↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/14

丸一日

列車の扉が閉まった。電車は一瞬その場にとどまり、まだ佐助が気を変えるのを待っているようだった。やがて車内の明かりが、先頭車両から最後尾まで一つずつ消えていった。

窓に乗客の姿は一人もなかった。

走り出しても、車輪の音はしなかった。列車はただ田畑のあいだに開いた道を遠ざかり、ホームも、時計も、道の上に現れていた明かりも一緒に連れ去っていった。

数秒後には、赤い尾灯が二つだけ残った。

そして、それも消えた。

佐助は、列車が消えた場所を見つめ続けた。

「明日も来るの?」

美香はすぐには答えなかった。

「お腹、空いてない?」

佐助は振り向いた。

家にはまだ明かりがついていた。縁側の戸は開いたままで、夕食の匂いが庭まで届いている。何もかも、さっきまでと同じ場所にあるように見えた。

「電車」佐助は重ねた。「明日も来る?」

美香は体の前で両手を重ねた。

「夕飯、冷めちゃうよ」

佐助は彼女の顔を見た。弱い明かりが表情の一部を隠していたが、目元の形も、耳の後ろにかけた細い髪の束も、まだわかった。

「わかった」

二人は家へ戻った。

その朝に直した板が、最初の一歩で軋んだ。

佐助は立ち止まった。

美香はもう中へ入っていた。

もう一度足を載せる。板は修理前と同じ場所で沈み、釘の頭が一本、表面から浮いていた。

しゃがみ込み、指でなぞった。

「美香」

返事はなかった。

「板、また外れてる」

茶碗をテーブルへ置く音がした。

「あとで直せばいいよ」家の中から美香が言った。

佐助は爪で釘を抜こうとした。錆びていた。

朝には新しいものへ替えたはずだった。

田畑へ目を上げた。空から夕焼けの橙色は消えていたが、星は一つも出ていない。山も木々も遠くの屋根も、一つの暗い塊になっていた。

用水路のそばでは、一匹の蝉が鳴き続けていた。

息を継ぐ間さえなかった。

佐助は家へ入った。

美香は汁物をよそっていた。二つのご飯茶碗が、佐助の切った野菜と並んでテーブルに置かれている。白い花はまだガラスのコップに挿されていた。

「座って」

佐助はテーブルの前に膝をついた。

美香が汁椀を近づけた。湯気に揺らいだ汁の表面に、佐助自身の顔が歪んで映っていた。

「食べないの?」

「食べる」

箸を取った。

最初の茄子には味がなかった。二つ目も同じだった。ご飯を口へ運んでも、感じるのは温度だけだった。

美香は自分の茶碗を見ながら、ゆっくり食べていた。

「おいしいよ」佐助は言った。

「いつもそう言うね」

「おいしいから」

美香が笑った。

一瞬、佐助には彼女の歯が見えなかった。

瞬きをした。

笑顔はまだそこにあった。ただ、動いているのは唇だけだった。テーブルの上の灯りでは説明できないほど、部屋の影が美香の顔にかかっている。

「暗くない?」

美香は上を見た。

「いつもと同じだよ」

佐助は壁のスイッチへ手を伸ばした。

触れた瞬間、遠くで小さなベルが鳴った。

踏切ではない。もっと小さな金属音が、二度繰り返された。

佐助は手を引いた。

「どうしたの?」

「何でもない」

美香はまた食べ始めた。

数秒後、佐助はその音が何だったのか思い出した。

恵美が取り付けたモニターの通知音だった。

百合子の部屋では、緑の波形が佐助の眼球運動とは一致しない揺れ方をした。

恵美が画面へ身を寄せた。

「睡眠段階が変わり始めてる」

直樹が組んでいた腕をほどいた。

「どれくらいたった?」

「開始から43分」

「長いのか?」

恵美はすぐには答えなかった。

モニターの緑の波形を見ていた。

「時間が問題じゃない。このパターンなら、もう装置が止まっていなければおかしい」

