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君>世界   作者: 雪ノ雪
第六章『最善の悪』
68/120

05/必殺の一手

 その日がやってきた。

 魔方陣は問題なく完成。ヴラドの方も万全とは言い難いが、奇襲を成立させる程度の時間なら全力で戦えるレベルにまでは回復することが出来ていた。

 リグチラから借りた深海世界の一部も、すでに自然の裏側に張り付けられている。準備の方は万端だ。

 あとは待つだけ。

 そうして一時間ほどが経過したところで、公園の私有地に第一皇子と皇帝がやってきた。もちろん一人ではない。第一皇子の傍らにはチュルがいて、皇帝の傍らにはシャイアがいた。

(映像は良好ね。とりあえず、まだ気付かれてもいない)

 チュルとシャイアという最高峰を欺いてなお、とりあえず、という言葉をリリスがつけたのは、そこにまだ目標の姿がなかったからだ。

 クーレが交渉に参加することは記者もどきを通じてはっきりしているが、やはり姿が見えないというのは不安なようで、リリスの表情はやや硬い。

(均衡が崩れたタイミングで、なにかを仕掛けるつもりだからだろう。或いは、その間際で)

(そんなことは、言われなくても判っているわよ)

(そうか、ならいい)

 意識をリリスから、二人の神子に移す。

「何故、貴様が此処に居る?」

 殺気の混じった気配を漂わせながら、シャイアが言った。

 本来なら、ここにはタシネルが来るはずだったのだろう。彼女の弁明を聞いたうえで、今後について考える予定だった。

「そんな事もわかんねぇのか? 堅物女は頭も悪いんだな。タシネル・リャンタの意向に従って、此処に居るんだよ。その意味くらいは、分かるよな?」

 蔑みを全面に押し出して、チュルが嗤う。

 こちらはこちらで初めからタシネル・リャンタを表に出すつもりはなかったようだ。あるいは、表には出せない状態だったのだろう。なんでもシャイアの魔法はリズにとってあまり望ましいものではないらしいし、それが理由である可能性は高い。

 いずれにしても、何の問題もなく和平交渉は破談になりそうだった。

 それを避けたいはずの皇族たちは、しかし神子たちが放つ圧力を前になかなか口を開けていない。

 それでも、このままでは時間稼ぎもろくにできないと、意を決してアクションを起こそうとしたところで、

「あぁ、てめぇらは喋らなくていいぞ。これ以上くだらなぇ茶番に付き合う気もねぇからな」

 と、その気配を読み取ったチュルが牽制の一刺しを決め、真っ直ぐにシャイアを見据えながら言った。

「ほら、早く選べよ? 苦汁を呑むか、命を捨てるか」

「……タシネル・リャンタは今どこにいる? 人形ではなく、本体のいる場所だ。まだ口が動かせるうちに答えろ」

 一歩、前に踏み出し、シャイアは完全に臨戦態勢に入った。

 人形やら本体やら、こちらが把握できていない情報が出てきたが、すでにタシネルが処理されている可能性が高い中では無価値な内容だ。そもそも長年この国にいるのに、未だになにも把握できていないシャイアの能力には疑問がある。まあ、こちらも自力でタシネルの居場所を突き止める事は出来なかったので、けして彼女の能力が低いというわけではないのだろうが。

「いいのか? ここで始めちまったら皇族が死ぬぞ? それでもいいってんなら、別に今すぐやっちまってもいいけどよ」

 チュルも完全に臨戦態勢に入った。

 なにか一つでも動きがあれば、この自然公園は地図から消える事になるだろう。

 空気がどんどんどん重くなっていき、一般人でしかない皇族二人は完全に息をする事すら困難な状態に陥っていた。

(いい状況だな)

 これだけ周囲の場が乱れていれば、クーレも仕掛けの感知は出来ない。

 あとの問題は、本当に彼がこの場にやってくるかだけ……。

(――来た)

 空間が開く。

 十ヘクテルの距離で対峙している二人の神子を点としてみれば、ちょうど正三角形になる位置。

 これだけの魔力干渉に晒された中、何かしらの保護を受けた空間行使によって、まずはクーレが姿を見せた。

 そして、その後ろから一人の少女が現れる。

 ノスティワではない。淡い金色の髪に、薄桃色の目を持った六枚翼の天使だ。外見年齢は十四、五歳程度で、リグチラに近い感じだった。もちろん、実年齢は万を軽く超えているのだろうが。

