05/襲撃Ⅱ
それは、敵の全てを為す術なく断ち切った必殺の一撃だった。
しかし、ここまで見せてきたその凄味をただのまやかしにするように、レナリアはそれをあっさりとナイフで弾き返す。
「加速の刻印を使ってこの程度? この程度の相手に全滅か。前に宛がわれた粗悪品共は、嫌がらせの一種だと思っていたのだけど、どうやらそうでもないようね。エンシェの人手不足も深刻。どのように申請すれば、まともに使える駒が手に入るのかしら? ねぇ、貴方、なにかいい案はある?」
「よく喋る女だな」
「気に入らないのなら黙らせればいい。貴方如きに、それが出来るのならだけど」
瞬間、再び凄まじい衝突音が耳を劈いだ。
ほぼ同時に二度。いや、四度だろうか。
「……なるほど、紛う事なき強者ではあるか。全力で当たらないのは失礼だな」
軽くバックステップをとってから、ディダラは二本の刀を強く握りしめ、
「――では、往くぞ!」
裂帛の気合と共に、地を蹴った。
二つの刃が絶え間ない斬撃を開始する。
鞘を介していないが、その速度は全てシャルロットには視認できないものとなっていた。ただ、その分魔力の消耗も激しい。要はヴラドと同じ短期決戦型だったのだ。鞘に刻印を仕込んでいるのも、無駄な消耗を避けるための措置だったのだろう。いずれにしても、凶悪な暴力の嵐だった。
だが、それでも、レナリアには届かない。
醒めた表情のまま、彼女は造作なく全てを捌いていく。
信じられないくらいの強さ。これが、アステアがいなければクリスエレスで最強の汎用戦力と謳われた人物の強さなのかと、シャルロットは思わず見入ってしまっていた。
と、同時に、かつて侍女たちがレナリアの訪問の際にしていた話を思い出す。
『あの方も、あんな悍ましい悪魔的な魔法を持たなければ、アステア様の助けになれたでしょうに』
……召喚士一つとっても、クリスエレスに相応しい形を求められるような社会だ。悪魔的な魔法というのは、それだけで評価を落とす要因となる。
そういった中で、シャルロットが悪魔憑きになったあとも、最上位の貴族の席に残る事が出来ていた彼女がいかに突出した存在だったのかは、この光景を見れば納得だった。
そんな彼女の周りを動き回りながら、ディダラは斬撃の速度を増していく。そしてその過程で一度、両足に奇妙な魔力の流れを発生させた。
「単調な攻撃。もう飽きたわ」
投げやりな口調と共に、受けに回っていたレナリアが先手でナイフを振った。
あまりに力みなく、それでいて十二分の速さと重さを確保し、完璧な角度とタイミングで駆け抜けた一閃。
その目を奪われるほどの神業が、ディダラの右手首を宙に舞わせた。
間髪入れず返しの刃が翻る。
が、それが自身の首に届くより先に、ディダラの魔法が届いた。
突然レナリアを囲むように六人のディダラが現れて、まったく同じ動作で二刀を振りぬいたのだ。速度もタイミングも全てが同じだった。
回避の隙間などある筈もない。
ナイフはその一人の斬撃に弾かれ、残り五人の斬撃がレナリアに叩き込まれる。
勝負あり。……おそらく、それを確信したままにディダラは死んだ。
「なるほど、再現の魔法か。自身の行動を一定時間記録して、それを任意のタイミングで世界に具現化する。久しぶりに見たわね」
斬られた瞬間に黒い霧となって霧散したレナリアが、消えると同時にディダラの背後、その影から浮かび上がり、逆手に持ったナイフでこめかみを突き刺したのだ。
「……嘘でしょ? 急いで! 時間は稼ぐから!」
ディダラの死にショックを覚えながらも、声を張って寝室にいる二人を急かし、ラウンジに降りてきたプレタが剣と短剣を構える。
そんな彼女に落胆のため息を零し、
