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君>世界   作者: 雪ノ雪
第一章『天使の国の悪魔』
6/118

05/狂気

「面を上げよ」

 高慢さの滲んだその声に従って、ダノラウトは跪き頭を垂れていた状態から顔だけをあげた。

 視界に、シルバーブロンドの見目麗しい少年が映る。

 ユーリッヒ・リエル・レグナント。この国の最高権力者の一人にして、奇しくもシャルロットと同じ十七歳の、正しく大天使と契約した神子(みこ)だ。

 神子とは、おおよそ五億人に一人の割合で生まれる、桁違いに優れた器の許容量を持った存在の事を差す。魔力量なども常人の比ではないが、最も特質するべき点はそこだ。

 それによって彼等は大天使や魔神などといった上位存在との契約を可能とし、圧倒的な魔力を手にする。そして、たった一人で国を滅ぼせるだけの戦略兵器としての価値を不動のものとするのだ。

 クリスエレスには、そんな神子が不死という汚点を含めて三人いる。人口二億弱の国に三人もいるのだ。そういった点からも、いかに此処が世界に愛された土地であるのかというのが判るだろう。

「呼ばれた理由は理解しているね? ダノラウト」

「……はい」

 否応なしに押し付けられる畏敬の念に身体を強張らせながら、ダノラウトは首肯する。

「あの戦場での件だけなら、その功績と、これまでの功績、なによりアステア殿の功績をもって温情を与えることも出来たが、召喚士が殺された以上そうもいかなくなった」

「……」

「心配せずとも、貴様が関与していない事はすでに判明している。だが、潔白の証明にはそれだけでは足りない。貴様自身の手で、この国の穢れを私の前に差し出せ。そこで私が直々に滅却する。――異論は、ないね?」

 最後の言葉には、死を予感させるほどの圧力があった。

 父が娘を断頭台に送るという行為に、もしかしたら反発を覚えるかもしれないと、極めて常識的な危惧を見せたのだ。

 見当違いも甚だしい。それが、あまりにも愉快で、

「……もちろんでございます」

 再び頭を垂れ、殊勝な声で従順を示しながらも、ダノラウトは自身の口元が歪に吊り上がるのを抑えることが出来なかった。


                §


 オルガの別荘で遅めの昼食を摂っている時、それは発生した。

 周囲全てを呑みこむような膨大な魔力の展開。

 それが一体何なのかを確認するため、ヴラドは食事を中断して部屋の窓を開ける。

 隣を陣取ったリリスも空を見上げて、

「まるで海の中に落ちたみたいね。重苦しい青」

 と、不快そうに呟いた。

 その言葉通り、見上げる限りの全てが、空とは決定的に違うなにかによって覆われている。

 魔力の色からして、おそらくは結界の類だ。ただし、守る事を目的にしているのではなく、これは内側のものを何一つ逃さない事を目的にしているようだった。

「結界の中心点は、上空七ヘクター(七キロ)くらいのところにある、あの一際明るい部分でしょうね。効果範囲は首都全域。半径にして五十ヘクター程度かしら。都市魔法陣が起動した形跡はなし。十中八九、神子の魔法ね。同格以上の神子でもない限り突破は不可能でしょう」

「……繋がっていると思うか?」

 昨日のシャルロットの事を思いだしながら、ヴラドは訪ねる。

「それはすぐに判るわ。……ほら?」

 呼び鈴が鳴った。

 結界の所為で感度が鈍ったのか、音が鳴るまで気配に気付けなかった。この不具合は早急にチューニングする必要がありそうだ。

 階段を下りて玄関に到着するまでにそれを済ませ、玄関越しの相手が誰なのかを魔力で判断する。

(あの元将軍か)

 どうやら事情を説明するため、直々にやってきたようである。

 付き人はいない。さすがに不用心な気もしたが、こちらから赴く手間が省けたのは良い事だ。

 鍵を開けて、本来の持ち主を招き入れる。

「話は応接室でしましょう。ラウンジは、わたしの痕跡が残っているしね。――あぁ、その前に飲み物くらいは出してあげましょうか。単身、丸腰で乗り込んでくるなんて誠意を見せてくれているわけだし。まあ、ただの自惚れかもしれないけれど」