「……スロウ」

 まったく想定していなかったのか、チュルの気配にわずかな揺らぎが生じる。

 シャイアも同様だ。まあ、彼女の場合はクーレの登場の方により驚いていた風ではあったが。

「なんで、てめぇがこの場に来てる?」

 ドスの利いた声でチュルが問う。

 その攻撃的な姿勢に、スロウは嘆くように吐息を一つ零し、

「何故? それはご自分の胸に訊いてみれば良いのではありませんか? それとも善悪の区別もついていないのか。よろしい。では、罪深き貴女に教えて差し上げましょう。貴女がたはタシネル・リャンタを殺害し、その立場を乗っ取って我々を利用しようとした。それは、同盟相手に対する非道以外の何物でもありません。誠意の欠片もない最低の行いです。人間を謡うのなら、これを恥じる程度の知性と道徳は持ち合わせてほしいものですね」

「タシネルが死んだ? それは本当の事か?」

 クーレとスロウをちらちら見ながら、シャイアが不審そうに眉をひそめた。

 外なる異質な神に翻弄されてきた彼女にとって、それは到底実現可能な事だと思えなかったようだ。

「もし生きているのであれば、すぐにでもここにやってくるでしょうね。でなければ、この三国同盟が終わってしまうのですから」

 優雅な微笑を湛えながら、スロウはそう答えた。

 それからゆらりと周囲を見渡して、

「ザラもいますね。相も変わらず王と呼ぶには相応しくない、姑息な男」

 と、零す。

 ザラとはエンシェの君主の名前だ。こちらでは感知できていないが、嘘を言っている感じもしない。

黒界(こっかい)に隣接する成層圏にいるわね。感知したというよりは、予測したが正解でしょう。だから、こちらの存在には気付かれていない筈よ)

 感情の抜けおちた淡々とした聲が、脳裏に響いた。

 仕掛けどころに頭をフル回転させている所為か、淫魔らしい振舞いが完全に抜け落ちている。

 煩わしさがなくなったのはいい事だが、少し心配。

(……心配?)

 自身の胸に不意に浮かび上がった感情に、ヴラドは眉を顰める。

 実行役は自分なのだ。最終的なタイミングだって、こちらが担う。リリスがどんな精神状態だろうが、行動に支障など出ない。なのにどうして、そんなよくわからない感情が湧いたのか……。

 そこに思考を巡らせるより先に、ぱん、と両手を叩く甲高い音が響き渡った。

「さて、盤面が見えたところで、どうする? 僕としてはさっさと関係性を決めてほしいんだけど? こんな場所にいても退屈なだけだしね」

 どこか投げやりなトーンで、クーレが進行役を担ったのだ。

 神子でもない、よく分からない第三者に、チュルは当然のように嫌悪と苛立ちを露わにする。

「ってか、てめぇ誰だよ? てめぇが吹き込んだのか?」

「吹き込んだ? 父上も兄上も最近は妙な行動が多かったから誰でも気付けるものだと思ってたけど、まさかあれに気付いていなかったのか。そして僕がいつ接触したのかも、わからなかったと。もしそうだとするなら、もう少し視野を広げた方がいいかもね。出来ることなら」

 残念なものを見るような目で、クーレは言う。

「今死ぬか、てめぇ?」

 チュルの身体から殺気が吹き荒れた。

 それに対応するべく、シャイアも臨戦態勢へと戻る。しかし、スロウは変わらず穏やかだ。

 あげく、クーレにいたっては、この状況で欠伸を零す始末だった。

「今やれば、死ぬのは君でしょう? それとも三対一で勝てるほど強いと思ってる? エンシェの二番手風情が」

「……てめぇ」

 これ以上ない挑発だったが、チュルはそこでブレーキを踏んだ。

 三対一という戯言を真に受けたのだ。

(実際、サラヴェディカを完全に手中に収めているのなら、暗殺以外に能のない神子の足止め程度は出来る。そして、あの天使の魔法は自身というより他者により大きな影響を与えるもの。まあ、本質はそれを代償に、他者からさらに大きな価値を搾取するものではあるのだけどね)

