田舎にいた女性
佐助がブンエイ・データサービスに着いたのは、午後2時少し前だった。エレベーターはいつもより時間がかかった。階ごとに扉が開き、スマートフォンを見ながら乗り込む人、コーヒーを手にした人、小型の携帯扇風機を持った人が増えていく。佐助は奥に立ち、鞄を足元に挟んだまま、仕事が占めるはずの場所を工房の記憶に奪われていた。
恵美のマルチメーターに現れた数値は、いまも説明がついていなかった。彼女は無理に結論を出そうとはせず、ただ土曜日に戻ってくるよう二人に言っただけだった。
ブンエイの階で扉が開くと、冷たい空気が顔に当たった。佐助は受付の女性に軽く会釈し、出勤を記録して、半休の証明票をシャツのポケットにしまった。
フロアは、前の晩に離れたときとまったく同じに見えた。
脇のテーブルには箱が並び、スキャナーの音が一定の間隔で繰り返されていた。フィーダーを通る紙の動きと、コンピューターの低い作動音がそこへ重なる。中央の画面では、緑色のバーが午前中に処理された量を示していた。
佐助は一覧から自分の名前を探した。
自分の待ち件数は増えていた。
席へ着く前に、上司が現れた。
「家のことは片づいたか?」
佐助は北星の作業台で開かれていた装置のことを思った。
「まだです」
上司はうなずいた。それ以上は訊かず、仕切りのそばに分けて置かれた三つの箱を指した。
「黒田睡眠医学研究所の棚卸しは明日また君に戻す。今日は契約書のロットを終わらせてくれ。先方が締切を繰り上げた」
「いつまでですか?」
「今日だ」
佐助は鞄をロッカーへ入れ、コンピューターを立ち上げた。
仕事は、ある種の静けさを返してくれた。書類一枚ごとに、小さく明確な判断が必要だった。向きは正しいか。番号は読めるか。重複ページはないか。署名が欠けていないか。数分のあいだ、目の前のことだけを考えることができた。
やがて、手書きの日付が目に入った。
2001年8月11日。
黒田睡眠医学研究所とは何の関係もない。ただの古い賃貸契約書だった。それでも、佐助の目は必要以上に長くその数字に留まった。
索引内容を確定し、次のファイルへ進んだ。
3時20分、キーボードの横に無糖の茶のボトルが置かれていることに気づいた。
仕切りの向こうに美香が立っていた。
「飲み物、持ってきてなかったですよね」
佐助はボトルを見て、それから彼女を見た。
「ありがとう」
「お礼はいりません。自販機にあったので」
それでは、なぜ二本買ったのかの説明にはなっていないと佐助は思った。
美香は濃い色の服を着て、髪をまとめていた。顔の脇には何本かの髪がこぼれている。片手に薄いファイル、もう片方に自分のボトルを持っていた。
「家のこと、大丈夫ですか?」
「修理中です」
美香は一拍置いた。
「家のことって、修理できるんですね」
佐助は説明しかけた。母に関係する装置を見つけたこと。工房に二日預けること。何一つ筋が通っていないこと。代わりに、ボトルを机の上で回し、ラベルの端をキーボードの縁に合わせた。
「直せる部分もあります」
美香はその仕草を見ていた。
「そうですか」
わかったようには見えなかった。それでも、続きを強いることはしなかった。
美香はファイルを差し出した。前のロットの修正箇所で、どれにも小さな付箋が貼られていた。佐助は最初のページを開いた。
「契約書が終わってから見ます」
「急ぎじゃありません」
美香は机のそばに残った。
佐助は彼女が離れるのを待った。動かないので、顔を上げた。
「ほかに何か?」
「村上さんって、夢を覚えていることありますか?」
不意の質問の途中で、背後のスキャナーが一連の処理を終え、短い電子音を二度鳴らした。
佐助はマウスから手を離した。
「たまに」
「細かいところまで?」
「あまり」
近くの人たちは聞く余裕もないほど仕事に集中していたが、美香は声を落とした。
「私、ほとんど覚えてないんです。起きたときには何かあったってわかるのに、つかもうとする前に消えてしまって」
――目を覚ましたくなかった。
「今回は違ったんですか?」
美香はうなずいた。
「田舎に住んでいた気がするんです」
どうでもいいことを話しているのを詫びるような、小さな照れた笑みがその言葉に添えられた。
佐助は、部屋が遠ざかったように感じた。
倉庫で見覚えのある姓を見つけたときとは違う。今度は何も消えなかった。反対に、機械の音も、冷たい空気も、白い照明も、必要以上の場所を占めた。
「どこですか?」
「わかりません。看板もなかったし。本当にある場所じゃないのかもしれません」
「どんなところでした?」
美香はまだ開けていないボトルを両手で握った。
「古い家がありました。そんなに大きくなくて。縁側から田んぼが見えたんです」
佐助は開いたファイルに目を落としたが、もう修正箇所は見えていなかった。
縁側は低かった。板の一枚は体重をかけると少し沈んだ。朝の光は、美香がサンダルを置く側へ先に届いた。
覚えている。
「ほかには?」
「遠くで鐘が鳴っていました」
「お寺の?」
「たぶん。でも探しに行けるほど近くはなかった気がします」
美香は机のあいだの空間に記憶を探すように、視線をそらした。
「それと、むしろの上に米が干してあって。何度もその前を通ったんですけど、誰が置いたのかは一度も見なかった」
佐助は、そのむしろを知っていた。
夢の中で、雨が降る前に二人で取り込んだ。美香が反対側を持ち、隙間から米粒がこぼれるのを見て笑っていた。そのあと全部を家の中へ運び、雨が屋根を叩くあいだ、二人は台所にいた。
そのときの彼女の顔は思い出せなかった。
幸せだったことだけは覚えていた。
「静かな場所だったんでしょうね」
美香は佐助を見た。
「はい」
彼女は待った。
佐助には、何を訊くべきかわかっていた。
――一人だったんですか?
