遠回り
午後6時12分、美香は文書を閉じた。黒田茂の署名が画面から消え、代わりにブンエイのシステムの灰色の領域が現れた。ファイル自体はサーバーのどこかで開かれたまま、箱と資産番号と二十三年前の日付に紐づいていた。それでも、美香がマウスから手を離したとき、佐助には二人が一枚の扉を閉じたように思えた。
周囲では、勤務時間が終わろうとしていた。
一人の女性社員が空箱を間仕切りのそばへ押していた。二つ先の机では、誰かがヘッドホンのコードを社員証に巻きつけている。最後まで動いていた業務用スキャナーは一定の間隔で紙を送り続けていたが、小型の機械はもう電源を落とされていた。照明が一つ消えるたび、フロアは外で待っていた夜に数メートルずつ場所を返していくようだった。
美香はペンにキャップをした。
「月曜日」
佐助は彼女のモニターを見た。
「その前に名前を調べられる」
「調べられるね」
美香はペンをケースにしまった。
「そうしたら次の名前を調べて、その次は会社、その次は日付」
佐助は答えなかった。
美香はケースを閉じた。
「今夜を全部使ってそこまでたどり着かなくても、月曜日はちゃんと来るよ」
佐助は自分の作業を保存した。画面にはロット処理の完了が表示された。差異なし。欠落ページなし。
数秒のあいだ、その緑色の表示を見つめた。
それからモニターを消した。
二人は一緒にブンエイを出た。
エレベーターにはほかに四人いた。一人の男は畳んだ制服の入った袋を持っていた。保険部門の女性社員は、小型の携帯扇風機を顔に向けていた。一階で扉が開くと、誰より先にカレー店の匂いが入り込んできた。
薬局はまだ開いていた。店員の一人が入口近くの冷蔵庫にスポーツドリンクの箱を補充し、もう一人は歩道に出した特売看板を取り替えていた。
外にはまだ熱が残っていた。
午後の日差しそのものではなく、街が何時間も抱え込み、壁やアスファルトや金属の構造物から吐き返している熱だった。二人が一区画の端に着く前に、佐助のシャツは背中に張りついた。
美香が髪をほどいた。
ヘアゴムを指にかけたまま、もう片方の手でうなじを撫でる。
佐助が目をそらしたのは、少し遅かった。
「何?」
「何でもない」
「見てた」
「雨が降るか見てた」
美香は顔を上げた。建物のあいだの空は青いままだった。雲は一つもない。
もう一度、佐助を見る。
「重症だね」
佐助は口元が緩みかけるのを感じた。
「天気は急に変わるから」
「そうだね」
美香は髪を結び直した。今度はさっきより低い位置だった。
二人は駅へ向かった。
大塚の人の流れは、佐助が考えなくてもわかる方向へ歩道の上を広がっていた。自転車が車道脇を抜け、配達員が小さなバイクの荷台に箱を固定している。弁当店の前では二人が待ち、店員が残った商品に値引きシールを貼っていた。
駅の近くで、小さな都電が通りを横切った。
ベルが二度鳴った。
美香が足を止めて通り過ぎるのを待った。佐助も止まった。
車両は車のあいだをゆっくり進んだ。山手線の電車とはあまりに違い、東京の中に隠れた小さな街の乗り物のようだった。窓の向こうでは、乗客が向かい合わせの座席に座っている。女性が細長い紙袋を抱え、少年が窓に顔を寄せるようにして線路の動きを追っていた。
都電は曲がり角の先へ消えた。
「何かわかる?」美香が訊いた。
「何が?」
「形式」
佐助は美香を見た。彼女は線路を指した。
「今の都電の」
「この路線はあまり詳しくない」
「じゃあ、限界はあるんだ」
「何の?」
「村上さんが知ってる電車の」
佐助は一拍置いた。
「誰が、僕が電車に詳しいって言った?」
美香はまた歩き出した。
「村上さん、車両が替わったからって山手線が新しい路線になったみたいに言った人を、前に訂正してたよね」
佐助は記憶を探った。
「替わったのは車両だよ」
「それって違うの?」
