初めての旅
土曜日の午後8時20分、佐助の小さな家の居間は、もう狭いとは思えなかった。
空間そのものが足りなかった。
REM-Bはテレビの前の低いテーブルを占領していた。恵美は夕方遅くに電話をよこし、アナログ部分の修復が終わったと告げていた。最初の試験を行うため、装置を佐助の家まで運んできたのだった。
レコーダーは、熱が畳にこもらないよう、恵美が持ってきた二枚の木板の上に置かれていた。その隣ではコンバーターの蓋が外され、何本ものケーブルがそれぞれ別の方向へ伸びている。一本はコンセントへ。もう一本は紙テープで留められながら壁を上っていた。残りは釣り糸のように巻かれたまま床の上で待っていた。
恵美は装置の前に膝をついていた。工房で着ていたのと同じ暗い色のシャツの袖を肘までまくり、缶の蓋に入れておいたネジで筐体を固定している。
直樹が懐中電灯を持って照らしていた。
「もう少し左」
直樹が光を動かした。
「そっちの左? 俺の左?」
恵美が顔を上げた。
「ネジが見えるほう」
直樹は何も言わずに位置を直した。
佐助は台所の入口から二人を見ていた。居間からは雑誌立てと照明、それに母が月々の請求書を置いていた小さな台まで移してあった。それでも、足を置く場所は慎重に選ばなければならない。廊下の脇には恵美の工具箱があり、電極のケースは座布団の上に載っていた。居間の古いコンセントを恵美が信用しなかったため、延長コードが台所まで通路を横切っている。
この家に、人間三人と一台の機械が同時に居合わせたことなどなかった。
「お茶、持ってきましょうか」
「あとで」恵美は答えた。「まず、私が止めろと言ったときに、本当に止まるか確かめたい」
最後のネジを締めると、手を差し出した。
「明かり」
直樹が側面パネルへ懐中電灯を向けた。
恵美はコンバーターの横に取り付けた赤いボタンを押した。乾いた音がした。レコーダーがテスト用のテープを回し切るより先に、小さな表示部が消えた。
「物理遮断」恵美が言った。「回路には頼らない。何か想定外のことが起きたら、ここを押す」
直樹がボタンへ顔を近づけた。
「想定外って、たとえば?」
「起きるはずなのに起きない。呼吸が大きく変わる。けいれん。出血。正常かどうか考えるのをやめるようなことなら、何でも」
佐助はコップを載せた盆を流し台に置いた。
「出血?」
「存在するはずのない装置の前で眠る人間に、起こり得ることを言っただけ。起こると言ったわけじゃない」
恵美はコンバーターの蓋を戻した。
「それと、薬は飲んでない?」
「飲んでません」
「昨日も?」
「昨日も」
恵美は数秒、別の答えが顔に出ていないか確かめるように佐助を見た。
「よし」
直樹が懐中電灯を消した。そのあと、居間の明かりが少し弱くなったように感じられた。
「コーヒー持ってきた」直樹が言った。
「あなた用。彼には飲ませない」
「わかってる」
「最後まで起きていて」
直樹はコンビニの袋を持ち上げた。
「三つ買ってきた」
恵美はカップを見て、それから佐助を見た。
「必要になるかもね」
佐助は窓を数センチ開けた。外から熱い空気が入り、遠い街の音と虫の絶え間ない羽音が一緒に流れ込んできた。帰宅してからずっとエアコンは動いていたが、ケーブルと照明、それに三人分の体温で部屋は蒸していた。
家々の向こうで、中里第二踏切の警報音が鳴り始めた。
誰も口を開かなかった。
電車が踏切を通過し、流し台のコップをかすかに震わせた。まだ電源の入っていないREM-Bのパネルで、メーターの針が一本、最初の目盛りまで動いて戻った。
恵美はその動きを目で追った。
「まだやるんですね」佐助が言った。
「知ってる」
「原因は?」
恵美はレコーダーの縁を親指でなぞった。
「それがあなたまで届かないようにする方法なら見つけた。原因は別の話」
直樹が袋を台所のテーブルへ置いた。
「その話は、いつ?」
「この機械が、まだ本来の役目を果たせるのか確認してから」
恵美はプラスチック包装を開き、未開封のまま残っていたベータマックステープを一本取り出した。透明なケースにラベルはない。白いシールに日付を書き、その下に佐助のイニシャルを書いた。
「27 JUL. S.M.」
佐助はペン先が文字を作っていくのを見ていた。
「これは誰が持つんですか?」