 評価しているのか見下しているのか判らない口調でリリスが言った。

 もちろん実体化は解いているので、その言葉が悪魔と契約していないオルガに届く事はない。

「先に応接室で待っていろ。飲み物を取ってくる。なにがいい?」

「……あぁ、水で構わない」

 何故か少し戸惑ったよな反応を見せつつ、オルガは頷いた。

 それに疑問を覚えていると

「家主である自分がゲストみたいな扱いを受けている事に、不思議な気分にでもなったんじゃない?」

 と、投げやりなトーンでリリスが言った。

 その読みがあっているのかどうかは不明だが、なんにしても大した理由ではなさそうだ。

 一人キッチンに向かい、ここ数日で完全に私物化した冷蔵庫から水の入ったボトルを二つ取って、応接室に向かう。

 ソファーに腰かけていた彼は、なにやら考え事をしていたようだった。

 傍で動向を監視していたリリスにちらりと視線を向けると、

「怪しい動きはしていないわ。ただ、この男自身、ついさっき事情を知らされたみたい。だからまだ混乱の中に居る。こちらの要求を押し通すには悪くない状態ね。――さぁ、今から始めるわ。わたしの言葉を一言一句、違えずになぞって」

 小さく頷き、オルガの対面に腰かける。

 そして彼が水を一気に飲み干し、短く息を吐いたところで、

「この結界は、あの不死の娘と関係があるのか?」

 と、ヴラドは話を切り出した。

 すると彼は沈痛な面持ちで、今朝方、王宮にいる元部下から届けられた情報を口にした。

 なんでも王宮内の牢獄に一時的に拘留されていた不死の娘だが、夕刻あたりに見張りの兵を二人殺して脱走。更に召喚士を三名ほど殺害した事も確認されたらしく、事態を重く見たユーリッヒという名の神子が結界を展開。昼過ぎには、賞金首として街中に報せも届けられる予定との事だった。

 そのような措置を取ったという事は、誰かに匿われている可能性を疑っているのだろう。

「以上の事から、引き渡しは不可能になった。……すまない」

「処刑に変更か?」

「あぁ、神子が直々に手を下す事になったようだ」

「それで殺し切れたら良いが、そうならなかった場合は神子の絶対性に傷がつくに事になるな」

「そのようなことは――」

「あり得ないと断ずる事は出来ないだろう。相手も神子と契約した悪魔、魔神の類だ。保険はかけておくべきだと思うが?」

「それは、そうかもしれないが、だが、しかし――」

「塵になるだろう死体が再生する前に回収しろ。ダミーはこちらで用意する。それで仮に神子が力不足だったとしても、その汚点は隠し通せるだろう。悪い話ではないはずだ。いくつかの懸念が残る、こちらと違ってな」

「……わかった。そう取り計らおう」

 絞り出すような声で、オルガは頷いた。

「良かった。最小限の不公平で済みそうで何よりだ。では、こちらも気が向いたら探しに出るとしよう。見つけた場合はどうすればいい?」

「出来れば穏便に進めたい。まずは安全を確保したうえで、連絡を寄越してくれると助かる。……これ以上、被害は増やしたくないのでな」

 最後に独白のような呟きを残して、オルガは席を立った。

 その姿を見送ってから、リリスは侮蔑を露わに鼻を鳴らす。

「これ以上被害は増やしたくないですって? ほんと、弱いって惨めね。自分の正義すらまともに選べないんだから。……まあいいわ。それより早く出かけましょう。言葉にした手前、探す素振りくらいはしておいてもいいでしょうし、あまり足止めされたくもないしね」


