89.別れ
朝の森は、しんと静まり返っていた。
木々の葉が風に揺れ、鳥の鳴き声が小屋の屋根に届く。
マリは、寝返りを打ちながら目を覚ました。
ゆっくりと体を起こし、伸びをする。
「ん……カイ、もう起きてるのかな……?」
ぼんやりとした頭であたりを見回す。
しかし、どこにもカイの姿がなかった。
食卓には、ミーアとルカがすでに座っていた。
ミーアは静かに紅茶を飲み、ルカはパンをつまんでいたが、どこか気の抜けた様子。
そこへヒルダが現れる。彼女の顔には、いつものような柔らかさはなかった。
「カイは……?」
マリの問いに、ヒルダはほんの少しだけ視線を落とし、重々しい口調で答えた。
「今朝、日が差す前にここを発った」
「……え?」
一瞬、マリの頭が真っ白になる。
「どうせ、買い物にでも行っただけでしょ?こんな早朝に。なにそれ、びっくりさせないでよ……」
無理やり笑顔を作ってみせたマリだったが、ヒルダの次の言葉が、その笑みを凍らせた。
「……クルドを探しに、旅に出た」
その場に、鋭く冷たい衝撃が走った。
ミーアが紅茶を置き、ルカがパンを落とす。
「は……? 一人で、ってことですか……?」
ルカが信じられないといった声で尋ねる。
ヒルダは黙って頷いた。
「そんなの勝手すぎるよ!なんで、相談してくれなかったの!?一言くらい……!」
マリは拳を握りしめ、唇を噛んだ。
「……どうして、私たちに何も言わなかったの……」
ルカの声も震えていた。
ヒルダは、じっと二人の怒りと悲しみを黙って受け止めていた。
その目には、どこか申し訳なさそうな影が宿っていた。
見かねたカークが前に出る。
「……今は、責めても始まりません。カイ殿には、カイ殿なりの想いがあるのです」
カークの穏やかな声に、マリとルカの視線が落ちる。
「私たちは、私たちでできることをしましょう」
その言葉に、ミーアがうなずいた。
「……お兄ちゃんは、自分にしかできないことを選んだ。だから、私たちも……」
ヒルダが口を開いた。
「お前たちには、ここで修行をしてもらう。これから先、どんな戦いが待っているかわからない。相手はドラゴンかもしれんし、人かもしれんし、国そのものかもしれん」
ヒルダの目に、燃えるような強い光が宿る。
「勝て。どんな相手にも勝てるようになれ! そのための地獄を、私が見せてやろう」
三人は、ゴクリと喉を鳴らした。
「……やるしかないですね」
ミーアが真剣な眼差しで頷いた。
「でも、その前に……」とヒルダは言葉を続けた。
「オリビア、お前はどうする? 学校に戻るか?」
オリビアは少し考えた後、ゆっくりと頷いた。
「一度、学校に戻るのね。いくつかの準備が必要だし、学校には休職の届けもしておくのね」
その様子を見て、マリが言う。
「私たちも、一度ベンゲルに戻ります。……家族にちゃんと話しておきたい、学校の手続きもね」
ルカもうなずいた。
「このまま音信不通だと、心配すると思うし……少しだけ、整理する時間が欲しいです」
ヒルダはうん、と力強く頷いた。
「それでいい。準備が整ったら、またここに戻ってくるがいい。そのときは遠慮なく鍛えてやる。泣くなよ?」
「え……なに、めちゃくちゃ怖いこと言ってますよ……」
マリが苦笑した。
ヒルダは手を振って合図を出すと、空から一羽の巨大な鳥が舞い降りてきた。
その翼は金色に輝き、目は鋭く、背には複数人が乗れそうな鞍が取り付けられていた。
「このファルコンは、私の従魔だ。しばらく貸してやる。ベンゲルまではひとっ飛びだ」
マリとルカ、オリビアは互いに顔を見合わせ、うなずいた。
「……ありがとう、ヒルダ先生。必ず戻ってきます」
ルカが丁寧に頭を下げた。
「……行ってくるのね」
オリビアも手を振った。
「とりあえず行ってくるね! ヒルダ先生、ミーア、カーク!」
マリは不安を隠すように、明るく笑ってみせた。
ファルコンが翼を広げ、強く地を蹴る。
空に舞い上がるその姿は、朝日に照らされ、まるで黄金の流星のようだった。
見送るヒルダの目は鋭く、それでもどこか優しかった。
「さあ、残った者たちは準備を始めるぞ。地獄の鍛錬はすぐそこだ」
ミーアとカークは気を引き締め、ヒルダの後に続いた。
ヒルダの後ろ姿、なにか寂しそうな感じにも見えた。




