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君>世界   作者: 雪ノ雪
第一章『天使の国の悪魔』
5/10

04

「我々にとって愛憎は必要不可欠な活力だけど、加減を間違えると失敗の元にもなる」

 翌日、情報共有を終えたところで、リリスはこの国に来た当初よりも明らかに剣呑な気配を纏っているヴラドに言った。

「教訓話よ。だから、わたしはこうして己の本質から切り離して存在する事を決めた。下手にやりすぎて不味い事にならないようにね。とっても利口でしょう? そんなわたしの指示に従う利口さを、わたしはお前にも求めたいわ」

「御託はいい」

 ただただ鋭い声で、ヴラドは本題を促してくる。

 昔も今も、性急なのは変わらない。そしてそれを上手くコントロールする事の重要性も、リリスは良く知っていた。

「計画を始める前に一つ提案があるの。お前にとっては人間も悪魔も両方面倒でしょう? だったら両方静かにしてしまえばいい。それが一番、今後の行動を楽にすると思わない? わたしの器にするの。……まあ、決定権をもっているのはお前だけど」

 そこで一度言葉を止めて、リリスはまったく賛同する気のないヴラドに言う。

「代償行為というものが人間には必要なのかもしれないけれど、でも、間違えないで。あれはお前のルナじゃない。そしてわたしの愛しいスゥーヴィエでも、我々の唯一の神でもないわ」

「……当たり前だ」

 いっそ殺意すら滲ませながら、ヴラドは沈んだ声を放った。

 予想通りの反応。とりあえず、これで選択肢は生まれたと思う。そこに微かな期待をしながら、リリスは小悪魔っぽい笑顔を浮かべ、

「それが分かっているならいいの。分かっているならね。では、共通の流れのおさらいと行きましょうか、ご主人様」


                §


 また知らない場所で、シャルロットは目が覚めた。

 直前の記憶は、ヴラドに首を絞められて意識を手放すところだ。でも、ここは彼が居た屋敷じゃない。

(いったい、どこなんだろう?)

 悪魔がまた自分の身体を支配したんだろうか? それとも、記憶を失っている間に彼が自分をここに運んだ? 

 後者だとしたら、やっぱり自分はこの国に差し出されたという事なんだろうけれど……いや、それなら、こんな風に自由に動ける隙間なんて与えられてはいない筈だ。つまりは前者。ただ、不死の悪魔がヴラドをどうにか出来たとも考えにくい。戦闘能力自体は所詮シャルロットでしかない筈だからだ。

 もし、ここでもう少し思考する時間があったのなら、泳がされているという可能性にも至れたのかもしれないが、外から聞こえてきた音によって、それは叶わなかった。

(……誰かが、喋ってる?)

 耳を澄ませながら、静かに部屋を出て音の方に向かう。

 逃げることよりもそちらを優先したのは、その声に覚えがあったからだ。

(ここって、もしかして……)

 屋敷の中を慎重に進む中で、記憶が想起される。

 自分は昔、ここに来た事がある。

 悪魔憑きになる少し前……そう、母の九周忌かなにかだったと思う。

(そうだ、ここはレナリア叔母様の屋敷だ)

 窓から見える庭の、水瓶をもった天使の噴水を見て確信できた。

 でも、どうして此処に居るのかは未だに不明だ。それを知るためにも、息を殺して声のする部屋の前に立つ。

 扉は少し開いている。中に居るのは二人。一人は屋敷の主であるレナリア。そしてもう一人は、シャルロットの父であるダノラウトだった。

 ますます困惑を覚える。が、同時に一つの愚かな希望も灯っていた。

 もしかしたら、父が自分を匿ってくれるように叔母に頼んだのかもしれないと、そんな事を思ってしまったのだ。

 だが、二人のやりとりから知った事実は、それとは真逆もいいところで――

「結局、全て予定通りといったところか。なぁ、ダノラウト?」

「なんの話ですか」

「ずっと嬲り殺しにしたかったのでしょう? 妹を殺したあの娘を」

「……」

「隠すことはない。今更それに意味はない。でも、一体どこまでが貴方の思惑だったのか、それだけは少し気になっていてね」

「それを語る事が、条件というわけですか?」

「血族というだけで、このおぞましい怨恨に巻き込まれた身として、それを知る権利くらいはあるでしょう? 私もあの子を愛していたのよ。貴方ほどではないかもしれないけれど」

 気怠そうな調子で、レナリアは父の本心を求める。

 心臓が、どくん、と跳ねた。

 今すぐ耳を塞げという心の聲と、都合のいい幻想がせめぎ合う。

 その幻想に動きを堰き止められたまま、シャルロットは答えを聞く事となった。

「あの方が亡くなった日からずっと、私はこの時を待っていた。何故あんなものがあの方に代わって生きているのか、その理不尽に耐える事など、到底できなかった。……私は、自分を騙せなかった」


                §


「そう、やっぱりそうなのね。やっぱり貴方が全てを……」

 心苦しげな表情を浮かべながら、レナリアはその視線を扉の奥にいるであろうシャルロットに向けて、

「――っ、そこにいるのは誰!?」

 と、驚きを滲ませた険しい表情を作って叫んだ。

 直後、弾けるように離れていく足音。

 背後の存在にまったく気づいていなかったダノラウトは慌てて振り返り、

「まさか……」

「そのようね。睡眠薬はまだ少し効いているはずだったのだけど。……行って、私の用は済んだ。始末は、貴方に任せるわ」

「では、失礼します」

 おざなりに頭を一つ下げて、彼はその足音を慌ただしく追いかけていった。

 そちらの足音も鼓膜が拾えなくなったところで、レナリアはくすくすと笑う。

「やっぱり、私の事をなにもわかっていないのね、貴方は。……でも、私は貴方の事をよく知っている。貴方よりもずっと」

 だから、ああ言えば自分が最初から全部仕組んだと嘯くのも分かっていた。そうやってアステアへの情を最大限に示すことによって、こちらが納得すると思っているからだ。あの男の目には、未だにこのレナリアが妹を愛する姉に見えているのである。

