ソラ
佐助は布団に座ったまま、背中を壁に預けていた。吐き気はおさまってきていたが、急に頭を動かすと、まだ部屋が傾くように感じられた。テーブルの上では、REM-Bのリールのあいだにテープがかかったままだった。恵美が佐助を目覚めさせるために切った部分は、透明な接合テープでつながれている。
直樹は、あの言葉をもう一度再生してほしいと言った。恵美は装置のボタンに手を置いたままだった。
「もう二回聞いた」
「わかってる」
「三回目に聞いても、声がはっきりするわけじゃない」
「それを確かめたいんじゃない」
直樹は小さなスピーカーを見つめていた。
「じゃあ、何を確かめたいんだ?」佐助が訊いた。
「毎回、同じ言い方をするか」
恵美はボタンから手を離した。
テープが数センチ巻き戻った。モーターが小さく音を立てて止まり、部屋にはまた外の音が戻ってきた。塀のそばを通る自転車、隣家のエアコン、さらに遠くには踏切の警報音。
恵美がボタンを押した。
最初に直樹の声が流れ、佐助を呼んだ。次に、ノイズにほとんど埋もれた遠い返事。
最後に、女の声。
「次は、直樹も連れてきて」
恵美が再生を止めた。
直樹はスピーカーを見つめ続けた。
「同じだ」彼は言った。
「何か変わると思ってた?」恵美が訊いた。
「うまく言えない」
直樹は立ち上がり、窓へ行った。カーテンは片側に寄せられ、通りの明かりが入っていた。直樹は布をもう少し横へ動かした。
「向こうで、俺の名前を言ったか?」
「言った」
「俺の声を聞く前に?」
佐助は順序をたどろうとした。テーブル。味のしない夕食。金属的なベルの音。そのあと、仕切りの向こうから聞こえた声。
「たぶん、言ってない」
「でも、俺のことは考えた」
「たぶん」
直樹はうなずいた。その答えが、口にしたくない何かを確認したかのようだった。
恵美はREM-Bの電源を切った。
「説明は二つ考えられる」彼女は言った。「声が佐助の中にあった情報を使ったか、装置が外から何かを拾って、それを夢へ返したか」
「二つ目だと思う?」直樹が訊いた。
「どちらとも言ってない」
「どうすればわかる?」
恵美は直樹を見た。
「今日はわからない」
直樹はカーテンから手を離した。
「塚原さん、あの声は俺に来いって言った」
「録音された声が言っただけ」
「俺の名前を使って」
「だからこそ、佐助の睡眠サイクルに何が起きたのかわかるまでは、もう一度装置を動かさない」
直樹はまたテープを見た。佐助には、猫が数時間姿を消したときに友人が見せる表情がわかった。焦っているように見えるが、そうではない。悪い可能性が一斉に動き始める中で、自分だけは動かずにいようとする顔だった。
「俺は行く」直樹が言った。
恵美は装置の蓋を閉じた。
「まだだめ」
その後の四日間、直樹は録音のことを口にしなかった。
佐助は風待ちで二度、直樹に会った。一度目は猫たちの部屋の高い棚を拭いていた。二度目は床に座り、三毛猫がベンチの下から出てくるのを待っていた。無理に引き出そうとはしなかった。猫自身が決められる距離に器を置いていた。
「塚原さんから連絡あった?」佐助が訊いた。
「昨日」
「それで?」
「あと二日ほしいって」
三毛猫が器の縁へ鼻先を近づけた。直樹は見ていないふりをして視線をそらした。
「まだテストしたい?」
「なんで俺の名前を呼んだのか知りたい」
「訊いたのはそれじゃない」
直樹は腕を膝に載せた。
「あの場所も見たい」
佐助は待った。
「場所だけ?」と訊いた。
三毛猫は一口食べ、また下がった。
直樹は答えなかった。
窓のそばに古い写真があった。差し込む陽だまりの下で、ソラが前足を体の下にしまって横になっている。左耳の先の小さな切れ込みは、その距離ではほとんど見えなかった。
額縁の下には、あの言葉が手書きのまま残っていた。
「待っていたのは、あの子のほうだった。」
佐助は写真へ近づいた。
「もし、あそこにいたら?」
直樹はズボンのしわを手で伸ばした。
