風待ち
火曜日になっても、97番の箱は保留扱いのままだった。9時12分、美香が起票した案件に対し、黒田睡眠医学研究所から自動返信が届いた。送信元のアドレスにはまだ研究所の名が使われていたが、本文には、このドメインもまもなく停止されると記されていた。問い合わせは資料群の整理責任者へ転送済みで、回答までの目安は五営業日だった。
佐助はそのメッセージを読み、片方のモニターにウィンドウを開いたままにした。
もう片方では、REM-Bの図面を撮影した写真を拡大した。
写真は保管庫で、台車の灰色の天板の上に置いた図面を撮ったものだった。ページの右下を影が横切り、紙の折れ目が注記の一部を隠している。それでも、人の頭部の輪郭、こめかみ近くの二つの電極、長方形のユニット、そして矢印の先に描かれた小型テープの形は見分けられた。
「映像を含まない」
何度も読み返したせいで、その一文は指示というより、警告のように見え始めていた。
キーボードの横では、スマートフォンが画面を伏せたまま置かれていた。前日の夕方に録音した音声メモは十秒だった。
「自分と同じ名字の記録を見つけた。たぶん、何の意味もない」
仕事を出てから、一度も聞き返していなかった。
村上は珍しい姓ではない。Yという頭文字だって、いくらでもあり得る。ヤエコ。ユミ。ヨウコ。ヨシエ。
それでも、日付だけは頭から離れなかった。
2001年3月17日。
その年、佐助は七歳だった。春について残っているのは、途切れ途切れの記憶だけだ。背中には大きすぎた青いランドセル。オレンジ味のシロップ。待合室で、自分の手を包んでいた母の手。どれも別々の月の記憶かもしれない。別々の場所で起きたことかもしれない。子どものころの記憶は、大人が書類に印字する日付には従わない。
佐助はモニターへ顔を近づけた。
保護者は、子どもが「帰還経路を再び説明した」と報告している。
子どもの名前は、今も黒い帯の下に隠れていた。
佐助は写真を閉じた。
被験者たちの人生を調べる権限はない。自分の仕事は資料を目録化し、物品の状態を記録し、クライアントの判断を待つことだった。それ以上に踏み込めば、好奇心は簡単に侵害へ変わる。
それでも10時43分、スマートフォンの連絡先を開き、直樹の名前を探した。
話すのは三週間ぶりだった。
直樹との最後のやり取りは、タオル用の籠の中で眠る白い猫の写真だった。直樹はこう添えていた。「新入り。制服は拒否」
佐助は笑い顔の絵文字を返していた。
その前には夕食の誘いがあった。佐助は二日間返事をせず、ようやく忙しいと送ると、直樹はただ「じゃあ、また今度」と返した。
直樹はいつも、「また今度」が来る余地を残してくれた。
佐助は打った。「今日、店にいる?」
一分もしないうちに返事が来た。
「八時まで。何かあった?」
説明を書きかけて、消した。「仕事のあと寄っていい?」とだけ送った。
「もちろん」
すぐ下に、もう一通届いた。「新入りがいる。まだ制服なし」
佐助はまたスマートフォンを伏せた。
昼休み、美香が透明のクリアファイルを持ってやって来た。食べ物もコーヒーも持っていない。ただ、まだ仕事の途中だとわかる立ち姿をしていた。
「クライアントから返事が来ました」
「自動返信なら見ました」
「清算を担当している会社と話せました。研究所の関係者を探してみるそうです」
「まだ誰か働いてるんですか?」
「そこまではわからないそうです」
美香はファイルを机に置いた。中には保留処理の書式のコピーと、機器の写真を三枚載せた一枚の紙が入っていた。
「処分先を決められる前に、品目を特定しておく必要があります。被験者の情報は外して、技術的な照会に使えるようにまとめました」
佐助は写真を見た。
「誰に照会するんですか?」
「メーカー、修理業者、古い映像機器を扱っている人。型式がわかれば、査定もしやすくなります」
三枚目の写真――REM-Bの全体図――を佐助が見つめ続けていることに、美香は気づいた。
「心当たり、あります?」
ない、と答えようとした。質問が情報以上のものを求めてくるとき、いつも選ぶ答えだった。
「たぶん」佐助は言った。
美香は待った。
「友達が、似た機械を見たことがあるかもしれません」
「電子機器の仕事を?」
「猫の仕事です」
美香は一度だけ瞬きをした。
「なるほど」
