北星
金曜日の午前9時42分、工房はまだ閉まっていた。佐助は看板の営業時間を確かめ、それからスマートフォンの時刻を見た。北星映像工房が開くのは10時だった。隣では直樹が箱を一つ胸に抱え、細い金属製の扉を見つめていた。中から誰かが出てきて、二人は何かを間違えていると言い渡すのを待っているようだった。
通りにはすでに朝の熱気がこもり始めていた。建物の壁を這うエアコンの排水管から水が落ち、配送トラックが道の半分を塞いでいる。数十メートル先では、看板と広告、交差点の絶え間ない音に包まれて秋葉原が目を覚ましつつあった。だが、この辺りの店はもっと小さい。包装もされていないケーブル、何十年も前に生産を終えたカメラ、手書きのラベルが貼られた引き出しに収められた部品が並んでいた。
直樹は箱を膝に載せ直した。
「今日は仕事だって言ってたよな」
「午後から。午前だけ休みを取った」
「家族のことで用事があるって言ったんだろ」
「家族のことだよ」
直樹は二人のあいだの台車に載せた大きいほうの箱を見た。
「会社はそれで納得するのか?」
「しない」
「じゃあ、いい答えだ」
佐助は笑わなかったが、直樹には笑おうとしたことがわかった。
前の晩、二人は一式を佐助の小さな家まで運んでいた。テープは開けず、装置にも電源を入れなかった。低いテーブルと階段のあいだにすべてを置くと、箱は実際以上の場所を取っているように見えた。佐助は百合子が亡くなって以来、初めて母の部屋で眠った。勇気があったからではない。自分の部屋は居間の真上にあり、装置の上で横になっているような気がするだけで目を閉じられなかった。
7時に上司へ連絡した。7時3分、午後から出勤してよいという返事が届き、金曜日の急ぎのロットについても尋ねられた。佐助はコーヒーを淹れるより先に返信した。
いま工房の前に立っていると、仕事から切り取ったこの午前には何か成果が必要な気がした。説明。直った部品。日常から外した数時間を正当化できる一言。
10時ちょうど、ガラス戸の向こうに一人の女が現れた。
髪を襟足でまとめ、袖をまくった淡いブルーのシャツを着ている。男二人と台車が待っていても驚いた様子はなかった。扉の鍵を開け、小さな札を「営業中」の側へ返すと、挨拶より先に箱を見た。
「どちらが動かないんですか?」
「たぶん、両方です」佐助が答えた。
「『たぶん』は高くつきますよ」
恵美は二人が入れるように身を引いた。
北星の店内は、幅より奥行きがあった。棚にはカメラが並び、作業台の下には小型モニターが積まれ、ビデオデッキは規格ごとに分けて置かれている。受け取り待ちと書かれた札もあれば、日付と名字だけの札もあった。温まった金属と埃、それに佐助にはわからない何かの匂いがした。
奥の壁には、工房名を記した古い看板が掛かっていた。文字は色褪せていたが、「北星」の横にある星だけはまだ濃い青を残していた。
女は作業台のそばの空いた場所を指した。
「塚原恵美です。中にテープが入っているなら、無理に取り出さないでください」
「入っていません」佐助は言った。「僕たちは一本も入れていません」
恵美は佐助を見上げた。
「それだけで今日は少しましです」
直樹が鼻から小さく息を漏らした。
まず、ベータマックスのテープを入れる本体を取り出した。恵美は前面パネルを持たず、両側から支えて可動式のライトの下へ置いた。すぐに見覚えがある様子は見せなかった。灰色の外装を指でなぞり、蓋に混じる種類の違うネジを確かめ、整備印を読むのに必要なぶんだけ装置を傾けた。
「この印、ここのものですよね」佐助が言った。
「ええ」
「覚えていますか?」
「印なら覚えています」
恵美は日付の横に押された星を指した。
「父がこの印を使っていたのは2004年までです。そのあと住所が変わって、印も作り直しました」
佐助は鞄から、許可を得て用意したコピーのファイルを取り出した。ロットの写真、譲渡書類、参加者の情報を除いた技術資料が入っている。作業台の上に順番に並べた。
恵美は紙に手を触れなかった。
「その前に。私に何をしてほしいんですか?」
「装置を直してほしいんです」佐助が答えた。
「何のために?」
佐助はREM-Bの図面を見た。
