4.3.2 新たな日常へ
アストラリスの一等地に、新たに設立された「深海の国」の大使館。その主であるダミエン・ブラッドオーデンの執務室は、彼の趣味を反映し、豪華絢爛でありながら、どこか深海を思わせる静謐さを湛えていた。
シェリーは、一人でその部屋を訪れた。王女としてではなく、一人の「契約者」として。
ダミエンは、シェリーの来訪を予測していたかのように、部屋の中央に置かれたゲーム盤を挟んで、彼女を待っていた。それは、チェスに似た、しかし駒のデザインがより複雑な、ミスティス王国古来の戦略ゲームだった。
「待っていたぞ、グレイソン」
ダミエンは、シェリーに席を促し、不遜な笑みを浮かべた。
「ダミエン君。大使としての仕事は、順調みたいやね」
シェリーは、彼の挑発には乗らず、静かに席に着いた。
ゲームの駒が、音もなく盤上を進んでいく。二人の間には、言葉少ないながらも、激しい心理戦が繰り広げられていた。互いの腹を探り合い、一手一手に、相手の思考を読み、未来を予測する。それは、かつての最終決戦の、盤上での再現のようでもあった。
「……決闘の日は、近いか?」
膠着した盤面を睨みながら、ダミエンが、ふと呟いた。その声には、あの時交わした「契約」の履行を求める、隠しきれない闘争心と、シェリーという規格外の力を完全に理解し、支配したいという彼の野心が滲んでいる。
シェリーは、盤上から目を上げ、ダミエンを真っ直ぐに見つめ返した。
「その前に、貴方がこの国で問題を起こさないか、見張らせてもらいます」
その声は、王女としての威厳と、一人の少女としての強い意志が同居していた。
「貴方が、私の民を傷つけるようなことがあれば、その時は、決闘の前に、この国から追い出すことになるて」
その言葉は、ダミエンとの『決闘』という個人的な約束と、初代『魔族大使』としての彼の立場、その両方を天秤にかけているかのようだった。
その言葉に、ダミエンは、一瞬虚を突かれた後、心底愉快そうに、喉の奥で笑った。
「フン…面白い。言うようになったじゃないか、グレイソン。それでこそ、俺のライバルに相応しい」
敵対でもなく、友好でもない。
互いを認め、互いの力を利用し、そして、いつか必ず超えるべき相手として認識する。
二人の間には、そんな奇妙で、緊張感をはらんだ「ライバル」としての関係性が、確かに芽生えていた。
「チェックメイトだ」
ダミエンが、盤上のキングを静かに倒す。
「今日のところは、俺の勝ちだな」
シェリーは、敗北した盤面を静かに見つめた後、不敵な笑みを浮かべた。
「……次は、負けんよ」
---
季節は、再び春を迎えた。
アストラリスの王宮の片隅に佇む、小さな離宮の庭。そこには、シェリーのために、ささやかなお茶会が開かれていた。
テーブルを囲むのは、父エドモンドと、母セラフィナ。そして、フェニクスから駆けつけた、養父ナサニエルと、養母クロノエル。ぎこちないながらも、ようやく訪れた、二組の親子としての、穏やかな時間。
そこへ、賑やかな声と共に、仲間たちがやってくる。
「シェリー、差し入れだ!」
騎士団の制服も凛々しいエディが、大好物のアップルパイを手に、満面の笑みで現れる。
「まあ、エディさん。シェリー様のお茶会に、そのような庶民的なものを…」
マリアが呆れたように言いながらも、その手には、彼女が淹れた特製のハーブティーが握られている。
「このパイの材料のリンゴは、遺伝子改良によって糖度を1.5倍に高めた、科学技術院の最新の成果なんだ。……ゴホッ、ゴホッ!」
サキが饒舌に解説しようとしたところで、激しい咳き込みが彼女を襲った。
「サキちゃん? 大丈夫?」
シェリーが心配そうに覗き込むと、サキは少しだけ顔を青くしながらも、すぐに眼鏡を押し上げた。
「ええ……。ただの喋りすぎよ。……サキ、そういう説明はいい、ってラゼルに言われる前にな」
冗談めかして笑うサキ。だが、彼女の指先が微かに震えているのを、シェリーは見逃さなかった。
王女と騎士。科学者と暗殺者。聖女と、贖罪の道を歩む者。
それぞれの立場は変わっても、彼らの間に流れる空気は、昔と少しも変わらなかった。
シェリーは、その光景を、愛おしそうに見つめていた。
(私は、王女として、まだ何も成し遂げとらん。世界には、まだ悲しみが溢れとる。……そして、私自身の記憶も、少しずつ、どこかへ消えていっとる……)
ふとした瞬間に訪れる、真っ白な空白。大切な思い出が、砂のように指の間から零れ落ちていく感覚。
(でも……。だからこそ、立ち止まっとる暇はないんよ)
シェリーは、仲間たちの笑い声を聞きながら、そっと胸に手を当てた。
(私は、もう一人じゃない)
どんな時も、自分を信じ、支えてくれる、かけがえのない仲間たち。
この愛しい人たちがいる限り、どんな困難な未来が待っていようとも、きっと乗り越えられる。
(世界の『天秤』は、まだ傾いたまま。……なら、次はウチが、この国のルールを変える番だわ)
復興のための新しい法律。種族の壁を越えるための制度。やるべきことは山積みだった。
「みんな、ありがと」
シェリーの小さな呟きは、仲間たちの賑やかな声にかき消された。
だが、その言葉は、確かに、そこにいる全員の心に届いていた。
シェリーは、空を見上げた。
青く、どこまでも広がる、新しい世界の空を。
その瞳には、世界の未来と、仲間たちへの希望の光が、力強く輝いているのだった。
庭の木陰で、一匹の黒い犬が、静かにその光景を因果の記録へと書き加えていた。
これは、光と闇の血を引く、一人の少女の物語。