 その理由をつまらなげにリリスが説明してくれたところで、

「状況は理解できた? だったら、さっさと尻尾を巻いて逃げてくれると嬉しいんだけど?」

 と、投げやりな口調で言いながら、クーレは第一皇子に向かってウインクを一つした。

 それに小さく頷いて、第一皇子は悠然とした足取りで皇帝の隣に並び、チュルに向かって振り返る。

 振り返ったところで、今度は皇帝が口を開いた。

「弁明は必要ない。どのような事情があれ、ザーラッハを分断の危機に晒したそちらの行いを、我々は決して許しはしない。この猶予を無駄にせぬよう、しっかりと後悔を済ませておくのだな」

「無論クリスエレスも同じくです。同盟の戦力が減ったのは残念ですが、腫瘍が取り除かれたのは喜ばしい」

 元よりエンシェと組むのは不服極まりなかったという事なのだろう。花のようにスロウが微笑む。

「……あぁ、わかってるさ。ここでは引いてやるよ。てめぇに免じてな」

 アブロイが説得したのか、チュルは大きく後方へと飛び退いて他の神子の魔力の干渉領域から離脱し、味方の空間転移をもってこの場を後にした。

 その気配が完全に消えたところで、

「では、私もこれで失礼させていただきますが、最後に一つ。私はどなたをザーラッハの王として見ればよろしいのでしょうか?」

 と、スロウが言った。

 クーレの影響力を踏まえたの発言だろう。

「少なくとも僕ではないね。もう兄上でいいんじゃない? 父上も異論はないでしょう?」

「……」

 皇帝は無言だった。

 色々言いたいことはあるが、場所が場所だけに控えたといった感じだ。

「どうやら込み入った事情があるようですね。解りました。急いで知る事ではありませんし。今はそれだ構いません。それでは」

 スロウは自身の背後の空間に干渉して場を作り、別の誰かの空間操作によって開かれた門をくぐってクリスエレスへと帰還した。

 そうして神子はシャイア一人となる。

 彼女はおそらくこの後、皇帝と第一皇子の護衛につく。そしてクーレは特にそれを見送る事もなくサラヴェディカへと戻るだろう。

 故に、シャイアは初めから障害に組み込まれていた。そもそも神子を殺せるだけの出力を用いるのだ。クーレ一人の命では割に合わない。なにより、シャイアの魔法は非常に特別で、場合によってはルシェド戦においても機能する余地があった。手に入れられるのなら、手に入れておきたい。

(わかっていると思うけれど、本命はクーレ・サーランタただ一人。女元帥は奴の行動を制限するための駒として使いなさい)

 よほど不安なのか、事前に済ませた話をリリスがまた口にする。

 それを適当に頷きながら、しかしヴラドは変わらずシャイアを優先して始末するつもりでいた。正直、殺し損ねた時に厄介なのは彼女の方だからだ。

 そんな目的のズレを抱えながら、両者の望む時は訪れた。

 大きな問題が解決し、やがて緊張が解け、家族の空気が生まれた瞬間――クーレが「すぐには帰るなよ。話したい事は山ほどあるのだからな」という皇帝の言葉に呆れたような、それでいて懐かしむような柔らかい表情を見せた瞬間、ヴラドは裏世界から表の世界へと躍り出る。

 出現と同時に、自然公園に設置した都市魔方陣を展開。

 短時間が神子であっても脱出できないような強度の結界を張りつつ、攻撃の指向性を調整。自分たちに被害がでない環境が構築されたのを確認したところで、既に体内に入れてあった一等級――『貯金箱』とリリスが名付けた魔法を宿すの核を血に溶かし、そこから溢れ出た多種多様の魔力を魔方陣へと注ぎ込む。

 出力こそ大したことはないが、その量は圧倒的だ。

 これまで余った魔力であったり、戦場に残った魔力なりを食わせ続けてきた甲斐もあってか、領土魔方陣という名の砂漠を、あっという間に湿地に変えるほどまで満たし、起動可能な状態にまで漕ぎつける。

 魔方陣のコントロールはリリスの担当だ。ヴラドはただ敵を殺すべく、刀に魔力を込めてシャイア目掛けて踏み込む。

(――っ!?)