「敵も味方も標的も、度し難いほどの粗製ばかり。まったく、うんざりするわ」
脳髄と血の付いたナイフを振り払って、レナリアは軽やかに地を蹴った。
滑らかすぎる、警戒を忘れさせるような接近。
「――っ!?」
一瞬反応に遅れたプレタだが、辛うじてナイフを短剣で防ぎ、距離を取らせようと長剣を横薙ぎに振り抜く。
が、レナリアはそれをバックしステップで躱すのではなく、上体を逸らすだけで回避し、その勢いを利用して振り上げた足でプレタの顎を蹴り上げた。さらに地面に両手をつけて身体を回転させ足払いを放つ。
流れるような動き。目の前にいたプレタの眼からは、きっと消えたように感じるくらいの鋭さだった。
対処できなかったプレタが転倒する。そこに、地面を滑るように走らせたナイフが襲い掛かった。
プレタはかろうじて短剣で受け止めるが、間髪入れずに放たれた爪先蹴りをみぞおちに喰らって吹っ飛ぶ。
それを追いかけるために、レナリアは強く踏み込みながら腰を回しナイフを振り抜く準備を済ませ――しかし、壁に叩きつけられるはずのプレタの身体が途中で止まったことによって、タイミングをずらされた。
見えない糸によって壁への衝突を防いだプレタが、反動を最大限に活かしながら長剣を振り下ろす。
レナリアは僅かに遅れてナイフを振り払うが、威力の方はプレタの方が上だったようで、奥の壁まで大きく弾き返された。
ただ、背中から打ちつけるような無様はなく、身体を上手く制御して両足で壁に着地し、そのまま静かに地面に降り立つ。
「糸の魔法か。切れ味はなさそうだけど、そのぶん守りには向いていそうね」
「――ぐぅ、がはっ、ごほっ」
呟きを掻き消すように、プレタが吐血した。
蹴りによって内蔵が破裂した証拠だ。対するレナリアは完全な無傷。
「早く、行けって言ってんでしょう! 早くしろっ!」
糸の結界を前面に大量に張り巡らせながら、プレタが叫ぶ。
それに押し出されるように、ようやくというべきか寝室から気絶したロワァードを抱えたエイダが出てきた。中で何があったのか知らないが、ごたついた理由が気絶している男にあるのはすぐに理解できた。
「……ごめんなさい」
惨状に青ざめた表情をしながら、震える声で言って、エイダが地下に向かって駆けだしていく。
「その先に逃げ道はない筈だけど……また不備か。本当、この件の情報収集担当者は死刑にするべきね」
辛辣な言葉を並べながら、レナリアは右耳に付けているイヤリングを軽く爪で弾いた。するとイヤリングは淡く輝き、それが通信石を加工したものだという事を教えてくれた。
「半径五百ヘクテルの魔力の変化を観測しなさい。簡易の転移門が使われる可能性があるわ。なんなら誰も外に出れないように結界を張ってもいい。抗議? タシネル・リャンタの勅命とでも言えば黙るわよ。この区域に居る連中の大半は、ザーラッハとエンシェの事は知っているでしょうしね」
……不味い事態だ。レナリアの読みはおおよそ当たっている。
救いがあるとすれば、まだこちらの存在が気付かれていない事だろうか。そのアドバンテージを上手く使いたいところだが、考えている時間はもうない。このままではプレタが殺されてしまうからだ。
シャルロットは意を決して魔力を静かに展開し、レナリアの四方に砲撃の核を作りだす。
「――」
気付かれた。
まあ、当然だ。でもこれで、こちらに注意を引く事は出来た。
「プレタさんの事をお願い」
小さな声で言いながら、レナリアに向けて魔法を解き放つ。
擬態の魔法の影響か、反応が悪い。当たり前のように回避された。
ただ、まだこちらの攻撃は終わっていない。続けて四方から閃光を撃ち放つ。