「路線は同じだから」
美香は笑いを隠すように唇を結んだ。
「わかった」
「わかってない顔してる」
「たぶん、一生かかっても十分にはわからない」
駅の入口に着いた。
人が絶え間なく階段を上り下りしていた。電光掲示板には次の電車が表示されている。数分もすれば駒込に着く。あまりに慣れた道で、佐助には一つ一つがもう頭の中に見えていた。改札、ホーム、車両、途中の巣鴨、出口、それから中里。
美香は駅へ入らなかった。
自動販売機のそばに立ち、巣鴨へ続く通りを見ていた。
「少し歩いて帰る」
佐助は入口の上の掲示板を見た。
次の電車は三分後だった。
「どこまで?」
「まだ決めてない」
美香は鞄から硬貨を出し、水を一本買った。商品が鈍い音を立てて落ちる。
佐助はまだその場にいた。
美香がペットボトルを取り出した。
「電車、逃すよ」
人々が二人のあいだを行き交っていた。
佐助はもう一度、階段を見る。
三分。
それから通りを見た。
「僕も歩いていい?」
美香はボトルの蓋に手をかけたまま、まだ開けなかった。
一瞬、佐助の顔に何かを探しているように見えた。
「いいよ」
二人とも、家が同じ方向にあることには触れなかった。
駅から離れた。
最初の数区画は、話さずに歩いた。
大通りにはまだ退勤時間のざわめきが集まっていたが、一本脇道へ入るだけで音はばらけた。車より自転車のほうが多くなった。家々の前の細い隙間には小さな植木鉢が置かれ、二階のベランダからタオルが下がっている。八百屋の前では、年配の女性が扉を一枚閉める前に野菜箱を二つ中へ運び込んでいた。
電線が建物から建物へ空を横切っていた。
開いた窓の向こうで、誰かが大きすぎる音量でテレビを見ていた。録音された笑い声が通りまで届き、二人が角を曲がると消えた。
佐助は、このあたりを歩くのが何年ぶりかだと気づいた。
理由はなかった。
彼の生活には、もっと短い道があった。
家から駒込。駒込から大塚。大塚からブンエイ。必要な日だけ田端、西日暮里、秋葉原。その点と点のあいだの街は、ほとんどいつも窓ガラスの向こう側にあった。
美香が水を開けた。
「歩くの速いね」
佐助は歩調を落とした。
「ごめん」
「謝らなくていいよ」
さらに遅くした。
「今度は遅すぎる」
佐助は美香を見た。美香は表情を変えずに水を飲んだ。
「わざと?」
「少しだけ」
佐助は笑った。
大きな声ではなかった。それでも、直樹と話しているとき以外で自分の笑い声を聞くのが妙に感じられた。
美香が彼を見る。
「笑うんだね」
「たまには」
「仕事中は笑わない」
「仕事中は仕事してるから」
「その一言で、いろいろ説明がつくね」
二人はコインランドリーの前を通った。ガラスの向こうで丸い洗濯機が回り、明るい色の服を上下に持ち上げている。その隣の細い店には、日用品、充電ケーブル、乾電池、小型扇風機、それに入口の幅には多すぎるほどの品物が並んでいた。
プラスチックの籠に安い扇子が入っていた。
美香が立ち止まった。
青い一本を取る。
開いた。
布がぱっと鳴った。
「ひどい」
佐助は金色の魚の模様を見た。
「そんなに悪くないけど」
「魚がいる」
「見ればわかる」
「青いの」
「魚が青くてもいいだろ」
美香は扇子を閉じた。
「この魚はだめ」
籠に戻した。
二人はまた歩いた。
「おばあさんも、こういうの使ってた?」佐助が訊いた。
美香は横目で彼を見た。
その問いが、数歩のあいだ秩父を二人のあいだへ連れ戻したようだった。
佐助も気づいた。
「ごめん」
美香は首を振った。
「紙のを使ってた」
「魚の柄?」
「肥料屋の広告」
佐助は想像してみた。
「それなら、こっちのほうがきれいだ」
「ずっとね」
話はそこで終わった。
言うことがなくなったからではない。
その日初めて、始めた話を、始めたというだけの理由で続けなくてもよかったからだ。
