雨垂れ
「ねぇ、村山さん。ちょっといい?」
背後から聞こえる声に、私の頭の中で警報が鳴った。
終業時間の少し前。
この時間で、このタイミング。嫌な予感しかしない。
手洗いしている水音に紛れ込ませて、シラっと『良くないです』と言えない私は、心臓の毛の生え方がまだまだ甘ちゃんらしい。
「どうしたんですか?」
蛇口を捻って水音を止める。そして、私は声の主に顔を向けた。
我ながら、何とも白々しいセリフを吐けるものだ。
申し訳なさそうな顔から漂う無意識の圧力に、今日も完敗を喫してしまった。
何だか相手の掌の上で、強制的に台本を読まされている気分になる。
「申し訳ないんだけどさ。明日の休み、変わってくれない? お義母さんが孫に会いたいって、急に家に来る事になっちゃって……」
原田さんの深いため息からは、心底歓迎できない突発イベントへの絶望が溢れていた。
ほんの30分前。私が配送から戻って来た時には、もう1人の内勤の相川さんと『今日は少し暇だったね』なんて笑って雑談していたのに。
今は急ぎの仕事をこなした後のように、疲れきった顔になっていた。
そんな表情になる気持ちは、察するに余りある。
……が。だからと言って、こちらまで被弾する羽目になるのは、納得いかないのも本音だ。
「……社長には、もう相談したんですか?」
水の滴る手を、安直なオバケのようにダランと垂らしたまま見返っている姿は、さぞや間抜けに見えるだろう。
相手に苛立ちを気取られないように、必死に苦笑いで取り繕った。
大体、何で相談先が私なのかも分からない。
明日の私の休みは指定して確保した休みじゃない。
確かに、人員がダブついた箇所に配置された休みだけれども。
けれど、本当の問題はそこじゃない。むしろ、それ以前の問題だ。
そもそも彼女とは、仕事の担当部門が違うと言うのに。
「うん、さっきね。でね、社長が『村山さんが変わってくれるならいいよ』って」
その言葉を聞いて、私は眉間に皺が寄るのを必死で我慢した。
──あんにゃろうめ。面倒臭がりやがったな。
「でも、私は配送もしなきゃだし。原田さん、内勤専門でしょ? 休み変えるって言っても、他の配送の人のシフト交換も頼まなきゃいけないし……」
はっきり『嫌』の言葉が言えない代わりに、一応の悪足掻き。
予定調和からのどんでん返しは期待できないと分かっていても、すんなり『いいですよ』と言いたくなくて、小狡いボールを投げ返す。
「うん、そうなんだよね。だから、村山さんが良いなら、シフト交換の段取りもしてもらってって……」
凄く言いにくそうにしているのは、申し訳なさがある証拠。
けれど、それとこれとは別問題だ。一気に面倒臭さが押し寄せて来る。
──人の休みを肩代わりした挙句、私の休みは自分で調整しろと。
私はマルチ業務だけれど、原田さんは内勤専属で配送には出ない。
だったら、私の休みを入れ直すには、配送担当の人員配置をやり直さなきゃ。
至極面倒臭い。
──他人の休みの調整のために、何故に私が誰かへ頭を下げなきゃならんのか。
思わず情けなく下がってしまった眉毛が、2人の空気を気まずくさせた。
「村山ちゃん。俺、明日休ませてもらう事になったから! ごめん!」
横から割って入って来た声に、気まずい空気が霧散した。
オーバーアクションに手を合わせて、ガタイの良い体で忙しなく、コメツキバッタのように頭を上下させている高島さんは、謝っている素振りの割に口調が軽い。
「いやー。上の孫がさぁ、熱出しちゃって。娘が下の孫、預かって欲しいって頼まれちゃってさぁ」
こちらが聞いてもいない理由を述べるのは、高島さんも一応は悪いと思っている証拠だろう。
それに、溺愛する孫娘の一大事だ。
これ以上に優先する事など、彼の選択肢には存在なんぞしていないだろうし。
「社長に連絡したらさぁ。明日は村山ちゃんが出勤だから、ちゃんと配送業務の引き継ぎしといてって言われてさぁ。ほんと、ごめんね」
高島さんも、申し訳なさげに謝罪を口にしてくれる。
けれどそんな謝罪よりも、嫌な言葉が頭の中に反響していた。
──何で。何で私が返事する前に、私の出勤が確定してるのか。
全方向に言いたいことは山ほどあるが、外堀を埋められた今の状態では、私が何を言ったところで、私の印象が悪くなって終わるだけだろう。
私は観念する代わりに、これみよがしにガックリと肩を落とした。
「その代わり、俺の休みと交換するからさ。それで許してよ」
蝿のように手を擦りながら、高島さんが気まずそうに懇願する。
彼から提示された条件で、確かに問題は1つ解決したが、明日が地獄だと言う事にに変わりない。
今の私には、乾いた笑いで了承の返事をするのが精一杯だ。
「本当、いつもごめんね。でも、村山さんがいてくれるから助かってる」
明日の状況を察して、原田さんはションボリしている。
感謝の意味を込めた最後の言葉が、彼女なりの誠意なんだろう。
「そうそう。我らがエースのおかげで、この会社は回ってるようなもんだよ」
おべっかなのか本心なのか。そこは図りかねるけれども。
まぁ、そんな事は今更どうでもいい。
高島さんの慰めを含んだ言葉は、私に二の句を継げなくする呪文である事は変わらないのだから。
もう一度、2人に向かって了承代わりの笑顔を返す。
──上手く笑えているかどうかは謎だけど。
ま、そこもどっちでも構わないか。
私の明日の休みが吹っ飛んで、スケジュールが地獄な事は微動だにしないから。
「村ちゃん! 雨! 雨降りだした!」
両手に抱えたシーツと、髪から滴る水。
血相を変えて事務所に飛び込んで来た相川さんの声で、現実に引き戻された。
それと同時に、屋根を強く叩いている雨音が、急に耳へと流れ込んでくる。
「やばい! シーツ、まだ取り込んでないのに!」
今更の如く、自分が何をする途中だったかを思い出す。
黒くなりだした空を見て、雨が来る前に干してあったシーツを取り込むために手を洗っていたのに。
「もう、ほとんど全滅。村ちゃん、濡れた分は明日洗い直し頼んだわ」
深いため息を溢しながら、メガネに付いた雨粒を拭いている相川さんは、開き直ったように焦るのをやめた。
そうやって、トドメとばかりに明日のタスクが追加される。
「とりあえず、洗濯物は取り込んで、今日はタライに突っ込んどこうか……」
ついてない時ってのは、ドミノ倒しが起こりやすい。
足掻けば足掻くほど、泥の中に埋まってしまう。
明日の配送ルートの振り分けと、タスクの再確認。
確定された残業で、一気に気分がどん底だ。
益々強まる雨足は、私に慈悲をかける気など毛頭ないらしい。
観念して、洗濯物を取り込みに行くしか術はないようだ。
「こりゃもう、諦めて濡れるしかないねぇ」
高島さんが苦笑いしながら頭を掻く。
それ以外の道はない。ここにいる全員が分かっている事だろう。
──今日はもう、惣菜を買って帰る。
私はそう心に決めて、土砂降りの中に飛び込んでいった。




