09/雷霆と鮮血
回転ノコギリの擦れる音を聞いているかのような異様なテンポで、剣と剣が衝突する。
飛び散る火花と弾ける電気、そして広がり続ける肉の焦げる匂い。
戦闘が開始されてから三十秒、未だに膠着した状況に、アンナは改めて対峙する敵が自身と同じ『真深夜』の傭兵であることを受け入れていた。
(うちでも四番に食い込めるくらいか)
なんにしても、自分よりも地力が上なのは間違いない。
戦闘技術は僅かに、魔力の総量においてはかなり遅れを取っている。
ただ、速度に関しては完全にこちらが優位でもあった。おかげで勝負にはなってくれている。十回やれば、多分三回は勝てる程度といった感じだろうか。
故に、重要なのはその十分の三の勝利を、ぶっつけ本番の今に持って来る事。
その肝となるのは、もちろん自身の雷魔法だが、これは魔法の種類としてはそれほど珍しいものでもない。戦士なら大半がその特性を理解している事だろう。
事実、発動すれば最速の雷撃を、ヴラド・ギーシュは造作もなく躱している。雷撃を指定したポイントに直撃させるには発動前に魔力で道を作る必要があり、その道をしっかり避けて立ち回られているためだ。
まあ、それを逆手にとって行動範囲を制限したりする事は出来ているので、完全に攻略されたわけではないが、いかんせんこのやり方は効率が非常に悪い。空撃ち繰り返しているようなものだからだ。この辺りも、劣っている点といえるだろうか。
とはいえ、そちらはあまり気にならない。
理由は明白で、圧倒的にヴラド・ギーシュの方が魔力の消耗が激しいからだ。
こちらと違って無駄なところなど皆無に等しく、これ以上ないほどに効率的な展開をしているのに、おそらくアンナの三倍から五倍程度の速度で魔力を失っている。
(でも、肉体の負担はこっちの方が上だしな。長期戦は選べないか)
この三十秒で手にした情報で色々と勝ち筋を探したが、やはり切り札による正面突破が有効そうだ。
もっとも、それは向こうも同じことだろうが。
(血を操るだけとは限らないもんね)
魔力の消費量と、この異常なほどに強い色格がそれを物語っている。
或いは契約者ゆえの、もう一つの魔法が切り札という事もあり得るだろう。本当にリリスが名前通りのただの淫魔であるなら気にしなくてもいいが、確定的な情報が出ていない以上は、別の線を疑っておく必要がある。
いずれにせよ、このクラスの相手が、切り札を隠し持っていないなんて事はありえないのだ。
(……もしかしたら、渡された資料には載ってたのかな? だとしたら、もっとちゃんと情報に目を通しておくんだったか。これは反省点だな)
出来れば方向性くらいは読み解きたいところだが、多分使われる前に仕留める方が安全だろう。
横薙ぎの一撃を放ち、ひとまず距離を取る。
ゆっくりと息を吐きだすと、口の中から煙が漏れてきた。
自身に雷の特性を取り込んで、超高速戦闘を行った代償だ。焦げた肉の匂いの半分以上は、アンナから溢れ出たものだった。
自己治癒能力を魔力で強化してダメージを緩和しつつ、ヴラドの動向を窺う。
このチャンスに食いついて来てくれても良かったのだが、慎重だ。血のヴェール越しでも、多少はこちらの雷撃が肉体を蝕んでいるという事だろうか。
いや、もしくは、そう装っているだけなのか……
(……まどろっこしいな)
駆け引きはそんなに好きじゃないし、時間を掛ける事にメリットがないという判断をしたのなら、早々に奥の手をもって決めるべきだ。不透明な要素など、気にしても仕方がない。
どうせ、最後は自分自身の制御能力が全てを決するのだから。
(今の調子なら、十秒が限度ってとこかな)
ゆっくりと息を吸い込みながら、心臓の中にある核のリミッターを解除する。
すると、バチッ、と体内からも帯電の音が響きだした。
それをきっかけに、外への干渉も激しくなっていき、巨大なヘビがのたうつように、黒紫色の稲妻がアンナの周囲に発生する。