                §


 オルガが言っていたように、外には手配書がいたるところで配られていて、昨日に比べて多くの人間が駆け回っている様を見る事が出来た。

 どいつもこいつも血走った目をしている。そこに含まれているのは欲望か憎悪だが、比率としては圧倒的に後者の方が多かった。

 どう考えても、前者に傾くのが自然だろうに。

「ほんと、気色悪い国」

 壁に張られていた手配書に目を向けていたリリスが、率直な嫌悪を吐き捨てる。実体化をしていない影響もあるのだろうが、言葉を飾る事すらもう面倒になってきたようだった。

 まあ、その気持ちはよく判る。鼻息荒く横切った奴等を、ヴラドも何度八つ裂きにしてやろうかと思った事か。

「結界の所為もあるんでしょうけど、わたしの方も少し感覚が鈍っている。魔力感知だけに任せるというのはあまり得策ではなさそうね。空から探るわ。お前は……そうね、嫌でしょうけど、繁華街辺りを調べて」

 言って、リリスは翼を羽ばたかせ百ヘクテルほど上空に移動した。

 ヴラドも言われた通り繁華街へと歩を進めて、とりあえずは別行動となる。といっても、両者の関係性上あまり離れる事は出来ないが。

「――れ、ほんとうに――だとし――」

 風に乗って、誰かの声が聞こえてきた。

 微かな驚きを含んだ声だ。もしかしたら、シャルロットの行方に関する糸口になるかもしれない。

 気乗りはしないがそちらに足を運びつつ、魔力で聴覚を高め聞き耳を立てる。

 老若男女、驚くくらいに同じ話題で盛り上がっているのが、悪魔憑きという言葉ですぐに判った。本当に頻繁に、まるで口癖にする事が義務であるかのように、それは街中に溢れかえっている。

 その中の複数人が、ある人物が彼女を匿っているのではないかという憶測を垂れ流していた。

 かつて不死の娘の世話役をやっていた使用人の一人で、他の使用人と違いアステアが死んだ後もしばらくの間はその役に従事していたらしい。当時、二人で出歩いているところを目撃していたというのも根拠の一つのようだった。

 正直弱いと思うが、他に手がかりもなし、彼等の跡を追ってみる。

 すると、ある一軒家を囲む人だかりに出くわした。

 中心にいるは、くだんの使用人と思わしき歩き方にぎこちなさのある女と、この国の秩序維持を担当する正規騎士たちだ。

 家宅捜査がちょうど終わったのか、家から出てきた場面。

 やはり見当違いだったのか、三人の騎士たちの表情にはバツの悪さがあった。

(……いや、違うな。他にも何かあったのか)

 この街に来てからというもの、街を我が物顔で歩く騎士共の傲慢さは嫌でも目についていた。基本的に騎士という連中は内門の中に住んでいる上流階級だからだろう。特有の傲慢さがあるのだ。ゆえに、大した根拠もなく無実の市民を容疑者扱いしたくらいで、こいつらが悪びれる事はない。

 だが、だとしたら、一体なにを見つけたのか。

 答えは、女がすぐに教えてくれた。

「それで騎士様、私の無実は証明されましたか?」

 抑揚のない声。

 しかし、そこに込められているのは凄まじいまでの怒りだ。それを物語るように、女の右の目尻はぴくぴくと痙攣を起こしている。

「あ、あぁ」

「だったら、ぼけっとしてないで早く探せっ! さっさとあの薄汚い悪魔憑きを見つけて、四肢を切り落として処刑台に連れていきなさいよっ! 戦える身体があるんだから!」

 突然の癇癪だった。

 血走った眼を大きく見開き、怒声と一緒に唾まで吐いて、それ以前に醸し出していた淑女然とした装いを全て吹き飛ばす。

 あまりの剣幕に、騎士たちの腰は完全に引けていた。

「……あぁ、ごめんなさい。少し熱くなってしまいました。でも、仕方がないですわよね? よりによって、この私があの悍ましい悪魔を匿っているだなんてふざけた事を言うんですもの。ふ、ふふ、ふふふ」

