丸一日
列車の扉が閉まった。電車は一瞬その場にとどまり、まだ佐助が気を変えるのを待っているようだった。やがて車内の明かりが、先頭車両から最後尾まで一つずつ消えていった。
窓に乗客の姿は一人もなかった。
走り出しても、車輪の音はしなかった。列車はただ田畑のあいだに開いた道を遠ざかり、ホームも、時計も、道の上に現れていた明かりも一緒に連れ去っていった。
数秒後には、赤い尾灯が二つだけ残った。
そして、それも消えた。
佐助は、列車が消えた場所を見つめ続けた。
「明日も来るの?」
美香はすぐには答えなかった。
「お腹、空いてない?」
佐助は振り向いた。
家にはまだ明かりがついていた。縁側の戸は開いたままで、夕食の匂いが庭まで届いている。何もかも、さっきまでと同じ場所にあるように見えた。
「電車」佐助は重ねた。「明日も来る?」
美香は体の前で両手を重ねた。
「夕飯、冷めちゃうよ」
佐助は彼女の顔を見た。弱い明かりが表情の一部を隠していたが、目元の形も、耳の後ろにかけた細い髪の束も、まだわかった。
「わかった」
二人は家へ戻った。
その朝に直した板が、最初の一歩で軋んだ。
佐助は立ち止まった。
美香はもう中へ入っていた。
もう一度足を載せる。板は修理前と同じ場所で沈み、釘の頭が一本、表面から浮いていた。
しゃがみ込み、指でなぞった。
「美香」
返事はなかった。
「板、また外れてる」
茶碗をテーブルへ置く音がした。
「あとで直せばいいよ」家の中から美香が言った。
佐助は爪で釘を抜こうとした。錆びていた。
朝には新しいものへ替えたはずだった。
田畑へ目を上げた。空から夕焼けの橙色は消えていたが、星は一つも出ていない。山も木々も遠くの屋根も、一つの暗い塊になっていた。
用水路のそばでは、一匹の蝉が鳴き続けていた。
息を継ぐ間さえなかった。
佐助は家へ入った。
美香は汁物をよそっていた。二つのご飯茶碗が、佐助の切った野菜と並んでテーブルに置かれている。白い花はまだガラスのコップに挿されていた。
「座って」
佐助はテーブルの前に膝をついた。
美香が汁椀を近づけた。湯気に揺らいだ汁の表面に、佐助自身の顔が歪んで映っていた。
「食べないの?」
「食べる」
箸を取った。
最初の茄子には味がなかった。二つ目も同じだった。ご飯を口へ運んでも、感じるのは温度だけだった。
美香は自分の茶碗を見ながら、ゆっくり食べていた。
「おいしいよ」佐助は言った。
「いつもそう言うね」
「おいしいから」
美香が笑った。
一瞬、佐助には彼女の歯が見えなかった。
瞬きをした。
笑顔はまだそこにあった。ただ、動いているのは唇だけだった。テーブルの上の灯りでは説明できないほど、部屋の影が美香の顔にかかっている。
「暗くない?」
美香は上を見た。
「いつもと同じだよ」
佐助は壁のスイッチへ手を伸ばした。
触れた瞬間、遠くで小さなベルが鳴った。
踏切ではない。もっと小さな金属音が、二度繰り返された。
佐助は手を引いた。
「どうしたの?」
「何でもない」
美香はまた食べ始めた。
数秒後、佐助はその音が何だったのか思い出した。
恵美が取り付けたモニターの通知音だった。
百合子の部屋では、緑の波形が佐助の眼球運動とは一致しない揺れ方をした。
恵美が画面へ身を寄せた。
「睡眠段階が変わり始めてる」
直樹が組んでいた腕をほどいた。
「どれくらいたった?」
「開始から43分」
「長いのか?」
恵美はすぐには答えなかった。
モニターの緑の波形を見ていた。
「時間が問題じゃない。このパターンなら、もう装置が止まっていなければおかしい」
テープ走行機構は動き続けていた。前面の開口部では、モニター上の波形の乱れとは釣り合わないほど規則正しく、巻き取り側のリールがテープを巻き取っていた。
直樹は佐助を見た。
佐助は布団に横たわったまま、両腕を体の脇に置いていた。呼吸は先ほどより遅い。こめかみから髪の生え際へ、汗が一筋流れていた。
「起こしたほうがいい?」
恵美はモニターの信号を確認した。
「まだ。テープ走行が自分で止まるか見たい」
