秩父の家
土曜日、佐助は黒田茂を捜さなかった。月曜日はなくならない、と美香は言っていた。佐助はその言葉を信じることにした。だからといって、あの文書が消えたわけではない。
目を閉じると、043という番号がまだ浮かんだ。知らない女性のイニシャル、その上を横切る黒田茂の署名、ほとんど消えかけた印。なにより、誰かの帰還が事務的な指示ひとつで待機状態に置けるかのように、脇に記された一文が残っていた。
「保護者が戻るまで、チャンネルを維持すること。」
佐助は恵美に電話しようかと考えた。北星映像工房の金属箱に保管されているゼロの鍵と、鍵穴を探さないでほしいと彼女に言われたことも思い出した。
どちらもしなかった。
八時を少し過ぎたころ、美香からメッセージが届いた。
「叔母が明日、家を開けてくれることになった。」
一分後、もう一通届いた。
「まだ見たいと思ってるなら、7時30分の電車に乗る。」
佐助は「まだ」という言葉を、二人が終わらせていない会話への言及のように思えるまで読み返した。
返信した。
「行きたい。そこにいる。」
翌朝、池袋駅のホームで美香と会った。帆布のバッグと水のボトルを持ち、ブンエイでは見たことのないまとめ方で髪を結んでいた。仕事でよく穿いている濃い色のパンツに、明るい色のジャケットを羽織っている。
机も、ヘッドホンも、スキャナーの光もない美香は、いつもより若く見えた。けれど金曜の夜にあった軽さは消え、すでに心の一部だけ秩父へ向かっているような、静かな緊張が代わりにあった。
「手袋、持ってきた?」
佐助はコンビニで買った一組を見せた。
「それ、掃除用じゃないよ。」
「朝七時に売ってたのはこれだった。」
美香は指先で袋をつまんだ。
「最初の窓を開ける前に破れると思う。」
その朝、初めて見せた笑顔だった。ほんの短いものだったが、それで二人は、ありふれた問題を片づけに行く二人として電車に乗ることができた。
列車が進むにつれ、東京は少しずつ背後へ退いていった。建物は低くなり、線路は枝分かれし、窓に映る景色の向こうへ、まだ遠い山並みが入り込んできた。
美香は窓側に座った。佐助は隣に腰を下ろし、バッグを足元に置いた。前の夜の軽さは急に消えたわけではなかった。ただ、建物と一緒に少しずつ後ろへ残されていった。
最初の一時間、二人は会社の古い箱について話すように家のことを話した。台所の雨漏り、ずれた瓦、物置の脇に伸びた草、市役所から届いた、枝が道へ張り出しているという通知。
「不動産屋を呼ぶ前に、叔母が全部写真に撮っておきたいって。」美香が言った。「母からは、まだ自分のものだと思える物を分けておいてって頼まれた。」
「まだお母さんのものって、どれ?」
「誰にも分からない。だから私に回ってきたの。」
美香は額を窓ガラスに預けた。外では家並みが列車と並んで続き、やがて斜面の向こうへ消えた。
「祖母が亡くなったとき、みんな自分の名前を書いた箱を作ったの。でも結局、誰も持って帰らなかった。家族って、そうやって物事を決めるんだよ。」
佐助は、母の持ち物が今も家のあちこちに残り、自分が一度も始めなかった分類を待っているように見えることを思った。
「何も書かないのも、同じことになるときがある。」
美香は顔をこちらへ向けた。
誰のことを言っているのかは聞かなかった。ただバッグを少しずらし、二人の足元にわずかな空間を作った。
秩父では、駅前で叔母が小さな車に乗って待っていた。レイコという名だった。目の形は美香によく似ていたが、相手を見てから何かを決めるまでに美香が置くような間はなかった。
佐助が挨拶をすると、レイコは言った。「じゃあ、この人が職場の人ね。」
美香は必要以上に強く車のドアを閉めた。
「窓を開けるのを手伝いに来てくれたの。」
「そう。」
レイコはそれ以上何も言わなかった。パンの入った袋を美香に渡し、車を出した。
町並みは背後で小さくなっていった。市場、誰もいない校庭のある学校、閉まった工場の前に並ぶ二台の自動販売機を通り過ぎる。やがて道は細くなった。家々の間隔が広がり、網をかけた畑や、トタン屋根の下に小型の農機を置いた家が見えた。
佐助は鐘の音を探さないようにした。
山がフロントガラスいっぱいに広がったころ、最初の一打が聞こえた。遠く、低い音だった。風に運ばれ、エンジン音の中へほどけていった。