 狙いが違う事にリリスが驚きを滲ませるが、聲を返してくる事はなかった。

 予定通り、魔方陣を構築してなおあり余った莫大な魔力を長刀に流し込んでくる。

 ヴラドであっても、コントロールの利かない質量だ。都市魔方陣が暴力の指向性に干渉してくれなければ、直撃と同時にこちらの身体も木っ端微塵となる事だろう。

「――貴様」

 死への予感にシャイアが顔を歪めた。

 そんな神子とクーレとの距離は大体七ヘクテル程度。この位置なら問題なく巻き込める。

 それを咄嗟に理解したのか、シャイアはクーレを完全に自身の背で隠せる位置へと動いた。回避という選択を完全に捨てて、彼の安全を優先したのだ。

 振り下ろした刀が、盾のように分厚く展開されたシャイアの魔力障壁に接触し、爆発的な暴力がヴラドと領土魔方陣を除くすべての範囲に襲い掛かる。

 空が溶け、空間が歪み、重力が破綻したのか吹き飛んだ土塊が途中でぴたりと動きを止めた。

 破壊の規模は、思ったよりもずっと控えめだ。それは暴力の殆どをシャイアが引き受けたからに他ならない。

 どうやら想定していた以上に、魔力の制御が上手かったようである。

 この一撃では、仕留められなかった。

 だが、もちろん無傷には程遠い。顔面は半分が抉れ、防御の要として置かれた両腕は消滅、臓器の方も半分が裂けるか潰れるかしていて、踏ん張った両足の骨と筋肉はズタズタになっていた。

 かろうじて命だけは手放さずに済んだ、といった有様だ。

 庇われたクーレも左腕を失い、脇腹に大穴を開けている。右足も膝から下が抉り取られていた。

 反面、これだけの暴力を前に皇族二人は軽傷だ。せいぜい脳震盪を起こしたくらいで、放っておいても死にそうにはなかった。これは、クーレがシャイアと同じく、咄嗟に自分の安全よりもそちらの安全を優先したからだ。

 正直、そちらの期待はしていなかったのだが――

「シャイア、結界を壊して」

 聞こえているのか、そもそも意識があるのかすら怪しい半死人に、クーレが言った。こんな状況でも、その声には微塵の焦りもない。

 そして、シャイアもまた躊躇なく契約者の力を解き放つ。

 おそらく全ての神子の中で唯一寿命で死ぬ女の、寿命を対価として揮う事が出来る『消去』という名の神剣。

 ルシェドですら直撃を嫌いかねない色格と出力だ。

 しかし、その分、魔法の起動に手間がかかる上に、それ以外の全ての機能が低下するというオマケ付きだった。

 領土魔方陣の封鎖結界が破壊される前に、問題なくその首は落とせる。

 粉々に砕け散った長刀の柄を捨てながら、ヴラドは右手から溢れさせた己の血を巨大な剣に変えて、無防備なシャイアに振り下ろした。

「させないよ」

 こちらと同時に左足で踏み込んできたクーレが、短槍で受け止めようとする。

「あぁ、そうだろうな」

 こいつが自分を守った女を見捨てるわけがない事など判っていた。

 だからこそ、シャイアへの攻撃はクーレの行動を制限するためのエサだ。結果、左手に顕した血の刃で残ったクーレの左足を斬り落とし、移動力を完全に奪う事にも成功した。

 そのタイミングで、シャイアの魔法が放たれ、都市魔方陣の一つが消滅する。サラヴェディカの援軍を警戒する必要が出てきたというわけだ。

 特に問題はない。

 気にせずそのまま大剣をシャイアに振り下ろす。

 またもクーレが無理をして軌道をずらしてきたが、その対価にこちらは心臓を削ぎ落してやった。本当は抉り取るつもりだったが、まあ、どのみち次で終わる。

 コートの内ポケットに入っていた部分特化の『加速』の核を定着させ、自身の血を上空に展開し、二人纏めて叩き潰せる大きさのハンマーを生成、魔法を行使しながら振り下ろす。

 が、その途中、異様に硬い抵抗に阻まれた。

 水を打ったような感触。

 サラヴェディカが開いた門から、ウィン・クラヤナードが現れたのである。

 さらに、天使の群れも殺到してきた。

 想定内だ。全てが上手く行く前提で、計画など立ててはいない。

「――む」

 意図せぬかたちで水の膜が解けた事に微かな驚きを見せつつ、ウィンが再び脅威を取り戻したハンマーを自身の身体で受け止めた。

 封鎖結界の方の都市魔方陣は解かれたが、戦力に影響するもう一つの魔方陣の効果である。その中には、個人に限定した特効薬も含まれていた。

 もちろん、その個人とはウィン・クラヤナードの事だ。クーレへの恩義かなにかで彼がこちらと敵対する可能性は、当然考慮されていた。

「お前専用の魔法殺しよ。しっかり味わうといいわ」

 それを用意したリリスが、悪意を剥き出しに嗤う。

 水に関連する色の魔力全てが機能不全を起こす場においては、いかにウィンといえど即座に対応は出来ないだろう。ついでに、感知能力にも今は支障が出ている。

 それでも、殺せるとは思っていないが、奇襲は成立する筈。

(――ディア)