テープ走行機構は動き続けていた。前面の開口部では、モニター上の波形の乱れとは釣り合わないほど規則正しく、巻き取り側のリールがテープを巻き取っていた。

直樹は佐助を見た。

佐助は布団に横たわったまま、両腕を体の脇に置いていた。呼吸は先ほどより遅い。こめかみから髪の生え際へ、汗が一筋流れていた。

「起こしたほうがいい?」

恵美はモニターの信号を確認した。

「まだ。テープ走行が自分で止まるか見たい」

「佐助がその段階を抜けたら止まるって言っただろ」

「止まるはずだった」

恵美がキーを押す。モニターがまた短い電子音を二度鳴らした。

「佐助」直樹が呼んだ。

反応はない。

「触らないで」

「じゃあ、どうやって起こす?」

「まず声で」

直樹は布団のそばに膝をついた。

「佐助。テストは終わったぞ」

右手の指がシーツの上で動いた。

「聞こえた」

「かもしれない」

恵美はモニターから目を離さなかった。

「もう一度呼んで」

田舎の家で、佐助は箸をテーブルへ置いた。

「聞こえた?」

美香が顔を上げた。

「何を?」

声は障子の向こうのどこかから聞こえた。

言葉になるには小さすぎたが、聞き覚えがあった。

佐助は立ち上がった。

「家の中に誰かいる」

「私たち二人だけだよ」

「直樹?」

その名前だけが部屋に収まりきらないほど大きく響いた。

美香はその名を知らないようだった。

佐助は廊下脇の障子を開けた。

向こうには、ついさっきまで夕食を食べていた部屋があった。

低いテーブルと二つの茶碗、そして背を向けて座る美香が見えた。

佐助は振り返った。

同じ美香が、同じテーブルの前で、今度は正面を向いて座っていた。

「何を探してるの?」二人が同時に訊いた。

佐助は障子を閉めた。枠の中で紙が震えた。

「疲れてるんだよ」美香が言った。

佐助は木枠に手を置いたままだった。

「帰らないと」

美香は首を傾げた。

「もう帰ってきたじゃない」

昼に言われたのと同じ言葉だった。

同じ声色。同じ、最後の言葉の前の間。

「目を覚まさないと」

美香はコンロへ目をやった。

「夕飯、冷めちゃうよ」

佐助は一歩下がった。

顔の形は残っていたが、細部が欠け始めていた。顎のそばにあった小さな印が消えている。額に落ちた髪も、黒く動かない面のようになっていた。

ブンエイ・データサービスで見る美香の目を思い出そうとした。

思い出せなかった。

耳の後ろへ髪をかける仕草。棚の番号を確認する姿。シャツの上につけた社員証。それなら思い出せた。

顔は戻らなかった。

「美香」

「ここにいるよ」

「僕を見て」

美香はすでに見ていた。

佐助は縁側の戸へ近づいた。

外では、夜が田畑を消していた。軒下の明かりが照らすのは三段の階段と細い土の帯だけ。その先には、用水路も道も山もなかった。

蝉はまだ鳴いていた。

一つの音を途切れずに。

「佐助」

今度は直樹の声だとわかった。

暗闇から聞こえてきた。

「直樹!」

返事はなかった。

佐助は庭へ下りた。

明かりの外へ最初の一歩を踏み出すと、足の下から地面が消えた。落ちなかった。代わりに木の床を踏んだ。

家の廊下へ戻っていた。

正面の壁には、同じ障子が三枚並んでいた。

一枚目を開けた。

食事の部屋。

テーブルのそばに座る美香。

二枚目を開けた。

同じ部屋。汁物からはまだ湯気が上がっている。

三枚目を開けた。

朝の光に包まれた縁側。美香が緩んだ板のそばに膝をつき、錆びた釘を指に挟んでいた。

「曲がってる」

佐助は勢いよく障子を閉めた。

残りの二枚がひとりでに開いた。

「曲がってる」声が重なった。

佐助は廊下を走った。

寝たはずの部屋を通り、台所を抜け、また同じ部屋を通った。この家の大きさでは、こんな数の部屋があるはずはない。それでも扉を開けるたび、見覚えのある空間がもう一つ増えた。