「何をする装置だったのか知るためです」
「それは資料を調べる仕事です。私が直すのは、この機械がいま何をできるかです」
直樹が小さいほうの箱を床に置いた。
「だからここへ来たんです」
恵美は直樹に顔を向けた。
「あなたは?」
「直樹です。こいつが、質問を答えに変えるのを早まらないように見張りに来ました」
恵美はしばらく佐助を見た。
「では、そばにいてください」
静電気防止用のリストストラップを着け、蓋のネジを外してマグネットトレーに並べた。金属の蓋が小さな音を立てて開いた。
内部は、二つの時代の部品を一つに押し込んだように見えた。
佐助には、棚卸しの写真で見たテープ走行機構がわかった。その隣には、即席の支柱に固定された別の基板がある。細い配線が筐体を横切り、手作業で加工されたコネクターへつながっていた。基板には白い塗料で小さな数字が直接書かれている。
恵美はライトを近づけた。
「これは工場出荷の状態じゃありません」
「何を変えたんですか?」佐助が尋ねた。
「まだわかりません」
恵美はピンセットで二本の線を少し離した。
「こっちは映像系。こっちは外部から信号を受けています。それで、誰かがこの二つを会話させることにした」
「電極の信号ですか?」
「かもしれません。温度、脈拍、動き、ほかにも電圧へ変換できるものなら何でもあり得ます。図面は参考になりますが、古い図面が残すのは設計者の意図です。この装置が残しているのは、実際にできたことです」
恵美はようやく紙を引き寄せた。
図面を黙って読んだ。紙の矢印と配線の位置を見比べることもあれば、小さなデジタルカメラで撮って拡大することもあった。佐助は、REM-Bという文字にたどり着いたところで何か反応するのではないかと待った。
恵美はそのまま読み進めた。
「コンバーターはもう一つの箱ですか?」
佐助はうなずいた。
直樹が外部ユニットを作業台へ載せた。恵美はこちらの蓋も開け、文字で識別された入力端子の列を確認した。二本のケーブルは被覆が劣化している。電源部に近い基板の一枚には黒ずんだ跡があった。
「これは電源を入れないでください」
「入れてません」
「そのままで」
恵美は図面へ戻った。
「REM-Bはこのデッキの名前ではありません。一式全体の名前です。このコンバーターは、ビデオテープにそのまま記録するには遅すぎる信号を受けて、映像の走査線のように割り振っています。ベータマックス側で記録する。再生するときは、その経路を逆にたどる」
佐助はノイズに埋まったモニター画面を思い出した。
「じゃあ、映像はあるんですね」
「映像として扱われる信号がある、ということです。同じ意味ではありません」
「夢が入っている可能性は?」
恵美はリストストラップを外し、いったん作業台に置いた。
「ありません。どういう意味ですか?」
迷いのない返事だった。
その言葉には重さがあったが、佐助が予想していたほどの落胆はなかった。恵美は佐助が体験したことを否定しているのではない。目の前で開かれた装置が約束できないことを、約束できないと言っているだけだった。
「夢を見ているあいだの脳活動なら記録できますか?」直樹が言い直した。
「適切なセンサーがあれば、そういう装置はいくらでもあります。これは同時に複数の信号を記録しようとしているように見えます。でも、その信号を画像や人や記憶に変えるのは別の話です」
佐助は直樹を見た。
直樹も視線をそらさなかった。
恵美は二人の沈黙に気づいた。
「自分の仮説を肯定してくれる人を探しに来たなら、工房を間違えています」
「この装置に、ここの印があったから来ました」佐助が言った。
「父の印です」
「記録は残していましたか?」
恵美は奥にある引き出し式の書類棚を指した。
「何でも記録していました。修理が終わっても取りに来なかった客まで。だからといって、20分で何か見つかるとは限りません」
再びリストストラップを着けた。
「アナログ部分なら直せます。ベルト、コンデンサー、電源、テープ走行系。メイン回路へ電気を入れずにコンバーターを調べることもできます。ただし、改造部分まで動く保証はできません。それから、古い用紙に誰かが同じことをしたと書いてあるという理由だけで、人間に試すつもりもありません」
