行き先なし
月曜日、佐助がブンエイ・データサービスに着いたのは8時26分だった。ほとんど眠れていなかった。田舎の家の夢はもう見なかった。少なくとも、思い出せる形では。夜中に二度目を覚まし、そのたびにスマートフォンを確かめても、頭上には暗い天井があるだけだった。6時10分、目覚ましが鳴るより先に近所を電車が通り、佐助は横になったまま、その音と一緒に何かの映像が戻ってくるのを待った。
何も浮かばなかった。
土曜日に録音した音声は、まだスマートフォンに残っていた。日曜日に何度も聞き返したせいで、夢そのものを覚えているのか、それとも夢を説明するために自分が選んだ言葉を覚えているだけなのか、もうわからなくなっていた。
田舎に家があった。美香がそこにいた。
録音の中の自分の声は、まるで別人のものだった。怯え、息を切らし、何かを失うのを必死に食い止めようとしている人間の声。電車の轟音がいくつかの言葉を覆い隠していたため、聞き返すたびに音量を上げた。車輪とレールのあいだに、何か答えが隠れているような気がした。
何もなかった。
その朝、家を出る前に二つ目の音声メモを録音した。
「夢を見た記憶はない」そう言った。「疲れたまま目が覚めた。あの場所が恋しい」
九秒だった。
削除した。
踏切では、まだ数メートル手前にいるうちに遮断機が下り始めた。少し急げば渡れたかもしれない。それでも佐助は足を速めず、二人の学生の後ろに立って待った。
カン、カン、カン、カン。
その音は、もう以前ほど鮮明に縁側を呼び戻してはくれなかった。田畑の上の光と、遠ざかっていく手の感触だけが残っている。それでも美香だけは、はっきりしていた。職場で会う美香ではない。家のどこに何があるかを知り、佐助がスイカのことで嘘をつくと笑う美香だった。
佐助は鞄のストラップを強く握った。
電車が通り過ぎた。遮断機が上がると、ほかの人たちと一緒に踏切を渡り、駒込駅へ向かった。
ブンエイ・データサービスは、大塚の商業ビルの三つのフロアを使っていた。一階には薬局と、昼になるとカレーを出す細長い店がある。会社名はエレベーター脇の控えめな案内板に記され、保険事務所と不動産管理業者の協会の下に並んでいた。
佐助は受付に挨拶し、六階の入館ゲートにカードをかざして、メインフロアへ入った。
照明はすでにすべて点いていた。
長い机が何列にも並び、フロアを分けていた。各席には二台のモニター、バーコードリーダー、作業中のロットを置く小さな台がある。準備部門はガラスの仕切りの向こう側にあり、そこで職員たちはホチキスを外し、折れを直し、傷みやすい紙を分けてから業務用スキャナーへ送る。その反対側では品質管理が画像を受け取り、機械には理解できなかったものを探していた。
佐助はその工程が好きだった。
二度傾いただけのページでも、右下の印影を読もうとすると問題になることがある。誤って認識された名前が全工程を通り抜け、システムの中で一人の人間を別人に変えてしまうこともある。日付から数字が落ちる。裏面が抜ける。写真が白紙として処理される。
もう一度、見る必要があった。
佐助は薄手のジャケットを脱いで椅子の背にかけ、モニターの電源を入れた。キーボードの上には、前のシフトの誰かが残した黄色いメモがあった。
「ロット24-0718-C――63ページ差異」
メモをリーダーの横に置き、管理ソフトを開いた。正式な始業までまだ四分あったが、返信を待つメッセージがすでに三件あった。
一件は自動通知。もう一件は上司から。三件目は、美香が7時58分に送ったものだった。
「おはようございます、村上さん。お手すきのときにKSM資料の数量を一緒に確認していただけますか。クライアントの一覧表と受入数が一致していません」
佐助は二度読んだ。
画面に並ぶ言葉は、ただの業務連絡だった。それでも、土曜日に聞かれたことを思い出した。
「眠れましたか?」
「おはようございます、林さん。はい、眠れました」と打ち始めた。
送信する前に間違いに気づいた。二文目を消し、先ほどの差異を処理し終えたら数量を確認するとだけ書いた。
美香は、控えめなお辞儀の絵文字で礼を返した。
佐助はほぼ一時間、席を立たずに作業した。区切り紙として読み取られていたページを三十八枚、未スキャンの裏面を十一枚、それに重複した一連のページを見つけた。残る十四枚は次のロットに入っていた。準備の途中でずれたのだろう。