巣鴨に入ると、人通りがまた増えた。
歩道の脇には自転車が列を作り、ほとんど端を埋めていた。小さな飲食店が看板に灯りをつけ始める。開いた扉から揚げ油の匂いが流れ、甘いタレの香りと、店内から漏れる冷たい空気に混じった。
交差点の近くに、まだ開いている書店があった。美香は何も言わずに入った。佐助も続いた。冷房の風が同時に二人を包み、美香は一秒だけ目を閉じた。
「ここに住めそう」
「本屋に?」
「冷房の中に」
佐助は棚を見た。
「高くつきそうだな」
美香が短く笑った。
店は細長く、通りの喧騒が嘘のように静かだった。入口側の壁を雑誌が埋め、その先には漫画、文庫本、旅行ガイド、小さな文具売り場が続いていた。レジの近くでは、絵葉書が乾電池やスマートフォンケースと場所を分け合っていた。
佐助は何かを探すつもりではなかったが、それでも一冊の雑誌を手に取った。表紙には、山に囲まれた駅の前を走る銀色の電車が写っていた。上部の赤い文字は、引退した車両を扱う特集を告げていた。
佐助が一冊取ると、美香が隣に現れた。
「今でもこういうの買うんだ」
佐助は雑誌を裏返した。
「今でも?」
「前、机に置いてあったよ」
「いつ?」
「何か月か前」
「覚えてない」
「緑だった」
佐助は答えが表紙に隠れているかのように雑誌を見直した。
「全部買ってるわけじゃない」
「全部買ってるなんて言ってないよ」
「たまに読むだけ」
美香は並びから別の雑誌を取った。
「これ?」
「違う」
もう一冊。
「これ?」
「それも違う」
三冊目を取った。
「じゃあ、これ?」
佐助は写真を見た。
「たぶん」
「見つけた」
「何を?」
美香は三冊とも棚へ戻した。
「一言じゃ終わらない質問」
佐助はまだ雑誌を持っていた。
「普通に答えてるけど」
「訊かれたことだけ、正確に答える」
「意味がわからない」
「そこが問題」
美香は文具売り場へ向かった。佐助もついていった。
「例を出して」
美香はノートの列に指を滑らせた。
「一度、お昼に行くか訊いたことがある」
「行ったよ」
「『行く』って答えた」
「行くから」
「それから、どこに行くのって訊いた」
佐助は記憶を探した。
「『下』って言った」
「言った」
カレー店はブンエイの一階にあった。
「答えだっただろ」
美香は付箋のセットを手に取った。
「私は、佐助と会話を続けようとしてたの」
佐助は動きを止めた。
奥では店員が低い棚に本を並べていた。包装のビニールが小さく鳴る。
美香は付箋の値段を見た。
答えを引き出そうとして言ったようには見えなかった。だからこそ、佐助には返事が見つからなかった。
「何回くらい、そう思わせた?」
美香は付箋をフックへ戻した。
「監査みたい」
「違う」
「そうだね……何回か」
佐助は思い出そうとした。
コーヒーマシンのそばでの質問。エレベーターでの一言。美香が田端の近くの店を知っているか訊き、佐助が知らないとだけ答えた日。秋葉原の展示について話したとき、佐助が駅のどの出口が近いかだけ説明したこと。
全部、短い会話だと思っていた。
短かったのは、いつも自分が終わる場所を見つけていたからかもしれない。
「親切にしてくれてるだけだと思ってた」
美香は黄色い表紙のノートを選んだ。
「親切にはしてたよ」
佐助はうなずいた。
美香が彼を見る。
「でも、それだけって意味じゃない」
手の中の雑誌が重くなったように感じた。
美香はノートをレジへ持っていった。
佐助は、そのあと急いで追いつかなければならないほど長く、その場に立っていた。
雑誌を買った。
店を出ると、温度差のせいで外がさらに暑く感じられた。
美香は書店の小さな袋を持ち上げた。
「買ったんだ」
「うん。家で読む」
「緑だった?」
「前の雑誌?」
「うん」
「青」
「じゃあ、私の記憶違い」
「上に緑の帯があった」
美香が彼を見る。
