがいた。
いた、という事実が、しばらくシェリーの中を占めた。何か言わなきゃ、と思うのに、言葉が見つからなかった。喉が動かなかった。
「何か言わなきゃ」と「何も言えない」が同時に存在していて、その二つが打ち消し合って、ただ立っていた。
(白い。なんで、こんなに白いんだろう、この部屋)
関係のないことを考えた。それでやっと、足が前に進んだ。
ーーー
近づいたとき、サキが視線を向けた。
目が、少し違った。
シェリーはそれに気づくのに一歩かかった。ピントの合い方が、普通の目じゃない。精密すぎる。シェリーがドアから何歩踏み込んだか、その瞬間に照準が定まったような——人の目じゃなく、機械の目が合焦したような、そういう感じ。
でも、その目が向いている先は、シェリーだった。
義眼が、静かにデータを記録した。シェリーの目の縁——毛細血管の充血。涙で腫れた痕跡。数値として処理する。——来る前に泣いていた。目が赤い。
シェリーはそれを知らない。サキは何も言わなかった。
ーーー
サキが口を開こうとした。
音が出なかった。低いノイズが一瞬、喉の奥から漏れて、それで終わった。
サキが、もう一度試みた。また同じ音。
「あ、ごめん、ごめん——」
シェリーが先に動いた。椅子を引いて、ベッドの横に座る。「私が話す、ちょっと待って」
少しだけ笑おうとして——うまくできたかどうか、わからなかった。
「生きてた。よかった。それだけ。他は後でいい」
(これだけ言えたら、あとは何でも言える気がした)
そこから先は、自分でも止められなかった。
今朝の朝食のこと。病院の廊下の花瓶が誰かにぶつかられて倒れていたこと。エディが騎士団の訓練で三日連続で筋肉痛になっていること。マリアが実習で先生に褒められたらしいこと。ラゼルが昨日、珍しくちゃんとした飯を食べているのを目撃したこと。
意味のないことを、次々と話した。
沈黙が来るのが怖かった。沈黙の中で泣きそうになる自分がわかっていたから、とにかく話し続けた。サキが聞いているかどうかより、シェリー自身が喋り続けることに必死だった。
ーーー
一息ついたとき、サキがまた口を開こうとした。
また、ノイズだった。
シェリーが話すのをやめた。
二人で、少しの間、その音の残響の中にいた。
「……んー」とシェリーは言った。頭を少し傾けて、考えた。何かいい方法があるはずだ。「一回頷いたらYes、二回でNo——それでどう?」
サキが、一回、頷いた。
その瞬間に、何かが戻ってきた。輪郭が、成立した。会話の形が、二人の間にちゃんと存在していると感じられた。
(そっか。じゃあ話せるじゃん)
シェリーは少し笑った。今度はちゃんと笑えた気がした。
「じゃあ確認させて。サキ、今、私のことわかる?」
一回。
「名前は? シェリーで合ってる?」
一回。少し間があった。それからもう一回、念押しするように。
シェリーは笑いそうになった。「念押しすんなよ」
サキが、わずかに首を傾けた。
「エディのこと、わかる?」
一回。間があって、もう一回。
「……それ、どっち?」
サキがまた首を傾けた。「どっちも」か「どちらとも言えない」か——読み取れなかったが、なんとなくわかった気がした。「エディのことはわかるけど評価が保留」という感じだ。
「エディは今日も元気だよ」とシェリーは言った。「筋肉痛だけど」
サキが一回、頷いた。それが「そうですか」なのか「それは仕方ない」なのかわからなかったが、シェリーはなぜかそれで満足した。
ーーー
しゃべりながら、気がついたら手が動いていた。
サキの義手に、伸びかけて——途中で止まった。
触れていいのか、わからなかった。普通の手と同じように触れていいのか。嫌だったら、どうしよう。それとも、感触の伝わり方が違うから、触れられても意味がないと感じるだろうか。こちらが触れることで、何か不快な処理が走ったりしないか——
考え始めたら止まらなくなって、手が宙に浮いたままになった。
「……触ってもいい?」
聞いた。聞いてから、少し恥ずかしくなった。大げさな聞き方だったかもしれない。でも聞かないよりよかったと思う。
サキが、一回、頷いた。
シェリーは義手の甲に、そっと手を置いた。
冷たかった。
でも、ちゃんとある。
(冷たい。でも、ちゃんとある)
それだけのことが、妙に大事なことのような気がした。言葉にするとおかしいかもしれないが、「ある」ということが、「生きている」ということの続きとして感じられた。
サキはその接触を受け取った。圧力:0.8N。温度:36.4℃。——これが、シェリーの体温だ。記録する。
〔これが——シェリー、だ〕
それ以上の言語化を、サキはしなかった。する必要がなかった、ということにした。
ーーー
しばらくして、シェリーは立った。
「また来る。ゆっくりでいいから」
義手の上から手を離す。椅子を戻す。ベッドから少し離れて、ドアの方へ歩いて。
振り返った。
サキが天井を見ていた。その横顔は、何も言っていなかった。言えなかっただけかもしれないし、何も言う必要がなかったのかもしれない。
どちらでもよかった。ここにいる、ということが確認できた。
シェリーは一度笑って、出ていった。
ーーー
ドアが閉まった。
静かになった病室の中で、サキは天井を見続けた。
シェリーが来て、帰った。たくさん話した。内容は三割くらいしか聞いていなかった。残りの七割は、シェリーがここにいるという事実を処理することに使っていた。
診断ログが更新される。
`体温変動:+0.3℃ / 発生要因:不明`
〔不明、か〕
不明のまま、記録された。不明でいい——今は、それで十分だ。