説明しかけた。直樹とは、短い言葉の裏に心配を隠すことを二人とも覚えるより前からの付き合いだと、言いかけた。代わりにコピーを指した。
「これ、持っていってもいいですか?」
「そのために作りました。ただし、撮影も共有もしないでください。案件番号が入っています。明日、返してください」
「わかりました」
美香はファイルから手を離したが、その場を離れなかった。
「村上さん、昨日の記録票のことなんですけど……」
佐助は顔を上げた。
美香は声を落とした。
「名字は、ただの偶然かもしれません」
「わかってます」
「でも、そう思ってる顔には見えません」
フロアには人が大勢いた。数メートル先では誰かがバーコードリーダーを試していて、読み取りのたびに高い電子音が鳴っていた。佐助は二人のあいだに置かれたファイルを見た。
「まだ、自分がどう思ってるのかもわかりません」
美香はうなずいた。
「だったら、わかる前に決めつけないでください」
そう言って、自分の席へ戻った。
佐助はコピーを鞄にしまった。午後の残りは、睡眠とは何の関係もない不動産契約書や古い証明書、登録票のロットを確認した。いつもより作業は遅かった。同じ名前を三度読んでいることに、途中で気づくこともあった。
18時20分、上司が、翌朝までに急ぎのロットを一件仕上げる必要があると告げた。
誰も、誰が残れるかとは聞かなかった。
終業を知らせる通知を消し、そのまま作業へ戻る人が何人かいた。佐助も同じようにした。直樹には、遅れるかもしれないとメッセージを送った。
「大丈夫。待ってる」
ロットが終わったのは19時06分だった。
佐助は報告書を保存し、ジャケットを鞄に入れ、次の仕事に見つかる前に会社を出た。
外には、まだわずかに明るさが残っていた。昼の熱がアスファルトから立ち上り、客が入り始めた飲食店の匂いと混ざっている。佐助は大塚駅まで歩き、山手線に乗って、ドアのそばに立った。
田端で、車内の絶え間ない音を、小さな商店が並ぶ通りの音へと替えた。電線のあいだから空の色が失われていくなか、西日暮里の方角へ歩いた。
風待ちは、大通りから少し奥へ入った細い建物の一階にあった。外壁に肉球の絵も、丸みのある文字もない。明るい木の看板に店名が記され、その下に小さく「保護猫たちが家族を探しています」とあるだけだった。
佐助はガラスの前で足を止めた。
店内では、黒猫が棚の上から通りを眺めていた。片方の耳が少し傾き、目はほとんど閉じている。佐助が近づくと、片目だけを開いた。
扉を開けると、小さな鈴が鳴った。
カウンターの奥から、濃い緑色のエプロンをつけた直樹が出てきた。最後に会ったときより髪が短く、前腕には小さな赤い跡があった。
「来たな」
「来るって言っただろ」
「お前、『やってみる』ともいつも言うけどな」
責める言葉に聞こえる前に、直樹は笑った。佐助は入口で靴を脱ぎ、店が用意した靴下に履き替え、扉脇の小さな洗面台で手を洗った。
閉店まであと二十分だった。客は二人の女性だけで、床に座り、ぶち猫のそばにいた。店員が、急かすことなくカップを片づけている。
直樹は奥の座卓を指した。
「そこで待ってて。シンの薬、終わらせてくる」
窓辺にいた黒猫は棚から下り、数歩だけ直樹のあとを追った。途中で気が変わったらしく、通路の真ん中に座り込んだ。
佐助は座った。
風待ちは、ネットの広告で見る猫カフェとは似ていなかった。不自然なほど多くの猫がいるわけでも、写真を撮るために抱き上げようとする客がいるわけでもない。奥の扉の近くにはキャリーケースが積まれ、掲示板のカードには、それぞれの猫の名前、おおよその年齢、状態が書かれていた。赤い札には「治療中」。青い札には「里親募集中」。
三毛猫のカードの横には、誰かの字で「まずは様子を見たい子です」と書き添えられていた。
直樹は、そういう待ち方を知っていた。
佐助は、直樹がタオルを半分かけたキャリーケースの前に膝をつくのを見た。猫を出そうとはしない。隙間を少しだけ開け、少量の餌を置いて待った。数秒後、暗がりから一本の前脚が現れた。
直樹は手を伸ばさなかった。
終わるころには、二人の客はもう帰っていた。店員が入口の札を裏返し、カウンターの掃除を始める。直樹は冷たいお茶を二つ持ってきて、佐助の向かいに座った。
「それで」直樹が言った。「何かあった?」
佐助は鞄からファイルを取り出した。
「たぶん」
「その言葉、お前が来ると働かされすぎだな」