これも当たらない。だが、距離は取れた。
「ずいぶんと上手く隠れていたものだけど、そちらにとっても想定外の第三者のようね。……二人か、顔も見せないだなんて、ずいぶんと無礼な輩」
「すぐに援護に戻る。無理はしないように」
プレタの方向から届けられたその言葉と共に、擬態が解けた。
本格的な戦闘になった場合、間違いなく邪魔になるから、この判断は有難い。それに自分の姿を見せた方が、プレタもリグチラの言う事を素直に聞いてくれるだろう。
「……驚いたな」
シャルロットを見据えていたレナリアが、感情のない声でぽつりと零した。
「どうして、こんなところにいるの? ……いえ、そんな事どうでもいいわね。お友達は誰かしら? ずいぶんとユニークな魔法を持っているようだけど……これも、どうでもいい事か。困ったわね。こんな場所で貴女と会うとは思っていなかったから、気の利いた言葉を用意していなかった。だから、そうね、端的にいきましょう。――死になさい」
「……マヌラカルタを、目覚めさせるためにですか?」
「私の立場も理解しているようね。話が早くて助かるわ」
「――っ!?」
瞬き一つの間に、レナリアの身体が目前に迫っていた。
身体を思い切り逸らしてなんとか横薙ぎの一閃は躱すが、追撃の蹴りが脇腹を捉える。
凄まじい衝撃と共に、壁まで叩きつけられた。
けど、意識は飛んでいない。そのままプレタを追いかけようと階段の方に身体を向けたレナリアの進路を遮断するように、光の柱を形成する。
「……不死の力で、貴女の魔法は大部分が封じられているという話だったと思うのだけど、マヌラカルタ様はどういうつもりなのかしら? まさか、こんな小娘に主導権を奪われそうになっているという事なのか。…………まあ、なんにしても、私のするべき事は変わらないか」
ナイフに禍々しい魔力が込められていく。
(たしか、叔母様の魔法は――)
思考を遮るように、背中に痛みが走った。
シャルロットの影から発生した黒い棘による攻撃だ。
ただ、臓器にまでは届いていない。致命傷には遠い――そう判断した矢先、両膝が地面に落ちた。
急に力が入らなくなって、視界がぼやけだす。
そこで、思い出した。
叔母の魔法は『死陰』。影という匣の中に死を溢れさせる、極めて希少かつ凶悪な魔法だ。毒に近い特性だが、毒と違いそれは生物以外にも通じる。
それを物語るように、咄嗟に傷口を覆うように体内に展開した魔力結界が、瞬く間に朽ち果てていた。
心臓が止まり、命が終わる。
そして当たり前のように、また心臓が動き出した。
「これでとりあえず一回だけど、気になるのは連続して殺した場合もちゃんと同じ効果を持っているのかという点ね」
ナイフが脳天に振り下ろされる気配を察知して、上体を左に逸らす。
肩に突き刺さったが、これくらいの痛みなら問題はない。
足首を掴んで、ゼロ距離で魔法を放つ。
が、手ごたえはなかった。
本体じゃない。これは影だ。では、本体はどこにいる?
(……あぁ)
もう、眼が視えない。肩口から侵入してきた死陰によって、痛覚以外の感覚が完全に壊死していた。
だから、側面から迫っていたナイフにもまったく気付かなくて――
§
銃声と共に、次の死を齎さんとシャルロットにナイフを振り下ろしたレナリアの腕が吹き飛んだ。
もっとも、それはただの影なので痛みはない。失ったのは影を生成するのに使った魔力だけだ。
「……デューリ・コンクか。今日はよく驚ける日ね、悪くないわ」
散弾型の魔法銃を片手にもった男を前に、レナリアはくすりと微笑みながら、吹き飛ばされた腕を再構築する。
(もしかして、あの男は、だから私をここに寄越したのかしら?)