もう少し自分が成長すれば、これを操作しながら連携を組み立てる事なんかも出来るのだろうけれど、今はまだその領域にはないので放置だ。運が良ければ、プラスになってくれる程度のオマケと考えればいい。
「……」
やはり血を操ることがメインではないのか、ヴラドは奥歯に予め仕込んであったらしいなにかを噛み砕き、自身のものではない魔力を体内に含んだ。
他人の魔法でも使うつもりなのか? そんな魔法聞いた事もないが、無いと断言できるほどの知識があるわけでもなし。
取り込んだ魔力の色からシンプルな魔法だという目測を立てつつ、アンナは勝負の十秒へと躍り出た。
§
人の形をした稲妻が、零に等しい魔力の道と共に縦横無尽に駆け回っている。
今までは予兆があったからこそなんとか捕捉出来ていたが、もはやそれも叶わない。反応は全て手遅れで、結果の後に認識が追い付いてくるような有様だった。
「――っ」
殆ど勘で動かした刀で、雷撃を帯びた斬撃を受け流す。
雷の威力が高すぎる所為で、コートとヴェールの二つの強耐性もあまり意味をなしていない。かと言って、盾ではとてもじゃないが間に合わなかった。
右手が黒ずんでいる。火傷というものは、最も痛覚を刺激する傷だ。どれだけ我慢したところで、身体が痛みで震える所為で精度を失ってしまう。
(身体強化の核を使って、このザマか)
上物の三等級。使わなかったら既に死んでいただろう。
もっとも、このままでは数秒猶予を伸ばしただけで終わってしまう。出し惜しみをしている余裕はない。
そして、出し惜しみをしなければ、アンナを仕留める手段はいくつかあった。
生半可は強度の魔法では突破されるが、準一等級に指定している核を使用して結界を展開し、結界内のすべてを巻き込む範囲魔法を用いれば、彼女の防御を突破することはそう難しくない。損失は大きいが確実に殺せる。……が、それを選ぶつもりはなかった。
(おおよそ、あと五秒か)
もう一つの勝算に眼を向ける。
常軌を逸した速度から放たれる一撃の重さは、全て死に直結するほどの脅威だが、それはヴラドだけに当て嵌まる事ではない。仕掛けているアンナも同様のリスクを背負っている。
いや、むしろ、向こうの方が追いつめられている状況といっても過言ではないだろう。
重心の位置、力の具合、身体の流し方、角度、タイミング、どれか一つでも外したら、それだけで彼女の身体は破綻するのだ。仮に完璧を通しても損傷はかさんでいく。事実、落雷めいた帯電音に混じって、骨に亀裂が走ったような音がアンナからは絶えず聞こえてきていた。
まさに特攻だ。分の悪い駆け引きや長期戦に付き合わず自身の強みを相手に押し付けるために必要な選択とはいえ、ずいぶんと思い切った命の賭け方をする。
まだ十四、五歳くらいだろうに、驚くほどに全てが高水準。あげく、まだまだ伸びしろもある。このクラスで天才と呼ばれる所以が、よく判る在り方だった。
もし、ここに居たのが五年後の彼女だったのなら、選択の余地はどこにもなかっただろう。
(……くだらない妄想だな)
あの無能な教官のたとえ話の影響だろうか。
そんな風に思考と身体を動かしている間に、二秒が経過した
まだ二秒。その二秒で右の鎖骨と太腿、左の脇腹と肩が炭化していた。感覚を失うほどの痛手だ。
この状態で次を凌ぐのは無理なので、もう一つ仕込んでいた核を噛み砕く。
急速再生の魔法の発動を確認。
動くようになった左腕で刺突を受け流す。ギリギリ致命傷を避けるだけの無様な防御だ。だが、そのズレによる衝撃で、アンナの細剣を握っている人差し指と中指が千切れた。
ただ、その瞬間に細剣を投擲してくるあたり、想定内の破損でもあったんだろう。
こちらにとっては想定外だ。対処が僅かに遅れて、右目が抉られた。
頭蓋にまでは届かなかったが、視界の半分が消える。
些末事だ。どうせろくに見えていない。
再生は駆動部を優先。次の致命を避ける為に刀を振り抜く。
狙い通り、アンナは低い姿勢で刀を掻い潜り回避だけを選択した。それから、まだ無事の手に細剣を掴みとって壁を蹴り、攻撃を再開する。
