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揺蕩う水底 〜山村伽倻子の日常。1〜  作者: 四方末いそじ
揺蕩う水底

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2/3

雨垂れ

 

「ねぇ、村山さん。ちょっといい?」

 背後から聞こえる声に、私の頭の中で警報が鳴った。


 終業時間の少し前。

 この時間で、このタイミング。嫌な予感しかしない。

 手洗いしている水音に紛れ込ませて、シラっと『良くないです』と言えない私は、心臓の毛の生え方がまだまだ甘ちゃんらしい。


「どうしたんですか?」

 蛇口を捻って水音を止める。そして、私は声の主に顔を向けた。

 我ながら、何とも白々しいセリフを吐けるものだ。

 申し訳なさそうな顔から漂う無意識の圧力に、今日も完敗を喫してしまった。

 何だか相手の掌の上で、強制的に台本を読まされている気分になる。


「申し訳ないんだけどさ。明日の休み、変わってくれない? お義母さんが孫に会いたいって、急に家に来る事になっちゃって……」

 原田さんの深いため息からは、心底歓迎できない突発イベントへの絶望が溢れていた。


 ほんの30分前。私が配送から戻って来た時には、もう1人の内勤の相川さんと『今日は少し暇だったね』なんて笑って雑談していたのに。

 今は急ぎの仕事をこなした後のように、疲れきった顔になっていた。


 そんな表情になる気持ちは、察するに余りある。

 ……が。だからと言って、こちらまで被弾する羽目になるのは、納得いかないのも本音だ。


「……社長には、もう相談したんですか?」

 水の滴る手を、安直なオバケのようにダランと垂らしたまま見返っている姿は、さぞや間抜けに見えるだろう。

 相手に苛立ちを気取られないように、必死に苦笑いで取り繕った。


 大体、何で相談先が私なのかも分からない。

 明日の私の休みは指定して確保した休みじゃない。

 確かに、人員がダブついた箇所に配置された休みだけれども。


 けれど、本当の問題はそこじゃない。むしろ、それ以前の問題だ。

 そもそも彼女とは、仕事の担当部門が違うと言うのに。


「うん、さっきね。でね、社長が『村山さんが変わってくれるならいいよ』って」

 その言葉を聞いて、私は眉間に皺が寄るのを必死で我慢した。

 ──あんにゃろうめ。面倒臭がりやがったな。


「でも、私は配送もしなきゃだし。原田さん、内勤専門でしょ? 休み変えるって言っても、他の配送の人のシフト交換も頼まなきゃいけないし……」

 はっきり『嫌』の言葉が言えない代わりに、一応の悪足掻き。

 予定調和からのどんでん返しは期待できないと分かっていても、すんなり『いいですよ』と言いたくなくて、小狡いボールを投げ返す。


「うん、そうなんだよね。だから、村山さんが良いなら、シフト交換の段取りもしてもらってって……」

 凄く言いにくそうにしているのは、申し訳なさがある証拠。

 けれど、それとこれとは別問題だ。一気に面倒臭さが押し寄せて来る。

 ──人の休みを肩代わりした挙句、私の休みは自分で調整しろと。


 私はマルチ業務だけれど、原田さんは内勤専属で配送には出ない。

 だったら、私の休みを入れ直すには、配送担当の人員配置をやり直さなきゃ。


 至極面倒臭い。

 ──他人の休みの調整のために、何故に私が誰かへ頭を下げなきゃならんのか。

 思わず情けなく下がってしまった眉毛が、2人の空気を気まずくさせた。


「村山ちゃん。俺、明日休ませてもらう事になったから! ごめん!」

 横から割って入って来た声に、気まずい空気が霧散した。

 オーバーアクションに手を合わせて、ガタイの良い体で忙しなく、コメツキバッタのように頭を上下させている高島さんは、謝っている素振りの割に口調が軽い。


「いやー。上の孫がさぁ、熱出しちゃって。娘が下の孫、預かって欲しいって頼まれちゃってさぁ」

 こちらが聞いてもいない理由を述べるのは、高島さんも一応は悪いと思っている証拠だろう。

 それに、溺愛する孫娘の一大事だ。

 これ以上に優先する事など、彼の選択肢には存在なんぞしていないだろうし。


「社長に連絡したらさぁ。明日は村山ちゃんが出勤だから、ちゃんと配送業務の引き継ぎしといてって言われてさぁ。ほんと、ごめんね」

 高島さんも、申し訳なさげに謝罪を口にしてくれる。

 けれどそんな謝罪よりも、嫌な言葉が頭の中に反響していた。

 ──何で。何で私が返事する前に、私の出勤が確定してるのか。


 全方向に言いたいことは山ほどあるが、外堀を埋められた今の状態では、私が何を言ったところで、私の印象が悪くなって終わるだけだろう。

 私は観念する代わりに、これみよがしにガックリと肩を落とした。


「その代わり、俺の休みと交換するからさ。それで許してよ」

 蝿のように手を擦りながら、高島さんが気まずそうに懇願する。

 彼から提示された条件で、確かに問題は1つ解決したが、明日が地獄だと言う事にに変わりない。

 今の私には、乾いた笑いで了承の返事をするのが精一杯だ。


「本当、いつもごめんね。でも、村山さんがいてくれるから助かってる」

 明日の状況を察して、原田さんはションボリしている。

 感謝の意味を込めた最後の言葉が、彼女なりの誠意なんだろう。


「そうそう。我らがエースのおかげで、この会社は回ってるようなもんだよ」

 おべっかなのか本心なのか。そこは図りかねるけれども。

 まぁ、そんな事は今更どうでもいい。

 高島さんの慰めを含んだ言葉は、私に二の句を継げなくする呪文である事は変わらないのだから。


 もう一度、2人に向かって了承代わりの笑顔を返す。

 ──上手く笑えているかどうかは謎だけど。


 ま、そこもどっちでも構わないか。

 私の明日の休みが吹っ飛んで、スケジュールが地獄な事は微動だにしないから。


「村ちゃん! 雨! 雨降りだした!」

 両手に抱えたシーツと、髪から滴る水。

 血相を変えて事務所に飛び込んで来た相川さんの声で、現実に引き戻された。

 それと同時に、屋根を強く叩いている雨音が、急に耳へと流れ込んでくる。


「やばい! シーツ、まだ取り込んでないのに!」

 今更の如く、自分が何をする途中だったかを思い出す。

 黒くなりだした空を見て、雨が来る前に干してあったシーツを取り込むために手を洗っていたのに。


「もう、ほとんど全滅。村ちゃん、濡れた分は明日洗い直し頼んだわ」

 深いため息を溢しながら、メガネに付いた雨粒を拭いている相川さんは、開き直ったように焦るのをやめた。

 そうやって、トドメとばかりに明日のタスクが追加される。


「とりあえず、洗濯物は取り込んで、今日はタライに突っ込んどこうか……」

 ついてない時ってのは、ドミノ倒しが起こりやすい。

 足掻けば足掻くほど、泥の中に埋まってしまう。


 明日の配送ルートの振り分けと、タスクの再確認。

 確定された残業で、一気に気分がどん底だ。


 益々強まる雨足は、私に慈悲をかける気など毛頭ないらしい。

 観念して、洗濯物を取り込みに行くしか術はないようだ。


「こりゃもう、諦めて濡れるしかないねぇ」

 高島さんが苦笑いしながら頭を掻く。

 それ以外の道はない。ここにいる全員が分かっている事だろう。


 ──今日はもう、惣菜を買って帰る。

 私はそう心に決めて、土砂降りの中に飛び込んでいった。

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