「佐助がその段階を抜けたら止まるって言っただろ」
「止まるはずだった」
恵美がキーを押す。モニターがまた短い電子音を二度鳴らした。
「佐助」直樹が呼んだ。
反応はない。
「触らないで」
「じゃあ、どうやって起こす?」
「まず声で」
直樹は布団のそばに膝をついた。
「佐助。テストは終わったぞ」
右手の指がシーツの上で動いた。
「聞こえた」
「かもしれない」
恵美はモニターから目を離さなかった。
「もう一度呼んで」
田舎の家で、佐助は箸をテーブルへ置いた。
「聞こえた?」
美香が顔を上げた。
「何を?」
声は障子の向こうのどこかから聞こえた。
言葉になるには小さすぎたが、聞き覚えがあった。
佐助は立ち上がった。
「家の中に誰かいる」
「私たち二人だけだよ」
「直樹?」
その名前だけが部屋に収まりきらないほど大きく響いた。
美香はその名を知らないようだった。
佐助は廊下脇の障子を開けた。
向こうには、ついさっきまで夕食を食べていた部屋があった。
低いテーブルと二つの茶碗、そして背を向けて座る美香が見えた。
佐助は振り返った。
同じ美香が、同じテーブルの前で、今度は正面を向いて座っていた。
「何を探してるの?」二人が同時に訊いた。
佐助は障子を閉めた。枠の中で紙が震えた。
「疲れてるんだよ」美香が言った。
佐助は木枠に手を置いたままだった。
「帰らないと」
美香は首を傾げた。
「もう帰ってきたじゃない」
昼に言われたのと同じ言葉だった。
同じ声色。同じ、最後の言葉の前の間。
「目を覚まさないと」
美香はコンロへ目をやった。
「夕飯、冷めちゃうよ」
佐助は一歩下がった。
顔の形は残っていたが、細部が欠け始めていた。顎のそばにあった小さな印が消えている。額に落ちた髪も、黒く動かない面のようになっていた。
ブンエイ・データサービスで見る美香の目を思い出そうとした。
思い出せなかった。
耳の後ろへ髪をかける仕草。棚の番号を確認する姿。シャツの上につけた社員証。それなら思い出せた。
顔は戻らなかった。
「美香」
「ここにいるよ」
「僕を見て」
美香はすでに見ていた。
佐助は縁側の戸へ近づいた。
外では、夜が田畑を消していた。軒下の明かりが照らすのは三段の階段と細い土の帯だけ。その先には、用水路も道も山もなかった。
蝉はまだ鳴いていた。
一つの音を途切れずに。
「佐助」
今度は直樹の声だとわかった。
暗闇から聞こえてきた。
「直樹!」
返事はなかった。
佐助は庭へ下りた。
明かりの外へ最初の一歩を踏み出すと、足の下から地面が消えた。落ちなかった。代わりに木の床を踏んだ。
家の廊下へ戻っていた。
正面の壁には、同じ障子が三枚並んでいた。
一枚目を開けた。
食事の部屋。
テーブルのそばに座る美香。
二枚目を開けた。
同じ部屋。汁物からはまだ湯気が上がっている。
三枚目を開けた。
朝の光に包まれた縁側。美香が緩んだ板のそばに膝をつき、錆びた釘を指に挟んでいた。
「曲がってる」
佐助は勢いよく障子を閉めた。
残りの二枚がひとりでに開いた。
「曲がってる」声が重なった。
佐助は廊下を走った。
寝たはずの部屋を通り、台所を抜け、また同じ部屋を通った。この家の大きさでは、こんな数の部屋があるはずはない。それでも扉を開けるたび、見覚えのある空間がもう一つ増えた。
ある部屋では、朝食の膳が整えられていた。
別の部屋では、午後に干した洗濯物がまだ室内に吊られていた。
三つ目では、白い花がガラスのコップの中ですっかり萎れていた。
佐助は引き返そうとした。
廊下に終わりはなかった。
「佐助。目を開けろ」
直樹の声が天井の上から聞こえた。
佐助は立ち止まった。
「聞こえてる!」
障子が震えた。
その一枚一枚の向こうから、美香が答えた。
「ここにいるよ」
百合子の部屋で、モニターの波形が跳ね上がった。
佐助が枕の上で頭を動かした。
「何か言おうとしてる」直樹が言った。
恵美は佐助の襟元につけた小型マイクのゲインを上げた。スピーカーから返ってきたのは、呼吸音とケーブルの擦れる音、それに判別できない一音だった。
