32/三者三様に笑えば
突如現れた漆黒の怪物の暴力は圧倒的だった。
鼓膜を破りかねないほどの咆哮と共にヘカテに跳びかかり、護衛の騎士を歯牙にもかけず彼女の心臓を抉り取って不瑕疵の騎士たちに施されていた治癒を剥ぎ取り、その勢いのまま残りも蹂躪。
そして今、味方を逃がすために時間稼ぎを買って出たトォーベの命をも、息をする暇もない猛攻をもって食い尽くさんとしている。
(……なんか、今日は酷い戦いばっかだな、おい)
極限まで追い詰められた所為だろうか、忘れていた記憶(ヘカテ、アステア、グンダルの三人がかりで殺された事)を不意に思いだしつつ、ただでは死なねぇぞと切り札に手を伸ばす。
トォーベの魔法は『暴風』。ただの風ではなく、暴走という特性を孕んだ複合系だ。どちらかというと風よりもそちらが本命と言ってもいいもので、文字通りそれは自身が干渉したものを暴走させる事が出来る。まあ、といっても色格自体はそこまで強くないので、この怪物相手に機能させるのは不可能なのだが、自分の身体に吹きこむ事には何の問題もなかった。
その効果を最大限に発揮させ、一時的に引き上げた限界以上の力をもって最後の足掻きを試みる。
残念ながらそれでも怪物には届かなかったが、一矢報いる事は出来た。右肩を、ばっさりと風の刃で裂く事に成功したのだ。
(ざまぁみやがれ……!)
ささやかな戦果に勝ち誇った笑みを浮かべながら、トォーベは自身の心臓が抉り取られる音を聞き、再びその命を失った。
§
「……死んだか。上々だったぞ、トォーベ。良くやってくれた」
気配が断たれたのを察知し、グンダルは目を閉じ呟く。
彼にはここが夢だという認識もなかっただろうから、それは本当に勇敢な犠牲と言えた。
アステアもそこには感銘を受けたのか、黙祷を捧げるような仕草を行っている。
正直いけ好かない女ではあるが、こういうところは評価してもいいのかもしれない。
(少なくとも、ただの傲慢者ではないか)
対照的に何も感じていなさそうなディ・ジャ・ヴィグァをちらりと見つつ、グンダルは敵がこちらを完全に見失った事を確認し、小さく息を吐いた。
「しかし、あの化物は一体何なんだ?」
「さあ、けれど、正しく表示されていない存在なのは間違いないわね。正規では無い方法でこの世界に入り込んでいる」
口元に手を当てて思案するような表情を浮かべたまま、アステアが答える。
「モルガナは普通に見えていたが? 奴も本来ここに来るはずのない者だろう?」
「そうね。でも、彼女の色格はこの世界を脅かすものではないわ」
「なるほど、つまり強すぎる色によってこの世界が歪んでいる証という事か。だが、それだけならもっとグチャグチャなものになっているんじゃないか? 儂にはあれがちゃんとした獣に見えたが」
「それはきっと、この世界の不安の象徴が獣なのでしょう。姿にそう大きな意味はないわ」
ちらりと肩で息をしているダノラウトに視線を向けて、アステアは言った。
なんというか、当人よりもその魔法を理解しているといった感じだ。
幻影の方が主導権をもっていて、幻影の方がこの世界での価値も高そうというのは、さすがに異常が過ぎる気もするが……まあ、気にしても仕方がない。
「ならいいがな。それで、この後はどうするんだ? モルガナを取りこめているのなら、儂の仕事はもう終わりだと思うんだが」
「彼女はまだ復活していないわ。死ねばすぐに復活するはずなのだけど、これは妙ね。やはり、あの怪物が何かをしたのでしょう。始末する必要があるかもしれない」
「簡単に言うが、一体どうやってだ? なにかとびきりの助っ人でもいるのか? いなければ、正直どうにもならないと思うが」
「シャイア・テキーラがいるわ。彼女は完全にこちらに落ちたそうよ」
「それは朗報だな。だが、奴も『剣』は使えないんだろう? 確実とは言えないんじゃないか?」
「それを確実にするのが貴方の仕事よ。出来るだけ多くの戦力を集めて、その時に備えなさい。私達は一度スロウ様の元に戻り、情報の共有をしておきます」
