鍵
直樹はソラを追って走った。佐助は道の入口で追いついた。田畑のあいだの土は乾いているのに、裸足の直樹が踏むたび、そこだけ雨が降ったような濃い足跡が残った。
「走らなくても大丈夫だ」佐助が言った。
直樹は速度を落とさなかった。
ソラは尾を立てたまま先を歩いていた。振り返らない。ソラは歩き、直樹は走っているのに、二人の距離はほとんど変わらなかった。
駅のベルが四度目に鳴った。
空は夕暮れを経ないまま、昼の明るさだけを失っていた。道の片側では水田がまだ朝の青を映し、反対側では作物がすでに影になっている。佐助は前の訪問で始まった変化を思い出した。この場所に夜が訪れるのではない。場所そのものが、光を保つことをやめていくのだ。
「ソラ」直樹が呼んだ。
猫が片耳を動かした。
「聞こえてる」佐助が言った。
「じゃあ、なんで戻ってこない?」
佐助は答えなかった。
曲がり角を抜けると、二列の木々のあいだに駅が現れた。佐助の記憶より小さい。細いホーム、木のベンチ、緑の柱に支えられた低い屋根。反対側には街も道路もなく、暗い帯のところで途切れる野原だけがあった。
線路は、そこにあった。
直樹が一瞬足を止めた。
「線路はないって言っただろ」
「なかった」
ソラが駅の入口をくぐった。直樹はまた走り出した。佐助がホームへ着くと、友人はベンチのそばに膝をついていた。
ソラの姿が消えていた。
「どこへ行った?」
直樹は座面の下を見ていた。
「ここに入った」
「ベンチの下に?」
「尻尾を見た」
佐助もしゃがんだ。そこに猫を隠せるほどの奥行きはない。砂利と枯れ葉が二枚、それに埃をかぶった金属の棒があるだけだった。
直樹は地面に手をついた。
「ソラ」
何も動かなかった。
遠くから列車の音がした。最初に足裏へ振動が届き、そのあと、景色からまだあり得ないほど離れているはずの車輪の反復音が近づいてきた。
「乗らないと」佐助が言った。
直樹はさらに身を低くした。
「ここにいる」
「いない」
「入るのを見たんだ!」
佐助は肩をつかんだ。
「直樹……」
「ベンチを動かすの、手伝ってくれ」
座面は二つの金具でコンクリートに固定されていた。直樹が端を引いたが、木はびくともしなかった。
「入れる隙間なんてない」佐助が言った。
「あいつはもっと狭いところにも隠れる」
「ここには無理だ」
直樹は佐助の手を乱暴に払いのけた。
「お前にはわからない」
木々のあいだから列車が見えた。二両編成で、窓には明かりがつき、前の夜に佐助が見送ったものと同じ淡い色をしていた。前面のガラスの向こうに運転士はいない。
直樹は肩が地面につくまで腕をベンチの下へ伸ばした。
「ソラ」
指先が何かに触れた。
直樹は腕を引き、手を開いた。
短い鍵が手のひらに載っていた。黒ずんだ金属でできており、歯はすり減り、頭は丸い。細い針金で小さなアルミの札がつけられていた。
そこにあるのは、数字が一つだけだった。ゼロ。
「ソラが持ってたのか?」佐助が訊いた。
直樹は鍵を裏返した。
「見てない」
列車は速度を落とすことなく駅へ入ってきた。木々のあいだを走っていたかと思うと、次の瞬間には二人の前で止まっていた。扉が開いた。
車内の明かりはついていた。乗客はいない。
佐助はホームの時計を見た。二本の針が逆方向へ回っている。
「帰ろう」
直樹はまだ膝をついたままだった。
「戻ってきたら?」
「ソラがお前をここまで連れてきたんだ」
「そんなの、わからないだろ」
「わからない」
佐助は手を差し出した。
「でも、ソラが猫舎を出たのはわかる」
直樹は鍵を握りしめた。
「探さないと」
「四十三日、待ったんだろ」
直樹が顔を上げた。
言ってから、佐助はその言葉のきつさに気づいた。
「そういう意味じゃ……」
「言いたいことはわかる」
扉の合図音が短く鳴った。