 引き攣った笑みが、怒りがまったく治まっていない事を示している。

 そんな女は、今度は自身の首をガリガリと引っ掻きはじめた。

 爪に微量な魔力が滲んでいた所為か、紅い血の線が乱雑に刻まれる。無意識の行動だ。力加減がまったくできていない。

「お、おい、止めろ!」

 自傷行為を止めようと、騎士の一人がその手首を掴む。

 それで女ははっと我に返ったように力を抜いて、しかし狂気の方は一向に鎮まる事なく、

「もう大丈夫です。落ち着きましたから。ですから早く、早く、早く見つけてください。そしてアステア様の仇を討って。それを皆が切実に望んでいるのですから。……ねえ?」

 周囲の野次馬を見渡し、にこやかな笑みと共に凄みを効かせた声を放った。

 それから視線を騎士に戻し、

「そうだ、無駄に抵抗される事もあるでしょうから、これを使ってください」

 と、空いていた手をスカートのポケットに入れて、紫色の液体の入った小瓶を取り出して言う。

「それは?」

「毒ですわ。私が悪魔を討つために用意した毒。服や武器を握るところにつけるだけでもしっかりと効果がありましたから、刃に塗れば十分動きを止める事が出来るでしょう。ふふ、本当、捨てなくて良かった。…………あぁ、でも、殺すことは出来ないのよね」

 そこで、女はまた大きく眼を見開き焦点を失って、何度も何度も地面を力強く踏みつけだした。

「あぁ、あぁ、あぁああ! あの時、斬首されてでも強行するべきだった! 旦那様もきっと同じ後悔をしているはずだわ! 私の邪魔さえしなければ、こんな事にはなっていなかったのに! あの悪魔が本当の悪魔になる前に処断する事が出来たのに!」

 両眼から涙が落ちる。

 それが狂気の熱を冷ませたのか、女はその場にへたり込んで、おずおずと頭を地面につけ、

「ごめんなさい、皆さま。私がアステア様の名誉に泥を塗ってしまった。私がちゃんと殺せていれば、殺せていれば良かったのに……」

 と、周囲に向けて謝罪をした。

 それに対する彼等の反応は、共感と同情。

「貴女が謝るような事ではない。貴女のアステア様への信奉が本物である事、悪魔に対する正義の心が本物であることは、我々にも十分伝わった」

 片膝をつき、毒の瓶を受け取った騎士の一人が労わるように言う。

「約束しよう。我々が必ず悍ましき悪魔を神子様の前へと引き摺りだすと。だからどうか、皆も自身が出来得る最大の貢献をもって、姑息にも身を隠す悪魔を炙り出して欲しい。――全ては、正しき大天使の世界の為に」

「「全ては正しき大天使の世界の為に!」」

 周囲の連中が、示し合わせたような完璧なタイミングで復唱した。

 そして彼等は一斉に行動を開始する。中年女の狂気に汚染されたみたいに、より多くの他者に悪魔を探す事を呼びかけだしたのだ

 結果、戦いの術を持たない者までもが、包丁や短剣なんて貧相な武器をもって家を飛び出し、不死の娘を探し始める。

 ……あまりにも、常軌を逸した光景。

 ここは僻地にある閉鎖的な村などではなく、二億人以上が属する大国の首都なのである。まあ、首都の人口自体は百五十万と他の大都市に比べて少ないし、この国自体他国との交流にも乏しいが、それでも鎖国しているわけではない。

 にも拘わらず、多くの考えや価値観が入ってくる事自体は許容している中で、誰も中年女の主張に糾弾どころか疑問すらも抱かない。まだ悪魔憑きにもなっていなかった罪のない少女を毒殺しようとしたという告白を前に、謝る事はないという共通認識を抱いたのだ。

 あげく、正義を後ろ盾に不死の娘を嬲れる事に喜色を覚えている輩も、この空気を前に増長していて――

「ちょうどこいつの試し切りをしたかったんだよなぁ、ほんといいタイミングだよ」

「俺も俺も。新しい魔法を覚えたからさ。死にかけてるところとかに出くわせたらいいんだけど」

「動く的じゃなかったら意味ないだろう?」

「そこはお前が足斬り落とすなりして状況を作る流れだろう? 期待してるぜ、相棒」

 憎悪を愉しむ二人の若い民兵。

「頭が十点、胸が五点、手足が三点でどうだ? で、二十点を先に取った方が勝ち。負けた方は酒を奢る。あぁ、そうだ、未経験者のお前には少しハンデをやったほうがいいか?」