作業を終えるころには、オフィスは朝特有の絶え間ない音に満たされていた。キーボード、スキャナー、静かに引かれる椅子、電話口の低い声。七月の日差しが窓を押すように照らしているのに、空調は室内を冷やしすぎていた。
佐助は修正を記録し、美香が示した資料を開いた。
「KSM」
そのコードは、数年前に閉鎖された黒田睡眠医学研究所を示していた。ブンエイには、事務記録、研究用の書式、機器のマニュアル、会計書類などが箱で届いており、廃棄か返却かを決める前に分類する必要があった。契約に全資料のデジタル化は含まれていない。まず目録を作り、その後、何を保存するかをクライアントが決める。
受入一覧には、百八十四箱と記載されていた。
システム上は、百八十三箱だった。
佐助は受入時に撮影されたラベルを確認した。番号は96番まで途切れず続き、その次は98番になっている。97番は、受入済み、返却済み、破損のどの記録にも存在しなかった。
パレットの写真を拡大した。大きな二つの箱のあいだに形の違う荷物があり、ラベルの大半がビニールの帯に隠れていた。佐助はコントラストを上げた。
「……97?」
履歴を開いた。その荷物は、スキャナーにかけられない物が含まれているため、手作業の仕分けへ回されていた。それ以降の記録はなかった。
佐助は顔を上げた。
美香は二列先で、プロジェクト受付の女性職員と話していた。暑いのに白い長袖のシャツを着て、髪を暗い色のゴムでまとめている。相手の話を聞きながら、ファイルの縁を机に当てて揃えていた。
いつもの仕草だった。夢が作ったものではない。ただ、別の家の中へ移しただけだった。
美香が視線に気づいた。
佐助は画面へ目を戻した。遅すぎた。
少しして、美香が机の横に立った。
「何か見つかりました?」
「97番の箱、仕分けの段階で別に回されてました」
佐助は写真を見せた。美香がよく見ようと身をかがめる。オフィスの冷たい空気にほとんど消されていた淡い香りが、一瞬だけ届いた。
「メインの保管庫にはありません。金曜日に棚を二回確認しました」美香は言った。
「特殊資料のほうに回ったのかもしれません」
「それか、廃棄」
「記録がないなら、そうはならないはずです」
美香はファイルを胸元に抱えた。
「だから村上さんにお願いしようと思って」
佐助は彼女のほうを向いた。
「僕は、なくなった箱を見つける係ですか?」
「順番が最後までつながっていないと、気になる人だからです」
声に小さな笑いが混じっていた。佐助も同じ調子で返そうとした。
「順番は最後までつながるべきです」
「知ってます」
数秒、二人とも何も言わなかった。美香は何か付け加えようとしているようだったが、そのとき自分の席の電話が鳴り始めた。
「出ないと。昼休みのあとで倉庫に行くなら、入れるようにしておきます」
「わかりました」
美香は二歩進んでから、立ち止まった。
「それと、村上さん……」
佐助は待った。
「土曜日のこと……少し個人的なことを聞きすぎたなら、すみません」
「そんなことないです」
返事はすぐに出た。それでも今回は、言ったことを後悔しなかった。
美香はうなずき、自分の席へ戻った。
佐助は、97番の箱を処理する欄で点滅するカーソルを見つめた。その下に、システムは三つの選択肢を表示していた。「所在確認」「返却」、そして「行き先なし」。
どれも選ばなかった。
昼休み、廊下の自動販売機でサンドイッチと缶コーヒーを買った。下の店へ行くこともできたが、モニターの前に残った。食べながら、踏切で録音した音声をまた再生した。
自分の声が、家と、美香と、スイカについて話している。その背後で電車の音が膨らみ、最後の言葉をほとんど消しかけていた。
「美香は、目を覚ましたくなかった」
佐助は録音を数秒戻した。
もう一度聞いた。
二つの金属音のあいだに、ごく小さな言葉が聞こえた気がした。自分の声ではない。美香の声にも似ていない。駅のアナウンスかもしれない。踏切のそばで誰かが話していただけかもしれない。あるいは、マイクが作った歪みにすぎないのかもしれなかった。
戻って。
佐助はスマートフォンを耳に近づけた。
戻って。
上司が背後を通り、佐助は慌ててスマートフォンの画面を消した。サンドイッチを食べ終えても、味はわからなかった。
