第九章:親不孝に咲く泥の華
一、 侮蔑のまなざし
「お前らみたいな『負け組の遺伝子』とこれ以上一緒にいたら、俺の運気が腐るんだよ」
半年前のあの夜、古い賃貸アパートの居間に投げつけられた言葉を、浅井由衣は一生忘れない。
実父の恩田栄作の手に数億円の遺産が転がり込んだ途端、優しかったはずの父親は猛悪な暴君へと豹変した。ブランド物のスーツに身を包んだ栄作は、地べたに這いつくばって「考え直して」と泣き叫ぶ妻――由衣の母の胸元を、高級革靴のつま先で冷酷に蹴り出した。
その時の栄作の目が、何よりも由衣の心をズタズタに引き裂いた。
それは、長年連れ添った家族に向ける目ではなかった。道端に転がる犬の糞か、ドブネズミでも見るような、底冷えのする圧倒的な「侮蔑のまなざし」。己が強者へ成り上がったことを確信し、かつての身内を「人間以下」のゴミとして処理した、傲慢の極みのような目だった。
残された母娘を襲ったのは、現代の冷酷な不条理そのものだった。
離婚直後から、母は不慣れな深夜の掛け持ちバイトを始めた。身を粉にして働いたが、心身が限界を迎えた頃、当時猛威を振るっていた新型コロナウイルスに感染。困窮ゆえに十分な医療も受けられず、隔離されたプレハブの病室で、面会も叶わぬまま孤独死した。死ぬ間際まで、意識が朦朧とする中で「シフトに穴を開けて申し訳ない」と職場へ謝り続けながらの、無念の最期だった。
母の容態が急変したあの日、由衣はなりふり構わず、栄作が移り住んだ高級タワーマンションへと走った。インターホン越しに頭を下げ、治療費を無心した。
だが、返ってきたのは、かつての父親の声とは思えないほど冷え切ったノイズだった。
『うっとうしいな。これ以上つきまとうなら警察を呼ぶぞ。お前ら底辺の自己責任だろ』
母が死に、身寄りを完全に失った由衣は、児童養護施設に引き取られた。
奴と同じ「恩田」の姓は、自分で婚姻届のペーパーを引きちぎるようにして捨てた。今は亡き母の旧姓である「浅井」を名乗っている。
「――あの奴は、テレビのインタビューで『弱者は淘汰されて当然』だって、笑ってやがった。母さんを殺したのは、あの奴だ」
薄暗い雑居ビルの一室、便利屋『嶋屋』のオフィス。
高校の制服を着た由衣は、がめつい女社長である加代と、冴えない中年男の中村主水の前に立っていた。
由衣が震える手で机に差し出したのは、施設での生活費からコツコツと削って貯めた僅かな小遣いと、母の唯一の形見である、安物のくすんだ結婚指輪だった。
「父親なんて思ってない。ただの薄汚い人殺しだ。お願いです……あの奴を、あのクソ塗れのタワマンから引きずり落として……!」
由衣の瞳の奥には、涙ではなく、栄作のまなざしに決して屈しないという、凍りついた執念の炎が燃えていた。
加代はかける言葉を失い、ただ拳を握りしめた。主水は無言のまま、机の上の指輪を拾い上げると、じっとその重みを確かめるようにして懐へと収めた。
「……確かに預かった。施設の一時外出の時間だろ。早く帰りな」
主水の低い声が、静かに室内に響いた。
二、 暴君の晴れ舞台
数日後。恩田栄作の傲慢さは、最高潮に達しようとしていた。
彼が購入した最上階のペントハウスでは、「若手起業家・投資家交流レセプションパーティー」が華やかに開催されていた。きらびやかなドレスや高級スーツに身を包んだ「勝ち組」たちが、シャンパングラスを片手に談笑している。
今回のパーティーは、栄作が新たに立ち上げた投資ファンドの発表会も兼ねており、その様子はインターネットを通じて、数万人の投資家やフォロワーに向けて同時生配信されていた。
「これからは個人の時代、そして自己責任の時代です! 努力を怠り、コロナごときで生活が破綻するような底辺の人間は、社会から淘汰されて当然なのです!」