こちらの了承も待たず、アステアはダノラウトを連れてこの場を去っていった。
「勝手な娘だな。しかし、追加の戦力ねぇ。正直、もうぱっと思いつくような奴もいないんだが……お前さん、宛てはありそうか?」
なんとなく、黙りこくっていたディ・ジャ・ヴィグァに訪ねてみる。
すると彼は空の孔を見上げて、
「排除」
という言葉を口にした。
「そっちを野放しにする方が厄介そうだという事か? まあ、たしかに一理あるな」
そもそも、グンダルはアステアの判断をあまり信用してなかった。というのも、結局今ここに居るアステアという人間は、ダノラウトの頭の中で生みだされた幻想でしかないからだ。彼が本物のアステアと同等に賢くなければ、本物と同じ選択を取る事も出来はしない。そして、とてもではないがそのようには見えなかった。
「……決断」
こちらの意見を優先するつもりなのか、ディ・ジャ・ヴィグァが急かしてくる。普段は独断専行が目立つ奴なのだが、こういう対応に関してはあまり得意ではないという自覚があるからだろうか。
「あぁ、そうだな、では、ひとまずは大人しく従っておくとしようか。それならミスは全部奴の所為に出来るからな。所詮は夢なんだ。気楽で良いだろうさ」
肩を竦めて呆れるように笑い、グンダルは腰の酒をぐびぐびと盛大に煽った。
§
止まっていた心臓が脈打つ感覚と共に、ヘカテは目を覚ました。
遅れて痛みがやってくる。それを抑えるように胸に手を当てながら立ち上がると、背後に気配を感じた。
振り返ると、そこには漆黒の獣の姿。
「……貴様、ヴラド・ギーシュか?」
「こちらの言葉は理解できるか?」
大きく裂けた口から、その彼の声が届く。
どうやら正解だったようだ。
「あぁ、問題ない。その姿を見るにまだ妨害は受けているようだが……貴様、私になにをした?」
「汚染要素を潰しただけだ。それよりも、お前は最後どちらにつくつもりだ?」
「……そうか、アルドグノーゼ様は劣勢か。どうやら現実の方は、あの方の思惑通りに進んでいるようだな」
でなければ、そんな問いは出てこないだろう。
さすがは支配の王すら支配してきた人間だ。主導的な立場は取れなかっただろうに、神子共がひしめく場を上手くコントロールして、万全の状態でルシェドと戦うための道筋を作り上げてみせた。
まあ、予想はしていたが、やはり部下には無駄死にを強いる事になりそうだ。
それを嫌ってアルドグノーゼの側についたのだが、向こうも失敗濃厚なら奴の側につく理由はもうない。どうせ死ぬのが同じならば、敵と向き合って死ぬ方が部下たちも本望だろう。
「ルウォ・ステラ要塞だ。そこに、スロウとダノラウトはいる。おそらくこの世界の担っている二人がな」
「そうか」
最初からその情報を聞き出すためにヘカテが目覚めるのを待っていたようで、ヴラドは即座に駆けだして行った。
それを見送ったところで、足元から彼に殺された部下たちが姿を見せる。
その一人の口から、スロウの声が響いた。
「どんな事情があれ、裏切りは重罪ですよ。ヘカテ」
「盗み聞きか? 第一天使ともあろうものが、まるで下種のような所業だな。あげく間に合ってもいないのだから、この世界の監視体勢も知れているか。これでは、どの道だな」
嘲笑ってやると、スロウの眼の色が僅かにだが変わったのがわかった。余裕ぶってはいるが、実情はそうでもなさそうだ。
「……今の彼等は剥き出しです。殺せばもう二度と目覚める事はない。貴女も、すぐに同じ状態にして差し上げましょう」
妙な魔力を帯びた剣を構えた不瑕疵の騎士たちが、じりじりとヘカテを殺そうと近づいてくる。
おそらく彼等の眼には、ヘカテが黒い怪物に見えているのだろう。
(先に私の方が終わりか。これでは指揮官失格だな。……すまない)
丹精を込めて育て上げた自慢の部下たちに胸の内で謝罪の言葉を並べつつ、ヘカテはそれでも最後まで足掻こうと剣を構え、微笑んだ。
「天上のスロウよ、貴様に一つだけ教えてやろう。アルドグノーゼ様は貴様を一片たりとも信用などしていない。既に寝首をかかれているのだという事を、今のうちに理解しておけ」