 ……本当、最初から最後まで、滑稽極まりない話。

 だが、おかげで、あの小娘には絶望を提供することが出来た。

 今まで、アステアが死んだ事に負い目を抱き、罪悪感で多くを受け入れてきたシャルロットにとって、この真実は耐えがたいものだろう。仮に最後に憎悪を抱けたとしても、それすらけして報われることなく潰えるしかないのだから、本当に絶望的だ。

「即興としては十分でしょう? 文句があるのなら自分でやれと、あの節穴に言ってやってもいいくらいには、上手くいったのだから」

 ため息交じりにそんな事を呟きつつ、レナリアは台の下に置かれていた、今はまだ空っぽの大き目のバックを手に取った。

 こちらの為すべき事はこれで全部終わり。あとはエンシェの連中が上手くやるのを祈るだけだ。

(結界と処断の両方に力を用いた状態で、果たしてあの愚かな操り人形はエンシェの神子に打ち勝つことが出来るのか……無理に決まっているわよね)

 これだけで滅ぶ事はないだろうが、良い気味である。

 もはや憎悪しか抱く余地のない祖国崩壊の第一歩に凍える微笑を浮かべつつ、レナリアはエンシェに向けて出発するべくバックを満たし、最後に台の上に立てかけられていた写真立てを丁寧に仕舞って、優雅な足取りでもう帰らない我が家を後にした。


                §


(私、なにしているんだろう……?)

 他人事のような声が、シャルロットの頭の中で回っている。

 息を切らせて、心臓を暴れさせて、がむしゃらに逃げ惑って、もうどこにも居場所なんてないのに、終わるしかないのに、惨めなほど必死になって、本当に一体なにを――

「――っ、ぁ」

 なにかに躓いて、盛大に転んだ。

 ……痛い。これより痛い事なんて忘れてしまうくらいにあったのに、ただの擦り傷が泣きそうなくらいに痛い。

「う、うぅ……」

「良い誘導だったな。見事な供物の提供だ」

 呻くシャルロットの頭上から、踏みにじるような声が響いた。

 顔をあげた先にいたのは、この国の象徴の一人たるユーリッヒ。

「哀れな罪人よ、なにか言い残す事はあるか?」

「――っ」

 咄嗟に身体を起こしながら駆けだす。

 瞬間、両足の感覚が無くなった。ユーリッヒの腰から抜き放たれた剣によって、根元から断たれたのだ。

「まったく、見苦しい。今更逃げてどうなるというのか。……しかし、まだ生きている筈だが、死がトリガーというわけではないのか。直前の状態でも機能するようだな。それにしても、一瞬で治るとは、大した再生力だ」

 軽い感心を抱きながら、ユーリッヒは続けてシャルロットの右手を踏み潰す。

 噴き出す鮮血と共に、悲鳴を抑えられないほどの激痛が走った。意識が異様な鮮明さに支配され、眩暈を誘発する。痛覚を過剰に刺激する、なにかしらの魔法が込められているのだ。

「……ふむ、これはすぐに再生されないのか。魔法を込めた分、ダメージはこちらの方が多い筈なのだがな。単純な損傷でもない。なかなかに複雑だ。確実に処断するためにも、もう少しサンプルが必要だな」

 ユーリッヒの声はどこまでも冷たい。

 彼はこのまま、いくつかの検証のためにシャルロットを痛めつけて、最後に必要十分な魔力をもって滅却を行うのだろう。

 涙が出た。

「やだ、たす、けて、だれか、だれか――」

 本能のままに零れた言葉に、どうしようもなく後悔する。

 もっと早く誰かに、あの人に言えばよかったのだ。助けてって、何よりも知って欲しかったこの気持ちを伝えれば良かった。結果がどうであったとしても、そうすれば諦めはついたはずだから。

「雑音は不要だ」

 痛みを訴える権利すらお前にはないと言わんばかりに、不快を示したユーリッヒが喉を抉らんと刺突の構えを取る。

 全身が震え上がるには十分なほどの魔力。その恐怖に釘づけにされたかのように、シャルロットは剣の切っ先をただ見つめて――

「――ずいぶんと愉しそうだな。小娘一人嬲るのが」

 耳を劈く刃物同士の衝突音と、低く鋭い怒りの声と共に、ヴラド・ギーシュが両者の間に割って入った。


                §


 それだけで人が死にかねないほどの甚大な魔力に晒された繁華街は、あっという間に混乱と恐慌に満たされる。

 しかし、そんな喧噪など歯牙にもかけず真っ直ぐに敵を見据えるヴラドを前に、隣に佇む悪魔は静かな吐息をこぼした。

「やっぱり、お前はそっちを選ぶのね」

 少しは利口を期待していただけに残念ではあるが……まあ、それだけだ。

「いいわ。本番前の練習台としては悪くない相手でもあるしね。二等級は一つまで、三等級主体で処理しなさい。くれぐれも、わたしを失望させないでね」

「お前こそ、さっさとその荷物を連れて消えろ」

「辛辣ね、命懸けで助ける相手を目障りだなんて」

 ヴラド・ギーシュという存在は、おそらくこの世界の中でも最強格の一つだが、それは神子を除いた中での話になる。戦略兵器に該当する彼等は、基本的に魔神や大天使などの上位存在と同列の化物だからだ。

 制限を与えた上で肉薄する事が戦うのに必要な最低条件であり、もし此処が神子の住む街の中などではなく、なんの被害も気にしなくていい場所だったなら、微塵も勝ち目はなかっただろう。もちろん、条件を満たしたところで不利な事に変わりはない。器の戦力差は酷なほどだった。