ある部屋では、朝食の膳が整えられていた。

別の部屋では、午後に干した洗濯物がまだ室内に吊られていた。

三つ目では、白い花がガラスのコップの中ですっかり萎れていた。

佐助は引き返そうとした。

廊下に終わりはなかった。

「佐助。目を開けろ」

直樹の声が天井の上から聞こえた。

佐助は立ち止まった。

「聞こえてる!」

障子が震えた。

その一枚一枚の向こうから、美香が答えた。

「ここにいるよ」

百合子の部屋で、モニターの波形が跳ね上がった。

佐助が枕の上で頭を動かした。

「何か言おうとしてる」直樹が言った。

恵美は佐助の襟元につけた小型マイクのゲインを上げた。スピーカーから返ってきたのは、呼吸音とケーブルの擦れる音、それに判別できない一音だった。

「佐助」直樹が呼んだ。「聞こえるなら、手を動かせ」

指は動かなかった。

「何とかしてくれ、恵美」

恵美は窓を見た。外では踏切の警報音が鳴り始めていた。数秒遅れて、列車の最初の振動が家へ届いた。モニター上の緑の波形が二本に分かれた。

「あり得ない」恵美が言った。

「何が?」

「別のパターンが混ざってる」

「佐助の?」

「わからない」

REM-Bは振動に応えるように低く唸った。テープの走行速度が上がった。恵美は物理遮断のスイッチを握った。

「呼び続けて」

直樹はさらに近づいた。

「佐助、電車が通ってる。今、戻ってこい」

廊下では、踏切の警報音が美香たちの声を覆った。

佐助は両手で耳を塞いだ。

すべての障子が同時に開いた。

どの部屋にも、一日の一部が佐助を待っていた。朝の縁側。暑い昼。田畑のあいだの道。神社。コップの花。手のついていない夕食。

すべての部屋に美香がいた。

そのどの顔も、完全ではなかった。

「帰りたくなかったんだ」佐助は言った。

美香たちは動かなかった。

「もう少しだけ、ここにいたかった」

神社の美香が最初の一段を下りた。

「じゃあ、決めることに時間を使わないで」

元の言い方から抑揚が失われていた。記憶でも、返事でもない。間違った場所へ戻された部品のようだった。

佐助は、その日が続いているのではないと悟った。

ただ、繰り返しているだけだった。

残ることを選んでも、美香と過ごす夜や明日、その次の朝が生まれるわけではなかった。機械は掴めたものだけを保持し、終電のあと、行き先もなく同じ材料の上を巡り始めていた。

「美香」

すべての美香が佐助を見た。

「名字は?」

蝉の声が止まり、沈黙が落ちた。

いちばん近くにいた女が口を開いた。

言葉は出なかった。

佐助が恐れたのは、閉じ込められることではなかった。もし去らなければ、彼女に残るものがこれだけになってしまうのではないか。由来のない仕草。場所を失った言葉。自分が思い出せた部分だけでできた顔。

