直樹の夢
直樹が風待ちを開けたのは、午後7時を回ってからだった。客を入れるつもりはなかった。入口の札は「閉店」のままにし、カウンターの上の照明と、猫たちの部屋のいちばん低い列の灯りだけをつけた。外のガラスには、金色の店名の文字も暗いまま映っていた。
佐助もあとから入った。
「帰っていいぞ」直樹は振り返らずに言った。
「帰れる」
直樹はリュックをカウンターの下に置いた。まだ佐助の家で眠ったときのシャツを着ている。裸足だった足に、借りたスニーカーを履いただけだった。少し小さいらしく、何も言わずに歩いてはいたが、右のかかとに体重をかけないようにしていた。
ゼロの鍵は恵美が預かったままだった。透明な袋を金属製の箱に入れ、札を両面から撮影し、REM-Bを使った新たな実験を禁じた。そのあと、テープと目録のコピーを工房へ持ち帰った。
直樹は厨房へ入った。
水切りかごには、きれいな器が九つ並んでいた。直樹は一つ目を取り、蛇口を開いて、もう一度洗い始めた。
佐助は上着を脱ぎ、椅子の背に畳んで置いた。同じ縁を、泡が消えるまでこすり続ける友人を見ていた。
「アヤメが6時にみんなに餌をやってくれた。連絡も来てた」
「そうだろうな」
「確認するだけだ」
流しには食べ残しなどなかった。直樹は器をすすぎ、灯りにかざして、存在しない汚れを探した。
佐助は水切りかごの布巾を取った。
「貸して」
直樹は器を渡し、次の一つに手を伸ばした。
二人は話さずに作業した。金属に当たる水の音。陶器をなぞる布。背後で冷蔵庫のコンプレッサーが動き出す。隣の部屋では猫が棚から飛び降り、小さな鈴を一度だけ鳴らした。
直樹は九つの器をすべて洗った。それから戸棚の留め具、水のフィルター、餌の容器の蓋を確かめた。その一つ一つの動作に、佐助は「夢の世界」で、減ることのない器を何度も満たしていたときと同じ頑なさを見た。
「鍵、古い写真に写ってたな」直樹が言った。
「ああ」
「制御ユニットにつないであった」
佐助は最後の器をしまった。
「REM-Bには制御ユニットが付いてこなかった」
「俺もそれを考えてた」
直樹は戸棚の扉を閉め、留め具が効くか確かめるため、もう一度開けた。
「まだ家にあるとしたら?」
「恵美は、あのユニットは引き取った一式の記録にはないと言ってた」
「鍵も部屋にはなかったって言ってた」
佐助は布巾を流しの縁に置いた。
「探したいのか?」
直樹は留め具から手を離した。扉は閉じたままだった。
「存在するはずのないものを、どうしたいのか自分でもわからない」
その夜、話を終わらせるために用意されたように聞こえなかった答えは、それが初めてだった。
猫たちの部屋では、縞模様の雌猫が入口のそばで待っていた。ムギという名で、鼻の上に明るい色の斑がある。直樹を見ると、姿勢を低くして近づき、一メートルほど手前で止まって座った。
直樹はしゃがみ、指を二本差し出して待った。
ムギは時間をかけてその距離を縮めた。手の匂いを嗅ぎ、指の関節に頬をこすりつけると、窓の近くに開けて置かれたキャリーケースへ向かった。
中には黄色い毛布、紐のおもちゃ、ワクチン接種証明書の入った封筒があった。蓋にはムギの名前と、練馬の住所を書いた札が貼られている。
「明日?」佐助が訊いた。
直樹は、ムギが毛布の匂いを嗅ぐのを見ていた。
「10時」
「里親が決まってたって、言ってなかったな」
「まだあの夫婦が断るかもしれない」
「前に断ったことは?」
「ない」
ムギは前足をキャリーケースの中へ入れた。通りの物音に耳が窓へ向く。すぐに後ずさりし、積み上げたクッションの陰へ消えた。
直樹は毛布を取り出し、半分に畳んで、もう一度底へ敷いた。
「三回来てる」直樹は言った。「一回目は、ムギはベンチの下から出なかった。二回目は、女性が差し出した餌を食べた。三回目は、二人のあいだで寝た」
