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第八章 『深紅の糸、泥濘(ぬかるみ)の王を絞め落とす』

 

 高級キャバクラ『アルカディア』のVIPルームは、喧騒から切り離された傲慢の特等席だった。

 重厚なガラスの向こう、フロアでは麗華のバースデーを祝うシャンパンタワーが光を浴び、太客たちが愚かにも金を注ぎ込んでいる。

 そのすべてを、最高級の革ソファに深く腰掛けた鮫島は、冷え切った目で見下ろしていた。

「バカどもが。女の嘘に人生賭けて、クソみたいに搾り取られてよ」

 鮫島の傍ら、バーテンダーの制服を着た男が、音もなくグラスに琥珀色の液体を注ぐ。

 ……勇次だった。

 ベストの奥、三味線糸の代わりに忍ばせた「超極細テフロン加工ワイヤー」が、勇次の指先でかすかに鳴った。

 心臓が、耳の奥でうるさいほどに脈打っている。

 どれだけ修羅場をくぐろうと、裏の仕事に手を染めようと、目の前のこの男――中高の6年間、自分の尊厳をなぶり殺しにし続けた「支配者」の声を聴くだけで、体中の血が凍りつくような錯覚に囚われる。

『おい陰キャ、お前みたいなゴミはさ、一生俺たちの足元で泥水すすってりゃいいんだよ』

 当時の嘲笑が脳裏をよぎる。指先が微かに震えた。だが、勇次はそれを許さない。もう片方の手で、強引にその震えを抑え込む。ここで熱くなれば、主水の言う通り科学捜査の網に引っかかる。冷徹になれ。アタシは仕事師だ。

「おい、お前」

 鮫島が、グラスを持ったまま勇次を睨みつけた。心臓が跳ねる。

「……何か、ご用命でしょうか」

 声を殺し、完璧な従業員の笑みを貼り付ける。鮫島はフンと鼻を鳴らし、勇次の顔をまじまじと見た。

「いや……どっかで見たツラだと思ったが。気のせいか。そんな怯えた目をされたら、昔いじめてた玩具を思い出して反吐が出る」

 鮫島はグラスを一気に煽った。半兵衛の調合した「超濃縮バラムツオイル」が、その喉を滑り落ちていく。

 まだだ。まだ動かない。

 勇次は一歩下がり、鮫島の後方をすれ違う。その一瞬。

 ――カツン。

 靴の先で、床に仕込んでおいたワイヤーの基点を踏む。と同時に、右手の指先が電光石火の速さで、鮫島の背骨、腰椎の「排泄神経の秘孔」を掠めた。

「あ……?」

 鮫島が微かに腰をよじるが、何も気づかない。鉄の秘孔は完璧だった。すでに彼の胃腸は、バラムツの悪魔的な油分で限界を超え、文字通り「決壊寸前のダム」と化している。だが、脳への通信は完全に遮断され、彼は一切の便意を感じていない。

「麗華、そろそろ主役の出番だぞ」

 鮫島がインカムでフロアに指示を出す。ステージの真ん中、純白のドレスをまとった麗華がマイクを握り、客たちの歓声が最高潮に達した。

 その時、VIPルームの重い扉が、にわかに押し開けられた。

「おいおい、賑わってるねぇ。ちょっと御免よ」

 警察帽を斜めにかぶり、よれよれの制服を着た男――中村主水が、めんどくさそうに書類を手に現れた。

「何だお前は! 警察? 出入り業者か? 今すぐつまみ出せ!」

 鮫島が激昂し、ソファから立ち上がる。

「そう怒りなさんな。本庁からの通達でね、このビルの防火設備にちょっと不備があるってんで、査察に来ただけだよ。……おっと、足元が危ねえ」

 主水は、すれ違いざまに男たちの死角を作った。警察帽を直すフリをして、鮫島の視界を完全に塞ぐ。

 次の瞬間、主水の目が、昼行灯のそれから「獣」の眼光へと変貌した。

 顎をグッと引き、腰を落とす。

 ――ドゴォッ!!