平和主義者はザーラッハの動きに大きな影響を与える存在でもあるわけだし、あの男の目的とも関連しているのだから無関係とは言えない。
今回もつまらない仕事だとばかり思っていたが、存外歯ごたえはあるし、重要度も高そうだった。
(いいわ。目的のついでとしては悪くない)
クリスエレスに居ては、絶対に得られなかった充足感だ。
他人に使われるのは反吐が出るくらいに嫌いだが、代価がこれなら多少は我慢も出来るというものだろう。
「本体は、そこか」
銃口が、転がる死体の影に向けられる。
魔力の微量な動きを読み取っての事だろう。まあ、元々そこまで隠密性の高い魔法ではないので、驚きはない。
表に出していた影を霧散させて、本体に回せる出力を確保しつつ、潜んでいた場所から姿を見せる。
そのタイミングで散弾が放たれたが、レナリアはそれを足元の死体を盾にして防いだ。
魔力を纏わせた肉壁は、散弾をギリギリのところで受け止める。込められていた魔力量からみても、妥当な結果だ。
そして、盾によって生まれる死角をついてデューリが踏み込んでくるのも予想通り。
(報告書が確かなら幻覚や変身といった視覚に干渉する魔法を所有している筈だけど、こうして参戦してきたという事は、戦闘に向いた魔法も所有しているのか。それとも攻撃にも使えるレベルの補助なのか)
契約者なのか、魔眼持ちなのか、或いはその両方か。
(想定は常に最悪であるべきとは、誰の教えだったかしらね)
かつて師事した元将軍の顔を思い出しながら、射線を避け前に踏み込む。
右耳の傍で弾ける煩わしい銃声。
(速度は程々)
見てから避けられる程度だが、駆け引きが出来ない相手とも思えない。弾速の細工は十分考えられるだろう。出来る限り射線には入らない方が良い。
(まあ、この間合いで射線に入れる事もないけれど)
足元の影を広げて落としたナイフを回収しつつ、そのまま間合いを詰めていき、右手に硬く冷たい金属の感触が届くと共に、脇腹目掛けて突き出す。
当たらない。腰を捻りながら左後方に逃げられた。さらに、追撃を拒むように銃口がこちらへと向けられる。
(手首を上手く使うものだけど、その構えで反動を殺せる?)
撃てるものなら撃ってみろと、レナリアは右手のナイフを盾にしながら気にせず踏み込む。
発砲はなし。代わりに、靴が飛んできた。
ただの靴なら無視すればいいが、なにか嫌な感じがする。
その直感に従って大きく避けると、靴の中に入っていた肌色の蛇が首筋目掛けて飛んできた。
空いている手で叩き落とす。すると今度は、地面に落ちたその身体が無数の肌色のクモへと変わり、足元に纏わりつかんと迫ってきた。
(殺すしかないか)
影の上に乗せてやると、クモ共はピクリとも動かなくなり、また別の生物が出てくる事もなくなった。
「ずいぶんと慎重に使うものだな。色々と制約や不備がありそうだ」
対処の隙に大きく距離を取っていたデューリが、淡々とした口調で呟く。
正解だ。たしかに死陰の魔法には色々と出来ない事やリスクが存在しているうえ、そもそも魔法を他者に使う事自体、実に五年ぶりの事だった。
「そちらはずいぶんと器用に魔法を使うわね。変身の魔法。でも、この拡張具合は人間の領域じゃない。契約者で確定か。厄介ね」
つまらなげに呟きながら、レナリアは軽やかに地を蹴った。
散弾を掻い潜り、再び肉薄する。
ナイフと魔法銃の衝突音。その音が鼓膜に届くより速く、足の甲を踏みつぶし、こめかみに肘を叩き込む。
硬い感触。デューリの顔の右半分を埋め尽くした龍鱗のよるものだ。
錆びた蒼色のその龍鱗は、瞬く間にデューリの全身を覆いつくしていく。さらに巨大な尻尾も三本生やして、それらを不規則な軌道をもって振り回してきた。
後ろに下がるのがセオリーだと思わせる攻撃だ。だが、だからこそ下がる理由はない。
一本を足の裏で受け止め、一本をナイフで切り払い、もう一本を掻い潜りながら、『死陰』に浸した漆黒の貫手を放つ。
「何のための鱗? ちゃんと受け止めなさいよ?」
回避をしたデューリをせせら笑いつつ、蹴りを打ち込んで吹き飛ばしてやった。