「間違えたままにしてくれてもよかったのに」
「どうして?」
「練習のため」
佐助は雑誌を鞄へ入れた。
「何の?」
「訊かれたことに正確に答えない練習」
佐助は答えかけた。途中で気づいた。
美香も気づいた。
二人は笑った。
今度は、佐助も笑い声を小さくしなかった。
少し先に、閉店間際の惣菜店があった。カウンターには商品がほとんど残っていない。白い前掛けの男が値札を片づけ、その横で女性がコロッケを紙袋へ入れていた。
美香が歩みを緩めた。
「お腹すいた?」
佐助は時計を見た。
「少し」
「それ、はいなの? いいえなの?」
佐助は考えた。
「美香が食べたいなら、僕も食べたいって意味」
美香が止まった。
「上達した」
二人はコロッケを一つずつ買った。
女性は、持てないくらい熱いまま渡した。美香は紙袋を片手からもう片方へ移した。
「これは判断を間違えた」
「買ったのは美香だろ」
「佐助も賛成した」
「練習中だから」
自転車置き場の前にある細いベンチに座った。入口の邪魔にならないだけの距離はあった。
紙袋には少しずつ油が染みた。美香は最初の一口に息を吹きかけてから、慎重にかじった。佐助も同じようにした。
「熱い」
「うん」
美香が顔を向けた。
佐助は言い直した。
「でも、おいしい」
「うん。惜しい」
二人は通りを眺めながら食べた。
小さな自転車に乗った女の子が通り、その後ろを父親が大きな自転車でついていく。男が薬局からトイレットペーパーと飲料の箱を抱えて出てきた。角の近くでは、空がさらに暗くなるのに合わせて自動販売機の中の列が明るく見え始めた。
どれも、注意を向ける必要のあるものではなかった。
それでも佐助は見ていた。
長いあいだ、東京は到着しなければならない場所の連続だと思っていた。駅は出るためにある。道は渡るためにある。店は、家へ戻る前に足りないものを買うためにある。
美香の隣に座って、佐助は、これからも知ることのない人々や、入ることのない扉に気づいた。
何も特別なことは起きていなかった。
たぶん、それが違いだった。
「村上さん」
「ん?」
美香は空になった紙袋をゆっくり丸めていた。
「ローソンで」
佐助の身体は、夢について訊かれるものだと身構えた。
美香は続けた。
「お茶、二本とも買った?」
返事までに少し間が空いた。
「買った」
「二本とも?」
「うん。もう籠に入ってたから」
美香は前を見た。
「ずっと気になってた」
「どうして?」
「五分くらい、ずっと比べてたから」
「五分も見てない」
「長かったよ」
「二、三分」
「それなのに二本とも買った」
佐助は笑い出した。
「どっちを買うつもりだったか忘れた」
美香はベンチにもたれた。
「そうだと思った」
「じゃあ、どうして訊いたの?」
「本人が認めるのを聞きたかったから」
「何週間も前のことだろ」
「急がなくていいこともあるよ」
佐助は美香を見た。
美香は通りを見ていた。
黒田の文書が一瞬、頭に戻った。署名。043という番号。保護者が戻るまでチャンネルを維持するという一文。
全部、まだそこにあった。
それでも、もう全部の場所を占めてはいなかった。
「土曜日のこと、よく覚えてる?」佐助が訊いた。
美香は空の袋を半分に折った。
「牛乳がなかったのは覚えてる」
佐助は笑った。
「それは僕も覚えてる」
「あと、村上さんが私に怯えてるみたいだったこと」
「美香に怯えてたわけじゃない」
「そう見えた」
佐助は、田舎の家に触れずに言える言葉を探した。
「どう話せばいいかわからなかった」
美香は紙袋を膝に置いた。
「それ、前からだったよ」
佐助は受け入れた。
「そうだった」
数秒のあいだ、通りの動きが二人の代わりに話した。
向かい側でシャッターが下り始めた。自転車が道を開けてもらうためにベルを鳴らした。遠い駅の案内が、建物のあいだで歪んで聞こえた。
美香が立ち上がった。