「いるわけない」
「あの場所は僕のために家を作った。田畑も。美香も」
「お前が欲しかったものを作った」
「だからだよ」
直樹は三毛猫を見た。猫はまた器へ戻っていた。
「なら、ソラじゃない」彼は言った。「俺が覚えているソラだ」
佐助はもう一度写真を見た。
「それで何か変わる?」
「変わらないとだめだ」
土曜日の20時前、恵美は佐助の家へ着いた。
細長い箱を二つ、工具の入ったバッグを一つ、それに布テープでまとめたケーブルの束を持っていた。直樹はすでに百合子の部屋で待っていた。テーブルを壁から離し、二組の布団を同じ形に畳んで、その間に装置を置く場所を空けていた。
「早いね」恵美が言った。
「あまり眠れなかった」
「それだと、正しい睡眠段階に入れないかもしれない」
「十分寝た」
恵美は言い争わなかった。一つ目の箱を開け、二組のセンサーを取り出した。
「REM-Bには入力が二系統ある」恵美は説明した。「もともとは信号を比較するために使われていた。二人を同時につないだ記録は見つからなかったけど、二つのチャンネルは記録ヘッドに入るまでは独立している」
「同じ場所を見るってこと?」佐助が訊いた。
「同じテープに信号が記録される、ということだけ」
恵美は二つの布団のあいだに小さなスイッチを置いた。
「チャンネルごとに遮断できる。どちらかに呼吸の変化、反復運動、呼びかけへの無反応が出たら、その側を切る」
「もう一人は?」直樹が訊いた。
「続けて起こす」
「問題がなくても?」
「二人で成立したサイクルに、一人だけ残すつもりはない」
直樹は布団に座った。
恵美が最初のケーブルをつないだ。
「40分」彼女は言った。「52分じゃない。誰かが別れを惜しみたいからって、少し延ばすこともしない。35分で呼び始める。40分で切る」
「電車が来たら?」佐助が訊いた。
「その前に乗って」
恵美は直樹のこめかみにセンサーを貼りつけた。直樹は動かなかったが、REM-Bのモーターが回り始めると、ズボンの布を握る手に力が入った。
佐助は横になった。
「直樹」
友人が顔を向けた。
「もしソラがいても、最後まで残る必要はない」
「わかってる」
「先に起きることもできる」
「わかってる」
恵美は天井の明かりを消した。
「目を閉じて」
佐助は記録ボタンのクリック音を聞いた。
そのあと、動き始めるテープの音。
目を開けると、田舎の家の縁側に横になっていた。
太陽はまだ山を越えていなかった。体の下の板には夜の冷たさが残り、屋根の端には小さな水滴が並んでいた。田畑の作物は、佐助には感じられない風に揺れている。
体を起こした。
背後の戸は開いていた。
美香がテーブルに茶碗を二つ置いていた。
彼女が顔を上げた。佐助はすぐに立ち上がった。
「どこ?」
美香は家の反対側を指した。
廊下の先に、前回はなかった扉があった。その向こうには、低い木々に囲まれた土地と、傾いた屋根に側面を金網で囲われた細長い猫舎があった。入口は開いている。
直樹がその前に立っていた。
眠りについたときと同じシャツを着ていたが、裸足で土の上に立っている。佐助が近づいても、彼は振り向かなかった。
「これ、前からあった?」直樹が訊いた。
「なかった」
猫舎の中では六匹の猫が木の棚で眠っていた。別の二匹は浅い器から水を飲んでいる。一匹の黒猫が入口を横切り、警戒する様子もなく日なたに横になった。
ケージはなかった。
直樹は中へ入った。
水を確かめ、器の縁に触れ、近寄ってきた茶トラの毛並みを見た。その動きは風待ちのときと同じだった。ゆっくりと、触れる前に意図を知らせるように動き、一匹一匹に拒む時間を与えている。
「健康そうだ」彼は言った。
「そんなにすぐわかる?」
「怖がってないことはわかる」
白い猫が棚から飛び降りた。その後ろ、影の中で何かが動いた。
直樹は茶トラから手を離した。
灰色と白の猫が、開いた箱のあいだから姿を現した。