時間制限がある中で、これはかなりのロスのはずだ。
それを埋めるように、アンナは更に速度を上げた。
こちらの想定より限界の方も近そうだ。後二、三手で終わらせるつもりなのが見て取れる。
(――こちらも、限界か)
魔力がもうじき尽きる事を告げるように、胸の奥に喪失感が広がり始めていた。
自身の血液を武器として揮いながら、アンナの雷を定着させて強耐性を構築したうえ、身体強化と強再生の二つの核も同時に行使しているのだ。当然と言えば当然だろう。
更に一秒、回数にして四十五回の攻撃を凌いだところで、耐性と強再生を放棄する。
そして、全魔力を身体強化に注ぎ込んでその魔法を完全に支配し、最後となるだろう迎撃に備えた。
§
視界が朱く明滅している。
頭の中では、ぶちぶち、となにかが切れる音がひっきりなしに鳴っていた。代わりに、自らが発していた帯電音は聞こえない。
極限に近付いている。自らの肉体が魔法そのものへと変わろうとしているのだ。おかげで、もう痛みもない。裂けまくっていた無数の骨も、そろそろ雷へと変換されそうだ。
ただし、そこまで状態が進行すると人間に戻れなくなる恐れがある。まあ仕留められるのなら、別にそれでも構わないが、おそらく自壊の方が先だ。アンナはまだ、この魔法の極致には至れていない。
(次で最後)
四肢の感覚があるうちに仕留める。
廊下という閉所の利点を最大限に活かした立体的な攪乱。
ヴラドの性能はもう判っている。これには反応できない筈――
(――っ!?)
だが、視線がこちらを追えている事実に気付いた。
性能が上がっている。ここまで追い詰めて、このタイミングで、後出しで切り札を切ってきたのだ。
(……本当に、強い)
もしルナを標的にするような発言さえなければ、敬意すら覚えた事だろう。
だが、こいつは、状況次第では彼女の害になれるかもしれないレベルの敵だ。ならば、ここで絶対に仕留めなければならない。
その決意と共に、アンナは最後の一歩を踏み込んだ。
まだ五本の指が繋がっている手に持ち替えた細剣を、突くように払う。
狙いは心臓。多少外れても胴体に刺されば、その瞬間に体内に溜め込んでいる全てを放電する。
(凌ぎきられるか、殺し切れるか)
正直、分は悪いが、悲観するほどじゃない――なんて自分で自分の背中を押したところで、ヴラドがこちらに向かって踏み込んできた。
こちらがボロボロなのは見て判るだろうし、守りきるのが間違いなく最善な場面で、何故?
疑問が判断を鈍らせる。
それは本当に僅かな遅れだが、このレベルの戦いでは致命傷だ。相手の想定以上に鋭い動きも合わさって、安全領域があまり稼げない。突き刺しながら脇を潜り抜けるという狙いが、正面衝突へと変わる。
さらに想定外なことに、ヴラドはこちらの剣に自ら刺さりに行くかのように真っ直ぐ踏み込んできていた。
流石に訳が分からない。
動揺を消す間もなく、剣を持つ手に感触が届く。
と同時に、死角から放たれていた一撃にアンナの意識はあっけなく切り落とされた。
§
臓器の隙間を徹すつもりだったが、さすがにそこまでの精度を用意する事はできず、右の肺に細剣が突き刺さった。さらに突進の衝撃で胸骨にヒビが入る。
その二つの痛手の間に、ヴラドは肘を突き出してアンナの顎を打ち抜いた。
死角から放った一撃だ。おそらく認識する事もできなかっただろう。
そうして糸の切れた人形となった彼女の身体がバラバラにならないように、しっかりと抱き止めて残りの衝撃を受け流す。
「……ごふ、ごほっ、」
床に手放したアンナの背中に大量の血を吐きながら、ヴラドはそこから三歩ほど下がって、細剣を引き抜いた。それを杖代わりに自身の身体を支えつつ、肺から喉に込み上げてくる血を止める。
呼吸は苦しいし、吐き気も凄まじいが、目的は達成した。
身体強化の核を投棄。周囲の気配を探る。
どうやらデューリ・コンクが色々と小細工しているようだ。今のところ増援の気配はない。