13時40分、美香が二枚の臨時入館証とクリップボードを持って現れた。
特殊資料の保管庫は地下二階の一角にあった。エレベーターはそこまで直接下りない。一度地下一階で降り、搬入口を横切り、業務用の階段を使う必要があった。階段を下りるたびに空気が暑くなった。最後の扉を開けると、古い紙とプラスチックと埃の匂いが二人を迎えた。
美香が照明を点けた。
金属棚が狭い通路を作っていた。大きさの違う箱、封が破られた封筒、査定を待つ機器。三台のファクスの横では、ビデオカメラが台車の上に置かれている。すべてにラベルがあった。廃棄される物でさえ、そこに存在した証拠を残さなければならなかった。
「手作業の仕分けは一番奥です」美香が言った。
佐助はあとをついていった。
歩きながら、美香はクリップボードで棚番号を確認していた。顔を下げるたびに耳元の髪をかけ直す仕草を、佐助は見ないようにした。
夢を覚えていることがあるか、聞いてみようと思った。言葉は形になりかけた。それでも、美香に関するほとんどのことがそうであるように、結局は胸の内に残った。
「どうかしました?」美香が聞いた。
「いいえ」
美香は一瞬、佐助の顔を見た。
「箱は奥のほうだと思います」
二人は進んだ。
蛍光灯の一本がちらついた。安定器が小さく鳴り、通路が一秒にも満たないあいだ暗くなった。
明かりが戻ると、美香が下段の棚にある形の違う箱を指した。
「97番」
佐助はしゃがんだ。黒田睡眠医学研究所のラベルの上に、赤い別のラベルが貼られている。「処理不可」。棚から引き出すには両手が必要だった。中で何かがずれた。
美香は台車の上を空け、二人で箱を載せた。封を切る前に、美香がすべての封印を撮影し、時刻を書き留めた。
「14時03分です」
佐助はその横に署名した。
中には薄いファイルが三冊あり、その下に、記録書類の箱には似つかわしくない機器が入っていた。古いビデオレコーダー、識別表示のない外付けユニット、ヘッドホン、劣化して硬くなったケーブルの束、電極が入った小箱が二つ、それに黒いプラスチックケース。どれも仮目録には記載されていなかった。
美香が一冊目のファイルを開いた。
「同意書です。古いですね」
佐助は二冊目を取り出した。紙面は図で埋められていた。人の頭部から線が伸び、変換ユニットを通って、最後はビデオ機器の図へつながっている。手書きの注記もあれば、複写が薄すぎて消えかけているものもあった。
一枚目の上部には、英字が四文字並んでいた。
「REM-B」
「知ってますか?」美香が聞いた。
「いいえ」
佐助は書類に目を走らせた。
完全な説明は見つからなかった。周期、同期、遅延への言及がある。何か所も「記録」という語に線が引かれ、その上から「帰還」と書き直されていた。一本の矢印が二人の被験者を磁気テープへ結んでいる。その横には、誰かの手で「映像を含まない」と書かれていた。
美香がプラスチックケースを開いた。中には、佐助が知っているビデオテープとは違う小型のテープが入っていた。白いラベルに題名はない。中央に数字のゼロだけが書かれていた。
「これ、記録書類の箱に入っていていいものなんですか?」
「いいえ」
「じゃあ、食い違いは数だけじゃないですね」
佐助は別のページをめくった。保守用の書式に同じ略号があり、理解できない手順が記載されていた。「外部音響刺激による帰還経路の校正」。
手書きの注記には「都市刺激」とあった。
数秒のあいだ、佐助は保管庫の中で中里第二踏切の音を聞いた。
近くに線路はない。
顔を上げた。
「聞こえました?」
「何がですか?」
音は消えた。
美香が心配そうに見ていた。佐助はファイルを閉じた。
「なんでもないです。空調の音だと思います」
「地下二階に空調はありませんよ」
佐助は天井に露出した配管を見上げた。
「じゃあ、別の音です」
美香はそれ以上聞かなかった。
二人は資料を地下一階の確認用テーブルへ運んだ。手順どおり、一点ずつ撮影し、書類をクライアントから送られた廃棄一覧と照合した。97番の箱は独立した一行に載っていたが、中身の説明はなく、指示だけが矛盾していた。「再評価まで保管/廃棄承認」。
二つの指示には同じ日付があり、署名だけが違っていた。
佐助は書式の番号順を探した。番号のあるものも、ないものもある。印影、ホチキス、紙質のわずかな違いを手がかりに並べ直した。美香は、佐助が作ったまとまりを一覧表へ入力していった。