 ……とはいえ、その程度の話ではある。少なくとも、この世界を敵にすると決めた自分たちにとっては。

「立てる? 死なないだけじゃ戦力にならないんだから、早く離れるわよ。――ほら、こっちよ、こっち」

 軽やかな調子でシャルロットに発破をかけ、リリスは微塵も後ろ髪を引かれることなく、彼女と共にこの場をあとにした。


                §


「……余所者が、解っているのか? 今、貴様の目の前にいるのは、清浄なる大国の片翼を担う神子だという事が」

 くだらない脅し文句を鼻で嗤った瞬間、静止していたユーリッヒの腕が鞭のようにしなった。

 首を撥ねんと襲い掛かってくる斬撃。

 それを造作なく躱して、ヴラドは太刀を返す。

 手応えはない。ユーリッヒが凄まじい速度をもって、こちらの射程外へとバックステップしたためだ。単純な身体能力は、間違いなくこちらよりも高そうだった。

「どうやら、威勢がいいだけの事はあるようだな」

 向こうは向こうで躱されるとは思っていなかったらしい。あんな予備動作まみれの攻撃で死ぬような雑魚ばかりを、これまで相手にしてきたという事なのだろう。

「だが、所詮は只人の契約者だ。それも薄汚い悪魔のな」

 増長の具合は、この言葉からも良く伝わってきていた。

 望ましい限りである。おかげで、油断をついて一撃を喰らわせるプランが簡単に用意出来た。

 その成功率を出来るだけ高めようと、単純な性能の比べ合いを開始する。

 ただただ鋭く重く速いだけの斬撃に、直線的で目先だけの回避。

 プライドの高い神子は、当然のようにこちらの姿勢に乗り、自身の性能を上げていく。

(……そろそろか)

 もう少し無理をして追い縋る事も出来たが、まだ仕留められない事に神子が苛立ちを見せたのを感じ取り、このあたりで仕掛ける事にした。

 追い詰められた者の破れかぶれな大振り――それを避けて一撃を加えれば終わりというシチュエーション。

 ユーリッヒは殆ど迷うことなく、こちらが意図した通りの動作を取り、

「後悔はもう済ませたか? さあ、天罰の時間だ」

 という嘲笑を嘲笑うように、この戦闘が始まった時から仕掛けていた奇襲が、綺麗に成立した。

 ヴラドの魔法で開き繋げた二つの空間によって、彼の斬撃はこちらの首ではなく、背後から自身の首へと振り抜かれたのだ。

 勝利を確信していたユーリッヒは、自分が死ぬことすら察知できずに即死する。彼一人なら、それ以外の未来は存在していなかっただろう。

「……油断が過ぎますよ。魔力をもっと良く視てから行動しなさい」

 六枚の翼をもった大天使がユーリッヒの背中から現れ、斬撃をその翼で受け止めていた。

 白と青の礼装を身に纏った金髪碧眼の女。ギルド前の広場で見た石像のモデルでもある。

 噴き出た血によって翼は赤く染まったが、致命傷には程遠い。

 基本的に口だけしか出せないこちらのリリスと違って、それ以外の事もこの天使は実行してくるだろう。

 ここからが本番だ。こちらも本気で気を引き締めて行かなければ容易く即死する、そんな相手。

 それを理解した上で、ヴラドは心底つまらなそうに言葉を綴ってみせた。

「そちらも後悔は済んだか、足手纏い。……次はないぞ?」


                §


 天使の第二位の席に着く完全な上位存在であるルプテにとって、目の前の人間は取るに足らない相手だったが、未熟な宿主にとっては実物以上に大きく見えているようだ。普段なら安い挑発など喜んで買うところを、今は警戒心の方が強くなってしまっている。そしてそれは、おそらく相手の狙い通りの結果だった。

 敵の目的はシャルロットを逃がす事。ある程度の時間を稼ぐことが出来たら、あとはこちらを撒くつもりなのだろう。空間に干渉する魔法をもっているのだから、それは十分可能な話だ。

(戦力差を理解出来ていれば、容易にたどり着ける事だと思うのですが、やはりまだまだ相手を見極めるという行為には難があるという事なのでしょうか)

 経験不足は、生まれた時より他と隔絶している神子という存在である以上、仕方がない事ではあるが、このままでいいわけでもない。

 そういう意味では、目の前の相手は実に良い教材だ。すぐに殺すのも惜しかった。

(戦いの駆け引きも、同格以上を相手にするようになれば、絶対に必要となるものですしね)

 そして、神子が本来戦うべき相手は同じ神子なのだ。この先に待ち受けているであろう重要な局面において、それはなによりも必要な経験と言えた。

(……それにしても、巧い)

 最初の戦闘はやはり簡単な罠だったということを示すように、今のヴラドの動きには単調さがまるでない。攻撃も防御も全て異なるリズムで行われ、その変化も極端なうえ、相手の感情を読み切ったように時に大胆な選択も取ってくる。

 基礎的な技術の高さも特筆しており、一手一手の攻防で差がつけられているのが見て取れた。

 それをユーリッヒは性能でなんとか埋めているが、これだけの性能差があってなお埋めきれないというのは正直驚きだ。油断などとうに消え失せているだろうに、未だに劣勢が覆せていない。

(神子である以上、規模調整が極端になってしまうのは仕方がないですが、せめてもう少し攻撃の精度と出力の調整が出来る器だったのなら、或いは当て勘のようなものでも持っていてくれれば……なんて、望み過ぎですね)

 自分の思考に、少し呆れる。

 第二天使を無理なく宿せる器が人間の世界にある事自体、奇蹟もいいところなのだ。

(私がいる限り、この子が死ぬことはない。絶対的な強度の差もある。ならば、このまま静観をするのが一番でしょうか)

 仮に逃げられたとしても問題はない。別段この男を今すぐに殺さなければならない理由はないのである。それに、どうせ結界内からは誰も出られない。不死の魔神にその力はない。

(とはいえ、あまり時間を掛け過ぎるのも、好ましくはありませんが)

 結界の維持には多大な魔力を使う。

 もし、それこそが敵の狙いだとするのなら……

(……いえ、これも過度な警戒ですね。それに、どの道決定打にはならない)

 そう結論を出したタイミングで、ルプテは眉を顰めた。

 人間が扱える魔法は心臓に宿った核によって決まる。一人一種類しか使えないというのが常識だ。一応、水と氷などの近しい魔法ならその両方を扱う事が出来るケースもあるが、それだって稀なもの。

 だが、目の前の敵は今、空間に纏わるものとはまったく異なる魔法を放った。大地に干渉して、ユーリッヒの足場を乱したのだ。

(魔石を使った?)

