39/悲願
クルジェという名前をスロウが思い出したのは、転移させられた場所にいる人物を前にしたところでだった。
レナリア・ディ・グゥオン。
エンシェと内通し、クリスエレスを裏切り、神子を台無しにした女。
当時からエンシェとはカラエル、エルラカの件で協力していたが、彼女がエンシェの内通者である事は伏せられていた。シャルロットという神子の価値を失った事は、スロウにとっても非常に痛手だったのだ。だからこそ、彼女の事は覚えていたわけだが、その息子の事は完全に忘れていた。
「――」
ちょうど夢から覚めたのだろう。レナリアは虚ろな瞳でこちらを見て――欠片ほどの停滞もなく特徴的なデザインのナイフを懐から取り出し、渾身の殺意と共にこちら目掛けて突貫してきた。
万全のスロウなら、造作もなく対処する事の出来る脅威だ。
だが、今は不味い。
咄嗟に左手を差し込んだが、モルガナの攻撃の所為で魔力制御が乱れており、防ぎきるには至らなかった。
それでもなんとか腕を動かして心臓を避ける事には成功したが、レナリアの攻撃は止まらない。
「ぐぅ、ぅぅぅうぅうううう…………!」
歯が割れるくらいに噛みしめた口の隙間から獣ような呻り声を上げながら、レナリアは魔力を揮う。
床に押し付けられた身体が軋みを上げだした。肉を裂いて、ナイフがじわじわと心臓に近付いてくる。
「――っ、家畜風情が!」
言葉を装う余裕も失いながら、スロウは左手をナイフからレナリアの手首にスライドさせ、その手首を粉砕。さらに自律神経の法則を弄り、全ての行動を停止させた。
非常に危険な状態だったが、なんとか凌いだ。
ほっと胸をなでおろしたところで、しかしナイフがまた心臓に近付き始める。
驚愕と焦りが、全身から汗を滲ませた。
死への恐怖が急速に迫って来る。
器を失ったところで本体に戻るだけという認識は多くの神にあるものだが、スロウは違った。今死ねばこの世界との関わりを失ってしまう。そして天界、特に自身の器はほぼ完全に閉ざされた場所にあるのだ。此処以上に逃げ場がない。
天使や悪魔と言った上位存在が契約という手段を用いて本来のものよりも遙かに劣る器に魂を預ける理由はいくつかあるが、スロウにとっても最も大きな理由はあの世界に居たくなかったから。トールヴェンの所為で、全てが終わってしまったあの閉塞世界に耐えられなかったからに他ならない。
「弱っているわねぇ、他の事に力を注ぎ過ぎた所為かしらぁ?」
やけに気の抜けた甘い声が、耳朶を震わせた。
そこで、この場所にはレナリア以外にもう一人いた事に気付く。
額にも瞳をもった忌子。
「それにしても、気分がいいわぁ。神子の魔法を止められる機会なんて、なかなかないもの。今だけの素敵な贅沢。きっと、あと十秒もしないうちに貴女は調子を取り戻して、私の魔法なんて簡単に突破してしまうでしょうしねぇ。……まあ、でも、貴女に十秒先の未来なんてないのだけど」
ちょうどその言葉を聞き終えたところで、ナイフはスロウの心臓を突き破っていた。
それでもまだ常軌を逸した魔力によって生命を維持することは可能だったが、もはや致命傷は覆せない。
(う、嘘です。私がこんなところで、こんな、こんなっ、取るに足らない下等生物なんかに……!)
涙を滲ませながら、スロウは衝動のままにナイフによって半ばまで断ち切られた左手をレナリアの顔面目掛けて振り抜く。
残った全ての魔力を込めた一撃。
だが、それもやはり彼女に触れる間際でピタリと止まってしまった。
「ぁ、ぁあ……」
絶望が喘ぎとなる。
それが、天上のスロウと呼ばれた神の末路だった。
§
その死体を、レナリアは何度も何度も何度も、無事な方の手に持ち替えたナイフで突き立て、抉り取り、斬り刻んだ。
気持ち悪いの匂いと返り血が、全身を焼いていた憎悪の熱を冷ましていく。
我に返った時にはもう、スロウの身体はいたるところ穴だらけで、判別がつかないほどに欠損していた。
死んだのだ。確実に、絶対に、殺した。
実感が込み上げてくると、レナリアは狂ったように嗤いだす。
笑いながら、クルジェの顔が脳裏に浮かべて、涙を流しながら、それでも笑う。
痛みの所為もあるのだろうけれど、呼吸が上手く出来ない。だから、苦しそうに笑う。
だって、終わったのだ。全部、終わった。
そこで、嗤い泣きはただの泣きじゃくりに変わる。
レナリアはただ感情に翻弄されるがまま、ナイフを胸に抱いて子供のように泣き続ける。
ララエスタは何も言わなかった。彼女は静かに、レナリアが落ちつくのを待って、
「復讐を果たした気分は、どう?」
「…………よく、わからないわ」
「そう、すぐには答えが出るものではないのね。でもいいわぁ、貴女は変わった。確実な変化を私に見せて、期待の一つには応えてくれた」
そう言ってほほ笑むララエスタの眼は、やはり底無しに昏い。
ただ、その声はひどく優しくて、ひどく寂しそうでもあった。
「……」
取り出したハンカチでぐちゃぐちゃになった無様な自身の顔を拭いつつ、レナリアは少しだけ目の前の彼女に思いを馳せる。
具体的な背景を自分は知らないし知りたいとも思わないが、もしかしたら彼女にもなにか大切なものがあって、それが本当に大切だったのだと証明出来なかったことに、ずっと苦しんでいるのかもしれない。
復讐を果たせないという事は、きっと、そういう事だから。
「ねぇ、貴女はこの先どうなっていくのかしら? なにを始める? それとも満足して自殺しちゃう? それもいいわね、それがきっと一番いい。あぁ、でも、その前になにか探してみるのもいいとは思うの。ほら、どうせ、もうじき世界は終わるのだから。別に急ぐ必要もない。でしょう? だから、もう少し、私に付き合ってよ、ねぇ?」
そう言って、どこか躊躇いがちにララエスタはこちらに手を差し伸べてくる。
その怯えているような反応で、このまま自分が自身の胸をナイフで貫いても彼女はきっとそれを止めないのだということが分かった。それもまた彼女がかつて望んでいた末路だったのだ。
「……その程度の時間で、貴女が見たいものが見れるとは思わないけれど……いいわ。別にもう、目的もないのだしね」
同じように躊躇いがちに、レナリアはその手を取った。
理由は多分、同情。それと多少の恩義だろうか。
そんな感情を目ざとく感じ取り、不快を覚えたのか、
「あぁ、そうだ、もし儀式の勝者に成れたら貴女は何を望むのかしら? やっぱり、失った誰か?」
と、ララエスタは微かに目を細めて訪ねてきた。
けれど、それが揺さぶりにはなることはない。
「そんなこと、望むわけがないでしょう」
「……どうして?」
即答されるとは思っていなかったのか、ララエスタはきょとんとした表情を見せる。
それが、なんだか可笑しかった。
「私と一緒にいても、幸せになんてなれないからよ。でも、私以外が幸せにするなんて、許せないから」
普通の母親というものがどういうものかは知らないが、少なくともレナリアという母はそうだったのだ。
きっと、ずっとそうだった。