直樹はベンチの下を見た。それから、二人が来た道へ目を向けた。田舎の家はもう見えない。田畑の代わりに低い霧が広がり、風には流されずに作物の上を進んでいた。
「俺が乗ったら」直樹が言った。「あいつはここに残る」
「もう行ったんだ、直樹」
「同じじゃない」
「わかってる」
直樹は目を閉じた。
その日ずっと、直樹はソラに触れ、そこにいることを確かめるようにしていた。今は同じ強さで鍵を握っていた。小さな体の重みを、その金属で代わりに支えようとしているようだった。
扉の合図がもう一度鳴った。
直樹は立ち上がった。佐助の手は取らなかったが、並んで車両まで歩いた。乗り込む直前、最後にもう一度振り返った。
ベンチに座るソラが見えた。
佐助は、いつそこへ上がったのかわからなかった。ソラは座面の中央に座り、前足をそろえ、印のある耳の先を二人へ向けていた。
直樹が止まった。
「ソラ」
ソラはゆっくり瞬きをした。
一秒にも満たない仕草だった。
それでも佐助には、世界全体が返事を待っているように思えた。
直樹は手を開いた。鍵はまだそこにあった。
「窓は閉めないよ、ソラ」
ソラの尾が木の座面をなぞった。
「冬でも」
扉が閉まり始めた。
佐助は友人の腕をつかみ、車内へ引いた。直樹は抵抗しなかった。金属の扉が隙間を消し、ホームを二つに切り分けた。
ほんの一瞬、ガラス越しにまだソラが見えた。
そうして、列車は動き出した。
直樹は扉のそばに立ったまま、後ろを見つめていた。駅は遠ざからなかった。同じ場所で小さくなり、画面の中の映像を縮小しているようだった。ソラはベンチに座ったまま、ベンチも屋根も緑の柱も、一枚の窓に収まるほど小さくなった。やがて車内の明かりがすべてを消した。
佐助は座席に腰を下ろした。
「あいつ、お前に来てほしかったんだ」
直樹は背を向けたままだった。
「それとも、出ていきたかったのか」
「両方だったのかもしれない」
直樹はもう一度手を閉じた。
「両方を望むなんて、できるはずないだろ」
「どうして?」
直樹は額をガラスにつけた。
「出ていきたかったなら、俺が気づくべきだった」
「気づいたじゃないか」
「列車まで連れてこられてからだ」
「それでも、気づいた」
車両が揺れた。外にはもう田畑がない。窓には暗闇だけがあり、ときどき白い支柱が横切った。一本通るたび、直樹の顔が一瞬照らされ、握った手の影が扉に浮かんだ。
「美香はどこだ?」直樹が訊いた。
佐助は立ち上がった。
隣の車両は空だった。座席のあいだを歩き、連結部の扉を開けて名前を呼んだ。声は小さく返り、車輪の音に混じった。
「美香」
返事はない。
最後の窓に、遠く離れた田舎の家が見えた。列車の外にあるのではなく、ガラスに映っていた。縁側、まだ片づけられていない食卓、段差に置かれた三つ目の茶碗。美香は戸口に立っていた。
佐助は振り返った。
背後には空席しかなかった。
ガラスの反射の中で、美香は茶碗を取り上げ、家の中へ入っていった。
「佐助」別の車両から直樹が呼んだ。
佐助は戻った。
「残ったのか?」
佐助は最後にもう一度窓を見た。家は消えていた。
「僕たちと同じ形で、ここにいたわけじゃないと思う」
「そんなこと、あるのか?」
「わからない」
直樹は座った。ソラを見つけてから初めて、疲れているように見えた。
「それ、よく言うよな」
「REM-Bを動かしてからずっとだよ」
スピーカーから何かの案内が流れた。女の声だったが、言葉は逆向きに届き、終わってから始まるように聞こえた。列車が速度を落とした。
佐助は駅が現れるのを待った。
車内の明かりが点滅した。
直樹は手を開いた。
鍵についた札は冷たく、光を反さなかった。金属には「0」の印があった。
「持ってろ」佐助が言った。
「何のために?」
「この場所がお前に渡したものなら、お前と一緒に出る必要があるのかもしれない」