 普通に考えればそうだ。

 番石や記録石などとは違い、攻撃系の魔石はその出力の関係上基本的に使い捨てだが、魔石の許容量次第では強力な魔法を安価の魔力で解き放つことが出来る。ただ、その場合は目の前の男ではない別の誰かの魔力が前面に出る筈。

 しかし、感じ取れたのは魔石の起動に必要な程度の微量な魔力のみで、半径二十ヘクテルの地盤を大きく歪ませるほどの魔力の方は、目の前の男から溢れ出たものだった。

 これは異常だ。だが、それ以上に異常なのは、ここで初めて明確に感知出来たこの男の魔力の色が、どう見ても大地に干渉する事の出来るものではなかったという点である。

 それは、さながら石炭や石油で生きた馬を動かすような不条理で――

「――貴方、まさか……?」

 強い嫌悪感が、全身を満たしていく。

 この男は、他人の核を使っているのだ。

 核に残された魔力の原液を取り込む事によって、その魔力を自身の世界に『定着』させているのか、或いはその情報の一部を『再現』させているのか、いずれにしても概念に干渉する最上位クラスの魔法である事は間違いないだろう。

 と同時に、それは死者に対する最大の冒涜でもあった。許しがたい罪だ。到底看過は出来ない。

「……このままでは埒が明かない。ここからは私も、本格的に加わる事にしましょう」

「っ、それは――」

「貴方の動きに合わせます。良いですね?」

「わ、わかったよ、ルプテ」

 幼いころから偉大な母として振る舞ってきたルプテに、ユーリッヒが逆らえるわけもないので、この手の無駄は最小限で済む。そして頷いた以上、ユーリッヒはそれに集中するし、不安から解放されて動きも良くなる。

 結果、全ての局面で、形勢は一気に逆転した。

「……ふむ、どうやら、あちらの抵抗も終わりに出来そうですね。よい位置にいる」


                §


 誰かの放った矢が、シャルロットの右肩を軽く抉った。

 痛みに足を止めるわけにはいかないので、そのまま駆け抜ける。

「足には貰わないでよ? 死から遠い暴力だと、すぐには治らなそうだし。か弱いわたしにはお前を背負ったりなんて出来ないんだから。ほら、次は右に曲がって。――攻撃がくる。止まって、走って」

 左手前方を飛行するリリスが、淡々とした口調で指示を飛ばしてくる。

 言われた通りにして、なんとか不特定多数の攻撃を捌くが、

「また増えたわ。本当、人間ってお金が好きね。或いは正義の名のもとに誰かを踏みにじるのが好きなのかしら。まあ、なんにしても素敵な連中。みんな死ねばいいのに」

 リリスの悪態が物語る通り、時間を追うごとに状況は不利に傾いていた。

 仮に彼等を掻い潜り続けたとしても、結界がある以上外には出られない。正直、お先は真っ暗だ。それでもさっきと比べて絶望感がないのは、ある意味吹っ切れたからか。

 とにかく、今は必死に逃げる。どうせ終わっている命なんだから、後悔するのも終わってからでいい――なんて事を前向きに考えたところで、

「ちょうどいい、あそこに使えそうな奴がいるわね。あれで膠着を作りましょう」

 と、リリスが進行上に居た、雑貨屋から出てきた親子の幼い少女の方を指差した。

「え、そ、それは……」

「なに? この状況で躊躇う理由があるの?」

「……」

 迷っている間にも、少女たちとの距離が縮まっていく。

 母親の方は外の状況に気付いたようだが、動揺の所為かその場から動かない。

「ほら、早くやって」

 イラついたリリスの声。

 何もわかっていない少女がこちらを見て、きょとんとした顔を浮かべる。

 それがあまりに無垢に見えて、駄目だった。

 心臓が縮こまるのを感じながら、少女を素通りする。

 直後、くすくすという嗤い声が左手前方から聞こえてきた。

「信じられない愚物ね、反吐が出そう」

「……ごめんなさい」

「まあ、別にいいわ。お前には出来ない事だったという話なんでしょう? これ以上罵ったところで事態が好転するわけでもなし。でも、さすがに追ってきている奴等は殺せるわよね?」

「……」

 迷いなくとはいえないが、頷く。

 戦場で相対したエンシェの兵にだって家族や友人はいたはずなのだ。それを国のためという大義で殺せて、正当防衛という理由で彼等を殺せない道理はない。結局、全ては自分の立場や心を守るための行動でしかないのだから。

「良かった。では、三つ先の角を左に曲がりなさい。それで一番近い奴から武器を奪う。そいつを代わりにしてもいいわね。あぁ、けれど、お前一人では難しいのかしら?」

 その問いにも頷く。

 今、先陣を切って迫ってきているのは元騎士の民兵団のリーダーだ。一対一で時間を掛けてもいいならともかく、この状況で即座に武器を奪えるほどの実力差はない。

「わたしが借りて来てあげるから、足を止めさせなさい」

 三つめの角に差し掛かったところで、リリスが前進を止めた。

 彼女を追い抜き、シャルロットはそのまま角を曲がる。そして、追っ手の視界から逃れたところで足を止めて振り返り、出血多量のおかげで元に戻っていた右手に魔力を込めて、出会いがしらに掌打を放った。

 もちろんこんな攻撃は簡単に躱されるが、リリスの要望には応えることが出来たはずだ。

「無駄な足掻きだな。観念して、裁きを受けたらどうだ?」

「そうね、お前は受けるべきね」

 実体化を果たし腰の短剣をすっと抜き取っていたリリスが、蔑みを込めた声を放つ。

 自身の真横から突然響いたその音に、男は驚愕と共に視線を腰の位置に流した。そうしてシャルロットから視線を外したその瞬間に合わせて、短剣がこちらに向かって放り投げられる。

 決定的な好機。

 シャルロットは男に向かって潜り込むように踏み込みつつ、こちらの遥か手前で地面に転がりそうだった短剣に必死で手を伸ばし、なんとか掴み取った。

 気付いた男が防御態勢に入ったが、もう遅い。

 低姿勢から不格好に振り抜いた一撃が、男の両膝の皿を断ち切る。

 硬い手応えと共に、返り血が顔にかかった。

「中途半端ね。どうせ相手は魔力で勝手に止血するんだから、両足とも切り落としてしまった方が運びやすかったのに」さらりと怖い事を呟きつつ、再び実体化を解いたリリスが更なる指示を出してくる。「あぁ、そうだ、両脇も刺しておきなさい。それで暴れるのが難しくなる」