佐助はコピーを座卓に置いたが、その上に手を乗せたままにした。
「一つ、思い出してほしいことがある」
直樹は理由を聞かなかった。ただ待った。
「子どものころ、俺の家で変な機械を見たことないか?」
「変って、どんな?」
「線があって、電極があって、録画機みたいなやつ」
直樹は佐助を見て、それからファイルを見た。
「おばさんに関係ある?」
佐助は手をどけた。二つの湯呑みのあいだに図面が現れた。
「仕事で見つけた」
直樹は身を乗り出したが、紙には触れなかった。
「子どものころの機械のことを、猫カフェまで聞きに来させる仕事って、どんな仕事だよ」
「箱を一つなくした仕事だ」
佐助は研究所の資料群について話した。途切れた番号、ケーブル、ゼロと記されたテープ、REM-Bという略号。百合子という名前は書かれていなかったので口にしなかった。代わりに、頭文字と姓と日付を伝えた。
「『Y・村上』」佐助は声に出して読んだ。「『七歳の子どもの保護者』」
直樹は黙っていた。
「誰でもあり得る」佐助は付け加えた。
「そうだな」
「村上は珍しくない」
「うん」
「日付だって、何の証拠にもならない」
直樹は膝に腕を置いた。
「ここまで来たのは、俺を納得させるためか。それとも自分を納得させるためか?」
佐助は目をそらした。
黒猫が店内を横切り、佐助のズボンの裾の匂いを嗅いだ。店の決まりどおり、佐助は動かなかった。猫は触らせることなく離れていった。
「夢を見た」佐助は言った。
直樹は笑わなかった。
佐助は田舎の家のことを話した。縁側、田畑、茶碗、スイカ。美香がそこにいて、二人がずっと昔から同じ生活をしているようだったこと。踏切の警報音、目覚めたこと、その後の日々のことも話した。
幸せだったとは言わなかった。その言葉だけは、ほかのすべてよりも親密に思えた。
直樹は口を挟まずに聞いた。一度だけ、奥の部屋へ入って扉を閉めた店員のほうを見た。
「美香って、コンビニで会った同僚?」佐助が話し終えると、直樹が聞いた。
「なんでコンビニのこと知ってる?」
「土曜日、仕事の人に会ったってメッセージ送ってきただろ。そのあと消したけど」
佐助には覚えがなかった。
「美香も夢を見た」
「お前の夢を?」
「わからない」
「聞いたのか?」
佐助は湯呑みを見た。
直樹は苛立つでもなく、鼻から息を抜いた。
「当然、聞いてないよな」
「簡単に聞けることじゃない」
「簡単なことのほうが少ないだろ」
佐助は話を変え、REM-Bの図面を友人のほうへ向けた。
「これ、覚えてる?」
直樹は紙を眺めた。顔を近づけ、離し、横向きにもしてみる。黒猫が座卓へ飛び乗った。直樹が止めるより早く、コピーの下半分を覆うように寝そべった。
「クロ!」直樹が声を上げた。
クロは尻尾を動かしただけで、どかなかった。
「里親の書類でもやるんだ」直樹は説明した。「書類が嫌いなのかもしれない」
佐助がゆっくり紙を引こうとすると、クロはその上に前脚を置いた。
直樹はまだ見えている部分――頭部、電極、長方形のユニット――を見つめた。
「これは覚えてない」
佐助は、ほっとしたのと落胆したのを同時に感じた。
「俺もだ」
直樹はなおも図面を見ていた。
「でも、箱なら覚えてる」
佐助は動かなかった。
「どんな箱?」
「おばさんの部屋。いや、裁縫に使ってた部屋だったかも。わからない。子どものころ、お前の家ってもっと広く見えたから」
「今も狭いよ」
「大きくなったら、物のほうが小さくなるんだよ」
直樹はクロの尻尾をそっとよけた。図面の長方形の一つが現れた。
「灰色のプラスチックの箱だった。暗い色の蓋があって、ケーブルが巻きつけてあった。カラオケの機械だと思ってた」
「母さん、カラオケなんて持ってなかった」
「だから覚えてるんだよ」
「いつ?」
「わからない」
「学校に入る前? あと?」
直樹は数秒、目を閉じた。
「お前、ロケットの絵がついたTシャツ着てた」
「何枚も持ってたよ」
「おばさんは白いマスクしてた」
「食品関係の仕事だった。ときどきマスクもしてた」
「じゃあ、それも役に立たないな」
直樹は目を開けた。
「佐助。箱を覚えてても、年を間違えてるかもしれない。普通のビデオデッキを見ただけかもしれない。この図を見たせいで、蓋まであったことにしてるかもしれない」
紙には触れず、図面の上の空中を指で示した。