「どれくらいかかりますか?」佐助が尋ねた。
「まず、引き受けるかどうかを決めます」
恵美は引き出しからマルチメーターを取り出した。プローブを当てる前に、増設された基板をほかの回路から切り離す。二か所を測り、レンジを変えてもう一度測った。
表示に小さな値が出た。
恵美が眉を寄せた。
マルチメーターの電源を切り、待ってから、もう一度測った。
「どうしたんですか?」直樹が訊いた。
「残留電荷です」
「20年以上たってるのに?」
「違います」
恵美は別の点に触れた。
数値がまた現れ、ゆっくり消えていった。
「コンデンサーがしばらく電気を残すことはあります。でも20年以上はあり得ない。環境から何かを拾っているか、私の計器が干渉を読んでいるかです」
「どこから?」佐助が尋ねた。
「それがわかっていたら、干渉とは呼びません」
恵美は作業灯を消した。表示の値は下がったが、消えなかった。スマートフォンをポケットから出して二メートルほど離し、また測る。続いて、ほかの機器につながる電源タップまで切った。
工房がいっそう静かになった。
それでも、数値は戻った。
恵美は方眼紙に値を書き留めた。
「引き受けます」
佐助は自分が作業台へ身を乗り出していたことに気づき、少し下がった。
「どうして、可能だと思うんですか?」
「理解できない故障があるからです」
恵美は本体の蓋を半分だけ戻した。
「それと、可能だと信じることは別です」
恵美は修理受付票を用意した。機種欄には「改造ベータマックス」。付属品欄には、コンバーター、電極八個、ヘッドホン二組、ケーブル六本、それから封をしたままのテープの箱と記した。
「テープはそちらで持っていてください」恵美は決めた。「装置を直すのに必要ありません」
佐助はためらった。
「一本は、もう再生しました」
「この装置で?」
「別の機械です」
「何か見えましたか?」
「ノイズ。踏切の警報音。それから一フレームだけ、ゼロの数字が出ました」
恵美のペンが止まった。
「録音された音ですか?」
「わかりません。通常の映像や音声として識別できる内容は入っていませんでした」
「では、わかっているのは警報音を聞いたということだけですね」
「はい」
恵美は受付票を書き終えた。
「その部分をデジタル化したコピーを持ってきてください。テープそのものは持ってこないで。それから、もう一度再生しようとしないでください」
直樹が小さい箱をしまった。
「試験をする前に、何が必要ですか?」
恵美は、ようやく正しい質問を聞いたという顔で直樹を見た。
「まず、私がこの装置を確実に止められるようにすることです」
引き出しを開け、太いケーブルにつながった赤いスイッチを取り出した。
「元の電源は電子式のボタンを通るだけです。基板が固まれば、そのボタンも効かなくなるかもしれない。電源部の手前に物理的な遮断を入れます。眠っている人に使う装置なら、起きている側の人がこれを引けば全部を止められる」
「起きている側の人」佐助が繰り返した。
「そうです。一人では試さない。睡眠薬を飲んだあとには試さない。開始時刻、制限時間、それに装置を止められる人がそろっていない状態では試さない」
佐助は浴室の戸棚にしまった錠剤を思い出した。
「装置が動くのはレム睡眠のあいだだけのはずです」
「図面にはそう書いてあります。図面には、手ではんだ付けした四本の線を『安全モジュール』とも書いてあります」
恵美は受付票の控えを佐助に渡した。
「レコーダーとして動くようになったら連絡します。その先の部分まで動かすべきかは、それから決めましょう」
外で電子広告の短いメロディーが鳴り始めた。扉を閉めていても、その音は完全には遮れなかった。恵美は音が終わるのを待ち、もう一度基板を測った。
表示はほとんどゼロのままだった。
佐助は受付票を譲渡書類と一緒にしまった。
「一つ訊いてもいいですか?」
「もういくつも訊いています」
「お父さんは、黒田睡眠医学研究所の人を知っていましたか?」
恵美はもう一度、整備印に目をやった。
「父が知っていたのは客です。私が知っているのは機械です」
「それは、知らなかったという意味ですか?」
「記録を確認してから答える、という意味です」