「この、悪魔が……!」

「――」

 日々の中で刻み込まれた重圧にまた心臓が委縮したが、歯が折れるくらいに強く噛みしめる事で乗り切りつつ、シャルロットはリリスの要望に応えてから男の首に手を回し、彼を盾にする事に成功する。

 結果、遅れてやってきた後続の足と手が止まった。代わりに、彼等は言葉を用いる事にしたようだ。

「愚かな真似を。この先にはもう逃げ場などないんだぞ! これ以上罪を重ねてどうなる!」

「貴様は一体どれだけアステア様の顔に泥を塗るつもりなんだ!」

 ……どれだけ慣れていても、こういったものに晒されるたびに心は痛む。

 だけど、今は一人じゃない。

「あっはは、判りやすい奴等ね。人質に価値がある事をこうも親切に教えてくれるだなんて、これは思ったよりも時間を延ばせそうだわ」

 リリスの嘲笑が、不思議と胸を軽くしてくれていた。

「ゆっくりと後ろに下がりなさい。狭い方の路地に行く。奇襲のリスクを限定するわ」

「え? でも、それだと本当に八方塞がりになるんじゃ――」

「どの道結界が壊れない限り逃げ場なんてない。全てはヴラド次第。そして向こうの問題が片付けば、彼はすぐに此処に来る。そうなれば、こいつらを皆殺しにするのに、一体どれくらいの時間がかかるのかしら? 気になるところよね」

「……」

 おそらくは、十秒もかからないだろう。

 その未来を思うと、少し怖かった。その時、どういう感情を自分が抱いてしまうのか、想像がつかなかったからだ。

「変な顔。お前が一番喜ぶべき未来でしょうに」

「それは……」

 なんて返して良いのかわからず、言葉に詰まる。

 と、そこで、不意にリリスの表情に険がよぎった。

「――待って。この方向、こっちを狙ってる?」

 言葉の途中でシャルロットもその存在に気付き、視線を上げた先に凶悪な暴力の群れを捉える。

 こちらに向かって降り注がれる魔力弾の雨霰。

 誰の攻撃かは判らないが、これは無差別だ。この一帯の全てを殺すつもりで放たれている。

 回避は間に合わなかった。人質の身体は盾にもならない。

 衝撃の余波で千切れ弾け飛ぶ住人の四肢。

 程なくして、鮮血が一面を埋めつくした。

「――うっ、うぅ」

 幸い致命傷を負う事はなかったが、両腕の方はいずれも深刻な状態だ。神経がやられたのか、痛覚以外の感覚がなくなっている。あげく、被弾の無かった両足もどういうわけか上手く動かない。動かそうとすると、腕の方からそこにまで痛みが走るのだ。

「……結界を経由して真上から落とす事も出来たでしょうに、わざわざ魔力の色を隠蔽までしてヴラドがいる方向から仕掛けてくるなんて、本当に体裁が大事なようね、あの羽虫どもは」

 一人無傷で済んだリリスが憎しみの笑みを浮かべながら、こちらに視線を向ける。

「威力もそこらの凡人が即死する程度にあえて抑えたか。それに奴等らしい毒も込められている。支障は多そうね。でも我慢しなさい。こっちに行くわよ。ほら、急いで。お前を殺したくて仕方がない奴等は、今此処で死んだのだけじゃないんだから」

 範囲外に居た者たちの足音が近付いてくる。この惨状を前にした彼等の感情がどう変化するのかは、想像に容易かった。

 全身を蝕む苦痛を噛みしめながら、再び駆けだす。

 やがて、行き止まりに辿りついた。建物同士の間隔が極端に狭い一角だ。ここなら確かに真正面からの脅威だけに意識を向ければいいのだろうが、完全に逃げ場はなくなった。

「右手は動く?」

「は、はい。大丈夫です」

 強がってみたが、正直短剣を落とさないようにするので精一杯だった。とてもではないが、武器を振るうなんて余力はない。

 それを察してか、

「いいわ、もう一度人質を使う」

「え?」

「ここにいるでしょう? わたしが実体化したのを見た奴等は全員死んでくれたからね。今なら機能するわ。あぁ、でも、ここに子供は不自然過ぎるか。実にすばらしい事に、貧困層の子供なんてものはこの国には存在しないみたいだしね」

 言われて、此処が繁華街の中でもかなり治安の悪い場所だという事を思いだした。

 ちなみに彼女の最後の発言は、生活能力に乏しい親の子供は親権を奪われ、国の孤児院に強制的に移されるためだ。そうして親を失った子供の多くは英才教育を受けて、騎士などの役職につくと言われているが、実際のところは判らない。

 ともあれ、その事情を新聞かなにかで把握していたリリスは、気乗りしない表情で「まあ、娼婦でいいか」と呟き、その姿を大人のものへと変化させた。

 元々が狂おしいほどに可憐な少女がそのまま順調に成長したような様は、まさに圧巻というべき美しさで、それはそれでこんな場所にいるわけないとも思ったりしたが、それを素直に口にする勇気はなかった。

