5.1.起動
暗闇に、数字が浮かんだ。
`バッテリー残量:87%`
`外気温:16.2℃`
`照度:340lux`
次いで、血中酸素飽和度。心拍数。左右四肢の可動域。内部温度センサーのキャリブレーション完了を示すログが、視野の右端に静かに積み上がっていった。
これが「目覚め」だ。
〔感覚より先にデータが来る。ボクの朝は、もう光でも匂いでも始まらない〕
それを、嘆く気にはなれなかった。ただ、確認した。
バッテリーが87%ということは、これが初めての覚醒ではない。どこかで一度、意識が浮上していた——その記憶はない。消えるように沈んでいったのだろう。それで構わなかった。
天井が白かった。
医療棟の天井特有の質感——蛍光灯の均質な光。隅に埋め込まれた換気口からの微かな気流。義耳が拾う機器の低周波振動。データが一つずつ確定していく。
ここは病院だ。ボクは生きている。
〔——ああ、そうか〕
「生きている」という認識が、これほど淡々と処理できる日が来るとは思っていなかった。あるいは、そう感じる回路自体が変わったのかもしれない。どちらかは、今は判断できない。
ーーー
手を動かそうとした。
動いた。
右手の指が、白いシーツをゆっくりと掴む。
掴んでいる——データが示している。圧力センサーが数値を返している。指先が布地の表面に接触しているという事実が、精密に記録されている。
しかし。
「触れている」という感覚が、ない。
素材の柔らかさも、糸の細さも、シーツが少し冷えていることも——どれも、届かない。
〔おかしいな〕
おかしい、というのは感情的な評価ではなかった。純粋に、予想と結果の乖離だ。触覚センサーはある。圧力データは来ている。なのに「感じている」という感覚が、どこにも繋がっていない。
シーツに手を押しつけた。もっと強く。
圧力値が上昇した。0.8N、1.2N、2.0N——数字だけが変化した。
感触は、来なかった。
義手をシーツの上に広げたまま、しばらくただそこに置いておいた。さらに分析を重ねても、今は何も変わらないとわかっていた。それでも、置いておいた。
これが、欠如というものか。
違う。
〔これは欠如じゃない——変換だ。変換の途中だ〕
自分にそう言い聞かせた。設計を知っているから言える。感触の「ない」が問題なのではなく、変換系のキャリブレーションがまだ終わっていないのだ。時間が経てば、改善する可能性がある。アキヅキ先生がそう言っていた。
そのはずだった。
ただ、目の前の手は、動いていた。精密に、完璧に動いていた。
ーーー
その空白の中に、ふと、記憶の断片が浮かんだ。
病室の光。父の声。
「やり直せる。全部、やり直せるから」
ジュンイチはそれを何度か繰り返していた。言い聞かせるように、あるいは自分に言い聞かせるように。サキは答えなかった。答える必要がなかった——決意は、もう決まっていたから。
体が、もたなかった。それだけのことだ。
〔あの日、ボクは決めた〕
記憶はそこで終わった。フラッシュバックと呼ぶほどの長さもない。ただの断片。サキはそれを処理して、次へ進んだ。
ーーー
誰かを呼ぼうとした。
誰を呼ぼうとしていたのか、自分でもよくわからなかった。ただ、喉を——正確には声帯代替機構を——動かそうとした。
出てきたのは、声ではなかった。
低い電子音。ノイズが混じった、機械的な軋み。口を閉じた。
〔キャリブレーション中、か〕
音声合成系は最も繊細な調整が必要だとアキヅキ先生から聞いていた。人間の声には微妙な呼気の揺れが伴う——それを義体の発声機構で再現するには、相当な時間がかかる。
諦めて、黙った。
沈黙も、音響データとして処理されている。病室の外からの廊下の音。どこか遠くのナースステーションの端末の通知音。点滴モニターの規則的なビープ。全部、記録されている。
〔声のない世界というのは、こういう感じか〕
静かだと思った。思った——というのも、今のボクにとって感情なのかどうかが、もうわからなかった。
ーーー
天井から、窓へ。
視線を動かした。首のサーボが滑らかに動く。灰色の空が、窓ガラス越しに見えた。朝の光が薄く差し込んでいる。雲が厚い。
ドローンが一機、飛んでいた。配達用の小型機だろう。静かにホバリングしながら、窓の向こうを通り過ぎていく。
廊下か、あるいは薄く開いた窓越しか——外部マイクが音声を拾った。
「……義体化した人物が公道を歩くことを——神への冒涜と呼ぶ声も——」
ニュース映像の音だった。
サキはその言葉を聞いて、少しの間、処理が止まった。
自分のことを指している——その認識が、思ったより時間をかけて届いた。
〔神への冒涜。そうか、ボクはそういう存在になったのか〕
感情的な揺れは起きなかった。正確には、起きているかどうかわからなかった。センサーは心拍の変化を記録しているが、それが「動揺」なのか「情報処理に伴う負荷」なのかを、今は判定できなかった。
外の世界は動いていた。手術の間も、世界は止まらなかった。当然のことだ。
〔当然なのに、少し——〕
何が少し、なのか、言語化する前に止めた。今は、必要ない。
ーーー
手元に視線を戻した。
右腕。金属の義手。合成皮膚が肘から先を覆っているが、手首の継ぎ目には六角形のパターンが施されている——ボクが自分でリクエストしたデザインだ。アキヅキ先生が「好きなように言っていい」と言ったから。
なぜ六角形にしたのかは、今も少し自分でもわからない。ただ、蜂の巣の構造が好きだった。合理的だから。あるいは、父の研究ノートの表紙にそういうパターンがあったから。
指を動かした。
開く、閉じる。
完璧に動いた。一部に引っかかりも遅延もない。設計が優秀だから——アキヅキ先生の技術と、父の設計思想をベースに完成させた義体だから。
ボクはこれを知っている。この義手が何からできているかを、設計レベルで理解している。
だから、問いが来た。
「——これは本当に、ボクなのか」
声は出なかった。喉から出るはずの言葉が、内側だけで響いた。
〔「私」——〕
一瞬、別の一人称が浮かんだ。どこから来たのかわからない。ただそれは確かに浮かんで、サキはすぐにそれを手放した。
〔ボクは、ボクだ〕
義体化する前も、一人称はボクだった。それは変えない。変えることに、意味がないから。それとも——変えることが、怖い?
問いを立てて、答えを出すのをやめた。
今ではない。今は、確認すべきことが他にある。まず、体を動かせることを確かめる。次に、声帯のキャリブレーション状況を確認する。それから、アキヅキ先生に連絡を——
ーーー
強化された聴覚が、廊下の奥からの足音を拾った。
歩行速度:1.1m/s。歩幅:約65cm。左右の荷重バランス、わずかに右寄り——以前と変わっていない。
データが一致した。
〔シェリーだ〕
義眼のフォーカスが、自動的にドアの方向に合った。
来るとは思っていなかった、と言えば嘘だった。来るだろうとは思っていた。シェリーはそういう人間だ——ボクが病院にいれば、必ず来る。手術の前から、サキにはそれがわかっていた。
来てほしいかどうかは、まだわからなかった。
ただ、足音が近づくにつれて——体温センサーが何も検知していないのに——義手のそばの空気が、少しだけ変わった気がした。
気がした、というのが正しいのかどうかも、サキには判断できなかった。
ドアノブが動く。
サキは天井から視線を外し、ドアに向けた。