「もう決めてるみたいだな」
「猫は知らない人のそばでも寝る」
「ソラも?」
直樹は毛布の折り目を引き、四隅がきれいに揃うまで直した。
「ソラは、知ってる相手のそばでも寝なかった」
佐助は壁際のベンチに座った。上には、譲渡された猫たちの写真、家族から届いた絵はがきや短い手紙が並んでいる。枕の上に寝る黒猫の写真の横には、「今ではベッドの左側を占領しています」と書かれていた。別の絵はがきには、窓に近づかなかった期間が二年もあった雌猫のため、網で囲ったベランダが写っていた。
直樹はキャリーケースの留め具を確かめていた。
「昨日の時点で、もう全部用意してたよな」佐助が言った。
「ワクチン接種証明書を別にしておく必要があった」
「それでも、電話しかけた」
直樹が顔を上げた。
佐助はカウンターの上のスマートフォンを指した。画面は消えていたが、入ってきたとき、発信履歴が開いたままだった。同じ番号への発信が三件。どれも一秒も経たないうちに切られている。
「見てるところが細かすぎる」直樹が言った。
「人がもう見たくないものを扱うのが仕事だから」
直樹は空のキャリーケースを閉じた。
「電話はしてない」
「見ればわかる」
「なら問題ない」
ムギがクッションのあいだから現れ、部屋を横切って木の棚へ上がった。そこから二人を見ていた。
直樹は戸棚から猫砂の袋を取り出した。猫用トイレの砂はその日の午後に替えられていたのに、スコップを手にし、猫たちが床へ散らした粒を集め始めた。
佐助も手伝った。浅いトレーを足で押し、壁際へ寄せた。
「夢の猫舎で、食べ物は絶対になくならないって言ってたな」
直樹は掃き続けた。
「何も書いてない袋があった。どれも減らなかった」
「水も」
「薬も」
「でも、病気の猫は一匹もいなかった」
直樹は砂粒を小さな山にまとめた。
「そこが一番よかった」
あまりにも簡単に言うので、佐助には、訂正しているように聞こえない返事が見つからなかった。
窓の近くでは、ソラのための場所だけが今も空いていた。写真は棚に立てかけられ、ソラは前足を体の下にしまっている。耳の印は光に紛れて、ほとんど見えない。額縁の下には、手書きの一文があった。「待っていたのは、あの子のほうだった。」
直樹はスコップをゴミ箱へ持っていった。戻ってきても、写真を見ようとはしなかった。
「小さく見えた」直樹が言った。
「夢の中で?」
「いや、写真で」
佐助もその視線を追った。
「ここにいると、最後の頃のソラを思い出す。重さを思い浮かべると、最後の数日が出てくる。向こうで鼻先を俺の手に触れたときは、最初の頃を思い出した」
直樹は椅子を引き、猫たちの部屋に向かって座った。
「倉庫の箱二つの隙間に収まるくらいだった。近くに餌を置いても、食べてるところは一度も見なかった。朝になると器は空で、隠れる場所だけ変わってた。顔をまともに見られるようになるまで、三週間かかった」
「家の中で寝るようになるまで、何か月もかかったって言ってたな」
「四か月。冬でも窓を開けてた。外へ出られるってわかってないと、あいつは入ってこなかったから」
直樹は右の手のひらをこすった。鍵が残した跡が、親指のそばに赤い線を作っていた。
「あの猫舎には、窓がなかった」
佐助は、開け放たれた入口と田畑、それに最後の影の帯を越えずに止まる猫たちを思い出した。
「扉もなかった」佐助が言った。
「そっちのほうが、もっと悪い」
直樹は立ち上がり、部屋の入口へ行った。夢の猫たちが光を拒んだのと、ちょうど同じ場所に立った。
「柵がないから、自由なんだと思ってた。一日中あれを見てたのに、一匹も外へ出てないって気づかなかった」
「帰る前には気づいた」