「本当に、順番が途中で切れてるの、我慢できないんですね」
「これ、混ざってるべきじゃないです」
「文句を言ってるわけじゃありません」
佐助は二枚の書式を重ね、穴の位置が一致することに気づいた。
「土曜日……夢、見ましたか?」と言いかけた。
美香の指がキーボードの上で止まった。
聞ける状況だった。保管庫には二人しかいない。スキャナーの音もここまでは届かない。二人のあいだを台車が横切ることもなければ、別の机で電話が鳴ることもない。
「どうして知りたいんですか?」美香が聞いた。
佐助は縁側を思い浮かべた。早く出なければならないと美香が言ったこと。二人の許可も求めず、夢が作り上げた人生。
「ただ、聞いてみただけです」
美香はさらに数秒待ち、それから一覧表へ視線を戻した。
「見ました」美香は言った。「目が覚めたとき、誰かを待たせたままにしてきた気がしたんです。でも、誰だったかは覚えてません」
佐助の手は動かなかった。
「誰もいなかったのかもしれません」美香は続けた。「夢って、そういうことありますよね。起きてもいないことが、なぜか懐かしくなる」
佐助は紙へ目を落とした。
「そうかもしれません」
16時20分、美香は会議のため六階へ戻らなければならなくなった。出る前に社内の案件を起票し、97番の箱を保留扱いにした。どちらの指示が正しいのかクライアントが確認するまで、何ひとつ廃棄できない。
「一覧、最後までやってもらえますか?」
「やります」
「19時過ぎまで残らないでくださいね」
佐助は少しだけ笑いそうになった。
「やってみます」
「いつもそう言いますよね」
その言葉は、夢の中で感じたのと同じ親しさをまとって、佐助の胸に届いた。
美香は気づかなかった。軽く会釈して出ていった。
佐助は箱と二人きりになった。
それから一時間、ケーブル、電極、ゼロと記されたテープ、REM-Bの図面を記録した。その名前は1999年から2002年までの書類に現れていたが、正式なプロジェクト名として使われた形跡はない。印刷された略号のこともあれば、余白の手書きメモのこともあった。いつも、同期、記憶、帰還といった言葉の近くにあった。
三冊目のファイルには、被験者の記録票だけが入っているようだった。
個人情報保護のため、佐助が読むべきなのは目録作成に必要な項目までだった。枚数、日付の範囲、保存状態を記録し、その後、取り除く必要のある金属留め具がないかを確認した。
そこで、番号が一つ飛んでいることに気づいた。
「被験者041」
「被験者042」
「被験者044」
043の記録票は、劣化した接着剤のほとんど見えない帯で、前の用紙の裏に貼りついていた。佐助は慎重に二枚を剥がした。
下になっていた紙だけ、色が少し明るく残っていた。
上部には2001年3月17日の日付があった。その下の手書き欄には、同じ試験に二人が紐づけられていることが記されていた。一人目は七歳の子どもだった。
子どもの名前は、印刷後に塗られた黒い帯で隠されていた。次の保護者欄には、イニシャル一文字と姓だけが残っている。
「Y・村上」
佐助は読み直した。
村上は珍しい姓ではない。Yというイニシャルも、いくつもの名前に当てはまる。それでも、その日付だけは、理由のわからない形で目を離させなかった。
用紙の末尾にある署名は、インクの一部が失われていた。最初の一画は右へ傾いているように見え、その先は湿気でできた染みの中に溶けていた。
佐助は紙を光にかざした。
何かに見覚えがあるのか、それとも見覚えがあってほしいだけなのか、判断できなかった。
署名の横に、研究者の注記があった。
保護者は、子どもが「帰還経路を再び説明した」と報告している。
佐助は次の記録票を探した。
なかった。
番号に戻った。四十一。四十二。四十四。
043がないことは、もう単なる数え間違いには見えなかった。意味を決める最後の一語だけが抜け落ちた文のようだった。
スマートフォンを取り出し、ボイスレコーダーを開いた。画面には自動で時刻が表示された。17時38分。
数秒、赤いボタンを見つめた。
それから押した。
「自分と同じ名字の記録を見つけた」
少し間を置いた。
「たぶん、何の意味もない」
録音は、そのあとさらに四秒続いてから終了した。