「簡単なことみたいに言うな」
「簡単じゃない」
列車がトンネルへ入った。車輪の音が消えた。佐助には速い呼吸が聞こえ、その下から、ひどく遠い場所で呼ぶ恵美の声がした。
「佐助。直樹。38分」
直樹が顔を上げた。
「聞こえたか?」
「聞こえた」
「数えてる」
「鍵を離すな」
恵美がもう一度呼んだ。
カーブもないのに車両が左へ傾いた。座席から奥行きが失われた。佐助の隣の窓は黒い面に変わり、その中に一瞬、百合子の部屋が現れた。二組の布団、床を走るケーブル、そのあいだに膝をつく恵美。
直樹は胸の上で手を握ったまま横になっていた。
「自分が見える」直樹が言った。
ガラスに音もなくひびが入った。
佐助は座席の上の手すりをつかんだ。
「離すな」
「40分」恵美の声がした。
列車が急停車した。
佐助は前へ投げ出され、柱に肩をぶつけて膝をついた。直樹が座席から消えた。
「直樹!」
明かりが消えた。
一瞬、扉の上にある赤いゼロだけが見えた。
次の瞬間、佐助は恵美に首筋へ二本の指を当てられながら目を覚ました。
大きく息を吸った。天井、カーテン、ケーブル、開いた箱。部屋が少しずつ戻ってくる。REM-Bのモーターはまだ回っていたが、テープはリールのあいだで止まっていた。
「私を見て」恵美が言った。
佐助は起き上がろうとした。
「直樹」
「呼吸してる」
もう一方の布団には直樹がいた。横向きに膝を抱え、右手を顔のそばで握りしめている。
恵美は佐助から手を離し、直樹のそばへ移った。
「直樹。目を開けて」
反応はない。
肩に触れた。
「直樹。起きて」
佐助は掛け布をどけ、友人のほうへ這った。届く前に吐き気がこみ上げた。
「乗ったんだ」佐助が言った。「二人とも乗った」
「だからといって、同時に目を覚ますとは限らない」
恵美は二つ目のチャンネルのスイッチに手を置いた。
「切らないで」佐助が頼んだ。
「サイクルは終わってる」
「待って」
「もう40分経ってる、佐助」
恵美はチャンネルを切った。
直樹が息を吸い込んだ。
目は開いたが、まだ何も捉えていなかった。握った手が顔のそばでさらに強く縮んだ。
「ソラ……」とかすれた声で言った。
恵美が名前を呼んだ。直樹は二度瞬きをした。
天井を見て、それから佐助を見た。
「駅に残ったよ、直樹」
「見た」
直樹はゆっくり起き上がった。
「置いてくるべきじゃなかった」
「自分で猫舎を出たんだ」
「ソラのことじゃない」
佐助は直樹の視線を追い、握られた手を見た。
直樹は指を開いた。
何かが布団の上へ落ちた。
三人とも動かなかった。
部屋の明かりの下では、鍵は小さく見えた。歯のあいだには土が詰まっている。札を支える針金は、列車の中で直樹が握りしめたのと同じ場所で曲がっていた。
恵美が一歩下がった。
「触らないで」恵美が言った。
直樹は自分の手のひらを見た。赤い跡が残っている。
「握ってた」
「わかってる」
「これ、ここに置いた?」
恵美はすぐには答えなかった。
「センサーをつけたとき、あなたの手には何もなかった」
「装置から落ちたとか」佐助が言った。
恵美は佐助を見た。
「装置に外れた鍵なんてない」
「工具箱から、とか?」
「それもない」
恵美は鞄から透明な袋を取り出し、物に近づけないまま口を開いた。
「直樹、それを中へ滑らせて」
「なんで?」
「まだ、どこから来たのかわからないから」
直樹は袋の縁を持ち、二本の指で鍵を押し入れた。土が三つ、布団に黒い点を残した。
恵美は袋を閉じた。
「順番どおり全部話すまで、この部屋から出さない」
直樹は恵美の手にある袋を見つめた。
「俺たちの順番は同じじゃなかった」
「じゃあ、それぞれ自分の順番で話して」
佐助はスマートフォンを手に取った。画面には20時47分と表示されていた。2分前に美香からの不在着信が一件ある。
通知を開きかけた。