美香は反応しなかった。レイコは、来週枝を切りに来る男の話を続けていた。
夢では、美香が湯を沸かし始めたあとに鐘が鳴った。佐助は柵を直しているときや、物置の扉を開けるときにそれを聞いていた。どこにある鐘なのか考えたことはない。その音はただ、朝の一部だった。
今は、寺が山の向こうに実在すると知っている。そのせいで記憶は不可能なものというより、むしろ侵入してきたもののように感じられた。
レイコは舗装路を外れ、低い畑に挟まれた道へ入った。家は曲がり角の先に現れ、手入れされていない木に半分隠れていた。
全体が見える前に、佐助には分かった。
それでも数秒のあいだ、違う場所へ来たのだと確信した。
縁側は低すぎた。屋根の張り出しも記憶より浅い。夢では手入れされたばかりの木のような暖かい色だった外壁は灰色にくすみ、雨の跡が残っていた。角の近くでは雨樋がたわんでいる。物置は後から継ぎ足したように見え、何日もそこで作業したと信じていた作業台が収まるには小さすぎた。
美香は車を降り、門のそばで立ち止まった。
レイコはもうバッグの中から鍵を探していた。
「小さくなった。」美香が言った。
自分に向けた言葉なのか、佐助には分からなかった。
「うん。」
美香が横目で見た。
「佐助にも?」
ここで間違えるには早すぎた。
「写真では、もっと大きく見えた。」
美香は家へ視線を戻した。訂正はしなかったが、その答えは二人の間に残ったまま、レイコのあとを追った。
玄関の引き戸は数センチ開いたところで引っかかった。レイコが肩を板に当て、美香に取っ手を持って戸を持ち上げるよう頼んだ。起きる前から、佐助はその動きを知っていた。夢では湿気の多い日に戸を持ち上げるのは自分で、美香は中で二つの器を持って待っていた。
「レールが沈んでるの。」レイコが言った。「おじいちゃん、二十年ずっと直すって言ってた。」
佐助は取っ手の下に手を添えた。
「もう少し上げて。」
美香が持ち上げる。戸はざらついた音を立てて動き、冷えた空気と埃、古い藁の匂いを吐き出した。
中には、夢の明るさは何一つ残っていなかった。
家具にはシーツがかけられ、箱が居間の半分を占めていた。仏壇は空で扉を閉ざし、壁には長年カレンダーが掛かっていた場所だけ色の薄い跡が残っていた。足を置くたび床は短く鳴り、佐助の記憶にある長い軋みとは違っていた。
レイコは正面の窓を開け、雨戸も開いた。光が入ると、空中の埃と、隅に残った虫の這った跡が見えた。
「こっちから始めて。」レイコは言った。「私は台所を見てくる。」
美香はジャケットを脱ぎ、箱の上に畳んだ。佐助は手袋の袋を開けた。一枚目は手首のところで破れた。
美香が片方の眉を上げた。
「何も言わないで。」
「何も言ってない。」
美香は笑いながら、バッグから持ってきた布の手袋を一組渡した。
一時間近く作業した。家具の覆いを外し、箱を壁から離し、窓の溝を掃除した。どの部屋でも佐助は、一致するものを見つけ、そのすぐあとに欠けているものを見つけた。
廊下は同じように曲がっていたが、早すぎる場所で終わった。台所の窓は畑に面しているのに、流しは反対側にあった。美香が茶を置いていた棚は最初から存在せず、壁にはパテで埋められた二つの穴があるだけだった。夢で彼女の隣に目覚めた部屋はもっと狭く、記憶にある二組の布団を敷く余地はなかった。
世界が家を写したのではない。記憶が何かの中に住む必要に迫られたときにすることを、世界はしていた。壁を動かし、邪魔なものを取り除き、空間を作った。
台所では、美香が低い戸棚の前に膝をつき、鍋を床の上で三つの山に分けていた。
「母の。」最初の山を指した。「叔母の。処分。」
「美香のは?」
「私の山はない。」
佐助は底の黒ずんだ小さなやかんを手に取った。
「これ、夢にあった。」
美香の手が止まった。
声に出していたことに気づいたのは、言ったあとだった。
「これと同じもの?」
佐助は、端が焦げた木の取っ手を確かめた。夢では、美香は火から下ろす前にそこへ布を巻いていた。
「分からない。ただ似たやかんだっただけかもしれない。」
美香は手を伸ばした。どの山にも入れず、自分の後ろへ置いた。
「祖母は、朝これでお湯を沸かしてた。」
レイコが写真の箱を抱えて入ってきた。
「漏れるようになっても捨てようとしなかったのよ。」レイコが付け加えた。「美香も一度、これで手をやけどしたし。」