「ごめん」

美香の一人が手を上げた。その不完全な輪郭の奥で、ほかの美香たちにはない動きが一つだけあった。指が耳元の髪に触れた。

「直樹」

問いかけには聞こえなかった。

現実の列車が、佐助の家から数メートルの踏切を通過していた。

台所の戸棚が震えた。流し台のそばに置き忘れられたコップがずれ、壁に触れた。

恵美が安全スイッチを切った。

REM-Bのモーターは止まるはずだった。

止まらなかった。

「なんでまだ回ってる?」直樹が訊いた。

恵美は電源コードを引き抜いた。

モニターが消えた。コンバーターのランプも消えた。それでもリールは回り続けた。惰性なのか、それとも恵美が名をつけようとしなかった何かなのか。

恵美は本体側面の蓋を開けた。

「離れて」

「何するんだ?」

工具箱から、テープ編集用の小型はさみを取り出した。

「再生を止める」

「全部だめにならない?」

「切るのは、そのため」

直樹は次の指示を待たず、佐助の肩をつかんだ。

「佐助。俺はここにいる」

向こうの世界では、美香の手はまだ耳元にあった。

「直樹」彼女がもう一度言った。

廊下が一気に暗くなった。

恵美がはさみをテープとヘッドのあいだへ入れるところを、佐助は見なかった。

聞こえたのは、乾いた一音だけだった。

すべての扉が消えた。

足元の床が傾いた。美香へ手を伸ばしたが、二人とも動いていないのに距離だけが広がっていった。

「待って」

美香が何かを言った。

佐助には聞こえなかった。

家は一点の光へと閉じていった。

やがて、その光も消えた。

佐助は息を求めるように目を覚ました。

直樹が両肩を支えていた。恵美は目に近い電極から順に、素早く外している。

佐助は体を横に向けた。

訊きたいことを口にするより先に、吐き気がこみ上げた。

直樹が布団の脇に置いてあった洗面器を引き寄せた。佐助は片腕で体を支え、試験前に食べたわずかなものを吐いた。

数秒間、三人とも何も言わなかった。

電車が通り過ぎた。遮断機が上がり始めるまで、踏切の警報音は鳴り続けた。

恵美が水の入ったコップを床へ置いた。

「一気に飲まないで」

佐助は口をゆすぎ、部屋の揺れが止まるのを待ちながら座っていた。

小さな家は、さっきまでより狭く感じられた。百合子の箪笥も、薬箱も、閉じたカーテンも正しい場所にある。扉は廊下へつながり、その廊下は階段へつながっていた。

直樹を見た。

「どれくらい?」

「52分」恵美が答えた。

佐助は顔を手で覆った。

「丸一日だった」

直樹は床に座った。

「1時間もたってない」

「朝になった。朝飯を食べた。家のことをして、神社まで行った。夕飯も食べた」

次の言葉が出るまでに少しかかった。

「電車に乗り損ねた」

恵美は指のあいだに挟んだ切れたテープを見てから、すぐ佐助へ視線を戻した。

「その電車は、あなたにとって何だった?」

「出口」

「どうしてわかるの?」

「向こうにいるときは、わかってた」

直樹はコップを取り、佐助へ返した。

「出ないって決めたのか?」

佐助は水を一口だけ飲んだ。

「決めた」

直樹は責めなかった。その沈黙のほうが重かった。

恵美は電極を清潔な布の上に置いた。

「最後の部分は、本来なら起きなかった」恵美が言った。「佐助のパターンが変わった時点で、テープ走行は止まるはずだった。それなのに再生を続けて、不規則な反復に入った」

「家も同じだった」佐助が言った。

「どういうふうに?」

「部屋が繰り返した。一日の一部も。美香は前に言った言葉を繰り返してた」

直樹は恵美を見た。

「切らなかったら、どうなってた?」

「わからない」

「でも、佐助は起きたのか?」

「わからない、直樹」

恵美は答えを和らげようとはしなかった。はさみをしまい、テープを本体から取り出す。切れた両端が改造されたカートリッジの外へ垂れていた。

「何が起きたのかわかるまで、新しいテストはしない」

佐助は目を閉じた。

開いた障子と、細部を失っていく美香の顔がまだ見えた。

「彼女は、そこにいた」

「美香?」直樹が訊いた。

佐助はうなずいた。

「記憶みたいじゃなかった。僕が知らないことに答えてた。でも最後には、消え始めた」

「目が覚めかけてたからじゃないか」

「違う。まだ戻り始めてもいなかった」

佐助はREM-Bを見た。

「あの場所から、彼女が少しずつ失われていった」

恵美はテープを低いテーブルへ置いた。

「睡眠周期が終わったあとも、装置は何かを記録してる」

「映像?」直樹が訊いた。

「違う。音声」

佐助が顔を上げた。

恵美は再生ユニットだけを別電源につないだ。コンバーターと電極は切ったままにする。ピンセットでテープの両端を仮につなぎ、切断直前につけた印まで送った。

「一度だけ再生する」恵美が言った。「そのあとはカートリッジを保管する」

直樹がデジタルレコーダーを音声出力へ近づけた。

スピーカーから静電ノイズが流れた。

佐助の呼吸、電車の音、そして部屋から呼びかける直樹の声が続いた。

「佐助。俺はここにいる」

佐助には、その言葉に聞き覚えがあった。

再生音の中で、自分自身の声が遠くから返した。

「聞こえてる」

直樹が佐助を見た。

「お前、これ言ったのか?」

「うん。向こうで」

テープは回り続けた。

静電ノイズの下から、もう一つ声が現れた。佐助の声を含め、装置に記録されていた三人目の声だった。恵美の声ではない。また、佐助が眠っているあいだ、部屋では似た言葉は一度も発せられていないため、そこから入った声でもなかった。

女の声が直樹の名を口にした。

小さいが、はっきり聞こえた。

恵美が再生を止めた。

「戻して」佐助が言った。

恵美は数秒ぶん戻した。

もう一度再生した。

まず、直樹の声。

「佐助。俺はここにいる」

次に、遠い返事。

「聞こえてる」

そして最後に、女の声。

「次は、直樹も連れてきて」

恵美が停止ボタンを押した。リールは従うまで1秒かかった。直樹は驚いた顔のまま、装置を見つめ続けた。

「美香だったのか?」

佐助は、耳元の髪に触れた手、不完全になった顔、そしてほかの姿にはなかった唯一の動きを思い出した。

「わからない、直樹」

外では、遮断機はもう上がっていた。

それでも、踏切の警報音がもう一度だけ鳴った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。