浮かぶ瀬
「村ちゃんはさ、何でもかんでも引き受け過ぎなんだよ」
ため息を溢した伊藤さんは、散髪したばかりであろう白髪混じりの前髪を、後方へと撫で上げている。
ロマンスグレーが絞り出す渋い呆れ声の裏には、隠してるつもりの苛立ちが、癖と共にしっかり滲み出してしまっている。
昨日、あれから各所に頼み込んで、今日の開店時間前に配送を捩じ込んだ。
その配送から帰ってきた私に、伊藤さんは朝の挨拶もそっちのけで素直な感想を口にした。
ただ、言いたい気持ちは理解できる。
そして、大変耳が痛い。反論の余地は猫の額だ。
けれど、今の私にその言葉を言って良いかは別の話だとも思う。
「何か、ほんとにすみません……」
本当に返したい言葉は、腹の底にグッと飲み込んだ。
ここで喧嘩を始めても、事態の悪化を招く以外の役に立たない。
昨日起こったドミノ倒しの続きが、当たり前のように伊藤さんを巻き込んでいる。
溜まった洗濯物と、タライに溢れている惨劇の残骸。そして、待っても来ない内勤担当者。
何も知らずに出勤してきた伊藤さんは、訳も分からぬまま、朝の発注対応に追われていたようである。
──社長。あんた、伊藤さんへの連絡忘れてたな?
連絡を任せた私がバカだったとも思ったが、私がそこまでする義理も道理もない。
けれど、そんな葛藤など今は無意味で、只々『すこぶる空気が最悪』と言う事実だけが横たわる。
目の前には、3人でこなすはずだった作業がてんこ盛り。
昨日の夕方から降り続いてる雨のせいで、予想外の雨漏れ。
そして、誰かが数日前に仕掛けたトラップが見事に発動。
しかも、本当にひと言ってやりたい人たちは、今日ここに誰一人いないのだから尚更だ。
こう言う時は往々にして、悪い方に転がっていく。
それは私が散々読んできた、物語のセオリーなのだけれども。
あぁ、神様。失礼を承知であえて言おう。
──『貴様、時と場合を考えろ』
今日だけは、神様の暇つぶしなんかに付き合いたくなかった。
そうじゃなくとも昨日の夕方から、私の心は低空飛行のままなのだから。
けれど、そんな事を思っている端から、着信音が私を嘲笑う。
画面には、嫌な予感しか連れて来ない人物の名前。
──ブルータス、お前もか……
そんな言葉を脳裏に過らせながら、私は渋々と通話ボタンをタッチした。
『村ちゃん、今日休みだっけ?』
もはや、お約束の芸当だ。
分かっていても、『とりあえず電話してみる』の精神を遺憾なく発揮したのは、取引先の専務。
取引先に握られてしまった個人電話番号が、こうやって良い仕事をしてくれる。
「生憎、今日は出勤してますよ。どうかしましたか?」
私の答えに『良かった』と、屈託なく笑う彼は確信犯だ。
そんな彼の反応とは真逆に、私の顔は苦虫を噛み潰したようになっていく。
彼にとっては、私が休みでも、出勤でも関係ない。私を捕まえる事が大切なのだ。
ただ、聞く前におおよそ予想はついている。
内容は分からないが、面倒臭い事になるって事だけは。
大体。
社長経由でない。事務所の電話宛てでもない。
しかも、個人商店に毛の生えた程度の会社とは言え、専務直々のご指名だ。
こんなもの、役満以外の何者でもないのだから。
『清水が発注やらかしちゃっててさ。お客さん入ってんのに、夜間分の在庫がすっからかんなのよ』
向こうさんも、後には引けない状態らしい。
そして、私自身も反対の立場の時には、専務を切り札として扱っている節がある。
持ちつ持たれつ。……尤も、ここまで非道ではないのだけれど。
──清水、許すまじ。
とりあえず、専務は厄介事を運んできたが、犯人は清水くんだ。
そして、被害を被るのは、何も悪くないお客様。
同じ客商売をしている身としては、拒否する選択肢を選べない。
「時間、遅くなっても良いですか? 営業時間内の配送は難しくって。しかも、今日は内勤さんも居ないから、配送終わって作業してからの配送になりそうで……」
私は、必死に脳内のスケジュール表をめくっていく。
けれども、既に昼休憩を取る時間もないスケージュールは、どう足掻いたって絶望だ。
私の電話を怪訝な顔で聞いている伊藤さんには、これ以上のお願いなんてできやしない。
『さすがは、村ちゃん! 本当、神様・仏様・村山様々だ。これでお客様に迷惑掛けないで済むよ!』
専務は大袈裟に嘯いているけど、半分は本心からの言葉だとは思う。
私が反対の立場なら、きっと同じ反応になったはずだから。
『21時までは、会場の作業員通路の鍵開いてるから。それ以降は、22時まで高木が居るから、電話して裏口から入れるように手配しておく』
専務の気遣いにもならない気遣いに、「そこまで遅くなりませんよ」とは返せなかった。
開始早々の暗雲だもの。自分の首を、これ以上自分で絞めたくはない。
「とりあえず、早急に注文書のファックスお願いします」
専務の了承と感謝の言葉で電話は終わり、話もどうにか段取りがついた。
けれど、伊藤さんの顔も直視したくない。
忠告された端から、しかも言った本人の目の前で、仕事を背負い込んだ私だもの。
隣から何度も聞こえるため息で、既に胃が痛くなってくる。
今の私にできる事など、目を合わせないようにして、誤魔化し笑いをするのが精一杯である。
身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ──
お肌の曲がり角を曲がったあたりから、そう思ってやってきた。
けれども、世間と現実は、私の浅慮を嘲笑する。
いつの間にか、思いもよらない流れに乗せられて、翻弄されて、浮上する事なく沈んでいる。
身の捨て方が足りなかった自業自得か、救命胴衣の用意もせずに飛び込んだ私がバカなのか。
今日の夕飯も、スーパーの惣菜に決定。
ただし、アルコールはやめておこう。
明日、万が一でも朝寝坊してしまったら、二度と立ち直れない自信がある。
まぁその前に。
スーパーが開いている時間に帰れるか。そこが甚だ疑問ではあるのだけれど。
何にせよ。
私の人生は、喜劇にしかならないようだ。
逆再生のゼウスエクスマキナなんぞ、私はちっとも楽しくないのだが。
私は諦めたように、小さくため息を吐く。
そして昨日濡らした洗濯物を、恨みと一緒に洗濯機へと放り込んだ。