「六歳だったんだよ、レイコおばさん。」
「一週間、やかんに噛まれたって言い続けてた。」
美香は叔母に笑いかけたが、佐助のほうは見なかった。やかんを、戸棚の脇に何の宣言もなくできた自分の山へ置いた。
正午、三人は縁側でパンを食べた。風は湿った土と刈った葉の匂いを運んできた。レイコに電話がかかり、車のそばまで離れて話し始めた。
美香はお茶のボトルを開け、自分のものを開ける前に佐助へ渡した。
「夢でも、ここに座ってた?」
「ときどき。」
「何度もあったことみたいに答えるよね。」
佐助は畑を見た。この季節には、道を隠すほど高い稲はなかった。杭の列、細い水路、その向こうには別の家の屋根が見えた。
「実際より長く感じたんだ。」
「どれくらい?」
「最初は分からない。最後は、一日まるごと。」
美香は指先でボトルの蓋を締めた。
「条件を再現したって言ってたよね。」
「再現した。」
「時間といくつかの音だけで、ここで一日過ごせたの?」
その瞬間なら話せた。現実の家が、言い訳のほとんどを奪っていた。近くに装置はない。美香が触ったり、自分も入りたいと言ったりする危険もない。名前を口にするだけでよかった。REM-B。そのあとに恵美、直樹、ソラ、鍵のことを話せばいい。どれも難しいが、口にできないものではなかった。
けれど佐助は、その前にまず認めなければならないことを考えた。美香の記憶を一度訪れただけではない。戻ろうとしたのだ。ケーブルと時間と声を組み合わせ、すでに彼女が自分を待っている人生へ戻ろうとした。
「音だけじゃない。」
美香は待った。
畑の向こうで誰かが農機を動かした。エンジンは低く始まり、やがて一定の唸りに落ち着いた。
「覚えていることを全部書いた。」佐助は続けた。「正確にすればするほど、戻りやすくなった。」
「それでも、どうやったかの説明にはなってない。」
「うん。」
「今日、説明する?」
佐助は美香を見た。
美香は怒っているようには見えなかった。怒っていないことのほうが、問いを重くした。ボトルを持つ手には疲れがあり、どうせ本当のことは聞けないと半分分かっていながら、それでも佐助が自分から話すことを選ぶか確かめようとしているようだった。
「説明したい。」
「聞いてるのは、そうしたいかどうかじゃない。」
レイコが電話を終え、こちらへ戻ってきた。叔母が着く前に、美香は立ち上がった。
「物置がまだ閉まってる。」美香が言った。「四時までに終わらせないと。」
昼食のあと、作業は重くなった。レイコは錆びた道具を分け、美香は母に送るためひび割れを撮影した。佐助は箱を車まで運び、裏窓の破れた網戸を外した。
物置で、作業台があるはずだった壁を見つけた。
床に跡はなく、木にも穴はなかった。折り畳んだ空袋、前輪のない子ども用自転車、錆に覆われた棚の骨組みがあるだけだった。
美香が後ろで立ち止まった。
「作業台、ないね。」
「おじいさんが解体したんじゃない?」
「入口の近くに小さいのを作ってた。家を片づけたときに撤去したって、叔母が言ってた。」
佐助は物置の奥を見た。夢では、窓に背を向けてそこで作業していた。机の上にはねじと、畳んだ布と、使い道の分からない物があった。自分に必要だったから、そこを作業場と呼んでいた。
「俺が見たのは、ここにあった。」
美香は中へ入り、何もない壁に触れた。
「子どものころ、祖父は何でも直せると思ってた。壊れたおもちゃを持ってきて、入口に置いてた。たぶん、それで。」
「それで、何?」
「一度もなかった場所に、作業台があったのかもしれない。」
美香はもう、他人の夢の説明を聞いている人のようには話していなかった。その夢の内側から話していた。
「覚えてる?」佐助が聞いた。
美香は木の裂け目を親指でなぞった。
「ここに灯りがついてたのを覚えてる。佐助が背中を向けて座ってた。」
物置がさらに小さくなったように感じられた。
「美香はノックもしないで入ってきた。」
美香は笑ったが、その表情には居心地の悪さがあった。
「それ、佐助が勝手に私をそういう人にしたみたいに聞こえる。」
「そうかもしれない。」
「何か持っていった?」
「お茶。ときどき食べ物。一度、蝶番のついた箱を持ってきた。」
美香は一瞬、目を閉じた。
「青かった?」