震える手を動かして、コートから一つの核を取り出す。
二等級に指定している『穿孔』。あらゆるものとまでは言わないが、この世界に風穴を開けるには十分な強制力をもった魔法だ。
ギリギリの魔力量だが、人を外に出す程度の孔を生み出す事くらいは……
「――ぐ、ごほっ、がぁ、は、はぁ」
数秒、意識が飛んでいた。
思っていた以上に、紙一重の勝利だったようだ。
その事実を自嘲しながら、核を流れる自身の血に取り込んで溶かし、定着を完了させ、なんとか外への孔を開く。
(あとは……)
「まさか、アンナ・リベルリオンが負けるだなんてね」
意識が途切れ途切れだった所為か、音が届くまで気付かなかった。
そんな相手にわざわざ声をかけてくる時点で、相当な自信家か度し難い間抜けのどちらかだろう。
視線を向けると、そこには二十半ばくらいの女がいた。
得物は鞭剣。気付かなかった事が信じられないくらい強い魔力を宿している。佇まいも手練れのそれだ。
「いや、でも意外でもないのか。所詮はただの過大評価。此処で死ぬのが相応しい」
「……」
この物言いから察するに、アンナに強い敵愾心をもっている下の序列の傭兵のようだ。
これが部外者であったのなら無駄な時間を使う事もなかったのだが、まったく面倒な増援である。
「……お前も、眠り姫の信者か?」
投げやり気味に、ヴラドは訪ねた。
すると、女は鼻を鳴らして嘲笑を浮かべる、
「はっ、残念だけど化物を愛でる趣味はないわね」
「そうか……良かった。なら、お前は殺しても問題ないな」
ヴラドは自身の血に混じっている淫魔の魔力と特性を解き放ち、その瞳を悍ましいほど艶やかな朱紅に染めあげて――
§
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
自身の乱れた呼吸音が鼓膜を埋めている。
心臓が苦しい。だけど、そんな事を忘れるくらい、シャルロットの胸には不安が渦巻いていた。
実体化を解き翼をもって並走しているリリスの表情をちらりと盗み見ると、いつも余裕たっぷりに女王様をやっている彼女の焦燥顔に触れることが出来る。
なんの説明もなく、
「ついて来なさい、急いで」
と、命じられたままにこうして疾駆しているが、ヴラドに何かがあったのは容易に想像出来た。
正直、信じられない。
だけど、感じ取れた魔力のか細さは、瀕死の人間のそれで――
「――っ、ヴラドさん!?」
こじ開けられた孔から再度侵入した裏世界に居た血塗れの姿に、悲鳴が零れる。
肉の焦げた嫌な臭いと、倒れる彼を中心に広がる血溜まり。周囲には他に誰もいない。
「屋敷に戻る。治療はそこでするわ」
「は、はい!」
慎重にヴラドを抱き上げる。
鍛え上げられた長身の成人男性なので当然重たいが、魔力で身体強化をすれば運ぶ事に支障はない。
「屋根の上を行った方がいいわね。先導する」
裏世界を後にし裏路地に入ったところで、リリスが上昇を開始した。
それを追いかけて、跳躍する。
外はもう夜だ。音にさえ気をつければ、このルートはそうそう人目につかないだろう。
「――まったく、ちょうどいいタイミングね」
リリスがそう呟いた直後、爆破音が響き渡った。
左手、おおよそ五百ヘクテルほど先の建物が吹き飛んだのだ。
「平和主義者のテロよ。そして国側の狩りの合図でもある。まあ、筒抜けだったみたいだから、上手くいくことはないでしょうけどね。なんにしても、この混乱は都合がいい」
翼を大きくはためかせて、リリスが速度を上げる。
それに置いて行かれないようにシャルロットも両足に魔力を込め、ヴラドを出来るだけ揺らさないように速度を上げた。
「……」
彼の胸部から未だ止めどなく溢れ出る血が、酷く熱い。火傷しそうなほどだ。それだけ体内で魔力を燃やしていたという事なのだろう。そしてまだ燃えている。そのため、止血なども一切行うことが出来ない有様だった。非常に危険な状態だ。
(大丈夫。大丈夫。大丈夫に決まってるから……!)