「記憶は目録じゃない」
その言葉が佐助に引っかかったのは、正しかったからだ。
ようやくクロが立ち上がった。その下から、ページの下半分が現れた。VHSテープに似た小型のテープの図が、ちょうど猫の胸があった場所に描かれている。
直樹は紙の端をつかんだ。
「待って」
佐助は友人を見た。
「こんなんじゃなかった」
「何が?」
直樹はテープを指した。
「俺が見たのは、普通のテープより小さかった。おばさんが手のひらに載せて、玩具じゃないって見せたんだ。真ん中に白いラベルがあった」
佐助は喉が乾くのを感じた。
「何か書いてあった?」
「たぶん、数字」
「ゼロ?」
直樹は手を引いた。
「今、お前が答えを教えた」
店内が静かになった。奥の部屋から水道の音が聞こえる。クロは座卓から飛び降り、閉じた扉の前へ行った。
「悪い」佐助は言った。
「謝るな。ただ、俺が覚えてるかもしれないことを、証拠に変えるな」
直樹は立ち上がり、湯呑みをカウンターへ運んだ。佐助はコピーの前に残った。
友人の記憶は、記録票を裏づけなかった。頭文字も裏づけない。図面の機械が本当に佐助の家にあったとも証明しない。途切れた並びに、もう一つ不完全な物を加えただけだった。
それでも、その並びは今、百合子の部屋の扉まで届いていた。
直樹は小さな救急箱を持って戻ってきた。座ると、前腕の赤い跡を消毒し始めた。
「新入り?」佐助が聞いた。
「制服なしのお嬢さん」
「猫だと思ってた」
「猫だよ。雌。まだ名前はない」
直樹は浅い引っかき傷を見せた。
「昨日来た。ほとんど一日中、キャリーケースの中にいたよ。誰かが急に近づくと、奥へ消えようとする」
「それを止めないの?」
「戻れる場所を残しておくんだ」
佐助はタオルのかかったキャリーケースを見た。
「どれくらいかかる?」
「何が?」
「信じるまで」
直樹は救急箱を閉じた。
「期限なんてないよ。一日で変わる子もいれば、何か月もかかる子もいる。人の手を好きになれないままの子だっている。でも、開いた扉が脅威じゃないことは覚える」
救急箱をカウンターの下へ戻した。
「ソラが俺のそばで飯を食べるまで、四十三日かかった」
佐助はその名を知っていた。直樹は何度も口にしていたが、話の全部を語ることはほとんどなかった。
「ここの最初の猫?」
「ここより前。まだ建材店で働いてたころだ。倉庫の裏に住みついてた」
直樹は里親募集の掲示板を見た。
「耳に印があって、誰も近づけなかった。仕事のあと、毎日餌を持っていった。何週間も、俺がいなくなるまで待ってた。四十三日目に、残った」
「日数、数えてたの?」
「あのころは何でも数えてた」
佐助は041、042、044の記録票を思い出した。
「それで、どうなった?」
直樹は答えるまで少し時間を置いた。
「八年、一緒に暮らした。それから病気になった」
「知らなかった」
「知ってたよ。最後の夜、病院まで一緒に来ただろ」
佐助は記憶を探した。タクシーのフロントガラスを流れる雨。明るい廊下。キャリーケースを膝に抱えて座る直樹。病院の中へ入ったことは思い出せなかった。
「ごめん」
「全部覚えてなくても、そこにいたことは変わらない」
責める気配はなかった。だからこそ、その言葉を受け取るのが難しかった。
「ずっと」直樹は続けた。「もっと早く気づいてたら、ソラは長く生きたんじゃないかって思ってた。そのあとには、俺が道から連れて帰らなければ、あんな病気にならなかったんじゃないかって思った。人って、何かを失うと、どうにかしてその喪失の真ん中に自分を置く方法を見つけるんだよな」
佐助は目を落とした。
「母さんとの最後の会話、一分もなかった」
直樹は「つらかったな」とは言わなかった。その話を知っていた。
「母さんは話したがってた」佐助は続けた。「俺は疲れてるって言った。明日話そうって」
「疲れてたんだろ」
「その夜、死んだ」
「知ってる」
「もし、この記録票が母さんのものなら……」
言葉がそこで止まった。
直樹は、続きを待った。
「母さんのものだったら、どうなんだ?」
佐助にもわからなかった。百合子が自分の子ども時代の一部を隠していた証拠になるのかもしれない。薬や夢や踏切の音を説明してくれるのかもしれない。あるいは何も説明せず、もう答えることのできない相手に向けた新しい問いを一つ増やすだけなのかもしれなかった。
「確かめないと」