「覚えてない。」
「私は覚えてる。」
目を開けたとき、そこにあったのは発見ではなかった。恐怖だった。
佐助は一歩、美香へ近づいた。
「美香。」
「だめ。」
美香は下がらなかった。ただ片手を上げ、佐助自身にも何をするつもりだったのか分からない動きを止めた。
「これで何かが証明された、なんて言わないで。」美香は続けた。「本当に覚えてるのか、それとも佐助の話に合わせて穴を埋めてるだけなのか、私には分からない。」
「そんなこと言うつもりじゃなかった。」
「じゃあ、何を言うつもりだったの?」
装置の名前が喉まで上がり、そこで止まった。
外からレイコが美香を呼んだ。美香は手を下ろした。
「窓を閉めないと。」
二人はもう一度壁に触れることなく、物置を出た。
四時になるころ、家は来たときとほとんど同じに見えた。埃は減り、三つの箱が場所を変え、いくつかの物が車の荷室に積まれるのを待っていた。抱えている疲れに見合わないほど、小さな変化だった。
レイコが戸を施錠した。美香は鍵を自分に渡してほしいと言った。
「また来るの?」叔母が聞いた。
「何を持って帰るか決めないと。」
レイコは姪の手のひらに鍵を置いた。
「お母さん、聞いたら喜ぶよ。」
「まだ言わないで。」
レイコは、二人の間に昔からある決まりを思い出したようにうなずいた。
車に乗る前、美香は最初の段差のそばにある石へ近づいた。しゃがみ込み、表面に積もった葉を払った。
「まだカエルみたい。」
佐助は布に包んだやかんを持っていた。なぜ美香がそれを持ち帰ることにしたのか、聞かなかった。
駅でレイコは手短に別れを告げた。東京行きの列車は十二分後に出る。美香と佐助は自動販売機で温かい飲み物を二本買い、ホームの端のベンチに座った。
帰りの車内では、疲れが会話を先延ばしにした。美香は数分、窓に頭を預けて眠った。佐助はガラスに映る彼女を見ながら、自分があちらの世界で求めていた安らぎを、罪悪感とともに思い出した。けれどこちらでは列車が揺れ、二列後ろで子どもが泣き、駅のアナウンスが静けさを破るたびに美香は目を覚ました。
飯能の近くで、美香が目を開けた。
「夢の家のほうがよかった?」
「楽だった。」
「聞いたのは、そういうことじゃない。」
佐助は、きれいな縁側、高く伸びた田、どの扉を開けても予想した場所へ通じるという確信を思った。自分が役に立てるように作られた物置と、駅へ行き着くよう修正された道のことも。
「あの家では、何も決めなくてよかった。」佐助は答えた。「だからって、あっちのほうがよかったわけじゃない。」
美香は膝の上のやかんを押さえた。
「祖母なら嫌がったと思う。」
「どうして?」
「あの人、何でも自分で決めてたから。ほかの人が何を決めるかまで。」
佐助は気づく前に笑っていた。美香も一度だけ、短く笑った。そのあと列車の音が二人の間を満たしたが、そこを空っぽにはしなかった。
池袋に着いたころには、もう暗くなっていた。二人は一緒に駒込駅まで戻った。エスカレーターで、美香は一段上に立ち、バッグとやかんを抱えていた。佐助は、ホームで別れるのだと思った。
けれど美香は列車が出るのを待ち、そのまま佐助と一緒に出口まで歩いた。人々は小さな集団になって行き交い、買い物袋や畳んだ傘を持っていた。向こう側の通りには店の明かりと自動販売機が並んでいた。
美香が立ち止まった。
「電車でさ。」美香が言った。「三つの器の話をしたとき……」
佐助の身体は、知っているつもりの問いに備えた。
「本当に三つあった。」
「分かってる。」
踏切の警報音が鳴り始めた。人々は足を速めた。佐助と美香はその場に残り、遮断機が二人と通りの向こう側との間へ下りていくのを見ていた。
「祖母は、欠けた器に猫の餌を入れてたの。」美香が続けた。「縁側の右端に置いてあった。」
佐助は最初の段差のそば、影にほとんど隠れていた白い器を思い出した。夢の中で、猫が近づくところを見たことは一度もない。それでも、それを洗い、同じ場所へ戻していたことを覚えていた。
「猫が死んだあと、片づけた。」美香は言った。「私が十一歳のとき。見せた写真には写ってない。」
列車が踏切を通り過ぎた。明るい窓が、美香の顔をいくつもの断片に切り分けた。
最後の車両が通り過ぎても、美香は動かなかった。
「どうして、それがあったって知ってたの?」




