07/霧を払うために
目が覚めたら知らないところに居た。
のろのろとベッドから身体を起こす。
「ここは、どこ?」
傍に誰もいないので、答えは返ってこない。
それに、少しの違和感を覚えた。もしかしたら眠る前には誰かが傍に居たのかもしれない。
「……」
ぼんやりとした頭のまま、なんとなく天井を見上げる。
あるのは白い灯だけだ。
と、そこで、ルナは自分が誰なのかを思い出した。
「そうだ、図書館に行くんだった」
あの子と約束をしたのだ。あの子と……いや、違う。そう、ルシェドだ。ルシェドと約束した、はず。
(でも、ルシェドって誰だったっけ?)
もっと柔らかい響きの誰かとの約束だった気がする。
じっとしてても思い出せないので、ふらふらとした足取りで部屋を出る事にした。
全てが真っ白な、長い廊下。
左手に視線を向けると、そこには一人の女性がいた。
少し、心臓が跳ねる。
(あの子だ!)
衝動的に駆けだして、抱きつく。
そこで、違う事に気付いた。
「あの子、じゃない?」
「私はシャルロットですよ」
と、彼女は言った。
シャルロット。心地のいい響きだ。きっと知り合い。
「図書館に行くんだよね? 早く行こう」
「そうですね。行きましょう」
彼女と手を繋いで、靴音を規則正しく鳴らしていく。
けれど、それが五百を越えても、まだ二人は廊下を歩いていた。
「もしかして、遠いの?」
「いえ、もうすぐですよ。あの部屋です」
シャルロットが指差した方向には、重厚な金属製の扉があった。
扉はルナが近付くと勝手に開かれて、ルナが入ると勝手に閉じた。シャルロットは一緒に入ってこなかった。
それに首を傾げていると、
「準備はよろしいですか? ルナ様」
という声が、左耳で囁かれる。
ドアに向けていた身体を反対方向に向けると、そこにはシャルロットが居た。
……いや、どうだろう? 彼女は本当にシャルロットなのだろうか。
シャルロットの顔を忘れてしまったので、その判断は出来なかった。
でも、まあ、特に動揺を覚える事もなかったので、きっと自分にとって大した事ではないのだろう。
「準備って?」
「もちろん、死ぬ準備ですよ」
声色が変わったな、と思った瞬間視界がぐるんぐるんと二回転して、背中から地面に叩きつけられた。
赤白の太陽が夜の中で溺れている。
波に呑まれるように消えては顔を出してを繰り返し、なんだか苦しそうだった。
(あれ? でもどうして、太陽なんて見てるんだろう?)
そこで、ここが夢だという事に気付いた。
気付いた途端に目が覚める。それに合わせて、覚えていた事も全部忘れた。
ゆっくりと身体を起こす。
その際に、地面となっていた砂を掴んだ。
冷たい夜の砂漠の砂だ。なんだろう、馴染み深い感じ。
「ここ、どこだろう? ……アンナ? いないの?」
顔の思い浮かばない誰かの名前を口にしながら、砂漠を歩く。
宛てもなく、焦りもなく、無軌道に、空を見上げながら記憶を探る。
最初に見つけたのはそのアンナの顔だった。次にルシェド、その次に自分の部屋なんかが頭の中に浮かび上がる。
ただ、それらの情報は今のものではない。だからアンナは十二歳になったばかりの子供で、自室は四つ前の大陸での襲撃で消し炭になったテントだった。鏡越しに見た自分の姿もそうだ。
ガリガリに痩せ細った薄汚い自分と、ワンピース姿の今の自分はあまりにもかけ離れていて、ルナには前者が誰なのか判らなかった。
思い出せるということは、ルシェドの元に引き取られたばかりの頃の自分なのだと思うが……それとも、今脳裏に浮かんだ自分は、それ以前の自分なのだろうか。
(だとしたら……)
頭が冴えてきたと思った途端に、また記憶が途切れた。
なにを考えてたのか、何を思い出していたのかも忘れてしまった。
「なんだっけ? まあ、いいか」
ため息も出ない。
自分はずっとずっとこうなのだという事を、慣れというカタチで忘れてしまっても覚えているからなのかもしれない。
それはそうと、なんだか急に眠くなってきた。
眠気を感じた時にはもう意識は途切れていて、どれくらい眠ったのかも分からないままに、またふと目が覚めた。
「あの子は、どこだろう?」
そしていつものようにスタート地点から、彼女は存在しないゴールを探すのだ。いっそ、その堂々巡りこそを望むかのように。
だが、今日はいつもとは少し違った。
呼応の気配を感じたのである。あの子の影が少しだけ見えた気がした。それと同時に、足元に異変が生じる。
「あれ?」
急に、足が沈みだしたのだ。
みるみるうちに膝のあたりまで飲み込まれて身動きが取れなくなった。頑張って抜こうとしてもまるで駄目だった。
このままだと、窒息してしまうかもしれない。
(私、死ぬのかな?)