「それにしても、この私が襤褸を纏うだなんてね……屈辱だわ」

 服装もこの場所に相応しいものに変えつつ、彼女は実体化を果たす。

 途端に甘い匂いが陶酔を孕んだ眩暈を連れてきた。体温が上昇し、心臓がどきどきして、下腹部がムズムズする。

 暴力的な色気の産物だ。もはや魔法といっても過言ではない。

「こんな顔でいいわよね? ちゃんと怯えているように見えてる?」

 淡々とした口調で、リリスは誰もが胸が痛めるような表情を浮かべてみせた。

 それを見て、本当にこのヒトは悪魔なんだなと妙な納得感を覚えつつ、シャルロットは短剣を彼女の首にぎこちなくセットする。

 程無くして、群衆が姿を見せた。

「た、助けて……!」

 甘さを含んだ震え声でリリスが訴える。

 この上なく庇護欲をそそる演技だ。ほぼ全ての人が唾を呑むほどだった。

 こんなの抗い様がない。どうしようもないくらいに有効に機能する。時間だってめいいっぱい稼げるだろう。当然のように、シャルロットは確信した。

 だが、そうはならなかった。

「構うことはない! それも悪魔だ! 殺せ! 殺せ! 殺せ!」

 群衆を掻い潜って先頭にたった老人が、声高々にそう叫んだのだ。

 血走った焦点の合わない眼に、口の端から垂れる涎。明らかに正気ではなかった。

 普通なら、そんな相手の言葉を鵜呑みにはしない。むしろ警戒や不審を抱くべきだろう。

 にも拘らず、怖いくらいに一斉に、群衆はそれに同調した。

「……天使の特権か。二度も同じ手を喰らうのは気にいらないって? はっ、手が早い事ね」

 忌々しげにリリスが舌打ちをする。

 まるでそれを合図としたみたいに、得物を持った群衆が一斉に襲い掛かってきた。

「――っ」

 恐怖に身体を強張らせながらも短剣を握る手に力を込めようとするが、やっぱり上手く握れない。

「まったく、二重の意味で、この姿になって正解だったわね」

 吐息と共に振り返ったリリスが、シャルロットを抱きしめる。

「頭は自分で守りなさいよ。ほら、早く腕で覆いなさい。大雑把に動かす事くらいはまだ出来るんでしょう?」

 言われるがままにそうすると、今度は壁に背中を押しつけられ、そのまま横倒しにされて、シャルロットの身体は壁とリリスの肉体によって覆われることになった。

「悪魔に死を!」

 ガンッ! と鈍器で殴られた音がリリスの身体から響く。後頭部を思い切り殴られたのだ。

 瞬く間に彼女の顔が血で染まる。

 続けて、刃物が肉を刺す音が届いた。

 それらは何度も何度も響いて、その余波が何度も何度もシャルロットの肉体に傷をつける。余波でなければ、とっくに死んでいる。

 リリスの温かい血が、悲鳴を上げてしまうくらい怖かった。

「無駄に騒がないで。動かないで。お前に死なれたら、私の苦労が台無しになる。そんなの、不愉快でしょう?」

 諭す声が、だんだん弱くなっていく。

 暴力は止まらない。

「やめて、もう、やめて……!」

「「殺せ! 殺せ! 殺せ! 悪魔に死をっ!」」

 悲痛な訴えは、殺意の合唱に掻き消される。

 やがて完全に肉体を破壊されつくしたリリスの身体から魔力が粒子として零れだし、身体に圧し掛かっていた重みと体温が消えていく。

「……ごめんなさい、ごめんなさい」

 ずっと刻まれてきた自罰の癖が、また顔を出してしまった。

 ついにリリスの身体が消失して、暴徒たちの血走った眼が一斉にシャルロットを映しだす。

 最も近い場所に居た男が、鉈を振り上げていた。

 それは、真っ直ぐにシャルロットの頭部目掛けて振り下ろされ――しかし、途中で大きく逸れ、壁に叩きつけられて弾かれ地面に落ちる。

「――は?」

 間の抜けた声が、鉈を持っていた男の口から零れた。

 直後、鮮血が壁を真っ赤に染めあげる。

 頭上から降ってきた槍が、男の右肩を抉り飛ばしたのだ。

 そして、重力をまるで感じさせない落下をもって、シャルロットと群衆の間に一人の麗人が現れる。

 戦場で見た、ヴラドと並んで暴れまわっていた人物。

「……その寝癖、今の今まで寝てたわね? この状況でどういう神経をしているのか。まったく、お前の所為で、ずいぶんと魔力を無駄にしてしまったわ。どう責任を取ってくれるのかしらね?」

 散らばった粒子を再構築させて、シャルロットの視界に戻ってきた幼き姿のリリスが、面倒そうに息を吐いた。

 彼女の特性を一部しか知らないシャルロットは、ただただ茫然とするばかりだ。

「責任って、なにか約束とかしてたっけ?」

 クーレが不思議そうに首をかしげる。

「この状況下でなら、お前がどういう選択をするのか、お前のお供の莫迦でも判る事でしょう?」

 呆れるようにリリスが言った。

「あー、なるほど、確かにそうだね。これはガジャでも判る。僕が文句を言われる筋合いはまったくないけど。まあ、怒った君の顔は結構好きだしね、良しとしようか」

 可笑しそうに笑いながら、クーレは地面に突き刺さっていた槍を引き抜いて、群衆の方に身体を向ける。

「貴様、悪魔に与するつもりか!」

 洗脳の軸となっている老人が吠えた。

 それに対し、クーレは不可解なものを前にしたみたいに眉を顰めて、

「当たり前でしょう? なに言ってんの? どこの世界に、か弱い女の子をよってたかって苛めている下種共の味方をする強者がいるっていうんだい?」

 と、これ以上ないくらい堂々と言い放ち、

「あと、さっきから煩いよ。君」

 ぐちゃ、と老人の頭が重力の魔法によって潰れ、飛散した。

 周囲を包んでいた異様な熱気が一気に冷える。そこに、クーレは実に爽やかな笑顔を披露した。

「信仰という名の簡易な洗脳補助、たしか天使の特権だっけ? そこまでの強制力はないみたいだね。でも此処に居るのは確かに悪魔憑きだ。君たちが決意を捨てる理由はない」

「……」

 得も知れぬ恐怖に襲われて、群衆の足が一歩後ろに下がる。

 だが、一歩だけだった。

「中途半端だな。逃げるわけでもないのか。つまんないからいっそ逃げてくれた方が良かったんだけど――って、これって逃がしていいの? 僕、この後の展望について何も知らないんだけど」

「知る必要なんてないわ。だって、お前はただの保険で、お前が来た時点で時間稼ぎも終わったんだから」

 退屈そうにリリスがそう告げた直後、空を覆っていた結界が砕け散った。


                §


(やはり火力不足だな)

 大地の魔法でお互いの高さをずらし、そこで生じた隙に滑り込ませた長刀が首筋に吸い込まれ、しかし頸動脈にすら届かずに浅い線を残すだけに留まり、あげくその傷も瞬く間に塞がっていく光景を前に、ヴラドはうんざりとしたため息を零した。