「佐助」直樹が呼んだ。「聞こえるなら、手を動かせ」
指は動かなかった。
「何とかしてくれ、恵美」
恵美は窓を見た。外では踏切の警報音が鳴り始めていた。数秒遅れて、列車の最初の振動が家へ届いた。モニター上の緑の波形が二本に分かれた。
「あり得ない」恵美が言った。
「何が?」
「別のパターンが混ざってる」
「佐助の?」
「わからない」
REM-Bは振動に応えるように低く唸った。テープの走行速度が上がった。恵美は物理遮断のスイッチを握った。
「呼び続けて」
直樹はさらに近づいた。
「佐助、電車が通ってる。今、戻ってこい」
廊下では、踏切の警報音が美香たちの声を覆った。
佐助は両手で耳を塞いだ。
すべての障子が同時に開いた。
どの部屋にも、一日の一部が佐助を待っていた。朝の縁側。暑い昼。田畑のあいだの道。神社。コップの花。手のついていない夕食。
すべての部屋に美香がいた。
そのどの顔も、完全ではなかった。
「帰りたくなかったんだ」佐助は言った。
美香たちは動かなかった。
「もう少しだけ、ここにいたかった」
神社の美香が最初の一段を下りた。
「じゃあ、決めることに時間を使わないで」
元の言い方から抑揚が失われていた。記憶でも、返事でもない。間違った場所へ戻された部品のようだった。
佐助は、その日が続いているのではないと悟った。
ただ、繰り返しているだけだった。
残ることを選んでも、美香と過ごす夜や明日、その次の朝が生まれるわけではなかった。機械は掴めたものだけを保持し、終電のあと、行き先もなく同じ材料の上を巡り始めていた。
「美香」
すべての美香が佐助を見た。
「名字は?」
蝉の声が止まり、沈黙が落ちた。
いちばん近くにいた女が口を開いた。
言葉は出なかった。
佐助が恐れたのは、閉じ込められることではなかった。もし去らなければ、彼女に残るものがこれだけになってしまうのではないか。由来のない仕草。場所を失った言葉。自分が思い出せた部分だけでできた顔。
「ごめん」
美香の一人が手を上げた。その不完全な輪郭の奥で、ほかの美香たちにはない動きが一つだけあった。指が耳元の髪に触れた。
「直樹」
問いかけには聞こえなかった。
現実の列車が、佐助の家から数メートルの踏切を通過していた。
台所の戸棚が震えた。流し台のそばに置き忘れられたコップがずれ、壁に触れた。
恵美が安全スイッチを切った。
REM-Bのモーターは止まるはずだった。
止まらなかった。
「なんでまだ回ってる?」直樹が訊いた。
恵美は電源コードを引き抜いた。
モニターが消えた。コンバーターのランプも消えた。それでもリールは回り続けた。惰性なのか、それとも恵美が名をつけようとしなかった何かなのか。
恵美は本体側面の蓋を開けた。
「離れて」
「何するんだ?」
工具箱から、テープ編集用の小型はさみを取り出した。
「再生を止める」
「全部だめにならない?」
「切るのは、そのため」
直樹は次の指示を待たず、佐助の肩をつかんだ。
「佐助。俺はここにいる」
向こうの世界では、美香の手はまだ耳元にあった。
「直樹」彼女がもう一度言った。
廊下が一気に暗くなった。
恵美がはさみをテープとヘッドのあいだへ入れるところを、佐助は見なかった。
聞こえたのは、乾いた一音だけだった。
すべての扉が消えた。
足元の床が傾いた。美香へ手を伸ばしたが、二人とも動いていないのに距離だけが広がっていった。
「待って」
美香が何かを言った。
佐助には聞こえなかった。
家は一点の光へと閉じていった。
やがて、その光も消えた。
佐助は息を求めるように目を覚ました。
直樹が両肩を支えていた。恵美は目に近い電極から順に、素早く外している。
佐助は体を横に向けた。
訊きたいことを口にするより先に、吐き気がこみ上げた。
直樹が布団の脇に置いてあった洗面器を引き寄せた。佐助は片腕で体を支え、試験前に食べたわずかなものを吐いた。
数秒間、三人とも何も言わなかった。
電車が通り過ぎた。遮断機が上がり始めるまで、踏切の警報音は鳴り続けた。
恵美が水の入ったコップを床へ置いた。
「一気に飲まないで」