「行こうか」
佐助もうなずいて立った。
巣鴨を過ぎたどこかで、二人は大通りを外れた。
最初に細い道を選んだのがどちらだったのか、二人ともわからなかった。
閉まった自転車店、入口に空の植木鉢が並ぶクリニック、段差の下に子どものサンダルが三足揃えられた家の前を通った。別の角には、二つの建物のあいだの細すぎる場所に小さな神社があり、佐助は見落としそうになった。石灯籠は消えたまま。軒下では猫が、人の流れに関心もなく眠っていた。
美香は止まらなかった。
佐助も止まらなかった。
駒込のあたりまで来たころには、もう暗くなっていた。
自動販売機は昼より明るく見えた。集合住宅の窓には灯りが増えていく。家々のあいだから、食べ物の匂いが現れては消えた。一つの通りでは焼き魚。次ではにんにく。どこからかわからない場所から、出汁の匂い。
美香はスマートフォンで時間を見た。
「ほとんど一時間歩いた」
佐助は振り返った。
歩いてきた道はもう見えなかった。
「電車なら数分だった」
「大発見だね」
二人は歩き続けた。
次の角で、美香が止まった。
右へ行けば彼女の部屋。左へ行けば佐助は中里と踏切へ出られる。
地図を見る必要はなかった。
「私の家、こっち」美香が言った。
「僕は反対」
美香は書店の袋を胸元へ寄せた。
「じゃあ、着いたね」
「何に?」
「どこかに」
佐助は二本の道を見た。
昼には、どこで食べるか決めないまま電車に乗った。今は、何かを探すでもなく一時間近く歩いてきた。
それでも感覚は違った。
出発点へ戻ったわけではなかった。
美香は鞄の肩紐を直した。
「おやすみ、村上さん」
佐助はいつものように答えかけた。
短く。正しく。それで足りる言葉を。
「林さん」
美香は待った。
「一緒に歩けて、よかった」
美香の表情は、ほとんど変わらなかった。
だからこそ、佐助にはわかった。
彼女の指が、肩紐を一度だけ強く握った。
「私も。楽しかった」
ベルは鳴らなかった。
その瞬間、電車も通らなかった。
佐助は手をどうしていいかわからなかった。
美香が二人を救った。
「次は、村上さんがコロッケを選んでね」
「種類、ほかにもあったの?」
美香は後ろ向きに歩き始めた。
「四つ」
「訊かなかったじゃないか」
「練習中だから」
佐助が返事をする前に、美香は前を向いた。
佐助は、美香が次の通りへ着くまで角に立っていた。彼女は振り返らなかった。
その必要はなかった。
佐助は中里へ向かった。
踏切に近づくと、遮断機が下り始めた。
買い物袋を持った男と、自転車にまたがったまま両足で支えている女子学生のそばで止まった。
カン、カン、カン、カン。
身体はまだ反応した。
畑。
家。
存在しない駅へ続く道。
けれど、その光景がすべてを埋めることはなかった。
大塚を横切った都電もあった。青い魚の扇子。電車の雑誌。熱すぎたコロッケ。夢が二人に家を与えるより前から、美香が佐助と話そうとしていたということ。
電車が通り過ぎた。
佐助には、明るい窓だけが見えた。
遮断機が上がると、買い物袋の男が先に進んだ。女子学生はゆっくりペダルを踏んで向こう側へ渡った。
佐助も一緒に渡った。
家に着くと、雑誌を鞄から出してテーブルに置いた。
スマートフォンはポケットに入っていた。
再構成用のノートは二階にあった。
数秒、今夜のことを記録しようかと考えた。
出た時間。道。場所。言葉。
アプリは開かなかった。
ノートを取りに二階へも上がらなかった。
台所へ行き、水を一杯入れ、流しの前に立ったまま飲んだ。
黒田茂について、何一つわかったわけではない。
鍵のことも理解していない。
秩父の家がどうして夢の中に入ったのか、その説明にも近づいていない。
それでも、最後の一時間を思い返したとき、それを無駄な時間とは呼べなかった。
開いた窓の向こうで、街はまだ起きていた。