 今の状態では殺し切れない。ユーリッヒだけなら同じ個所に傷をつける速度を上げて治るまでに届かせる事も可能かも知れないが、ルプテがとにかく邪魔だ。他の三等級を切ったところで、この構図が変わることはないだろう。

 だから、こうして同じ手札でカウンター狙いの戦いを続けているわけだが、そろそろ別の手を見せないと、こちらの本命に勘付かれる恐れがある。

 事実、天使の方は崩せそうで崩せない今の状況に不審を抱き始めていた。まあ、半身の方はもう少しで殺せると勘違いしているようだが。

(……頃合いか)

 軽くバックステップを取り、懐から魔石を一つ取り出す。

 その魔石は『保存石』と呼ばれるもので、一般的な家庭でも多く使われている代物だが、中に入っているのはリリスが二等級に指定している魔法が宿った核だ。

 二等級は既に空間干渉で使っているので、これを使えばリリスの奴がきっと煩い事になるだろう。なので、もちろん使う気はないが、悪魔の聲が聞けない彼らには、その事情は伝わっていない。仮に伝わっていたとしても、真に受ける理由もない。

「腐っても神子か。いいだろう、これで殺してやる」

 適当な言葉を並べながら、保存石を砕き、剥き出しの核に魔力を流す。

 中身の異質さを感じ取ってか、ルプテの方も余計な事を考えるのを止めて、こちらの対処だけに神経を傾けた。

「では、我々も全力を持って、貴方を叩き潰す事にしましょう」

 こちらがどんな手を使ってこようが、力でねじ伏せるつもりのようだ。攻撃的な魔力が神子の前面に展開されていく。それを制御するために、天使も最大限のリソースを割く事になるだろう。

(あとは、こちらが回避できるかどうか、か)

 無論、それは天使共の攻撃ではない。この隙に仕掛けてくるであろうエンシェの神子の一撃だ。

 これだけ明白に奇襲が成立する状況をお膳立てしたとはいえ、味方でない以上、そいつがこちらを考慮するなんて事はない。かといって、街もろとも吹き飛ばすような規模の攻撃を仕掛けてくる事もないだろう。そんな派手な攻撃は奇襲になり得ないからだ。

 エンシェの神子は、今目の前の敵がやっているのと同じように、威力だけを研ぎ澄ました針の如き一撃を放ってくる。

 仕掛け所はおそらくレナリアの邸宅辺り。ちょうど、天使共が背を向けている方向であり、こちらの真正面だ。一番自然に警戒できる方位なのは間違いない。

 それでも、見てから躱すのは難しそうだから、結局は相手の仕掛け時に対する嗅覚に期待するしかないわけだが……

(……読み違えば死ぬ。ただそれだけ)

 もう覚悟など必要ないくらい、ずっとやってきた綱渡りだ。

 ヴラドは迷いない動作をもって切り札を切る素振りを見せ、天使の先手を誘発させて、それが解き放たれるほんの一瞬前に大きく左後方へと飛び退き――直後、ユーリッヒの胸に風穴が開いた。

 だが、心臓じゃない。少しズレている。そして余波で殺すには範囲を絞り過ぎていた。

(外した? いや、外されたか)

 どうやら、クリスエレス陣営にも彼等の計画を看破していた存在がいたらしい。おそらくは君主であるスロウの仕業だろう。やはり神子は一筋縄ではいかないようだ。

 死の危険に晒されたユーリッヒは、都市を覆っていた結界を乱暴に解き、そこに使っていた魔力を全て自身の防御に注ぎながら一目散に戦線離脱していく。

 追撃がないあたり、あの神子を殺す事にエンシェ側は完全に失敗したようだ。

 まあ、いずれにしても、こちらの問題は解決した。

 ヴラドもさっさとこの場を離れ――

(――いや、その前に、必要なものを買っておくか。しばらくは外だろうし)

 と、近場の雑貨屋に足を運んで、呆ける主人に購入する品と硬貨を差し出してから、七秒後に刀を突き付け、

「足りるだろう? これで」

「は、はい! あ、ありがとうございました!」

 少し不安だった旅の準備も済ませてから、リリスたちの元へと向かった。


                §


「買い物してたの? 余裕だねぇ」

 脇に抱えた紙袋を前にして、何故か居たクーレが感嘆の声を漏らした。

「しかし、大天使と殺し合うだなんて、また箔がついたんじゃないか、ヴラド」

「……そんなことより、死んでいないな?」

 視線をシャルロットに向けて訪ねると、その隣にいたリリスが不機嫌そうに眉を顰めた。

「わたしの心配はなし? 凄く酷い目に合ったんだけど。ほら、実体化したら若干透けて見えるくらいに魔力が減ってる」

「ご、ごめんなさい。私の所為で……」

 自分に落ち度があると思っているのか、申し訳なさそうにシャルロットが謝罪する。

 見当違いな行いだ。

「必要ない。それは役割通りの事をしただけだ。暇潰しがてらにな」

 違うか? と射殺すような視線をリリスに向ける。

 すると彼女は冷ややかに目を細めてから、可笑しそうに小さくわらった。

「さすが、わたしのご主人様ね。わたしの事がよく判っているみたい。ええ、その通りよ。お前が気にする事は何もない。だってあんなの、髪の毛が一本抜けちゃった程度の事だもの。ええ、ご褒美さえあれば、なんの問題もないわ」