「私」恵美が答えた。「何が記録されたのかわかるまで」
「何も記録されなかったら?」
「その場合も私が持つ」
テープを差し込んだ。カセット室は、佐助が思っていたよりも静かな音で閉じた。
二階の母の部屋には、すでに布団が敷かれていた。あとで装置の半分を分解せずに三人が入れるのは、そこしかなかった。恵美が二階へ運んだのは電極モジュールと小さなモニターだけで、REM-B本体とは巾木に沿って階段を上るケーブルでつながれていた。
佐助はなかなか中へ入れなかった。
部屋は、百合子が残したときとほとんど変わっていなかった。低い箪笥、裁縫箱、古い写真も同じ場所にある。線香の煙で頭が痛くなるようになり、数か月前に仏壇は移していたが、壁にはそこだけ明るい長方形が残っていた。
直樹がためらいに気づいた。
「お前の部屋でもいいぞ」
「向こうだとケーブルが窓のそばを通る」
「変えればいい」
「大丈夫」
佐助は部屋へ入り、布団に座った。
恵美が目の前に膝をついた。冷たい綿で額と耳の後ろを拭き、それから電極を一つずつ貼り付け、端を押してきちんと固定されているか確かめた。
「これで眠くなるわけじゃない」恵美は説明した。「体が正しい段階に入ったことを検知するだけ。それまではレコーダーに何も入らない」
「始まったら?」
「たぶん、気づかない」
「たぶん?」
「絶対って言ったら、嘘になる」
直樹は扉の横の壁にもたれていた。座布団、スマートフォン、コーヒー二つ、それに新品に見える動物看護の本まで持ってきている。
「それ、今日買ったの?」佐助が訊いた。
「安くなってた」
「まだ値札ついてる」
直樹は本を裏返して値段を隠した。
「寝ろ」
恵美は最後のケーブルをつなぎ、時計を確認した。
「REM-Bが再生を始めるのは、あなたがレム睡眠に入ってから。それ以降は私がパターンを見る。パターンが変わったら、再生は自動で止まるはず」
「止まらなかったら?」
「私が切る」
佐助はモニターを見た。
「どれくらい続けるんですか?」
「この装置が何を正常とみなすのか、まだわからない。でも再生は1時間を超えさせない」
「向こうで1時間?」
「こっちで1時間」
「先に目が覚めたら?」
「パターンが変わればテープは止まる。線を自分で引っ張らないで。私たちを呼んで」
佐助は横になった。
天井の明かりはまだついていた。
「これじゃ眠れない」
直樹が消した。恵美はモニターのそばの小さな灯りをつけ、画面に暗い紙をかぶせて、下端だけが見えるようにした。
部屋が青くなった。
佐助は目を閉じた。
恵美がレコーダーを動かすため階段を下りていく音がした。しばらくして、ゆっくりした足取りで戻ってくる。いつも鳴る場所で床板が軋んだ。直樹がコーヒーを一つ開け、プラスチックの蓋が小さく鳴った。通りのどこかでは、自転車が金属の蓋を踏んでいった。
体のどこにも、眠ろうとする気配がなかった。
一階で新しいテープが回っていることを考えないようにした。電車に反応する針を想像しないようにした。美香の声で聞こえたあの言葉も思い出さないようにした。
「たぶん、私、一人じゃなかったと思う」
目を開けた。
直樹が気づいた。
「どうした?」
「何でもない」
「話すか?」
「いや」
「よかった」
直樹は本を開いた。
佐助はまた目を閉じた。
どれだけ時間が過ぎたのか、測ることはできなかった。一人でいるときには意識から消えている家の音が、次々と聞こえてきた。配管を流れる水。一階の冷蔵庫のモーター。止まってはまた動き出すエアコン。ときどき恵美がモニターに触れ、直樹がページをめくった。
佐助は、自分の呼吸を数え、数がわからなくなるまで続けた。
踏切の警報音がもう一度鳴ったとき、それはさっきより遠くに聞こえた。
電車が近づいてきた。
振動はまず床から、それから枕を通して部屋へ届いた。佐助は体の重みが布団へ数ミリ沈み込むのを感じた。
モニターから、カチッという音がした。
直樹が何か言ったが、言葉にはならずに届いた。
電車が中里第二踏切を通過した。
そして、部屋が消えた。
知らない鳥の声で、佐助は目を開けた。
天井は濃い色の木でできていた。朝の光が障子を抜け、畳の上に明るい帯を描いている。数秒、瞬きをすれば百合子の部屋に戻るのではないかと、動かずに待った。
戻らなかった。
体を起こした。