そんな事を考えながらも、抵抗する気にはなれなかった。
むしろ、安堵のような感情が込み上げてくる。いつかのルシェドの言葉を思い出す。
『来るべき日に、私が君に死を与えよう。そうすれば君はまた彼に会える』
それが今日という事なのか。
でも、彼とは誰なのか? あの子と結びつけることが出来なかったルナは、その事について少し考えるが、考えている最中にその言葉も忘れてしまった。
代わりに、これも夢だという事に気付く。
これだけ異常な現象を前にすぐに気付けなかったのは、夢でも睡魔に襲われるうえ、夢の中で目を覚ますという事が常態化しているからだ。だから今が夢なのか現実なのかの区別が彼女にはつかないのである。
そんな彼女の言う『夢』とはつまり『無い』もの。
だから、彼女は悲しいかなその実、夢の中でもあの子には会えてはいなかった。会っていた、という呪いのような思い込みだけが――残り香のようなおぼろげな気配だけが、彼女が唯一片時も忘れることなく覚えている記憶だったのだ。
このように、傍から見ているよりもずっと、ルナの記憶障害は深刻で――
「――っ!?」
不意に背筋が震えた。
腰まで砂に浸かったところで、それはもう猛烈な拒絶反応だった。
「い、いやっ」
じたばたともがく。
必死になって這い上がろうと試みる。
無駄な抵抗。むしろ、その愚行によっていっそうスムーズにこの身体は沈んでいく。
その度に、恐怖が急速に競り上がってくる。
「嫌! 嫌! 止めて!」
自身の悲鳴に重なるように、頭の中でもう一つ悲鳴が響き渡った。と同時に、世界が切り替わる。
血塗れの誰か。
押されつけられている身体。
全身を覆う気持ち悪さ。
そして、死の気配。
今、目の前にある光景は――
『――忘れてしまえばいいんだよ。君にはそれが出来るのだから』
全てを真っ白に染め上げる声が、静かに世界に響き渡った。
§
ルナの記憶障害の原因を取り除く手術が始まってから、三時間が経過した。
チュルとスロウの血によって描かれた魔法陣の中心に設置された台の上に寝かされたルナは、先程からずっと苦悶の表情を浮かべている。
でも、それ以上に苦しそうなのはスロウだ。
彼女は今、ルナの額に手を乗せているシャルロットの手の甲に自身の手を置いて、小指の爪先でルナに触れていた。
ずいぶんと奇妙な状況だが、シャルロットという対象外が防波堤になっていない状態でルナに触れると、たちまち彼女の『夜』に襲われる危険がある、というノスティワの助言に従っての事である。
「……おおよその把握は出来ましたが、やはり外部からの干渉では、決定的な打開は難しそうですね」その手を離して、スロウは数歩ほどルナから後退した。「彼女の魂に接続して、彼女自身に魔法を解かせる必要があります」
「魂に接続する、か。ずいぶんと簡単に言うものだな。具体的にどうやってそれを為すつもりだ?」
影から顔を出したマヌラカルタが眉を顰めながら言った。
「ルーメサイトにある法則の一つ、契約者のシステムを利用します」
「なるほど、法の神である貴様なら、たしかにそのルールを他に適応させる事も可能か。これだけの儀式場もあるわけだしな」
「ええ、さらに付け加えるのならアブロイもいますので、問題なく執り行える事でしょう。ただ、介入した先の安全までは用意出来ません。それでも行うかどうかは、リスクを負う者が決める事ですね」
シャルロットを真っ直ぐに見据えながら、スロウは答えた。
(……どうするつもりだ? 先に言っておくが、私は大賛成だ。貴様の魂が死んでくれたら、私は晴れて自由の身だからな)
リリスとの悪魔の契約の所為だろう、こちらが不利になる行為が許されていないマヌラカルタが、投げやりに言った。
そんな彼が喜ぶ真似をするのは少々複雑だけど、それでも上手く行けばルナの記憶障害を解消できるというのなら、飛びこまない理由はない。
「お願いします」
「判りました。では、力を抜いてください。……行使後の支えはいりませんね?」
「もちろんだ。私の大事な身体だからな。しっかりと制御するさ」
スロウの問いに、マヌラカルタが嫌らしい笑顔で答えた。
絶対に死ねない、という気持ちが強く沸き上がってくる。そういう意味では、彼の言葉は見事なまでにシャルロットの為になっていたわけだが――
(――あぁ、そうだ、貴様の為に一つ良い案をくれてやろう)
(なに?)
(全てを手に入れる事が出来る選択だよ。貴様がその娘の肉体を乗っ取るんだ。その娘の魂を殺してな。そうすれば、その娘の力も自由に使えて勝利の可能性も増すうえに、貴様の想いも報われるかもしれない)
(……ふざけないで)
(己を偽るものじゃない。もっと素直になれ。私にこの提案が出来る事の意味を考えてみろ)
マヌラカルタが影を経由して、シャルロットの中に戻って行く。
そのタイミングで、
「では、始めますが、よろしいかしら?」
「……ええ、お願いします」
スロウに頷きながら(ふざけるな)とシャルロットはもう一度、先程の言葉を強く反発して、ルナの魂へと向かうべく、力を抜いて目を閉じた。