「気づいたのはお前だ。俺は理由を作ってた」
「猫は同じ道を繰り返す」
直樹が振り返った。
佐助は、自分が言った言葉だと気づいた。
「お前がそう言った」佐助は続けた。「意味は通ってた。通らなくなるまでは」
直樹はしばらく入口に立っていた。それからカフェ側へ戻り、湯を沸かし始めた。佐助は頼んでいないのに、二杯分のコーヒーを量る。やかんを待つあいだ、動きから少しずつ急ぎが消えていった。
「ソラを見つけたとき」直樹が言った。「猫を飼うつもりなんてなかった」
佐助は二つ目の椅子を引いた。
「その前から、ほかの猫を助けてた」
「あれとは違う。餌を持っていったり、診察代を出したり、引き取り手を探したりしてた。誰にも欲しがられなかったのは、ソラが初めてだった」
「怖がりだったから?」
「噛むから」
直樹は湯を注いだ。閉め切った店内にコーヒーの匂いが広がった。
「ある家族が二日だけ引き取った。二日目、タオルを使ってキャリーケースに入れようとしたら、ソラが男の手を引っかいた。返されたとき、その人は、危険だってちゃんと書いておけって言った」
直樹は佐助の前にカップを置いた。
「書いたよ。それからは訊かれる前に言うようになった。子どもが苦手、来客が苦手、狭い部屋はだめ、高い階の部屋もだめ、日中ずっと家を空ける人もだめって。そのうち、合う家なんてなくなった」
「それで、引き取った」
「違うって言い続けてた。一時預かりだって。まだ時間が必要だって。毎月、里親募集の写真を更新した。毎月、まだ準備できてないって書いた」
佐助は壁の写真を見た。ソラの写真が、募集の掲示から外されて棚へ移される前に貼られていた場所がわかった。
「準備できてたのか?」
直樹は両手でカップを包んだ。
「わからない。俺から逃げないのが自分だけだってことを、どうして嬉しいと思ったのか、一度も考えなかったのかもしれない」
やかんが冷えながら小さく鳴った。
ムギが棚から飛び降りた。カウンターへ近づき、佐助の脚に体をこすりつけ、ズボンに明るい毛を何本か残した。直樹は見ていたが、呼ばなかった。
「向こうの世界じゃ、誰にも渡せない理由を説明する必要がなかった」直樹は言った。「頼んでくる相手がいなかったから」
佐助は待った。
「しかも、あいつらは俺を必要としてなかった。水は減らない。餌は勝手にある。病気にもならない。俺は必要とされ続けるためだけに、きれいなものを一日中掃除してた」
その言葉は、返事を求めることなく二人のあいだに残った。
直樹はコーヒーを飲み、顔をしかめた。まだ熱かった。
「ソラが出ていったとき、また俺を置いていくんだと思った。駅に着いても、ずっとそう思ってた。ベンチに座って、俺にゆっくり瞬きしたあとでさえ、何かを証明するために戻ってくるのを待ってた」
「何を?」
「俺が、ちゃんと世話できてたってことを」
佐助は自分のカップへ目を落とした。
「ソラが出ていったのは猫舎からだ」直樹が言った。「俺からじゃない」
外をトラックがゆっくり通った。ヘッドライトの光がガラスを横切り、壁の写真を一枚ずつ浮かび上がらせる。家族。部屋。網で守られた窓。直樹が見張ることのできない場所で眠る猫たち。
「もし、あの夢の猫舎が本当に俺のものだったら」直樹は続けた。「里親への譲渡を全部断る。まだ様子を見る必要がある、この家は安全じゃない、夫婦は家を空ける時間が長すぎるって。いつだって、世話に見える理由を一つ作れる」
ムギはキャリーケースのそばに座った。開口部から黄色い毛布が見えている。
「誰も猫を失わない」直樹が言った。「どの猫にも、別の家を持たせないから」
佐助は、その言葉を軽くしようとはしなかった。
「あの場所は、こちらの思いどおりにならない部分だけを取り除くのかもしれない」しばらくして佐助が言った。