「ぬかせよ。背中から何度か誤射で殺した程度だろう? ってか、本当に死んでもすぐに復活するんだって? どこまでも気持ち悪い化物だよな」

「そうだな。だが、だからこそ我々に娯楽を提供するというささやかな貢献も出来るというわけだ。無論、その程度で犯した罪が償えるわけもないがな」

 屋根の上を陣取った、大弓を持った二人の中年騎士。

 他にも似たような声が、ちらほらと聞こえてきていた。

「――」

 頭の中に、ザァア、ザァア、と波の音が流れ始める。

 神経を引っ掻くような痛みを伴い、それはヴラド・ギーシュの過去の記憶を掬ってくる。


『全ては村のためだ。そしてこの村があるからこそ、お前たちは生きていられる』

『悍ましい化物共に役目が出来た。それを喜ぶべきだろう? 慈悲深い俺たちに感謝するのが道理だろうが!』

『でもほんと、あれが化物で良かったよなぁ。普通の人間だったら、あんな綺麗なの絶対にやれなかっただろうし――』


 握りしめていた右の拳が、掌の皮膚を突き破って雫を滴らせた。

 地面に落ちたそれは激しく振動し、赤い煙を立ち込めさせる。

 ほどなくして、甘い血の匂いが鼻腔に充満した。

 ……頭の中から、討つべき男の聲がする。


『彼女を私から取り戻したいかい? だったら世界を変える方法を、神を殺す方法を教えてあげよう。まずは首輪を外すことだ。そして己を知る事。簡単な筈だよ? なぜなら君は――』


 そこで、没入を遮るように見知った顔が視界を埋めた。

 鼻同士が触れそうな距離に、リリスがいる。身の丈に合わない巨大な翼で浮遊しながら、こちらを真っ直ぐに見つめてきている。

「少し眼の色が朱い。わたしと出会う前の事でも思い出したか?」 

 普段とは違うトーン。

 冷たい朱色の瞳が、ヴラドを映していた。

「……もういいだろう」

 その見透かすような視線から逃れるように背中を向けて、ヴラドは足早に歩き出した。

 そんな彼の隣に、契約した悪魔は並び、

「そうね。帰りましょうか。この様子なら、時間の問題でしょうしね」


                §


 確かに、それは時間の問題だったようで、シャルロットはすぐに見つかった。

 ただ、まさか自分たちが第一発見者になるとは思ってもいなかったというのが、ヴラドにとってもリリスにとっても正直なところだった。

 今この首都の話題の中心に居る少女は、なんと別荘の玄関の脇で体育座りをしてこちらを待っていたのである。

「どうやら、お前の魔力を頼りに此処まで来たようね。お前の色はとっても濃いから、お前自身が隠さない限りは多少の妨害があろうと探り当てるのは難しくないでしょうし。……まあ、なんにしても好都合」

 ふふ、と悪戯っぽい笑みを浮かべて、リリスはこちらに気付き顔をあげたシャルロットに向かって言った。

「ねぇ、お前がどうして此処に来たか当ててあげましょうか? ――あぁ、可哀想な娘。まさか自分を助けてくれるかもと思えた相手が、たった一度優しくしただけの他人しかいなかっただなんてね。でも、残念、お前を捕まえるといい事があるの。今のわたしたちには」