「……」

 袋から飴を取り出して、魔力を少しだけ込めたそれを放り投げる。

「そうそう、この飴が欲しかったのよね。この国で見つけた唯一の美点。ふふ……あぁ、美味し」

 包みを開いて、細い棒についた飴をリリスは煽情的に舐めながら、その様をシャルロットに見せつけた。

 色々と含みのある行為に、シャルロットは更に必要のない感情に振り回されそうだったが、それを不憫に思ったのか、

「とりあえず、一番厄介そうな問題が片付いたところで、飛龍はどこで呼ぶ?」

 と、クーレが話を軌道修正した。

 さも当然のように行動を共にするような流れが気になったので視線で訪ねると、彼はいつものようにサッパリとした笑顔と淀みない口調で答える。

「国境線までは付き合おうと思ってね。そこまではどうせ同じルートになるだろうし、助けたからには区切りのいいところまでってやつだよ」

「……外壁を抜けたところ」

 少し考えて、ヴラドはそう答えた。

「たしかにそれが良さそうだね。ここだと撃ち落とされる危険もあるし――」

「どうしてまだ生きているっ!?」

 クーレの言葉を掻き消すほどの怒声が轟いた。

「ん? 誰? この煩い人? 君たちの知り合い?」

「……お父様」

 怯えた表情で、シャルロットが呟く。

 その途端、ダノラウトは鬼の形相を浮かべて、

「今すぐ自害しろ! これ以上あの方の名誉に泥を塗るな!」

 と、叫んだ。

 更に立て続けに娘の事を責め立てる。

 神子が殺すという予定が崩れた事がよほど想定外であり、許しがたいらしい。

「わ、私は……」

 今にも消えそうな声と共に、シャルロットが俯く。

 あまりに弱い抵抗だ。だからこそ、このまま押し切れば自身の思惑が徹るとダノラウトは確信しているようでもあった。それほどまでに不快な支配を、この男は実の娘に行ってきたのだ。被害者を気取りながら。

 それを理解した瞬間、ヴラドは鋭く重い声を発していた。

「シャルロット、だったな。今決めろ」

「え?」

「契約の話だ」

 理解が追い付かないシャルロットに、ヴラドはそれだけ言った。

 それがあまりに端的過ぎる事に呆れてか、リリスが補足を加える。

「わたしたちはお前の不死性が欲しい。差し出せばお前は悪魔を捨てられる。悪くない話よね。ただ一つ問題があって、今すぐには出来ないの。だからお前にはその時までわたしたちに同行してもらう必要がある。あぁ、別に拒否しても、大きな問題はないわよ? 中にいる二匹とも処理してから、わたしがその身体を乗っ取ればいいだけの話だから。ただ、その場合はわたしの行動が制限されてしまうでしょう? それって色々と不便なのよね。理解出来た? 理解出来たのなら、今決めなさい。ここで死ぬか、まだ続けるかを」

「悪魔を捨てられるだと? 戯言をぬかすな! 貴様は生まれたその時から許されざる悪魔だ! 悪魔は正しく処断されなければならない、おぞましき悪魔は――」

 雑音が邪魔だ。

 ヴラドは躊躇なく刀を投擲し、ダノラウトの右肺を貫いた。

「少し、黙れ」

 心臓や頭を射抜いてやっても良かったが、即死させるなんて生温いにも程がある。念入りに殺すのは、シャルロットの決断を聞いたあとでいい。

「答えろ」

 真っ直ぐに彼女を見据えながら、ヴラドは再度訪ねた。ダノラウトの姿を隠すように、自分だけを見るようにして訪ねた。

 それに対して、シャルロットは数秒の沈黙を挟み、

「…………この国のどこにも、もう私の居場所はありません」

 絞り出すように、そんな前置きをしてから、心情を吐露する。

「だから、この国の皆が望むままに死ぬことが、一番いい事なのかもしれません。私自身、生きていても良い事なんてなかったし、死ねるならそれで今よりはきっと幸せで…………でも、じゃあ一体、私はなんのために生きてきたのかなって、そう考えた時に凄く哀しくて、嫌で……教えてください。私は、どうすればいいんでしょうか……?」

 その問いは、背中を押してくれる事を祈っているように感じられた。少なくとも、リリスはそう捉えたのだろう。こちらに向けてくる視線には、上手くやれというニュアンスがあった。

 知った事じゃない。

「お前の人生だろうが。お前が自分で決めろ」

 突き放すように、ヴラドは答えた。

 嘘偽りない本心だ。

 それに対して、シャルロットは泣きそうな表情で微笑んで、

「……そうですね。本当に、そう」

 と、どこか吹っ切れた声で呟き、

「お願いします。私も、連れて行ってください。私、此処はもう嫌だから」

「……あぁ、わかった」

 これで、ここでの面倒はあと一つを残して終わりとなった。

 その一つに、視線を戻す。

「あ、あのっ――!」

 溢れ出した殺気に気付いてか、シャルロットが焦ったような声を上げたが、踏み出した足を止めるつもりはない。

 全身の魔力を昂ぶらせていく。

 ダノラウトは一応戦える人間なのか、身体に刺さった刀を抜いて、自身が腰に携えていた剣を構えたが、呼吸も儘ならない状態でなにかが出来るほどの強さは感じられない。

 が、少し時間を掛け過ぎたのか、増援がやってきた。

 見知った顔もいる。そいつが居なかったら、全てを蹴散らした上でダノラウトの手足を切り落として腹を裂き、頭蓋を踏み砕いていただろう。

 ヴラドは足を止め、かろうじてではあるが抑止力として唯一機能している相手であるオルガを見据えて、

「契約通り、この娘は貰っていく」

「……皆、武器を収めろ。これ以上、無駄な被害を生む必要はない。悪魔はこの国から去るのだからな」

 そう言って、オルガは地面に落ちていた長刀の柄の部分を向け、それをヴラドに差し出した。

 やりあえばどうなるか、この男はよく判っているのだ。それに、この男はシャルロットに同情的だった。

「素晴らしい対応ね。お前が誠実で良かった」

 不意に、漆黒の翼を展開したリリスが嗤う。

 おおかたクーレの妹か何かだと思っていたのだろう、突然明るみになった悪魔という存在に、オルガは驚愕の表情を浮かべる。

「ご褒美に一つ忠告をあげる。傭兵の事はもっとちゃんと調べた方がいいわ。でないと後悔するから。あっはは!」

 その顔が見たかったのだろう。リリスは実体化を解いて、

「さあ、さっさと退散しましょう。わたしも疲れたし。こんな奴等、殺す価値もない。でしょう?」

「……」

 理解に苦しむが、シャルロットとの関係のためにも、オルガの顔を立てろという事らしい。

 ヴラドは小さくため息をつきながら得物を仕舞い、シャルロットを空いている方の脇に抱きかかえて、

「行くぞ」

 と、クーレにそう告げて、増援どもから背を向け、軽やかに屋根から屋根へと跳び移りながら危険区域を離脱した。


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