恵美はスマートフォンの録音機能を起動し、二つの布団のあいだへ置いた。
「最後の場所」
直樹が先に答えた。
「列車の中」
「最後にいた人や気配は?」
「ホームのソラ」
「主な感情は?」
直樹は自分の手のひらを見た。
「行かせた」
恵美は待った。
「それ、感情?」
「残ったのは、それだ」
次に佐助が録音した。最後の場所は車両、最後にいた人は窓の反射の中の美香、主な感情は名前をつけられない疑問だった、と話した。不在着信のことは口にしなかった。
そのあと、二人は出来事の順序を再構成した。
直樹は道と駅、それにソラがベンチの下へ消えたことを覚えていた。窓に映った家は見ていない。佐助は、ソラが姿を消す直前、前足で何かを押した瞬間に気づいていなかった。
「ソラが鍵を置いていった」直樹が言った。
「あるいは、そこにあると示した」恵美が訂正した。
「違いがある?」
「役割を理解しようとするなら、ある」
「役割なんてなかったら?」
恵美は窓の前で袋を持ち上げた。
「なら、睡眠中に握った手の中へ、何の役割もない物体が現れたことになる。それをいちばん安心できる仮説とは思わない」
佐助は札を見た。
見覚えがあるのは、数字がゼロだからではなかった。ゼロはテープにも図面にも、一フレームだけ記録された標識にも現れている。だが札の形には、別の場所で見た記憶があった。細長い長方形、切り落とされた角、端にあいた丸い穴。
佐助は勢いよく立ち上がりすぎた。部屋が傾いた。
「目録」
「座って、佐助」恵美が言った。
「写真がある」
佐助は壁際に置いてある書類箱へ行った。デジタル化した資料、廃棄報告、ブンエイから持ち帰ったコピーを取り出した。指にはまだしびれが残り、分けようとするたび紙が滑り落ちた。
直樹が隣に膝をついた。
「何を探してる?」
「資産管理ラベル」
恵美は袋をテーブルへ置いた。
「同じものを見た?」
「たぶん」
佐助はコンバーターの整備記録を見つけた。最初の数ページには番号がタイプされている。その先には、修理前の部品を写した小さな写真が貼られていた。
REM-Bは作業台の上で分解されていた。本体の横には、針金でつながれた一本の鍵が置かれている。直樹が顔を近づけた。
「同じもの?」
写真が古く、鍵の歯までは判別できない。ただし札には、同じように角が切られていた。
写真の下には、こう記されていた。
「アクセスキー――制御ユニット」
その下に、
「資産番号 043-0」
佐助は、部屋から音が消えたように感じた。
43。
欠けていた記録の番号。
恵美が次のページをめくった。2001年3月17日付の確認書があった。一覧には制御ユニット、二つの読み取りチャンネル、改造されたレコーダー、そして二本の鍵が記されている。
右の余白には、誰かの手書きでこうあった。
「鍵一本は保護者が保管」
その下の署名は傷んでいた。残っているのは、頭文字一つ、空白、そして姓。
「Y・村上」
直樹が佐助を見た。
「お母さんのだと思う?」
佐助は袋の中の鍵を見た。歯のあいだには、向こうの世界の土がまだ残っていた。
「誰かが僕に見つけさせたかったんだと思う」
恵美はファイルを閉じた。
「それは、まだわからない」
「声が直樹を呼んだ。ソラが直樹を駅まで連れていった。鍵はベンチの下にあった」
「それを全部つないで、意図があったみたいに考えてる」
「じゃあ、何なんです?」
「一連の出来事」
「何が違うんです?」
恵美は袋を取り、2001年の写真の上へ置いた。二枚の札が、プラスチックと二十三年の時間を挟んで並んだ。
「違いは」恵美が言った。「一連の出来事なら記録できる。意図だと思えば、あなたはそれに従ってしまう」
佐助はもう一度、書き込みを見た。
「鍵一本は保護者が保管」
部屋の明かりの下で、鍵の歯についた土が紙の上に小さな影を落としていた。