佐助は口をゆすぎ、部屋の揺れが止まるのを待ちながら座っていた。
小さな家は、さっきまでより狭く感じられた。百合子の箪笥も、薬箱も、閉じたカーテンも正しい場所にある。扉は廊下へつながり、その廊下は階段へつながっていた。
直樹を見た。
「どれくらい?」
「52分」恵美が答えた。
佐助は顔を手で覆った。
「丸一日だった」
直樹は床に座った。
「1時間もたってない」
「朝になった。朝飯を食べた。家のことをして、神社まで行った。夕飯も食べた」
次の言葉が出るまでに少しかかった。
「電車に乗り損ねた」
恵美は指のあいだに挟んだ切れたテープを見てから、すぐ佐助へ視線を戻した。
「その電車は、あなたにとって何だった?」
「出口」
「どうしてわかるの?」
「向こうにいるときは、わかってた」
直樹はコップを取り、佐助へ返した。
「出ないって決めたのか?」
佐助は水を一口だけ飲んだ。
「決めた」
直樹は責めなかった。その沈黙のほうが重かった。
恵美は電極を清潔な布の上に置いた。
「最後の部分は、本来なら起きなかった」恵美が言った。「佐助のパターンが変わった時点で、テープ走行は止まるはずだった。それなのに再生を続けて、不規則な反復に入った」
「家も同じだった」佐助が言った。
「どういうふうに?」
「部屋が繰り返した。一日の一部も。美香は前に言った言葉を繰り返してた」
直樹は恵美を見た。
「切らなかったら、どうなってた?」
「わからない」
「でも、佐助は起きたのか?」
「わからない、直樹」
恵美は答えを和らげようとはしなかった。はさみをしまい、テープを本体から取り出す。切れた両端が改造されたカートリッジの外へ垂れていた。
「何が起きたのかわかるまで、新しいテストはしない」
佐助は目を閉じた。
開いた障子と、細部を失っていく美香の顔がまだ見えた。
「彼女は、そこにいた」
「美香?」直樹が訊いた。
佐助はうなずいた。
「記憶みたいじゃなかった。僕が知らないことに答えてた。でも最後には、消え始めた」
「目が覚めかけてたからじゃないか」
「違う。まだ戻り始めてもいなかった」
佐助はREM-Bを見た。
「あの場所から、彼女が少しずつ失われていった」
恵美はテープを低いテーブルへ置いた。
「睡眠周期が終わったあとも、装置は何かを記録してる」
「映像?」直樹が訊いた。
「違う。音声」
佐助が顔を上げた。
恵美は再生ユニットだけを別電源につないだ。コンバーターと電極は切ったままにする。ピンセットでテープの両端を仮につなぎ、切断直前につけた印まで送った。
「一度だけ再生する」恵美が言った。「そのあとはカートリッジを保管する」
直樹がデジタルレコーダーを音声出力へ近づけた。
スピーカーから静電ノイズが流れた。
佐助の呼吸、電車の音、そして部屋から呼びかける直樹の声が続いた。
「佐助。俺はここにいる」
佐助には、その言葉に聞き覚えがあった。
再生音の中で、自分自身の声が遠くから返した。
「聞こえてる」
直樹が佐助を見た。
「お前、これ言ったのか?」
「うん。向こうで」
テープは回り続けた。
静電ノイズの下から、もう一つ声が現れた。佐助の声を含め、装置に記録されていた三人目の声だった。恵美の声ではない。また、佐助が眠っているあいだ、部屋では似た言葉は一度も発せられていないため、そこから入った声でもなかった。
女の声が直樹の名を口にした。
小さいが、はっきり聞こえた。
恵美が再生を止めた。
「戻して」佐助が言った。
恵美は数秒ぶん戻した。
もう一度再生した。
まず、直樹の声。
「佐助。俺はここにいる」
次に、遠い返事。
「聞こえてる」
そして最後に、女の声。
「次は、直樹も連れてきて」
恵美が停止ボタンを押した。リールは従うまで1秒かかった。直樹は驚いた顔のまま、装置を見つめ続けた。
「美香だったのか?」
佐助は、耳元の髪に触れた手、不完全になった顔、そしてほかの姿にはなかった唯一の動きを思い出した。
「わからない、直樹」
外では、遮断機はもう上がっていた。
それでも、踏切の警報音がもう一度だけ鳴った。




