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プロトコル

美香は、佐助がブンエイに着いたとき、窓際で待っていた。まだ始業前だった。照明の半分は消えたままで、朝の青い光の下では、机同士の間隔までいつもより遠く見えた。美香は両手でスマートフォンを持っていた。画面の中の秩父の家は、昨夜見たときより小さく見えた。

「遅い時間にあれを送って、ごめんなさい」

佐助は椅子のそばに鞄を置いた。

「起きてたから」

どこにいたのかは言わなかった。直樹が隣にいたことも、ほんの数時間前、土のついた鍵が、本来なら夢の中で終わるはずの道を越えてきたことも。

美香は、縁側が画面いっぱいになるまで写真を拡大した。

「わかった?」

短く答えるには、単純すぎる問いだった。

佐助は近づいた。写真は冬に撮られていた。周囲の畑は低く色を失い、奥の山は白い空の下にほとんど溶けていた。それでも、夏なら正午前に屋根の影が二段目まで届くことを知っていた。どこの板が軋むかも、湿気の多い日には右側の戸が引っかかることも。

「わかった」

美香が目を上げた。

「どこで?」

部屋の反対側でプリンターが温まり始めた。誰も印刷を送っていないのに、ローラーが二度回った。

「この家を夢で見た」

美香は驚かなかった。それが佐助を怖がらせた。

美香はスマートフォンをロックし、二人のあいだに置いた。

「私も」

その言葉は、佐助が何度も想像していたような安堵をもたらさなかった。代わりに、言わずにきたすべてを大きくした。

美香は椅子を引き、腰を下ろした。

「私が田んぼの話をしたとき、変だった。気のせいかと思った。でも鐘のことを言ったら、もっと黙った。それに、誰かを待たせたままにしたような感じも、ずっと残ってた」

佐助は立ったままだった。

「どうして写真を探したの?」

「昨日の朝、叔母から電話があったの。市役所から土地について通知が来たって。話を聞いているうちに、縁側のそばの石を思い出した。それで電話しようとした」

美香はもう一度画面をつけた。最初の段差のそばにある、いびつな形を指さした。

「子どものころ、蛙みたいだって言ってた。祖母はただの石だって。夢ではちゃんと見えなかったけど、そこにあるって知ってた」

佐助は風待ちで、その同じ石を拡大していた。蛙に見えたからではない。あちらの世界で、美香が家に入る前、そこに野菜籠を置いたからだ。

「上に何かあった?」美香が訊いた。

答えるまでに少し時間がかかった。

「うん。籠が」

「何の?」

「きゅうり。それと、なすが二本」

美香はスマートフォンから手を離した。

プリンターの音が止んだ。天井近くの空調が一台動き出し、机のあいだへ冷たい風を押し出した。

「祖母は、靴を脱ぐあいだ野菜をそこに置いてた」美香が言った。「畑の土を台所に入れないためだって」

佐助は写真の中で畑を見たことはなかった。夢では家の裏、水槽を越え、畑のほうへ傾いた低い柵の向こうにあった。

美香は佐助の顔を見た。

「畑も見た?」

「見た」

「青い水槽は?」

「左側」

「灰色だった」

訂正はすぐに返ってきた。佐助は記憶をたどり直した。壁際の水槽。金属に映る夜明けの光。表面いっぱいに広がる空。

「空が青かったんだ」佐助は言った。「水槽は金属だった」

美香は、ほとんど音もなく口から息を吐いた。

最初の社員たちが部屋へ入ってきた。短い挨拶が通路を行き交い、鞄が机に置かれ、椅子の背から上着が滑り落ちた。美香はスマートフォンをしまった。

「ここでは話せない」

佐助は倉庫を思い出した。何度も、沈黙に二人の代わりをさせた場所。

「昼休みに?」

美香はうなずいた。

離れる前に、もう一度佐助を見た。

「佐助。あなたの夢に、私はいた?」

嘘をつくこともできた。周囲に人がいるぶん、嘘は簡単だった。少し間を置き、曖昧な顔をして、「覚えてない」と言えばいい。

「いた」

美香は数秒、視線を外さなかった。

それから、自分の席へ戻った。

その朝、二人は黒田睡眠医学研究所の管理記録一式を扱った。箱は数週間前に仕分けられていたが、そのロットには第二便があった。契約書、給与台帳、建物の保守記録、臨床的な価値のない書簡。スキャンを止める理由になるものは何もなかった。