白いTシャツと軽いズボンを身につけていたが、着た記憶はない。頭にはもう線がついていなかった。空気は藁と湿った土、それに味噌汁の匂いがした。
外で誰かが引き戸を閉めた。
佐助は立ち上がり、廊下を進んだ。
女は台所で背を向けていた。小さな鍋を見ながら髪をまとめている。明るい色のシャツは袖をまくり、膝下まである青いスカートをはいていた。流しの横には、二つの茶碗が盆の上で待っている。
彼女が振り返った。
美香だった。
ブンエイの白い明かりの下でスキャナーの前に座る美香ではない。現実には存在できないほど美化された別人でもない。同じ顔。同じ注意深い目。俯いたときに落ちる、同じ一筋の髪。
ただ、この家に属しているように見えた。
「よく眠れた?」
佐助は電極を探すように額へ手をやった。
「たぶん」
「わからないとき、いつもそう言うね」
美香は鍋へ戻った。
佐助は周囲を見た。コップの並びを知っていた。箸が二段目の引き出しにあることも、戸棚の扉は少し持ち上げてから閉めなければならないことも知っている。その知識には思い出がなく、ありふれた言葉のようにただそこにあった。
美香が茶碗にご飯をよそった。
「お茶、持っていってくれる?」
佐助は言われたとおりにした。
開け放した縁側で朝食をとった。小さな庭の向こうに田畑が続き、木立まで広がっている。太陽はまだ山あいの薄い霧を抜け切っていなかった。トンボが草のそばを飛び、細い支柱に止まっていく。
美香は卵焼きを一切れ取り、佐助の茶碗へ載せた。
「昨日の夜、食べなかったでしょ」
「お腹、空いてなかったのかな?」
美香が笑った。
「私に聞いてるの?」
佐助はご飯へ目を落とした。
「よく覚えてない」
「じゃあ、今食べて」
食べた。
ここがどこなのかは訊かなかった。どれくらいここで暮らしているのかも訊かなかった。その朝には質問が大きすぎたし、美香の一つ一つの仕草が、邪魔したくない答えを差し出していた。
食事が終わると、美香は茶碗を中へ運んだ。佐助は縁側に残り、段差のそばで緩んだ板を見つめた。どうするか考えるより先に、床下に工具箱があることがわかった。
美香が肩に布巾をかけて戻ってきた。
「やっと気づいた」
「ずっとこうだった?」
「この前、雨が降ってから」
佐助は板をはめ直し、錆びた釘を二本取り替えた。美香が隣にしゃがんで板を押さえる。二人の指は近づいたが、触れなかった。
「曲がってる」
「見てもいないだろ」
「やり方は知ってるから」
佐助は釘を抜き、もう一度やり直した。
終わると、美香は板を踏んで確かめた。
「今度はいい」
佐助は、自分が笑っていることに気づいた。
午前中は、思い出に残るほど重要ではなく、だからこそ満ち足りた仕事で過ぎていった。細い水路のそばで落ち葉を集め、竹の物干しに洗濯物を干し、日差しで温まり始めたトマトの箱を日陰へ移した。
美香は急がずに働いた。佐助が訊く前に道具の名前を言うこともあれば、ただ指を差すこともあった。助けを待っているときと、一人で終わらせたいときの違いまで、佐助にはわかった。
昼近くになると、暑さで空気が止まったようになった。
家へ戻り、縁側で冷たいそうめんを食べた。美香は水に氷を入れ、小皿に青じその葉を分けた。蝉の声が沈黙を覆っていたが、壊してはいなかった。
「疲れた?」
「いや」
「そう見える」
佐助は茶碗を盆へ置いた。
「今日ここへ来たばかりみたいな気がする」
美香は佐助を見た。
「昨日は、帰ってくるのが遅かったね」
「どこから?」
美香は田畑へ目をそらした。
「街から」
風が縁側を抜け、軒下の風鈴を揺らした。音はすぐに消えた。
「僕はそこで働いてるの?」
美香は少し間を置いた。
「いつも働きすぎだって言ってる」
佐助は続きを待った。美香は水をもう一口飲んだ。
「美香は?」
「帰ってくるのを待ってる」
悲しそうな言い方ではなかった。だからこそ、佐助の中のどこか、場所を特定できないところが痛んだ。
自分の手を見た。電極の跡はなく、爪の下に土が細く残っているだけだった。
「……ごめん」
美香はからかうことなく笑った。
「もう帰ってきたじゃない」
午後、二人は田畑のあいだを通る細い道を歩いた。車は一台も来ない。ところどころ、木陰にアスファルトが隠れていた。美香は布の袋を持ち、道端に咲く小さな白い花を摘むたびに足を止めた。