佐助の記憶より小さく見えた。歩き方に不自由はなく、尾を立て、注意深い目で周囲を見ている。顔を横へ向けたとき、左耳の先の小さな切れ込みが見えた。
直樹は名前を呼ばなかった。
しゃがんだ。
ソラは数歩離れたところで止まった。
猫舎は静まり返った。ほかの猫まで動きを止めたように見えた。
直樹は片手を地面につき、手のひらを下へ向けた。
近づけなかった。
ソラは首を傾げ、匂いを確かめるように鼻を動かした。一歩。それから、もう一歩。
手までたどり着くと、鼻先で直樹の指に触れた。
直樹は目を閉じた。
ソラはその手に頬をこすりつけた。
直樹は口でゆっくり息をした。音を立てれば消えてしまうとでも思っているようだった。目を開けると、睫毛には涙が残っていたが、隠そうとはしなかった。
「遅かったな」彼は言った。
ソラは直樹の手の下をくぐった。
直樹は頭から背中の付け根まで、一度だけ撫でた。
「四十三日もかかったのに。今はこんなふうに来るんだな」
ソラは直樹の膝のそばに横になった。
佐助は猫舎の外へ下がった。
美香が家の戸口のそばに立っていた。手には三つ目の茶碗を持っている。
「見つけた?」美香が訊いた。
佐助はうなずいた。
美香は茶碗を段差に置いた。
「じゃあ、ちゃんと見つけさせてあげて」
直樹は午前中、世話の必要のない猫たちの世話をして過ごした。
きれいな水を取り替え、食べ残しのない器を洗った。床を掃いても、ちりとりに入るのは風が運び込んだわけでもない乾いた葉だけだった。
ソラはずっと直樹について歩いた。
直樹がしゃがめば足元で待ち、立ち上がれば次の作業までついてきた。直樹はほとんど話さなかった。ときどき、ただその場所で名前がどう響くか確かめるように「ソラ」と呼んだ。
佐助は猫舎の反対側へ布の箱を運ぶのを手伝った。
「これ、どこにあった?」と訊いた。
直樹は箱を見た。
「家の裏」
「餌は?」
「それも」
屋根の下には、未開封の餌袋、薬、タオル、キャリーケースが揃っていた。包装にはメーカー名も日付もない。直樹が一つ袋を開けると、餌はほとんど縁まで入っていた。
「店の在庫みたいだな」佐助が言った。
「もっといい」
「なぜ?」
「ここでは、なくならない」
午後のはじめ、三人は縁側で昼食をとった。美香が用意したのは、ご飯、焼き魚、味つけしたきゅうりだった。ソラは直樹と庭のあいだで、前足を体の下にしまって横になっていた。
「食べ物、欲しがらないの?」美香が訊いた。
「誰かが食べてるときは、絶対にねだらなかった」直樹が答えた。「台所に誰もいなくなるまで待ってた」
「お腹が空いてても?」
「空いてるときほど」
直樹は魚を一切れ分け、少し見てから自分の皿へ戻した。
「家の中で寝るようになるまで、何か月もかかった」彼は言った。「最初のころは窓を開けてた。冬でも」
「出ていったら?」美香が訊いた。
「出ていったよ」
「でも、戻ってきた」
直樹はソラを見た。
「戻ってこなくなるまでは」
しばらく、誰も話さなかった。
昼食のあと、直樹は一匹ずつ猫を確かめた。歯、耳、足。傷も熱も、感染の兆候もない。鼻に古い傷跡のある猫が一匹いたが、皮膚はすっかり閉じ、周囲には毛が生えていた。
「病気の子が一匹もいない」
佐助は側面の金網のそばにいた。
「いいことだろ」
「そうだな」
直樹の返事は速すぎた。
白い猫が猫舎を横切り、水を飲み、朝と同じ棚へ戻っていった。
佐助はほかの猫たちを見た。
黒猫はまた同じ陽だまりに横たわっている。茶トラは最初の器のそばにいた。白い猫が棚から飛び降り、二つの箱のところまで歩いて影へ消えた。
少しして、そこからソラが現れた。
佐助は近づいた。
「何匹いる?」
「九匹」
「来たときに数えた?」
「数えた」
「外へ出た猫は?」
直樹は開いた入口を見た。
「いない」
「出ようともしなかった?」
「なんで出ようとする?」
猫舎の外には木々、田畑、家を回り込む道があった。柵はない。それでも猫たちは最後の影の線より先へ進まなかった。屋根の端に沿って透明な壁でも立っているようだった。