それでも佐助は、スキャナーに紙を置く位置を何度も間違えた。

二度、ページを上下逆に置いた。三度目には、違う年の書類に開いた穴を揃えようとしている自分に気づいた。

美香は何も言わなかった。三つ先の机で、ヘッドホンを首にかけ、パソコンの小さなウィンドウに家の写真を開いたまま仕事をしていた。

正午になると、美香は休憩の案内が流れる前に表計算を閉じた。

どこで食べるか決めないまま建物を出た。大塚駅で、佐助は美香がどちらかの出口を選ぶのを待ったが、美香はそのまま改札へ向かった。理由は訊かなかった。

ホームには、上野方面の電車が先に来た。混んではいたが、次を待たなければならないほどではない。美香が乗り、佐助も続いた。

二人は扉の近くに立った。佐助は頭上のつり革を握った。美香はその正面に立ち、佐助の肩と窓との狭い隙間に半分だけ守られていた。

電車が大塚を離れると、建物の影が美香の顔の反射の上を流れていった。

「祖母が亡くなってから、あの家は空き家なの」美香が言った。

声は低かった。線路の音が、会話を誰にも届かないものにしてくれた。

「どれくらい?」

「六年。叔母が月に一度行ってる。窓を開けて、湿気を見て、草刈りも人に頼んでる。母は葬儀以来、一度も中に入ってない」

「美香は?」

「祖母が亡くなった翌年に一度行った。そのあとは、いつも行かない理由を見つけてた」

電車がカーブで傾いた。美香はバランスを取るため、窓に手をついた。

「市役所から、土地の一部を片づけるように言われてる。叔母は売ったほうがいいって。母は決められないって言う。だから二人とも私にどうしたいか訊くの。誰も答えなければ、家はいつまでも空き家のままでいられるみたいに」

佐助は夢の家を思い浮かべた。開いた戸、手入れされた木、段差の上の三つの器。税金も雨漏りもなく、親族が決断を待つこともない家。そこで目を覚ましさえすれば、すべてはもう決まっていた。

「家族のものを片づけられたら、叔母は不動産屋を呼ぶつもり」

佐助は美香に顔を向けた。

「片づける?」

美香はスマートフォンの縁を親指でなぞった。

「祖母が亡くなったあと、何を持って帰るか誰も決められなかった。母も物を残した。叔母も。葬儀のときから開けてない箱もある」

電車が影の中へ入った。数秒、美香の反射が窓から消えた。

「母は戻りたくない。叔母は母の代わりに決めたくない。だから私が、残すもの、誰かが持っていくもの、手放していいものを分けなきゃならない」

「そのあとは?」

明るさが戻ると、美香は窓に映った自分の手を見た。

「そのあとなら、家を売れる状態にできるかもしれない」

少し間を置いてから、付け加えた。

「たぶん、だから私は、いつも箱に手をつけられないんだと思う」

「どうしたい?」

美香は窓の向こうの街を見た。

「家は残したい。でも、あそこへ行くことを考えると、誰かに買ってもらって、決めること自体を私から取り上げてほしくなる」

巣鴨で扉が開いた。二人が降り、四人が乗ってきた。美香は一歩下がり、佐助との距離が近くなった。

「夢では、家は空き家じゃなかった」佐助が言った。

「わかってる」

「どうして?」

「扉を開けるのに、勇気を出す必要がなかったから」

扉が閉まる合図が鳴った。一瞬、踏切の音と、田畑の向こうにあった鐘の記憶が重なった。

「朝早く起きてた」美香は続けた。「戸を開けて、お湯を沸かして。母のことも、叔母のことも、土地をどうするかも考えなかった。あの家がその日に私を必要として、それだけだった」

佐助は、美香が言い終える前に罠を理解した。あの世界は、美香に未来を決めさせることなく、保存された家を与えた。直樹には、どの猫も去らない猫舎を与えたのと同じように。