佐助は、その花をどうするのか訊いた。
「まだ決めてない」
「じゃあ、どうして摘むの?」
「明日には、もうないかもしれないから」
佐助は、美香もそうなのかと訊きたくなった。
訊かなかった。
階段の上にある小さな神社へ着いた。鳥居の木はところどころ色を失っていた。美香は賽銭箱へ硬貨を二枚入れ、しばらく目を閉じた。
佐助は隣に立って待った。
「何をお願いしたの?」下りながら訊いた。
「言ったら、叶わなくなるから」
「そういうのって、夢の話じゃなかった?」
美香は最初の段で立ち止まった。
蝉の声が、一瞬だけ小さくなったように思えた。
「今、夢を見てるの?」
佐助は道と木々、その葉のあいだから落ちる光を見た。
「わからない」
美香はまた階段を下り始めた。
「じゃあ、夢かどうか決めるのに時間を使わないで」
戻るころには、日が傾き始めていた。家は庭へ長い影を落としていた。美香は白い花をガラスのコップに挿し、低いテーブルの中央へ置いた。
佐助は一室の障子を閉めた。紙に触れたとき、ほんのわずかな振動を指先に感じた。
手を止めた。
「聞こえた?」
美香が顔を上げた。
「何が?」
振動は消えた。
「何でもない」
夕方の光が橙色を帯びた。美香が夕食の支度を始め、佐助は隣で野菜を切った。必要ないふりをしながら、短い指示を受け取っていた。途中で二人の肩が触れた。どちらも、すぐには離れなかった。
始まりの記憶がない親密さだった。
最初に会った日も、初めて一緒に食べた食事も、この家で初めて迎えた夜も、佐助には思い出せない。それでも、美香が廊下を歩く音は知っていた。どの茶碗を選ぶかもわかった。火をつける前に窓を開けることも、包丁の先でピーマンの種を外すことも知っていた。
記憶が欠けていても、感じているものは薄れなかった。
むしろ、そのことがすべてを危うくしているのかもしれなかった。
太陽が山の端に触れたころ、遠くで警報音が鳴り始めた。
佐助は包丁をまな板の上へ置いた。
音が繰り返された。
神社の鈴ではない。集落の知らせでもない。
踏切の警報音だった。
「線路はどこにあるの?」
美香は窓を見た。
「ここに線路はないよ」
警報音は鳴り続けた。
カン、カン、カン、カン。
佐助は縁側へ出た。田畑の上の空は、夕日の橙色と、山のほうから広がる深い青とに分かれていた。電柱も遮断機もケーブルもない。あるのは細い道と水路、それに風に傾く草だけだった。
そのとき、遠くに光が現れた。
最初は車のヘッドライトに見えた。やがて、その隣にもう一つ光が現れた。存在しないはずの道筋を進みながら、田畑のあいだに電車の輪郭が形づくられていった。
明るい窓には、通り過ぎても乗客の姿が一人もなかった。
美香が佐助の隣に立った。
「これが終電」
佐助は振り向いた。
「どうしてわかるの?」
美香は答えなかった。
電車は道の前で速度を落とした。田畑の縁に細いホームが現れた。昼間からそこにあったとは思えないほど小さい。頭上の時計は、佐助には読み取れない時刻を指していた。
扉が開いた。
車内には誰もいなかった。
乗るべきなのだと、佐助にはわかった。命令されたからでも、思い出したからでもない。箸の場所や工具箱のありかを知っていたのと同じ、理由のない知識だった。その電車に乗れば、百合子の部屋へ戻る。額につながれた線。壁際で起きたまま待つ直樹。モニターの前にいる恵美。
背後では、家に明かりがついていた。
テーブルの上では、小さな白い花がコップに挿されている。夕食はコンロの上で待っていた。美香は、ブンエイで何か言いたいのにまだ言葉を見つけられないときと同じように、体の前で両手を重ねていた。
佐助はもう一度、電車を見た。
車内で合図音が鳴った。扉が開いているのは、あと数秒だけだとわかった。
スマートフォンに残された声を思い出した。
「たぶん、私、一人じゃなかったと思う」
美香もここにいたのかもしれない。今もいるのかもしれない。目の前のすべてが、自分の家の一階で回っている一本のテープが作った再生にすぎないのかもしれない。
どの可能性も、去ることを少しも容易にはしてくれなかった。
合図音が二度目に鳴った。
美香は、残ってとは言わなかった。
佐助も別れを告げなかった。
電車の扉が閉まり始めたとき、佐助は美香の隣に立ったままだった。
[実験装置「REM-B」]