壇上でマイクを握る栄作の顔は、かつての気弱な平社員の影など微塵もなく、他者を踏みつけにする快感に歪んでいた。
だが、その華やかな空間の裏側では、目に見えない死神の罠が完全に張り巡らされていた。
ケータリングを担当する最高級フレンチの厨房には、派遣スタッフの白衣を着た半兵衛が、完全に溶け込んでいた。
半兵衛の手元にあるのは、栄作のためだけに用意された、最高級大トロのカルパッチョ。半兵衛は、その純白の身に、特製のドレッシングを回しかける。
そのドレッシングのベースに使われているのは、人間が一切消化することのできないワックス成分の塊――超濃縮「バラムツ」のオイルだった。あまりの危険性に調理・販売が禁止されている深海魚の脂が、半兵衛の超一流の技術によって、極上の美食の味へと完全に偽装されていた。
「お待ち遠さま。恩田代表へ、特製のひと皿でございます」
ウェイターの手によって、そのカルパッチョが栄作のテーブルへと運ばれる。
「ほう、これは見事な脂だ!」
栄作は疑いもせず、嬉々としてそれを口にし、喉へと滑り込ませた。
食後、上機嫌になった栄作が、ふとVIP用のプライベートトイレへ向かうため、人通りの少ない大理石の廊下を歩いていた時だった。
闇から、音もなく一人の男が現れた。勇次だった。
「おっと、失礼」
すれ違いざま、勇次は警察の制圧術を応用した不可視の動きで、栄作の身動きを完全にロックした。一般の人間が見れば、ただ肩がぶつかりそうになって支えただけにしか見えない。
だがその一瞬、勇次の鋭い指先が、栄作の腰椎にある「排泄神経」の秘孔へと、強烈な圧迫を加えた。
「ハック(神経外し)」の完了。
これによって栄作の脳は、体内でどれほど凄まじい便意が発生しようとも、それを一切「感知」できなくなる。さらに、肛門の括約筋を自分の意志で締めるという防衛機能も、完全に強制解除された。
「……前を見て歩け、無能が」
栄作はチッと舌打ちをして勇次を睨みつけたが、勇次はすでに闇の中へ消えていた。栄作は己の体に何が起きたかも気づかぬまま、再びスポットライトの当たるきらびやかなステージへと戻っていった。
三、 大決壊
「さあ、皆さん! 我々とともに、さらなる富の頂点へと進みましょう!」
再び壇上に立ち、大音量のBGMの中でスピーチを再開する栄作。会場のテンションは最高潮を迎えようとしていた。
その時、会場の重厚な扉が開き、一人の男が堂々と入ってきた。
紺色の制服に、警察のような帽子。胸元には「ビル定期防火査査員」の腕章。昼行灯のトーンを完全に崩さない中村主水だった。
「はいはい、恐れ入ります。定期の防火査察でーす。そのままお続けください」
場違いな庶民の登場に、栄作は不快そうに顔を顰めた。「おい、つまみ出せ!」とスタッフに命じようとした、その瞬間だった。
主水が栄作のすぐ脇をすれ違った。
他者からは完全に見えない超至近距離。主水は、隠し持った拳で、栄作の下腹部へピンポイントの暗殺掌底を叩き込んだ。
ドスッ、という鈍い衝撃が栄作の胎内を突き抜ける。
その衝撃の波が、勇次の仕掛けた秘孔を『強制解除』した。
同時に、半兵衛が仕込んだバラムツのワックス油が、数時間分の汚物とともに、最大の内圧をもって一気に牙を剥いた。
「が、はっ…………!? え?」
栄作の脳に、この世の終わりかと思われるほどの爆発的な質量が、津波となって押し寄せた。
脳が事態を認識した時には、すべてが手遅れだった。
括約筋の制御を完全に失った栄作の体内から、ギガクラスの圧力に達したドス黒いオレンジ色の脂と汚物が、爆音とともに一気に決壊した。
グウ、ブツツツツッ!!! びしゃああああああッ!!!