次の駅の案内が沈黙を切った。

「駒込。駒込です。」

美香は、そこで初めてどこまで来たのか気づいたように、扉の上の表示を見た。

「降りる?」佐助が訊いた。

美香は迷った。

「たぶん」

扉が開いた。

ほかの乗客と一緒に駒込で降りたが、二人とも改札へは向かわなかった。美香は数メートル先、階段へ流れていく人の前で立ち止まった。

佐助が近づいた。

「どこか行くつもりだった?」

美香は佐助を見た。

それから、駅名の表示を見た。

「ううん」

佐助は笑いそうになった。

「僕も」

数秒、ホームが二人のまわりで空いていくのを見ながら、その場に立っていた。

「戻ろうか」美香が言った。

佐助はうなずいた。

反対方向のホームへ移った。

池袋方面の電車はさっきより空いていた。今度は並んで座れた。美香は鞄を膝に置き、佐助は両手を膝のあいだに入れた。扉が閉まると、駒込が窓の向こうへ流れ始めた。

「佐助は?」美香が訊いた。「あそこで何してた?」

「柵を直したり、物置から物を取ってきたり。何もしないときもあった」

「何もしない人には見えないけど」

佐助は顔を向けた。

「じゃあ、私のことは覚えてるんだ」

「今見てるみたいには覚えてない」

美香は、もっと正確な言い方を探した。

「見えなくても、どこにいるかわかってた。物置の戸の音がしたら、佐助だってわかった。段差に器が一つ増えてたら、佐助が置いたってわかった」

佐助は窓に映る二人を見た。

並んで座っていると、ブンエイでいつも許しているより近く見えた。

「三つあった」佐助が言った。

美香が顔を上げた。

「何が?」

「器」

電車はもう一度巣鴨に入った。

今度はほとんど誰も乗ってこなかった。向かいの席に年配の女性が座り、扉が閉まるとすぐに目を閉じた。美香は三つ目の器について訊かなかった。

佐助も説明しなかった。

巣鴨から大塚まで、沈黙が続いた。

居心地が悪いわけではなかった。

ただ、妙だった。

大塚の案内が流れると、美香は膝の上の鞄を持ち上げた。

「休憩が終わる前に、何か食べたほうがよさそう」

佐助はスマートフォンで時間を見た。

「そうだね」

電車が速度を落とした。

窓の向こうに大塚のホームが現れた。ほんの数分前、旅が始まったのとまったく同じ場所だった。

美香が立ち上がった。

佐助も続いた。

大塚駅から数分、南大塚の細い通りで、オオツカ・センヤという店を見つけた。昼どきに訪れる人の数に対して、店は小さすぎるように見えた。二人はカウンターに並び、惣菜の大皿と、絶え間なく動く厨房を前に座った。

しばらくは、メニューの話だけをした。美香は焼き魚を選んだ。佐助は内容を訊かずに日替わり定食を頼んだ。日常は、二人が倒さないよう気をつけている、壊れやすいもののようだった。

膳が運ばれてくると、美香は箸で魚をほぐした。

「夢を見たのは、一度だけ?」

佐助は、四十二分に収まった夜明けを思い出した。終わることを拒んだ夜。直樹とソラを伴った二度目のテスト。恵美が預かっている鍵。

「一度じゃない」

「同じ家?」

「うん」

「ブンエイで話したあとも?」

「うん」

美香は箸を置いた。

「同じ夢に戻ろうとしたんだ」

質問ではなかった。

「もっと正確に思い出したかった」

「それとは違う」

佐助はカウンターの向こうの鍋へ目をそらした。出汁は沸騰せずに揺れていた。

「どうやったの?」美香が訊いた。

そこに、佐助が一人で越えてしまった境界があった。

ノートのこと、音声メモのこと、時間のこと、家の近くを通る電車のことなら話せた。どれも本当だった。それでも、いちばん重要なことは隠したままになる。

REM-Bのことを口にすれば、自分たちが働く会社の記録をもとに作られた機械へ、自分の身体をつないだことを話さなければならない。直樹を連れていったことも、声が自分を呼んだことも、夢の中から物がこちらへ渡ってきたことも。そして何より、美香が一度も同意していない実験の中に、美香自身がいたことを認めなければならない。