そしてすぐさま彼から背を向けて、シャルロットへの攻撃を再開させる。
普通の逃走手段しかないのなら後回しでもいいが、ここにデューリ・コンクがいるのなら、裏世界への逃走ルートが用意されている可能性が高いためだ。そこに干渉する術がない以上は、マヌラカルタを優先するのが妥当。
その判断の元、よろよろとした足取りで階段を降りようとしていたシャルロットの首を撥ね飛ばす。
だが、切断面からは一滴の血も流れなかった。それどころか中身もない。まるで抜け殻のようだったのだ。
(……そう、蛇と同じか)
この死体もまた、デューリの変身の一部だったというわけである。
おそらくは戦闘の前に保険をかけていたのだろう。そしてこちらが目を離したタイミングで本人と入れ替えて、本人の方は透明化させ、蛇か何かを使って安全な場所に移動させた。
極めて高い拡張性を持った、この変身の魔法なら十分可能な話だ。もちろん、レナリアと戦闘を行いながらそれを成し遂げるというのは、並大抵の事ではないだろうが。
「だというのに、逃げの一手か」
気配が二つに分かれ、一つが下へと動いていくのを感じ取り、レナリアは小さくため息をつく。
振り返ると、人を丸呑みできそうなくらいに巨大なサメがこちらを食い殺さんと大口を開けて迫ってきていた。頭部だけで胴体はない。
乱雑に並べられた剣のような歯からは、ぽたぽたと血が垂れている。まだ誰もこのサメは殺していない筈なので、おそらくデューリ自身の血なのだろう。その血を変身させたのが、このサメというわけだ。
(契約者だとしても、融通が利いているわね)
色々と厄介そうな敵だという評価を下しつつ、レナリアは上顎にナイフを突き立て、下顎の歯を蹴りでへし折って踏み場を確保し、脅威の前進と上下の圧力に対抗する。
それが上手くいきサメの動きが完全に止まったところで、サメの身体がぐにゃりと崩れ、それは瞬く間に鳥籠へと変化した。
その鳥籠の表面からぶくぶくと泡を立てるように鱗が発生し、内側の空洞を完全に埋め尽くさんと面積を増やしていく。そうやって拘束の強度を高めているのだ。
足止めとしては申し分ない。事実、死陰の魔法を最大出力で放ってなお、レナリアがそこから抜け出すには十五秒もの時間が必要だった。
平時ではなく戦闘中の十五秒である。おかげで彼女たちの気配は、もはや微塵も存在していない。完全に逃げ切られたと見てよさそうだった。
「実戦は久しぶりだったとはいえ、芳しくない戦果ね」
少なくとも、シャルロットをあと一回は多く殺せただろうし、護衛についていた冒険者も皆殺しに出来たはずだ。
総じて、魔法の使いどころが悪かった。
デューリとの戦いも影ではなく本体で行っていたので、服を傷めてしまったし、僅かだとしても損失が出たのは非常に不愉快だ。このあたりはしっかりと修正していく必要があるだろう。これから先も、現場に絡んでいくのであれば。
「……いいわ、次は私自身を満足させる結果を手にしてみせましょう。必ずね」
ナイフを振り払って付着していた血を飛ばし、穏やかな表情でそう呟きながら、レナリアは悠然とした足取りでこの場を後にした。
§
意識が戻った。視界に広がっているのは深海だ。見知った裏世界。
シャルロットはゆっくりと身体を起こし、周囲を見渡す。
すると、そこには憔悴した様子のリグチラの姿があった。変身が解けているのは、それだけ魔力を消耗したからか。
「どうやら、眼が覚めたようだね。大きな変化も無さそうで良かった」
そんな彼女は、淡々とした中にたしかな安堵を滲ませつつ、
「プレタ・リリエッテは医務室に、エイダ・ジュードとロワァード・ジュードは中央の屋敷に案内させてある。これから彼等との交渉を行う。疲れているところ悪いが、貴女にも参加してもらいたい」
と言って、重たい足取りで歩きだした。
シャルロットも慌てて身体を起こして、その隣に並ぶ。
「それは、もちろん構いませんけど――」
「敬語」
「あ、か、構わないけど、でも、私なんかが居ても、役に立てるとは……」
「過小評価だな」
