09/醜悪な偽善
先程のあり得ない現象に背筋を震わせながら、シャルロットは悲鳴の元に向かって駆けていた。
正確な場所は判らないし、声の大きさも変わらないままだけど、なんとなく近付いている気がする。
その予感を裏付けるように、空間の裂け目のようなものが視界に過った。
まるで世界が自分に見せていた急に角度を変えたような、或いは最後のカーテンが開かれたような、そんな感じ。
そして、それを認識した瞬間から嗅覚を刺激しだした濃厚な血の匂いには、頭がくらくらするような甘さがあった。
息を止めて中に入る。場所は不明。胸元ほどの高さの草原に、シャルロットは放り出されていた。
「駄目だ! 二人やられた!」
「薄汚い化物が! ここまで生かしてやった恩を忘れやがって!」
「ちっ、斧が折れた! それ寄越せ!」
男たちの怒声が悲鳴を掻き消す。
「よく見てろ! 身の程知らずの化物が死に絶えるところをな!」
音源の方に向かう。
すると、そこには真っ赤な血肉の塊が転がっていた。
あるのはそれだけだ。怒声を上げていた者も、悲鳴の主もいない。
「止めて!」
少し離れたところから、再び悲鳴が聞こえた。
同じ怒声もまた続く。
待ち受けている光景も同じだ。それが何度も何度も、いたるところで発生する。
そんな中、悲鳴と怒声の隙間から、
「止めて、止めて……」
という、小さな嗚咽が聞こえてきた。
耳を澄ます。場所を探りあてる。
慎重に歩を進めると、そこにはルナの姿があった。この世界にいる子供の彼女じゃない、今の彼女だ。
座り込んで、耳を塞ぎ、目を閉じて、凍え死にそうなくらいに震えている。
その周りには、大人たちに何度何度も凶器を突き立てられる無数の幼いヴラドの姿があった。朱くない場所がないくらいに血塗れで、骨や臓器が見えていて、生きているとは到底思えない有様だった。
「……ルナさん」
躊躇いがちに、彼女の肩に触れる。
すると、怯えた目がこちらに向いた。
「シャル、ロット……?」
「私の事が解るんですね?」
「ヴラドが、死んじゃった」
再び頷いて、ルナはそう呟いた。はっきりとあの子の名前を呼んでみせた。
「……それは違います。ヴラドさんは生きています」
「ごめんなさい。ごめんなさい……!」
「聞いてください。ヴラドさんは生きているんです」
強い口調でそう言うけれど、ルナはまるでこちらの声なんて聞こえてないみたいに急に空を見上げて、
「夜が居ない」
と呟き、近くにあった折れた刃物を掴んで――
「――っ!?」
嫌な予感を覚えると同時に右手を伸ばして居なかったら、彼女の喉には深々とそれが突き刺さっていただろう。
なにひとつ躊躇のない自殺行為だった。
それを防いだ右手に激しい熱が帯びる。痛みには慣れているし、これくらいの裂傷普段ならなんて事もない筈なのに、全身が強張る程の拒絶反応に見舞われた。
剥き出しの精神、魂に傷がついたからだ。その事実に気付くと共に、マヌラカルタの言葉が蘇る。
『貴様がその娘に成り代わるんだ』
ここでもし彼女の精神が死ねば、おそらくこの身体の主導権はシャルロットのものになるのだろう。そしてルナは記憶障害を抱えている。あげく十年ほどヴラドと会っていない。
正直、彼女のフリをする事はそんなに難しくはないように思えた。脳と魂が定着すれば、記憶の引き出しも問題なく行えるはずだからだ。自分の記憶がどうなるのかという不安はあるが、悪魔の契約によってこちらの不利益を隠せないマヌラカルタが口にしなかった以上、そのリスクもきっと高くはないのだろう。ラミアという事例も知っている。
(上手くやれれば……)
…………馬鹿げた考えだ。
こんなの上手くいくはずがない。いって良い筈がない。
誘惑をなんとか振り払い、刃物を遠くに放り投げ、また別の凶器に手を伸ばそうとしたルナの腕を抑えて言う。
「ヴラドさんは生きています。あの子は死んでなんていない」