必死に自分に言い聞かせながら、屋敷に到着する。
「こいつの部屋に運びなさい」
リリスの言葉に頷き、階段を駆け上がって中に入った。
そこでリリスは実体化を果たし、ヴラドのコートの内ポケットを漁り、そこから灰色の魔石を取り出す。
魔力を込めて魔石を起動すると、小石サイズだったそれは、あっという間に両手じゃなければ持っていられないほどの大きさの球体へと変わった。『倉石』と呼ばれる非常に高価な魔石だ。
文字通り倉庫の役割を担うことが出来る、空間が弄られたその石を床に置いてから、リリスは球体の中に手を突っ込み、水色の魔石を五つほど取り出した。
魔力の色からして、治癒魔法が保管されているのだろう。相手の『色格』にあまり左右されないような治癒魔法が。
「ベッドに寝かせて」
「は、はい」
慎重に言われた事を実行すると、リリスは胸部の傷口に魔石を一つ押しつけて、魔力で蓋を開け、治癒の魔法を発動させた。
「……魔力を抑えても治りが良くならない。相当深いところまでダメージを負ったようね。……でも、まあ、なんとか間に合いそうではあるか」
十分ほどの経過観察ののち、リリスが小さく息を零す。
釣られるように、シャルロットも溜めこんでいた不安を肺から吐きだした。
と、そこで、ヴラドがなにかを呟く。
うまく聞き取れなかったが、「返せ」という単語だけは耳に入ってきた。
「……本当、莫迦な真似をしたわね。殺すことを選んでいれば、ここまで手傷を負う事もなかったでしょうに」
血塗れの手を掴みながら、リリスが呟く。
一体どのような戦いを繰り広げたのかを共有したのだろう。言葉と裏腹に、その声には一切侮蔑の色はなく、むしろどこか愛おしさすら感じさせる響きを宿していた。
「あとの面倒は任せるわ。治癒が止まったら、また石を砕いて」
言って、リリスは部屋を出て行った。
二人きりになる。
ヴラドの呼吸はまだ浅いが、出血は止まっている。リリスの言った通り、危険域は乗り越えたようだ。
でも、胸を締め付ける不安は一向に晴れてくれない。
その理由を、最初はまだ脅威が去っていないからだと考えた。ヴラドが倒れていた場所に死体がなかったためだ。彼と互角以上に戦った誰かはまだ生きている。それが再び襲撃をしてくる可能性を危惧するのは、おかしな話ではない。
けれど、リリスの空気はもう危機は過ぎ去ったと言っている。きっとその線はないのだろう。そして彼女の言葉から窺える情報こそが、この胸を埋めている感情の原因で、
(……そっか、あの人と戦ったんだ)
アンナ・リベルリオンは、ルナと友好的な関係にあるように見えた。
だからヴラドは、極めて高いリスクを犯してまで殺さないように戦ったのだ。つまり、彼が今こうして余計な深手を負っているのは――
「……ル、ナ」
呻くような声を漏らしながら、ヴラドの手がこちらに伸ばされた。
彼女の魔力の残滓でも感じ取ったのだろうか。
「――ぁ」
途中で力を失った彼の手を、咄嗟に受け止める。
まだ乾いていない、温かい血を帯びた手。自分を救ってくれた大きな手。
それを感じた瞬間、どうしてか涙が零れた。
怪我をしているのは彼であって、別にその痛みを共有しているとかそんなわけでもなくて、傷だって順調に治っていっていて、もう命の心配だってしなくていいはずで……
(……変だ、私)
涙を空いている手で拭いながら、心を落ち着かせる。
落ちつかせながら、自分がこんなおかしなことになっている都合のいい理由を探し出す。
結果、土砂降りみたいな胸の奥に、更に一つ後ろめたさが加わった。
言えない事が増えてしまった事に気付いたからだ。だって、ルナが記憶喪失である事を、どういう風に伝えれば彼が傷つかないで済むのか、想像もつかなかったから。
(――自分を騙すのも下手なのだな、貴様は)
不意に、頭の中で誰かの聲が響いた。
せせら笑うような、冷たい声。
程無くして、その言葉の意味を理解する。
理解して、涙を拭う事すら忘れ、ただ茫然と、シャルロットはその痛みを噛みしめた。