 共有を用いて合図を送る。

 彼女は深海世界をぐるぐると旋回し、最高速度を維持しながら、ずっとこの瞬間に備えてくれていた。

 リリスが上空の一部を裏世界と繋げた直後、あらゆる生物の中で最も速い幻獣種がウィン目掛けて突撃する。

 足手纏いもいる中でウィンに出来ることは、それらを蹴とばして直撃コースから外す事だけだ。

 そうして圧倒的な質量に真正面から対処するしかなくなったウィンの身体が、盛大に後方へと吹き飛ばされる。軽く七ヘクター(七キロメートル)は離れたことだろう。

 しかし、ダメージは殆どない。

 ディアが振り下ろした爪の一撃は掴まれ、その威力も流されて、続けて放った尻尾がかろうじてその場に留まることを許さなかったという感じだった。

 まったくもって、上出来である。

 これだけ離れてくれたら、もうウィンがこちらに干渉する術はない。

 その現実をより確実なものにするべく、ディアが咆哮を上げた。

 放射状に広がる凄まじい振動の多重高音。

 それは大気を歪め、周囲の温度を加速度的に高めながら、際限なく外へと広がっていく。それだけでも人間を殺すのには十二分の暴力だが、ディアはそこに自身の魔法を宿し、一気に解き放った。

 無数に折り重なった炎の波が、凄まじい密度で世界を焼き払っていく。

『焔』の魔法と、咆哮がもつ生体機能の合わせ技だ。

 ディアは喉が枯れるまで、その熱と振動を加え続けウィンの行動を制限してくれるだろう。

 その間に始末をつけるべく、ヴラドは再び死にぞこないの二人に向かって地を蹴った。

 増援の天使たちが守りに入るが、そんなもの何の障害にもなりはしない。

 両手に爪を模り、最大出力をもって蹂躙する。

 それらの犠牲の間にサラヴェディカへと運ぼうとする奴等を追いかけて、血の嵐を巻き起こす。

 あと五ヘクテル。シャイアはすでに意識を失っている。クーレも激しく吐血しており、身を守れるほどの余裕はなさそうだった。

 そのまま必殺の間合いに入り、居合の構えのように折り曲げた右腕を思いきり振り抜く。

 天使が二体ほど割って入ってきたが意味はない。

 なに一つの抵抗なく、爪はクーレとシャイアに迫り――

「――」

 やけに硬い感触が右腕に伝達すると共に、ヴラドは眼を見開いた。

 驚きから思考が一瞬白く染まる。

 さながら最後の関門のように割って入って来た障害は、他でもない、自分たちが取り戻そうとしていた少女だったのだ。


                §


 手にした細剣にありったけの魔力を込めて、シャルロットがヴラドの一撃を受け止め、殺し切れなかった威力を前に鮮血を噴いた。

 やや遅れて、防御結界が織り込まれた細剣の刀身が粉々に砕け散る。

 それらが地面に落ちる間際に、ヴラド目掛けて頭上から閃光が降り注がれた。

 当てる気があるとは全く思えなかったが、ヴラドは後方に飛び退いて……クーレとシャイアは、その間に天使たちに運ばれ、サラヴェディカへとの離脱を成功させた。

 ……意味が分からない。

 リリスには、目の前で展開された光景が到底現実だとは思えなかった。これっぽっちも、その可能性を考えていなかったのだ。

 おかげで今、頭が真っ白になるくらいの混乱に襲われている。どのように状況を修正するべきかという意識すら、儘ならない。

 そんなリリスに、シャルロットは真っ直ぐな視線を向けて、

「いつかのご褒美の話は、まだ有効ですか? 有効なら、今それを要求したいと思います。プレタさんの契約を終わらせてください。誰にも害のない方法で」

 ……こいつは、いったい何を言っているのだろうか?