「……嘘。だって、こんなの、生きていられるわけない」
血塗れの死体に視線を向けて、彼女は言う。
たしかに、これが全て現実の光景なら、疑うのは当然だ。そうでなくても、彼が受けた暴力の種類を鑑みれば普通は死んでいるという結論になるだろう。彼が、ただの人間だったのなら。
「ルナさんは、ヴラドさんの魔法がなんなのか知っていますか?」
「血を、操る魔法……じゃないの?」
「ヴラドさんの魔法は『定着』と呼ばれる特別なものでした。その力は血液を媒体に他の機能を自身に宿す事ができるというもので、損なわれた臓器の役割を血液に代用させることも、他人の核を自身に定着させる事でその魔法を行使することも可能としていました。そして自己回復などの魔法は大数に属する魔法。希少性は低く、主に肉体労働系の職場で重宝されています。あの村にも多くいたはずです。つまり、死体から回収した核を利用すれば、脳が潰されない限りどんな損傷を負っていても十分生命を維持することは出来るんです」
正確には魔力が尽きない限りは、というのが一番大きな条件にはなりそうだが、それをあえて口にする必要はない。
「だから、ヴラドさんは生きています。そして私は、そんなヴラドさんと一緒に旅をしてきました。貴女が懐かしいって言ったのは、きっとその所為です」
それを彼女が今覚えているのかは判らないけれど、それなりの根拠は示せたはず……。
「……生きてる? あの子が、生きてるの?」
「はい」
「…………そう、なんだ」
ぽろぽろ、とルナの眼から涙が零れた。
込み上げてくる感情に翻弄されるがままに流れる涙を拭いもせずに、言葉を噛みしめるように淡く微笑むその姿は、悔しいくらいに美しいかった。
(本当にこれでよかったの?)
今ならまだ彼女を殺して、成り代わる事が出来る。この美しい人になって、全てを手に入れる事が出来るかもしれない。
(……なんて、醜い)
こんな価値観がなければ、選べたのだろうか?
………………苦しい。
どうして、こんなに嫌な気持ちが溢れて来るのか。
だったらいっそ選んでしまえばいいのに、それも出来ない自分に心底嫌悪を覚えた。
それを何とか押し殺して、シャルロットは言う。
「記憶障害はルナさんの魔法によって起きています。貴女がそれを解除すれば、この問題は解決するはずです。出来ますか?」
此処は彼女の世界だ。精神しかない自分と違って肉体とも繋がっているので、この場でも当然魔法は行使できる。
「わからない。夜はいつも自動的なの。自動的に機能して自動的に消えてしまう。それがなんなのか判らない。どうすればいいの?」
「そ、それは……」
何と言えばいいのか、言葉が出てこなかった。
魔法一つで簡単に移動をし、脅威だって何事もなく処理してきた彼女が、自分の魔法をまったく把握できていないというのは完全に想定外だったのだ。言葉や知識と同じで、記憶障害の外にあるものだと思っていた。
しかも、答えを示す時間すら許さないように、足元から砂が溢れ始めた。かなりの速度だ。
あっという間に膝までが埋まる。
と、そこで、砂に混じった黒い魔力の線ののようなものが視界に入った。
途端、身体が浮き上がる。この朱い世界から異物を輩出するように、またあの砂漠の世界に戻そうとしているのだ。
「――っ、ルナさん!」
彼女からも分断させられそうになったので咄嗟に手を伸ばす。
ルナはそれをしっかりと掴んでくれた。それがきっかけだったのか、砂を動かしているものの正体が姿をみせる。
底なしの闇。
光すら完全に呑みこむようなその黒い糸が、全てを掬い上げようとしているのだ。
「その糸です! これを解けますか?」
「や、やってみる!」
不安そうな声で、ルナが糸を掴んだ。
「もう私は大丈夫だから、忘れたくないから、だから、お願い。――消えて」
声に、力が宿ったのを感じた。
無自覚に魔法を使えているのなら、ただ願うだけでも機能するかもという淡い希望の元に叫んだ言葉だったが、どうやら何とかなったようだ。