言葉は頭の中にすべてそろっていた。あとは口へ運ぶだけだった。
美香が「はい」と答えれば、世界は正しい大きさへ戻る。夢は佐助だけのものに戻り、職場で見かけながら近づく勇気もなかった女の顔を借りて作られたものになる。
もし「いいえ」と答えたら、そこに誰がいたのか訊かなければならない。
そして、自分の名前を聞くかもしれない。
佐助はもう一度、茶のボトルを回した。
「夢って、場所を混ぜ合わせますよね。実際よりずっとちゃんとした場所みたいに感じることもある」
美香の笑みが、ゆっくり消えた。
「そうですね」
自分のボトルを開けた。
「それでも、目を覚ましたくなかったんです」
佐助は、音が聞こえるより先に踏切のリズムを感じた。
カン、カン、カン、カン。遮断機が下りる。線路のない場所から現れた電車。
ほんの一瞬、訊きかけた。
フロアの向こうから別の女性社員が美香を呼んだ。美香は返事をして、ファイルを佐助の机に置いた。
「修正はあとで見てください」
「林さん」
美香は立ち止まった。
佐助はボトルを両手で持った。
「お茶、ありがとう」
美香は軽く会釈した。
「どういたしまして」
自分の席へ戻っていった。
佐助は待ち行列の最初の契約書を開いた。取引先の名前を三度読んでから、そこに黒田睡眠医学研究所の文字など一つもないことに気づいた。
7時20分まで働いた。
締切には6分だけ間に合った。上司は午前の半休にも、何ページかに時間がかかったことにも触れず、ロットを送信した。脇の照明を消し始めたころも、佐助は美香が置いていった修正を確認していた。
美香は6時43分に退社していた。
彼女の挨拶を聞いたとき、なぜ時計を見たのか、佐助にはわかっていた。
外では、建物のあいだに一日の熱が残っていた。空は暗くなっていたが、歩道は日中にためた熱を返している。佐助はスマートフォンを開かないまま、大塚駅まで歩いた。
山手線の電車は混んでいた。
佐助はホームに残り、扉が閉まるのを見送った。
数分後に来た次の電車も、ほとんど同じだった。もう隙間などないように見える車内へ、人々が収まっていく。窓の向こうには画面の光に照らされた顔が並び、手はつり革や鞄、仕事用のファイルを握っていた。
また扉が閉まった。
佐助は乗らなかった。
ホームの案内表示を見た。駒込までは数駅しかない。普段なら、その距離を歩こうなどと思う理由はなかった。
けれど、その夜はあまり早く着きたくなかった。
駅を出た。
大塚から中里まで歩けば、半分へ届く前に後悔してもおかしくない距離だった。それでも最初の数区画を過ぎたころ、佐助は混んだ車内より暑さのほうがましだと思った。
シャツが背中に張りつき始めた。小さな飲食店、自転車が並ぶ店先、明かりのついた窓から自分には決して知ることのない暮らしの一部が見える建物の前を通った。テレビの音が漏れる窓もあった。聞こえるのがエアコンの連続した作動音だけの窓もあった。
急がずに歩いた。
美香との会話が、断片になって何度も戻ってきた。
古い家。
縁側。
田んぼ。
遠い鐘。
――目を覚ましたくなかった。
佐助はポケットからスマートフォンを取り出した。画面上部に固定したメモには、「帰還プロトコル」とあった。
「目覚めたら:2分以内で録音」
「最後にいた場所。最後にいた人や気配。主な感情。具体的な細部を三つ」
「調べるのは、そのあと」
目を覚ました直後ではない。それでも、美香との会話には夢と同じ脆さがあった。通りを一つ進むたび、彼女の手の位置、言葉の順序、縁側を話したときの表情のどれかが少しずつ曖昧になるように思えた。
大塚を離れてしばらくしたところで、佐助は録音を始めた。
「最後の場所、ブンエイ・データサービス」
歩き続けた。
「最後にいた重要な人、林美香」
自転車が歩道すれすれを通った。佐助は足を止め、離れていくのを待った。
「主な感情、希望」
その言葉は大きすぎる気がした。
録音を止めた。
削除した。
最初からやり直した。
「最後の場所、ブンエイ・データサービス。最後にいた重要な人、林美香。主な感情、驚き」
歩き続けた。
「細部。田んぼに面した縁側。遠くの鐘。むしろの上で干していた米」
録音は1分に少し届かないところだった。