ちらりとこちらを見てから、リグチラは言った。
「身近にいる相手を基準にしてしまうのは仕方がない事だと思うが、貴女はもっと自分の優秀さを自覚するべきだし、敵の所為にもするべきだ」
「……」
「今回の貴女の戦果は、私よりもずっと大きい。なにせ、私が手傷を負っただけなのに対して、貴女は友人二人と、その父親一人を救っているのだからね。貴女があの時行動しなければ、私の行動は見捨ての一択だった。貴女が死ぬ可能性が高かったからね。ただ、マヌラカタルタが主導権を得るのに必要なのは貴女の精神を削る事だ。死という経験はその一つではあるが、友人を見捨てたという事実の方が、今の貴女にとっては痛手になる可能性も捨てきれない。つまり貴女の心次第ではあるが、貴女の行動こそが、あの場面においての最大の利だったというわけだ」
「――過剰な慰め、或いは愚かな考え。死に勝る負荷は存在しない。そして、他人ほどどうでもいいものもない」
勝手に口が動いた。
主導権を奪われたのだ。
全身が震え、心臓が縮こまる。息が苦しい。……怖い。
その弱気な精神を嘲笑うように、シャルロットの影が揺れ、一部が切り離されて浮かび上がり、小柄な人型へと変化した。
続けて、黒色のシルエットのようなそれに色がついていく。
髪は濃い蒼に、肌は灰色、そして瞳は爛々と輝く金色。
「これが、その証拠だ」
零れた声は、どこまでも中性的で、性別という区分を嫌っているかのようだった。
十歳くらいに見える外見だ。ただそのあまりにも醒めた表情はとても子供には見えなかった。
「……君がマヌラカルタか。なるほど、それを行う権利を、今回の彼女の死をもって得たわけだな。しかし、この展開自体は偶発的だ。先日の件もそうだろう。君はまだ正しく状況を掴めていない。だから君は、私が誰かも判らない」
微かに目を細めて、リグチラが言った。
「デューリ・コンクだろう? もちろん知っているさ」
侮蔑的な微笑を、マヌラカルタは浮かべてみせる。
それを前に、彼女は、ふむ、と一つ頷いて、
「やはり、私の本名は知らないようだ。焦りが透けて見えているぞ。どうやらこちらが想像している以上に、君にとってこれは良くない状況のようだな」
「思わせぶりな事を言うのが好きなようだな、詐欺師らしい特徴だ」
「そういう君は嘘が下手だな。他人をつつくのは得意そうだが、自分がつつかれるのには慣れていないのが判る。あぁ、そういう相手にしか仕掛ける事も出来ない小者だというのが、よく判る」
「――はっ、ぬかしたな、人間風情が。貴様はよほど未来を視る眼がないらしい」
「残念だが、君が期待するほど君に主導権が戻ってくる事はないよ。何故なら、今回の件でリリスはもう、彼女を殺す必要性を完全に失ってしまったからね」
その言葉を聞いた瞬間、思わず「え?」と間の抜けた声を漏らし、まじまじとリグチラを見てしまった。
そんなシャルロットに淡く微笑み、彼女は言葉を続ける。
「リリスはおそらく前の死の時に、強い疑いを持ったはずだ。そして君もまたそれを懸念していた。だから保険を掛けた。最低限の干渉は出来るようにとね。重要なのは、それを得るために君がなにを手放したのか。……シャルロット、貴女はこの悪魔と契約した時の事を、どの程度覚えているかな?」
「……どうして、そんな事を?」
「おそらく、そこには悪魔の契約も混ぜられていた筈だからだ。クリスエレスでの貴女の立場が、狙い通りにならなかった場合に備えてね。そしてその一つははっきりしている。魔法の主導権に関する契約だ。貴女が自分の魔法を用いて死を回避できないようにするため、マヌラカルタは強い不死性を提供する代わりに、その魔法を行使する権利を貴女から奪った。これは互いの行動を強く制限する内容だ。当然、状況によってその割合を変えてもいいという柔軟性も含めている事だろう」
「……」
てっきり、死ぬ頻度が少なくなったから魔法が戻ってきたのだと思っていたのだが、どうやらそれは誤った認識だったようである。……でも、だとしたらどうして、この悪魔は自分に魔法を返したのだろうか?