その確信と共に、闇が一斉に広がり、全ての障害を黒く黒く黒く黒く染め上げて――
§
――びくっ、と身体が震えると共に、シャルロットは自身の肉体へと帰還した。
右手に痛みが走る。床が血で濡れている。魂の損傷が肉体にも反映されたという事なのだろう。
そうして、改めてあの世界の危険性を痛感したところで、ぐらりと傍らにいたスロウの身体がくずれた。
咄嗟にその身体を支える。
「らしくないが、どうやら相当に無理をしたようだな。その甲斐はあったのかよ?」
チュルが訪ねてきた。
それに対する答えは、まだわからない。
「……ん、んん」
答えをもつ彼女が目を覚ました。
ぼんやりとした周囲を見渡して、ゆっくりと立ち上がる。
「……ルナさん」
「私、貴女の事わかるよ。シャルロット」
そういって、彼女はシャルロットを抱きしめた。
「ごめんね。ありがとう。私、やっと、思いだせた。あの子の事」
「……」
良かったという安堵と、それだけではない複雑な感情が胸を埋める。
醜い未練だ。それを何とか噛み砕こうとしたところで、不意にルナの身体も脱力した。
「そっちも相当な負荷だったみたいだな。まあ、荒療治だったんだから当然なんだろうが……てめぇの方はどうなんだ?」
と、チュルが訪ねてくる
「私の方は、大丈夫です」
まあ、右手は痛いが、もう傷は治っている。痛みの方も今日中には消えてくれるだろう。
「そうかよ。で、そいつはどうする?」
チュルの視線がスロウに戻った。
「どうするとは?」
「今なら簡単に殺せるって話さ。憎い相手なんだろう? オレは別に構わないぜ、そいつ嫌いだし」
「……私たちの目的は儀式の権利を得る事です。それに、今でなくてもどうせ最後には果たされる事ですから、急ぐ必要はありません」
挑発的な視線に、シャルロットは嘘のない言葉を返す。
「へぇ、お飾りのトップかと思ってたが、完全にそうってわけでもなさそうだな。少し安心したよ。まあ、なんにしても、これで神子が一人戦力に加わった……いや、ルシェド・オルトロージュの戦力から除外されたってのが今のところは適切か。あとはてめぇ次第ってことなんだろう? 上手くやれよ」
「……ええ」
もちろん、そのつもりだ。神子の中でも相当に特殊らしい彼女の力は、もしかしたらヴラド達の問題を解決する可能性を秘めているかもしれないのだから。
(あまり望み過ぎるのもどうかと思うが。まあ、実際その娘の力は異質だ。貴様が乗っ取れば最大源利用出来た事だろうな)
悪魔の未練は無視して、シャルロットはルナを抱き上げ、
「すみませんが、部屋を一つ用意出来ますか?」
と、此処にはいない天使に向かって告げた。
『一部屋で良いのですか?』
声だけが室内に響く。
「ええ、ルナさんは私の部屋で寝かせますから」
『……手続きが完了しました』
「クリスエレスの当主は、私が運ぼう」
と、ファリンが言った。
「てめぇは案内だけでいいよ。大事な同盟相手に何かあっても困るしな」
すかさずにチュルが言葉を返し、スロウを抱き上げる。
あからさまに場の空気が重たくなった。
「それはどういう意味だ?」
「スロウはサラヴェディカを見限り、ノスティワが帰還しても立場を改めなかった天使、いわば逆賊に等しい存在だ。そんな奴に近付こうだなんて、裏があると思って当然だろう?」
「卑しき人間らしい邪推だな」
「なんだ、図星かよ? さすがは人様の器を盗んでまで見苦しくこの人間世界にしがみついてる虫けら共だな。羽音の煩い事だ」
「――っ、貴様」
「寝言ほざいてる暇があんなら、さっさと案内しろよ? あんま煩いと、その舌斬り落として喉塞いじまうぞ? 塵芥が」
「ファリン」
見かねたノスティワが声を掛けた。
「……ついて来るがいい」
怒りをまったく隠しきれていない表情で言って、ファリンは足早に儀式場と化した一室を出て行った。