「それで、完璧だと呼べる部分だけを残す」
「繰り返し始めるまでは」
直樹が佐助を見た。
「それでも、戻りたいか?」
佐助は田舎の家を思い浮かべた。縁側。田畑の向こうの鐘。段差に置かれた三つ目の器。そしてブンエイで、どこにも属さない懐かしさについて話していた美香。
「どうして、あそこにいたのか知りたい」
「訊いたのはそこじゃない」
その言葉に挑む調子はなかった。直樹はカップを脇へずらし、佐助が機械の陰に隠せない答えのための場所を空けただけだった。
「戻りたい」佐助は言った。「何も見つからなくても」
「美香のため?」
「美香のそばで、自分がどう感じたかのため」
直樹は一度だけうなずいた。
「本人は知ってるのか?」
「夢に出てきたことは、知らない」
「戻りたいことは?」
佐助は、ムギが片方の前足でキャリーケースの縁に触れるのを見た。
「それも知らない」
「じゃあ、お前は、まだ持っていていいか本人に訊いてもいないものを、記憶って呼んでるのかもしれないな」
佐助は顔を上げた。
直樹は責めているようには見えなかった。顔には疲れがあり、その正直さはまだ新しく、他人に向けるには居心地が悪そうだった。
「あの猫舎は俺のものに見えた」直樹は説明した。「俺の器、俺の棚、俺の布の畳み方。でも、それで猫たちが俺のものになったわけじゃない。家がお前のものに見えるからって、中にいた女までお前の夢のものになるとは限らない」
佐助はカップの縁に触れた。
「話さないと」
「その前に、何を話すのか決めないとな」
「REM-Bのこと?」
「お前のこと」
直樹は立ち上がり、二つのカップを片づけた。話は解決しないまま終わったが、佐助には、友人が逃げているようには感じられなかった。ただ、急いで言ったからといって、真実味が増すわけではないことがある。
ムギはキャリーケースに前足を入れた。毛布の匂いを嗅ぎ、後ろへ下がって、また座った。直樹は近づかなかった。
「明日、二人が来たら、ケースは開けておく」直樹が言った。「ムギが入ったら、連れていってもらう」
「入らなかったら?」
「待つ」
「どれくらい?」
直樹はガラスに映る、灯りの消えた風待ちの看板を見た。
「あの子に必要なだけ」
ムギはもう一度入口の匂いを嗅いだ。今度は後ろ足も毛布の上へ乗せた。小さく一周して横になったが、頭だけは外へ出したままだった。直樹は、偶然閉まらないよう扉の留め具を外した。
佐助のスマートフォンがカウンターの上で震えた。
恵美かと思った。袋の中の鍵や、保護者についての記録が頭に浮かんだ。だが画面に出ていたのは美香の名前だった。
メッセージは二通あった。一通目にはこう書かれていた。
「朝、電話しようとしてごめんなさい。変なことを一つ訊きたいの。」
佐助はもう一度読んだ。直樹は相手が誰か訊かなかった。
二通目には写真が添えられていた。
何も植わっていない畑に囲まれた古い家だった。縁側の木はところどころ色を失い、二枚の引き戸には白い空が映っている。右手では、細い道が木々の列の向こうへ消えていた。
駅はない。猫舎もない。庭は、草木に覆われた低い柵で終わっている。
それでも佐助は、画像を拡大する前に、その場所だとわかった。
屋根の下の黒い縁。最初の段差のそばにある不揃いな石。直樹を探して庭を横切ったとき、美香が立っていた窓。
まだスマートフォンを持っているあいだに、次のメッセージが届いた。
「秩父にある、祖父母の家です。もう何年も空き家です。」
直樹は佐助の表情が変わったことに気づいた。
佐助は画面を直樹へ向けた。
ムギは頭を引っ込め、体ごとキャリーケースの中へ入った。
佐助は、段差のそばの石が画面いっぱいになるまで写真を拡大した。
似ていたのではない。
同じ家だった。