恵美はネジを締めずにREM-Bの蓋を載せた。
「土曜日、閉店後に戻ってきてください。それまでに何かわかったら電話します」
直樹は風待ちの予定を確認し、8時半なら来られると言った。佐助はうなずいてから、自分には残るよう頼まれていなかったことに気づいた。
恵美はそれに気づいた。
「音声のコピーを持ってきてください」恵美は説明した。「それから、空っぽのテープ一本のために、どうして二人そろって仕事を休み、午前を潰したのかも聞かせてもらいます」
「俺は午後から仕事です」直樹が言った。
「では、仕事を休んだのは一人だけですね」
外へ出ると、小さい箱は妙に軽く感じられた。主要な装置は工房の作業台に残っている。摩耗したモーター、汚れたヘッド、焼けた電源――ごく普通の故障を抱えた機械のあいだに置かれていた。恵美が扉を閉める前に、佐助は一度だけ振り返った。
恵美はもう蓋を外していた。
角を曲がるまで待ってから、直樹が言った。
「あの人、気に入った」
「夢は記録できないって言ったぞ」
「だからだよ」
「わからない」
「これが本当であってほしいと思う人間は、お前一人で十分だろ」
二人は駅へ向かった。高いビルのガラスに日差しが反射し、佐助は目を細めた。REM-Bが自分のそばにないのは、手に入れてから初めてだった。ほっとした。すぐあとに、その不在が気になった。
駅の入口で直樹が立ち止まった。
「俺は風待ちに戻る」
「僕は家に戻る」
「仕事は?」
「2時から」
「じゃあ、残った時間を使えよ」
佐助は返信できるメッセージや、金曜日のロット、先に進められる報告書のことを考えた。それから、火曜日から開けたままになっている母の部屋を思った。
「少し片づける」
「片づけるのか、探すのか?」
佐助は答えなかった。
直樹はテープの箱に軽く触れた。
「土曜日まで待て」
「わかってる」
「お前はいつも、わかってる」
改札の前で別れた。
佐助は山手線に乗り、田端へ向かった。いつもの時間帯より車内は空いていて、座席に座ることができた。箱を膝に載せる。再生に使ったテープは、ほかのものとは分けて透明な袋に入れてあった。蓋を開けなくても、黄ばんだ小さなシールの位置も、古いラベルを剥がした跡もわかった。
スマートフォンの録音アプリを開いた。
「最後の場所、北星映像工房。最後にいた人、直樹と塚原恵美」
短い帰還プロトコルは、もう夢を保存するための試みには思えなかった。自分がいまどちら側にいるのかを印すためのものになっていた。起きている側。現実の電車の中。膝の上には現実の箱。
「主な感情、慎重さ」
録音を保存した。
電車が田端へ近づくと、扉が開き、ホームの音が流れ込んだ。佐助はスマートフォンをしまい、箱を持ち上げた。
北星では、塚原恵美が一人で残っていた。
二人の足音が工房の前から消えるまで待った。それから扉に鍵をかけ、札を「閉店」の側へ返し、REM-Bをいちばん奥の作業台へ運んだ。
もう一度、蓋を外した。
電源は入れなかった。コンバーターも接続しなかった。ただ、さきほどと同じ基板の二点へプローブを固定し、2001年の修理台帳を探しながら表示を見られる位置にマルチメーターを置いた。
古い引き出しは月ごとに整理されていた。3月、4月、5月。黒田睡眠医学研究所の名はなかった。8月になってようやく、故障内容の記載がない一枚の修理票にその名を見つけた。
「依頼主:黒田睡眠医学研究所」
「責任者:黒田茂(Dr.)」
「機器:同期ユニットB」
「依頼内容:終了後の『帰還』を解除」
余白に、父の短い書き込みがあった。
「依頼者は手動遮断を拒否」
恵美はその一文をもう一度読んだ。
外では、高架線を電車が通過した。
最初に、吊り下げられた工具へ振動が伝わった。数秒遅れて、その音が工房を満たした。
マルチメーターの値が上がった。
恵美は装置を見た。
表示上の針が規則正しい脈を描き、最後の車両が遠ざかると同時に下がった。
恵美は基板に触れなかった。
ペンを取り、父の書き込みの横に正確な時刻を記した。
11時17分。
そのあと、「手動遮断」の一文に線を引いた。
その朝初めて、塚原恵美は通りと工房を隔てる扉を閉めた。
[北星映像工房]