美香が目を覚ましたくなかったことも付け加えられた。土曜日の自分の録音にも同じ言葉が残っていると記録できた。訊くべきことを訊かなかったと認めることもできた。
どれも加えなかった。
「再構成はあとで」
ファイルを保存し、スマートフォンをしまった。
駒込まで来るころには、通りの人影は少なくなっていた。閉まった店、歩道沿いで光る自動販売機、何年も日常の一部だった道を見分けることができた。
ここからなら、家は近い。
姿を見るより先に、建物のあいだを電車が通り過ぎた。金属音が壁面を伝い、その先へ消えていった。
佐助は歩みをゆるめた。
数秒、その音の中に踏切の警報音を探した。
聞こえなかった。
中里まで歩き続けた。
踏切へ近づくと、遮断機は上がっていた。
ほかの四人と一緒に線路を渡った。途中で右を見た。街灯を映したレールは、夜には測れない遠さで一点へ重なっていく。
数時間前、美香は目を覚ましたくなかったと言った。
遮断機が下りる前に渡りきった。
そのまま家へ向かった。
小さな玄関には一日の熱が残っていた。靴を脱ぎ、鞄を上がり框のそばに置いて、台所の明かりを点けた。散らかってはいたが、何かがあるべき場所から動いたわけではない。朝洗ったカップは水切りに残り、カレンダーは7月のままだった。二階の浴室の戸棚には、恵美が試験中には使わないよう禁じた錠剤が入っている。
パックご飯を温め、カレーを一食分温めた。テレビはつけず、流し台の前で食べた。そのあとシャワーを浴び、着替えて、居間の低いテーブルの前に座った。
帰還プロトコルは、そこから始まる。
短い録音は、何かを突き止めるためのものではない。記録する前に自分で記憶を書き換えてしまわないためのものだった。
佐助は新しいノートを開いた。
最初のページに、会話の日付と時刻を書いた。その下へ、思い出せる美香の言葉を一つずつ書き写した。順番を整えようとはしなかった。自信のないところは空白にした。
「田舎に住んでいた気がする」
「古い家があった」
「縁側から田んぼが見えた」
「遠くの鐘」
「むしろの上で米が干してあった」
「目を覚ましたくなかった」
次のページには、自分の夢にしかなかったものを書いた。
「縁側の緩んだ板」
「美香のサンダル」
「雨」
「夕暮れの電車」
二つの一覧を見比べた。
同じ場所にいたことを証明するものは一つもない。古い家に縁側はある。田んぼは全国の町や村を囲んでいる。鐘の音は遠くまで届く。米を干すむしろも、写真やテレビ番組で見たありふれた光景を夢が拾っただけかもしれない。
歩きながら録音した音声をスマートフォンで開き、自動文字起こしをかけた。アプリは予想どおりいくつか間違えた。「中里」を意味のない別の言葉にし、美香の名前を二つの別々の語句として記録していた。
佐助は一行ずつ直した。
1分9秒のところで、文字起こしに自分が言っていない一文が表示されていた。
画面を見つめた。
道の雑音をアプリが言葉と取り違えただけかもしれない。音声を戻し、音量を上げた。
自分の声が三つの細部を挙げるのが聞こえた。そのあとに足音、遠い車のエンジン音、スマートフォンをしまったときの衣服の擦れる音が続く。
その奥に、別の声があった。
歩道にいた誰かの声にしては小さすぎる。通りすがりの人にしては近すぎる。
佐助はスピーカーを耳元へ寄せた。
もう一度再生した。
美香の声だった。
夢にいたとは言っていない。佐助の名前も言っていない。ただ、職場でよく知っているあのためらいを含んだ声で、一つの文を繰り返していた。
「たぶん、私、一人じゃなかったと思う」
録音は、そのすぐあとで終わった。
佐助は時刻を確認した。ファイルが作成されたのは19時56分。美香がブンエイを出てから1時間以上あとだった。
プロパティを開き、閉じ、もう一度開いた。別のファイルを再生していないか確認し、その日に受信した音声メッセージも探した。
何もなかった。
イヤホンをつないだ。
三度目に再生しても、その言葉はそこにあった。
四度目も。
佐助はスマートフォンをノートの上に置いた。
外で、中里第二踏切の警報音が鳴り始めた。
立って見に行こうとはしなかった。
二つの一覧を前にしたまま、美香の声を聞いていた。そのあいだ、一編成の電車が中里第二踏切を通り過ぎていった。
[東京・駒込]