 他者からは、ただすれ違って肩がぶつかったようにしか見えない。だが、主水の警棒の柄を握った拳が、鮫島の下腹部へ、音の出ない「暗殺掌底」として完璧にめり込んでいた。

「が、はっ……!?」

 鮫島が息を詰まらせ、膝をつく。

 その衝撃の波が、鮫島の体内で鉄の秘孔を『強制解除』した。

 カタルシスの幕が上がる。

 ステージの照明が暗転し、スポットライトが麗華と、VIPルームの鮫島を同時に照らし出した。

「――仕掛けな、加代」

 部屋の隅、闇に溶けていた勇次が、極細のワイヤーを指に絡め、一気に引き絞った。

 ギチチチッ、と目に見えない糸が、店のメインサーバーの配線を物理的に切断し、加代のハッキング端末へと強制接続する。

 直後、店の巨大プロジェクターが一斉に切り替わった。

 大画面に映し出されたのは、麗華がカモたちを「ゴミ」「家畜」と呼んで嘲笑う裏アカウントのスクショ、そして、鮫島が過去に犯してきた悍ましいいじめの記録、詐欺の顧客名簿のすべて。

「な、なんだこれ……消せ! 消せよ!!」

 鮫島が叫ぼうとした、その瞬間だった。

 グ、パァン!!!

 鮫島の脳内に、この世の終わりかと思われるほどの爆発的な便意が、数年分の津波となって一気に押し寄せた。

「ひっ……あ、熱、い……!? え?」

 脳が事態を認識した時には、すべてが手遅れだった。

 鮫島の数万粒の細胞が拒絶を叫ぶ暇もなく、彼の純白のインポートスーツの股門から、凄まじい内圧を伴ったオレンジ色の脂と、ドス黒い汚物が爆音と共に噴出した。

 ブリュウゥゥッ! ブツ、ブブブブブッ!!!

「あがッ!? あ、あああぁぁぁーーっ!!」

 支配者の威厳など、一瞬で消し飛んだ。鮫島は自分の意志で括約筋を閉めることが全くできず、超高圧のクソを撒き散らしながら、高級革ソファの上でのたうち回る。

 それと完全に同期するように、フロアのステージ上でも、勇次のワイヤーにドレスのコルセットを弾き飛ばされた麗華が、純白の衣装を真黒に染め上げて大噴出した。

「いやあああーーっ! 出る、止まらない、誰か止めてえええ!」

 店内は、阿鼻叫喚の地獄絵図へと変貌した。

 詐欺の証拠を突きつけられた客たちの怒号、そして、空間を瞬時に埋め尽くした、嗅いだこともないような悪魔的な異臭。

「うわ、クソだ! あいつらクソ漏らしてやがる!!」

「撮影しろ! ネットに上げろ!」

 無数のスマートフォンのフラッシュが、ストロボのように、クソまみれで這いずり回る鮫島と麗華を容赦なく照らし出す。それは、彼らが二度と表舞台へ戻れないことを意味する、永遠のデジタルタトゥーだった。

「ひぃ、あ、う、うう……」

 自分の汚物の海に顔を突っ込み、涙と鼻水で顔をグシャグシャにしながら、鮫島は這いつくばった。その視線の先に、一足の黒い革靴が止まる。

 見上げると、そこには、バーテンダーの衣装を脱ぎ捨て、首に深紅の組紐を巻いた勇次が立っていた。

 その目は、昔の「怯えた玩具」のものではない。深淵のように冷たく、圧倒的な強者のそれだった。

 勇次はゆっくりと腰を落とし、クソまみれで震える鮫島の耳元に、死神のような声で囁いた。

「悪かったな、鮫島……。這いずり回るのは、アタシじゃなくて、お前の方だ」

「あ、あ、ひぃっ……!」

 鮫島は、かつて自分が底辺と見下していた男が、自分を永遠の地獄へ叩き落とした「本物の化け物」であったことを理解し、恐怖で完全に精神が崩壊した。

 主水は、その喧騒を背に、防火査察の書類をパタンと閉じた。

「やれやれ、こりゃあ重大な営業停止処分だな。……おい勇次、ズラかるぞ。これ以上いると、鼻がひん曲がっちまう」

 ネオンの街へ消えていく仕事人たちの背後に、ただ、社会的・精神的に完全抹殺され、人間の尊厳をクソ塗れにされた悪党どもの、終わらない絶叫だけが響き渡っていた。



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