 その言葉を聞いたシャルロットは目を見開いて驚き、次に怯えた表情を浮かべて……けれど、逃げるという選択は取らなかった。その意識すら、彼女は見せなかった。

 代わりに、彼女は小さくわらった。

 それは全てを諦めたような、とても寂しい表情で――

「……さっき、あの元将軍に言っていた、いくつかの懸念っていうのはなんだ?」

 鋭い口調で、ヴラドは言った。

「なに、突然?」 

「答えろ」

「たいした事じゃないわ」

「それを決めるのはお前じゃないだろう? 口だけ淫魔」

「……まあ、いいけれど。……中に入りましょう。ここでは落ち着いて話せないしね」

 軽く肩をすくめて、リリスは玄関をすり抜け屋敷の中へと消えて行く。

 ヴラドも険しい表情でドアを開けて、

「……早くしろ」

 まごつくシャルロットに告げて、ラウンジへと戻った。

「座りなさい。わたし、人間に見下ろされるのって大嫌いなの」

 ぼうっと突っ立っているシャルロットにそう言ってから、ソファーに腰かけたリリスが話しはじめる。

「お前、昨日の記憶は確か?」

「……いえ」

「理由を教えてあげましょうか? 死に過ぎよ。いくら肉体が不死身だからって精神は別物。多少の耐性を得ていたとしても、すり減りすぎれば隙間が出来る。お前が契約した悪魔が、お前から主導権をかすめ取って動き出せる程度の隙間がね」

 昨日の凶行はつまり悪魔が行っていた事で、シャルロットはおそらくすべてが終わった後に自我を取り戻し、途方にくれた末に此処を頼ったのだ。

「そいつと話がしたいのだけど、出来る?」

「……」

 シャルロットは少しの間をもってから、小さく首を左右に振った。

「まあ、そうでしょうね。お前は悪魔を心の底から拒絶している。だから、お前の意識があるとき、そいつはお前の行動に何一つ干渉できない――いや、不死の力の維持だけに努めざるを得ないというのが正解かしら? うっかり死なれたら困るものね、お前の精神だけが死んで、自由に身体を動かせるようになるまでは」

 と、そこで、リリスの視線がヴラドへと流れる。

「これが一番の懸念よ。人間の娘一匹を連れて歩くことになるのか、それとも悪魔を一匹連れて歩くことになるのか。わたしはどっちでもいいけれど、お前にとってはどうなのかってね」

「……」

「少し、時間を取りましょうか? 渡すのは今すぐでなくてもいいし、見つからない時間が延びるほど、それを手にしているという価値も増す事だしね。わたしはもう寝るわ。なんだか無駄に疲れたし」

 そう言って、リリスは私室に使っている部屋へと戻っていく。

 その途中、すれ違ったところで彼女は小さくシャルロットに囁いた。

「これは猶予。わかってる?」 


                §


 意味深な言葉を残して悪魔が去り、シャルロットはヴラドと二人きりになる。

 彼はこちらに興味などないと言わんばかりに、得物である刀の手入れを始めて……最初は斬られるのかと思ったが、ただただ乾いた沈黙だけが続いた。

 慣れた居心地も悪さだ。それに少しだけ安堵を覚えつつ、シャルロットは先程の言葉の意味を考える。

(猶予? なんの?)

 すぐにはぴんと来ないので、自分は判っていないという事だ。

 そもそも、現状だってまだろくに理解出来ていない。彼女の言う通り、昨日の記憶の多くが抜けていて、リリスの言葉でここに来た理由にも気付かされるような有様で、それが酷く悲しくて……でも、彼女が言った、死に過ぎという言葉には、一つの希望があった。

 永遠にこれが続くと思っていたシャルロットにとって、そこには確かな終わりが見えたからだ。あと何回か死んだら、自分の意識はもう二度と目覚めないかもしれない。それが分かっただけでも、此処に来て良かったと思えた。

 だからだろうか、無意識のうちにシャルロットは口元を綻ばせて――

「なにが可笑しい?」

 こちらを見ていなかったはずのヴラドが、刺すような声で訪ねてくる。

「あ、ご、ごめんなさい!」

 殆ど反射的に顔を自身の腕で守りながら身体を強張らせると、ヴラドは不機嫌そうな表情を浮かべながら、

「謝れなんて言ってない。俺は……なにが可笑しいのか、訊いただけだ」

 と、怖さを抑えたトーンで繰り返した。

 そこにあったのは、僅かであったとしてもこちらへの気遣いだ。シャルロットにとっては珍しいにも程がある温かさ。

「あ、そ、それは、その、此処に来てよかったなって。その、色々と、疲れちゃったから……」

 自分の吐いた言葉で、それを強く自覚する。

 同時に、少しだけ開き直れた。どうせもうじき死ぬのだから、繕った言葉ばかりを並べても仕方がないって思えたのだ。そして少しだけ、少しだけでいいから、この人に自分の事を知ってもらいたいと思った。せめて一人くらいは、自分の事を赦してくれる人が欲しかったから。