「ひっ……あ、熱、い……!? な、なんだこれはあ!」
栄作の純白のインポートスーツの股門から、凄まじい勢いで汚水が噴き出す。白いズボンが一瞬にしてドス黒いヘドロ色に染まり、高級な大理石のステージへ、滝のようにこぼれ落ちていく。
それと同時に、タワマンのメインサーバーが加代のハッキング端末に完全ジャックされた。
「ひっひっひ、盛大に垂れ流しな!」
加代の操作により、生配信のカメラがすべて栄作の股間へと超クローズアップで固定される。さらに、会場の巨大プロジェクターには、栄作がかつて裏アカウントで呟いていた「貧乏人は家畜」「コロナで死ぬ奴はゴミ」という非道な書き込みのスクショが、一斉に爆撃のように映し出された。
それだけではない。加代がリアルタイムでAI合成音声を逆利用し、栄作の声で会場中に大音量のフェイク自白を響かせる。
『私は今! 汚れた過去をすべて洗い流している最中です! 物理的に! 私はただのカネに狂ったドブネズミです!』
ブリブリブリ、ブシャアアアアッ!
「違う! これはテロだ! 誰か配信を止めろ! 消せえええ!」
栄作は狂ったように叫ぶが、動けば動くほど、ズボンの裾からオレンジ色のワックス油が容赦なく撒き散らされる。
会場中を、言葉に絶する凄まじい悪臭が満たした。
「キャーーーッ!!」「うわああ、何だこの匂いは!」「ウンコだ! 恩田が漏らしてるぞ!」
さっきまで上品に笑っていた招待客たちは、悲鳴を上げてドレスの裾を捲り上げ、出口へと殺到した。
インターネットの配信画面には、数万件の『草不可避』『リアル脱糞ファンド』『クソワロタ』というコメントが超高速で流れ、栄作の醜態は一瞬で世界中のデジタルタトゥーとして永遠に刻まれた。
四、 去り際
パーティー会場は、静まり返っていた。
高級なシャンパンやフレンチの皿が散乱する床の上で、恩田栄作は一人、クソ塗れになって這いつくばっていた。
数億円の資産、高級タワマン、集まってきた有象無象の賞賛――そのすべてが、己から溢れ出た汚水の中に沈んでいた。
「ひっ……助け、てくれ……誰か、救急車を……」
涙と鼻水、そして自らの排泄物に塗れながら、惨めに床を這う栄作。
かつて家族を「ドブネズミ」と見下した男が、今や自分自身が本物のドブネズミ以下になって、泥の中で悶絶している。
そこへ、コツ、コツ、と静かな足音が近づいてきた。
しがない防火査察員の姿のまま、中村主水がゆっくりと歩み寄る。
主水は、這いつくばる栄作の前に立つと、顎をグッと引き、両目をカッと見開いた。
その目は、かつて栄作が家族に向けたのと、全く同じ――いや、それを遥かに凌駕する、底冷えのするような冷徹な「侮蔑のまなざし」だった。
栄作は恐怖に身を震わせ、主水を見上げる。
「あ……あんた、は……何なんだ……!」
主水は何も答えず、制服の胸ポケットから、ひとつの物を取り出した。
それは、由衣から預かった、古びたくすんだ結婚指輪だった。
主水はそれを、栄作の目の前の、オレンジ色に濁った汚水の中に、冷酷にポイと投げ捨てた。
チャプン、と嫌な音がして、指輪が汚物に沈む。
「恩田さんよぉ」
主水は低く、地を這うような声で吐き捨てた。
「いくら大金を掴んで、他人の心をコントロールできた気になっててもよ……己のケツの穴一つコントロールできねえようじゃあ、実業家の看板が泣くぜ。……浅井由衣って娘がな、施設から、アンタみたいな『奴』にはこれが一番お似合いだってよ」
「あ……あさ、い……? 由衣……!? 指輪……う、嘘だ、嘘だあああ!」
栄作が絶叫する。自分が捨て、見殺しにした家族の怨念が、このクソ塗れの地獄を招いたのだと、奴の脳髄に恐怖が突き刺さる。
「せいぜい、死ぬより辛い地獄の中で、そのカネを枕に一生這いずり回りな」
主水はそれ以上、一瞥もくれなかった。
振り返り、煙の立ち込めるタワマンのフロアを、悠然と去っていく。
夜の帳が下りた街。
雑居ビルの屋上で、主水は一人、遠くにそびえ立つタワーマンションを静かに見つめていた。
ぽつりと火を点けたタバコの煙が、紫煙となって都会の夜空に溶けていく。
その懐には、由衣から受け取った僅かな小遣い――母娘の血の涙の対価が、静かに収まっていた。




