第五章:『神の自筆(プロット)、あるいは這い寄る混沌』
一、 ドアの向こうの創造主
「あ~あ、やってられねえよ、まったく……」
五月の生温かい夜風が、湿った埃の匂いを連れて下町の路地裏を吹き抜けていく。 中村主水は、手垢で黄ばんだ警察帽の位置をだらしなく直しながら、古びた木造アパートの鉄階段をギシギシと軋ませて上っていた。
管轄の交番に、近隣住民から「気味の悪い部屋がある」と苦情が入ったのは数日前からのことだった。 『202号室の若い男が不気味で怖い。夜中に怪しい呪文を叫んだり、壁に何かをバチバチ叩きつけるような音がする。おまけに、時折部屋から不気味な高笑いが聞こえる』 現代の都会、とりわけ孤独が飽和した街にはよくある、心を病んだ引きこもりに対するありふれた通報だ。
警察としては事件性のない、ただの面倒な雑務に過ぎない。主水は「はいはい、注意すりゃいいんだろ」と、制服の襟元を緩め、202号室の薄汚れた鉄扉を無造作にノックした。
「警察だけどねぇ。ちょっと夜中に音が響くって、苦情が入って――」
ガチャ、とチェーンもかけずにドアが内側から開いた。 その瞬間、主水は言葉を失い、危うく習性で右手が腰の特殊警棒へ伸びそうになった。
「――フッ、国家の犬が。我が『全知の書斎』に何の用だ?」
そこに立っていたのは、前髪を長く垂らし、闇をそのまま溶かし込んだような黒い衣服を羽織った青年だった。切れ長の涼しげな目元、どこか世間を冷笑するようなニヒルな唇の形。 (……勇次の、旦那……!?)
主水の脳裏に、江戸の闇を共に駆けた、あの美しき仕掛け人――三味線屋の勇次の記憶が鮮烈にフラッシュバックする。瓜二つ、いや、本人そのものと言ってもいい佇まい。しかし、男がその唇を開いた瞬間、重厚なビジュアルは現代特有の「痛々しさ」へと急速に反転した。
「世界の調律者である俺の執筆を邪魔するな。今はちょうど、現世の巨悪をカオス・ストリング(暗黒の糸)で吊るし上げる、最高にクールな始末方法を神託しているところだ」
青年はそう言って、手元で百円ショップで買ったようなナイロン製の釣り糸を妖しく弄び、不気味にフッと嗤った。 彼はウェブ小説サイトでダークファンタジーを連載している、脳内が十四歳で停止した慢性中二病のウェブ小説家だった。
二、 ページに刻まれた「ファクト」
「あ、いや……夜中に大きな声を出すとね、近所迷惑だからさ。お静かにお願いしますよ、作家の先生」
主水はいつもの冴えない平警官の弛んだ笑顔を作り、揉み手をしながら、青年の許可も得ずにずるずると部屋の中へ足を踏み入れた。職務にかこつけた、仕掛け人としての「観察」の目だ。
部屋の中は、引きこもりらしくコンビニ弁当のガラとペットボトルが乱雑に散らかっていた。だが、主水の視線は、部屋の奥のデスクに置かれた、怪しく輝くトリプルモニターへと釘付けになった。 画面に映し出されていたのは、ウェブ小説の執筆画面。 その最新話のタイトルには――『悪徳リフォーム詐欺師、アヒージョの泥濘に沈む』とあった。
主水の背筋を、氷線を引くような冷たい戦慄が走り抜ける。 それは、自分たちが数日前に執行したばかりの、あの四章の仕置きの全貌、そのものだった。 スクロールしていくテキストを、主水の泳ぐ目が追う。
『……鉄槌は下る。男はバラムツの油によって便座という名の処刑台に縛り付けられ、その隙に、彼らの罪の全てが白日の下に晒されるのだ。これぞ我が紡いだ絶対のプロット(始末方法)……』
「どうだ、お巡りさん。俺の創作のクオリティに圧倒されたか?」
青年は釣り糸をピンと指で張り、誇らしげに薄い胸を張った。 「最近、気づいてしまったんだよ。俺の創作と、現実の境目がなくなってきていることにね。俺が『こうやって悪党を始末する』と書くと、数日後にニュースで全く同じ事件が起きる。やはり俺は、この世界を裏から再構築している神、カオス・マスターだったんだ」
青年は涙を流さんばかりの全能感に酔いしれ、クスクスと狂ったように笑っている。 彼は、自分が本物の仕事人をこの令和に呼び出したことにも、目の前にいる冴えない老警官こそが、その小説の通りに悪党をクソ塗れにして引きずり下ろした「本物の暗殺者」であることにも、一ミリも気づいていない。ただの、幸せな勘違いの王様だった。
だが、主水は部屋の隅の、モニターの青白い光すら届かない、澱んだ闇の奥を見逃さなかった。 そこには、電子機器の配線に絡みつくように、おぞましい血の涙を流す市松人形と、江戸時代の「あの男」の呪詛の形式に酷似した、本物の怨念を放つ『祭壇』が隠されていた。
(こいつ……ただの妄想野郎じゃねえ。自分のハラの中にある恨みの深さのあまり、小説の執筆を『呪いの儀式』に変えやがった。そして無自覚に、俺たちをこの令和の世に縛り付けてやがる……)
ジジッ……『――中村先輩、何してるんですか。早く戻ってパワポの続きやってくださいよ』
交番の後輩からの無線が間の抜けた音で入り、主水はハッと我に返った。
「へいへい、すんませんねぇ。じゃあ先生、夜中は静かにね」
主水はいつもの昼行灯の顔でペコペコと頭を下げ、アパートの部屋を後にした。
夜の冷たい空気の中に飛び出した主水は、警察帽をクイッと目深に被り直し、誰もいない路地裏でニヒルに口元を歪めた。
「……マヌケな神様がいたもんだねぇ。だけど先生、あんたがそのノート(プロット)に次の悪党の名前を書く限り――俺たちの仕事は終わらねえってわけだ」
主水は一人でこの「無自覚な創造主」をマークすることを胸に誓い、夜の闇へと静かに消えていった。