「私、生まれた時から、英雄になれって、ならなければならないって教えられてきたんです。神様の魂の一部を宿して生まれた神子だから、私を生むためにお母様が亡くなる事になったのだからって。それで毎日毎日、魔法や剣、社交場の振る舞いとかの練習をして、お父様より先生に会っている時間の方がずっと長くて……」

 その教師たちは、いつも成果を求めて必死だった。多分、なにかしらのノルマを課されていたんだと思う。そこに届かなかったら、ただでは済まされないようなリスクがあったのだ。

 だからだろうか、誰もシャルロット本人の事なんて見てはくれなかった。能力と結果だけ。それ以外にはなんの価値もないみたいに、彼等はグゥオン家の神子だけを見ていた。

「でも、契約者になって神子として完成すれば、お父様にも会える時間が増えて、私自身がしたい事とかも増えるのかなって勝手に思ってたから、そんなに苦ではなかったんです。それに、契約者になれること自体は、楽しみだったし」

「楽しみ?」

「独りじゃなくなると、思ってたから……」

 魂を分け合う存在。

 死以外では、けして別たれることのない半身。それが契約者だ。

 もう一種類の魔法を使えるようになるとか、魔力を飛躍的に高める事が出来るとか、上位世界の叡智を得る事が出来るとか、恩恵は色々とあるみたいだけど、シャルロットが一番惹かれた理由はそれだった。

「早く契約者になりたかった。十歳の誕生日が楽しみだった。どんな天使が、私を支えてくれるんだろうって……」

 でも、契約した相手は悪魔だった。

 名前も知らない、意志疎通も出来ない、ただただ自分の全てを壊しただけの存在。

「……私、悪魔と契約したいなんて思った事ない。計画の邪魔なんてしてない。皆に言われた通りの手順で、言われた通りの相手と契約したの。白い翼だったから、言われていた通りの特徴だったから、天使だと思ったの」

 ――だけど、最終的な決定権はシャルロットにあって、そしてシャルロットは悪魔を選んだ。

 その事実は覆せない。過失もまた罪なのだ。

 違えてはいけない。違えてはいけない。違えてはいけない。罪人は罪人として弁えなければならない。

 冷たい自分の聲が、惨めな自己弁護に冷や水をかける。激しい後悔が押し寄せて、否応なくこの身を震わせ、俯かせる。

「ごめんなさい。ごめんなさい。結局、私が莫迦だったんです。どうしようもなく愚かで、考えなしで、その所為で全部台無しにして、私、誰かに愚痴を言う権利なんてないのに――」

 言葉の途中で、首に圧力が加わった。

 条件反射でそれを行う腕を掴んだところで、自分が彼に絞められている事実に気付く。

「――ふざけるなよ」

 どうしてという疑問は、信じがたいほどに恐い声によって潰された。

 全身に彼の魔力が流れ込んでくる。――熱い、痛い、怖い、苦しい。慣れている類とはまったく違う、身体ではなく魂を蹂躪するような暴力。

「選ぶ権利も与えられなかった者に決めた責任があるだと? 責められるべきはそれを悪魔と見抜くことも出来なかった能無し共だろうが……!」

 押し殺した怒声が、室内を慄かせた。

「で、でも、わ、私は――」

「もういい、喋るな」

 首への圧力が増して、シャルロットの意識はあっという間に途絶する。

 間際に見たのは、爛々と輝く朱い瞳と、まるで自分がそうされているみたいに苦しそうな、彼の表情だった。


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