その疑問にも、リグチラは恙なく答えた。
「死ぬことが条件でもあったからだろう。死ねば死ぬほど、その必要性は増すものだからね。回数や頻度が条件には絡んでいる。だから、貴女の推測もあながち間違いというわけではない」
そこで、彼女はマヌラカルタの方に視線を戻し、
「一番あり得そうなのは君自身の魔力の一部。そのリソースを彼女に差し出す代わりに、最低限自由に動かせる身体を手にすることにした。そんなところか。主な狙いは環境の変化。このままでは彼女の精神は回復していくだけだし、死による影響自体も君が思っているよりずっと少ないようだからね。……だが、先程も言った通り、リリスはもうシャルロットの死を望んでいない。君が甘言を並べ立てたとしても、望む結果は得られないだろう」
「何故そのような事が言い切れる? あの悪魔の正体も知らぬ者が」
「それでも、少なくとも断言出来る事はある。君の価値はヴラド・ギーシュより間違いなく低い。そして彼は、シャルロットに死を強要するような真似はしない」
「果たしてそうかな? あの男もまた悪魔の契約をしている身だぞ。真の優位は彼女にある。その彼女が私よりも人間を優先する理由もない」
「君達と違って彼等は対等だ。それは見ていればわかる」
「気持ちが悪いだけの主観だな」
マヌラカルタが嘲笑を浮かべた。
それを涼しげに受け止めて、リグチラは言う。
「二人が交わしているであろう悪魔の契約の内容についても、おおよその見当はついている。儀式の執行者になった際に機能する類だろう。これから先に起きる同盟関係と同じだ。つまり、勝者になるまで両者の関係は良好である必要がある。最も重要な武力を担当しているのがヴラドだと考えれば、猶更だな」
「どうやら、言葉を理解する能力にも乏しいらしい。私が言っているのは――」
「ヴラド・ギーシュという人間を見誤っているという意味で言っているのなら、それこそ論外だ。私は証明石を用いて彼の真意を確認している」
珍しく強い口調で、リグチラは言った。
「彼は誠実な男だ。約束を違えるような真似はしない。そのような人物でなければ、どうして他人のために十年以上もの時を使い、あげくその命すらも差し出せるというのか」
「……待って。それって、どういう意味?」
初めて聞く内容に、シャルロットは口を挟まずにいられなかった。
命を賭ける、なら判る。でも差し出す? それではまるで、死ぬことが前提のような物言いではないか。
「あぁ、そうか、貴女は知らなかったのか」
口元に手を当て、リグチラは微かに眉を顰めた。
「教えて、お願い……!」
口を噤まれる前に、詰め寄る。
とてもじゃないが看過できる内容ではなかった。
その切実さと、自身の迂闊さにため息を一つついてから、リグチラは答えた。
「以前、彼にどうしてルナ・オルトロージュに会わないのかと聞いた事がある。その時、彼は必要ないからだと答えた。彼女には必要ないから、とね」
なぜ必要ないのか、それを突き詰めた末に、リグチラはその結論に辿りついたのだろう。
でも、本当にそうなのだろうか? 長い長い時間を掛けて大事な人を救って、なのにその先がない事を受け入れるなんて、あまりにも報われない。そんなのは、哀し過ぎる。
「それはそれは、まるで物語の騎士のようだな。そしてそんな男に心でも奪われたか? 薄汚いテロリストがずいぶんと――」
「煩いっ! 少し黙っててっ!」
溢れ出た激情を抑えられずに、声を荒げてしまった。
シャルロットという人間を多少なりとも知っている二人も、さすがにそれには驚いたようで動揺を少し見せる。
普段なら、それにすぐ気付いて言い繕っていただろうけど、そんな余裕はどこにもなかった。
(……確認しないと)
これは、絶対に曖昧にしてはいけない。
幸い、ここは深海世界だ。ルウォに向かう事は難しくない。
深呼吸を一つとって、シャルロットは逸る気持ちを抑えながら、
「交渉が終わったら、ルウォに戻るんだよね?」
「あぁ、そのつもりだ」
「わかった。じゃあ、早く行こう」
と言って、エイダの居る屋敷に向かって歩き出した。