 もしかして、自分は夢でも見ているのかと思うほどに、彼女の行動は唐突に感じられた。

 けれど、残念ながらこれは現実だ。

 彼女の声の震えが、その怯えた表情が、強張って石みたいになっている足が、自分たちに決死の覚悟で向き合っていることを教えてくれていたから。

 そして自らが口にした約束を違える事を、リリスは決して良しとしない。たとえそれが、厳粛な契約でなかったとしてもだ。

「…………三回まわってワンって鳴きなさい。偉大な飼い主に、最初で最後の芸を見せるのよ」

 心底どうでもいい内容を強制させて、プレタとの悪魔の契約を片付ける。

 特殊な魔力の動きを見て、実行を確信したのだろう。シャルロットは「ありがとうございます」と感謝の言葉を述べ、それから今度はヴラドに視線を向けて言った。

「私、もう、ヴラドさんたちとは一緒に行けません」

「……何故?」

 恐ろしく冷たい視線を返しながら、ヴラドが訪ねる。

 ただ、そこに怒りや殺意はない。ただただ静謐な気配だけが、そこにはあった。

 とはいえ、プレッシャーが増した事に変わりはない。

 結果、シャルロットの表情はより一層に強張り、呼吸が乱れ、歯がカチカチなり始める。リリスが小突いただけでも崩れてしまいそうなほどに、そこには限界が見えていた。

 ただ、それでも、彼女は眼を逸らさない。

 ついには涙を零し、全身を震わせる事になっても、自身の行動に決して後悔を見せず、彼女は言った。

「貴方が、好きだから」

 今にも消え入りそうな声だった。

 その声にだけは、はっきりとした後悔の色があった。

 でもそれも一瞬で消し去って、

「だから、私は貴方が死ぬ未来なんて許さない。貴方が報われないなんて、許さない。必ず、もっと良い結末を用意して見せる」

 力強く、これ以上ない決意をもって、彼女は清々しいほど明瞭な理由を締めくくる。

 ディアの咆哮が止んだ。限界を迎えたのだ。指示した通り、切り札を使い切った彼女は即座に戦場から離脱していく。

 こうなると、ウィンはすぐにでも戻ってくるだろう。

 天使の増援も煩わしい。記者もどきからの情報で危惧するべき戦力がないことは把握済みだが、目の前に立つ例外が他にいないとも限らない。

「……引き際だな」

 静かに告げて、ヴラドは自身の血を鞭のように振るって長刀の鞘と柄を回収し、シャルロットから背を向けた。

 本来ならそれに合わせてリリスも裏世界への扉を開くべきなのだが、綯い交ぜになった感情が行動を遅らせる。

「リリス」

 名前を呼ばれて、ようやくリリスは取るべき行動を実行し、裏世界へと帰還した。

 当然だが、周囲には誰もいない。

「……どうして、お前は落ち着いていられるの?」

「お前こそどうして動揺している? お前がそう仕立てた事だろう?」

 呆れるように、ヴラドは言う。

「それは、そうだけど……そのとおりだけど……ここまで増長するなんて、思わなかったのよ」

 その場にへたり込んで、リリスはぽつりと零した。

 要は侮っていたのだ。

 結局は駒止まりで、それで終わり。なにより、ヴラドから離れる選択なんてするはず、ないと思っていた。

「愚かな真似、叶う訳がない」

 侮蔑を持って吐き捨てる。

 けれど、自分のその言葉に滑稽さを覚えて、彼女は笑った。

「……なんて、他人の事は言えないか」

 結果など関係ない。

 やると決めた、許せない者をけして許さないと自身の魂に誓った。そうしてここまできた。ここまでこれるなんて、最初のころは期待してもいなかった。

 きっと、あの小娘も同じなのだ。自分と同じ決意にいるものを嗤うなど、それこそ馬鹿げている。

(でも、それにしても、わたしが捨てた未来を選ぶなんてね)

 ヴラド・ギーシュ、この世界でずっと行動を共にしてきた男。

 絶対口になんてしてやらないが、間違いなくスゥーヴィエを除けば一番好ましいと感じている存在だ。

 それを最後に殺すのは、初めから決まっていた事で、お互いがそうで…………だけど、殺したいわけじゃない。

 もし、本当に、殺さずに済む未来があるのなら、それは果たしてどんな未来なのだろうか?

 正直、リリスには想像もつかなかった。


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