ソラもそこで止まった。
直樹はしゃがみ、呼んだ。
ソラは戻ってきた。
「ここなら安全だ」彼は言った。
「そうだな」
「広い。食べ物もある。病気にもならない」
「わかってる」
直樹はソラの背中を撫でた。
「じゃあ、何が問題なんだ?」
佐助は黒猫を見た。もう午後なのに、陽だまりは朝と同じ場所にあった。
「何も」
田畑の向こうから駅の合図が届いたとき、最初に顔を上げたのは美香だった。
遠くの田畑の向こうで、警報音が鳴った。
佐助は整理していた箱から手を離した。
直樹はソラをブラッシングし続けた。
「電車?」と訊いた。
「たぶん」
「あとどれくらい?」
佐助は空を見た。明るさはまだ残っていたが、山の上に橙色の帯が現れている。
「わからない。前は、急に暗くなった」
直樹はブラシについた抜け毛を外し、手のひらに集めた。
「次のに乗ればいい」
「次はない」
「朝にも一本あった」
「僕は見てない」
直樹は備品の中から見つけた空の封筒に抜け毛を入れた。
「まだ時間はある」
佐助は家へ入った。美香はテーブルのそばで田畑を見ていた。
「もう電車、来た?」美香が訊いた。
「まだ」
「そのあと?」
美香は窓の前に立ったままだった。
「そのあとは、行っちゃう」
「いつ戻る?」
美香が目を上げた。
佐助は、前の夜に彼女の顔に現れた空白と同じものを見た。悲しみではない。その問いが、世界の中に用意されていない部分を求めているような表情だった。
「今、行かないと」
佐助は猫舎へ戻った。直樹は、空になっていない器まで全部満たしていた。
「行こう」
「聞こえた」
「じゃあ、立て」
「水を置いていけない」
「ここの水は減らない」
直樹は水の器を両手で持った。
「わからないだろ」
「一日中見てた」
「一日じゃ足りない」
佐助は猫舎の中へ入った。
「何を知るのに?」
「ちゃんと大丈夫かどうか」
「ここでは、ずっと大丈夫だ」
直樹は器を置いた。
「悪いことみたいに言うな」
「あり得ないことだって言ってる」
「この場所全部があり得ないだろ」
「それでも、僕はもう少しで出られなくなるところだった」
ソラは入口のそばで二人を見ていた。直樹は声を落とした。
「ソラがいるんだ」
「わかってる」
「お前は美香と一日過ごした」
「それでも帰った」
「電車を逃したあとでな」
佐助は答えなかった。警報音がまた鳴った。カン、カン、カン、カン。直樹はソラを見た。
「あと少しだけ」
「僕もそう思った」
黒猫が立ち上がり、水の器まで歩いて飲んだ。それから、同じ陽だまりへ戻った。茶トラは器と棚のあいだを同じように移動した。白い猫は飛び降り、猫舎を横切って箱の間へ消えた。直樹はその動きを追った。
「繰り返してる」佐助が言った。
「猫はそういうものだ」
「昼から、光の位置が動いてない」
直樹は床を見た。明るい帯は、まだ黒猫の足元にあった。
「ここなら、何もあいつらに届かない」直樹はほとんど独り言のように言った。
「時間もな」
「そのほうがいいのかもしれない」
「誰にとって?」
直樹が顔を上げた。
佐助は訊いたことを後悔したが、取り消さなかった。
ソラが立ち上がった。
佐助に触れずに通り過ぎ、最後の影の線で止まった。
直樹が名前を呼んだ。
ソラは前足を一つ上げた。
その日一日、どの猫もその境界を越えなかった。
ソラはその足を、光の当たる土へ下ろした。
次に、もう片方も。
直樹は動かなかった。
ソラは猫舎を出て、庭へ歩いていった。走らなかった。家のそばで立ち止まり、振り返ってから、田畑のあいだを伸びる細い道へ進んだ。
駅の警報音がまた鳴った。
「ソラ」直樹が呼んだ。
ソラは片耳を動かしたが、戻らなかった。
道の先、田畑の向こうで、金属の細い線が夕暮れの光を反射した。
ソラは駅へ向かって歩いていた。
直樹は水の器を地面へ置いた。
その日初めて、縁まで水を満たさなかった。