「覚えてることを記録した」佐助は言った。「それから、あの朝と同じ条件を繰り返した」

美香は続きを待った。

「時間、音、部屋で寝る位置」佐助は続けた。「プロトコル」

「うまくいった?」

「ときどき」

「それで、私には言わなかった」

佐助はその言葉を、直樹がソラについて自分の説明を聞いたときと同じように受け取った。言い訳を許すほどの責める調子はなかった。

「美香が本当にあそこにいたのか、わからなかった」

「今はわかる?」

佐助は美香を見た。

「家の記憶が美香から来たことはわかる」

美香は箸を持ち直したが、食べなかった。

「あの家は私から来たんじゃない」美香が言った。「私が生まれる前からあった」

「記憶のこと」

「でも、佐助にはその記憶がなかった」

佐助は膳の縁に触れた。

「なかった」

「だったら、佐助のほうが私の何かに入り込んだのかもしれない」

あまりに正確な言葉で、佐助は返事ができなかった。

美香は魚を一口食べた。遠くで電車が大塚駅を出た。建物のあいだから弱く届いた音は、佐助が追う前に消えた。

「夢の中では」美香が言った。「佐助がいるの、嫌じゃなかった」

佐助は目を上げた。

「でも、どうしていたのかは知りたい」

「わかってる」

「本当に?」

佐助は、鍵と恵美の金属箱を思った。不完全な答えを一つ返すたび、美香を守っているようで、その実、戻る道も同時に守っているだけだった。

「まだ、わかってない」佐助は認めた。

美香はうなずいた。それは許しでも、距離を置くことでもなかった。ただ、その答えを、あとで問い直せる場所へしまっただけだった。

戻る途中、二人は並んで歩いた。美香は別の写真も見せた。縁側の前に立つ祖母。まだ十代の母と叔母。柵のそばで赤い長靴を履き、バケツを持つ少女。

「美香?」佐助が訊いた。

「五歳」

写真の中の美香は、カメラを見ずに笑っていた。背後には夢に出てきた物置が、戸を開けたまま写っていた。壁に工具はなく、米袋と木箱、それに片輪のない子ども用自転車があるだけだった。

佐助は画面へ指を近づけたが、触れなかった。

「夢では、ここに作業台があった」

「祖父があとから置いたの。叔母が、家を片づけたときに解体したって言ってた」

美香は次の写真へ移った。縁側が雪に覆われていた。

「鐘は畑の近くじゃない」美香は説明した。「山の向こうにあるお寺。北風が吹くと、ずっと近くに聞こえるの」

佐助は、音が違う方向から聞こえていたことを思い出した。あの世界は地理を写したのではない。子どもが理解していた地理を写したのだ。

「この道は橋で終わる」美香が言った。「駅は町の反対側」

夢では、その道はいつも電車へ続いていた。

記憶が建築になり、願いが道になる。

佐助はまだその言葉を持っていなかった。それでも違いはわかった。家は美香が知っているものを残し、世界は、二人が進むため、あるいは去るために必要なものを付け加えていた。

ブンエイへ戻ると、美香は写真を開き直さなかった。黒田睡眠医学研究所から届いた第二便を分け、すでに処理済みのページを佐助に確認するよう頼んだ。

夕方まで仕事を続けた。会話は二人のあいだに新しい形で残っていた。終わったのではない。ただ、沈黙の中にも居場所を持つようになった。

5時を少し過ぎるころ、フロアの人が減り始めた。佐助は最後の箱を閉じ、フォルダーの番号を確認した。美香の画面では、保守記録の一枚が検証を待っていた。

「佐助」

近づく前に、その声の調子でわかった。

2001年3月の日付が入った機器搬出許可書だった。上部には黒田睡眠医学研究所の名がある。その下には、制御ユニット一台、同期ケーブル二本、そして一組の鍵を一時保管する記録があった。

被験者欄には、043という番号だけがあった。

保護者欄には「Y・村上」。

美香はページの下を指した。

「システムでは、判読不能になってた」

佐助は身を寄せた。

署名は終了印の上を横切っていた。曲線部分のインクは薄れていたが、名前はすべて読めた。

「黒田茂」

その横に、同じ筆跡で短い指示が書かれていた。

「保護者が戻るまで、チャンネルを維持すること。」

佐助は二度読んだ。

「この名前、知ってる?」美香が訊いた。

「知らない」

それは本当だった。黒田睡眠医学研究所、ゼロの鍵、そして043という被験者番号はすでに一つの並びを作っていた。百合子の部屋にあったかもしれない箱の曖昧な記憶もある。それでも黒田茂は、まだ書類の最後にある署名にすぎなかった。

それでも美香の前で、佐助は、その並びがもう一つの物語になり始めていることに気づいた。そして、その物語を今も彼女に隠していることにも。


挿絵(By みてみん)

[東京・大塚]

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