直樹は図面を見た。
「その機械、まだあるのか?」
「倉庫にある。クライアントが廃棄するか、返却するか、保管するか決める」
「消える前に止めたいんだな」
「その前に、何なのか知りたい」
「俺が聞いたのはそこじゃない」
佐助は顔を上げた。
直樹は数秒、佐助の目を見た。それからコピーをファイルに戻し、押し返した。
「手伝うよ」
「覚えてないのに?」
「だからだよ。お前が疑いを確信って呼び始めたとき、そばにいる奴が必要だ」
佐助はファイルを閉じた。
「ありがとう」
直樹は奥の部屋を確認しに立ち上がった。扉へ着く前に、タオルをかけたキャリーケースの中から低い音がした。鳴き声になりきらない、問いかけの始まりのような音だった。
直樹は十分に距離を取ったところでしゃがんだ。
「まだここにいるよ」
手は伸ばさなかった。
数秒後、隙間から鼻先が現れた。薄い灰色の毛に、大きく見開いた目。直樹を見て、それから佐助を見て、また奥へ引っ込んだ。
「さっきより出てきた」佐助が言った。
「今日はこれで十分」
直樹はキャリーケースの一部をもう一度タオルで覆った。
直樹が店のレジを締めているあいだ、佐助は里親募集の掲示板まで歩いた。片隅に、募集札のついていない古い写真が一枚あった。窓辺に座る白と灰色の猫。左耳の先には小さな切れ込みがあった。
ソラ。
写真の下に、直樹の字で一文だけ書かれていた。
「待っていたのは、あの子のほうだった。」
佐助は、その意味を聞かなかった。
風待ちを出たのは20時27分だった。直樹はシャッターを半分まで下ろし、鍵を確かめたあと、まだ掃除をしている店員のために少しだけ隙間を残した。
「明日、その図面のコピーを返すんだぞ」
「うん」
「それから、クライアントの返事を待つ」
「うん」
「全然、信用できない返事だな」
佐助は鞄を肩に掛け直した。
「手順には従うよ」
「手順だって、何かに近づくために使えるからな」
直樹はポケットに手を入れた。
「ただ、一人で入るなよ」
「どこに?」
「おばさんの部屋でも、資料の中でも、お前が開けようとしてるものなら何でも」
佐助は通りを見た。
建物の向こう、見えない場所を電車が通った。踏切の警報音もなく、遮断機も見えないまま、弱まった走行音だけが届いた。
「機械を見られるようになったら」直樹は言った。「呼べよ」
二人は角で別れた。直樹は西日暮里へ、佐助は田端の方角へ戻った。
電車ではドアのそばに席が空いていた。佐助は腰を下ろし、スマートフォンを取り出して録音アプリを開いた。窓に映った自分の顔が、暗い街の景色に重なっていた。
赤いボタンを押した。
「最後の場所、風待ち。最後にいた人、直樹」
いちばん強く残っている感情を選ぶため、少し黙った。
希望ではなかった。希望には向かう先が要る。今感じているものは、百合子の部屋の扉に近かった。閉ざされていて、よく知っていて、もう見ないふりのできない扉。
「不安」そう結んだ。
録音は十七秒だった。
佐助は保存した。
家に着いても、居間の照明は点けなかった。狭い階段を上り、自分の部屋を通り過ぎ、母が死んでからほとんど開けていない扉の前で止まった。
ドアノブに手を置いた。
向こうには、低い箪笥、楕円形の鏡、裁縫箱、それから、変えないと決めたものがすべて残っている。二十三年前、二人の少年が見たかもしれないし、見ていないかもしれない灰色の機械の記憶も、そこにあるのかもしれなかった。
佐助は扉を開けた。
部屋の空気には、木と布と、積もった夏の匂いがこもっていた。
明かりを点けた。
機械そのものは探さなかった。もしそこにあったとしても、もう残ってはいないとわかっていた。
代わりに、あの大きさの箱が置かれていたかもしれない場所を探した。
壁際、箪笥の後ろの色あせた壁紙には、長方形の跡が四つあった。二つは小さい。一つは、昔そこにあった家具の跡だろう。
最後の一つは、図面の機械とほぼ同じ幅だった。
佐助はしゃがんだ。
床板の上、箪笥の木枠にほとんど隠れるようにして、小さなプラスチック製の留め具が落ちていた。その隣では埃が途切れた弧を描いている。長いあいだ丸めたケーブルが置かれていた跡のようだった。
佐助は指を近づけたが、触れなかった。
どんな機械のものでもあり得る。
触れなかった。
膝をついたまま、次の電車が中里第二踏切へ近づいてくる音を聞いていた。




