31/信頼の落とし穴
(――こら、寝るなよ?)
意識がテーブルの上に置かれている果物の皮の皺に流れたところで、ため息交じりなアブロイの聲が届けられた。
(だったら、この不毛な平行線をどうにかしてくれよ)
欠伸を手で隠しながら、チュルは胸の内で言葉を返す。
(どうにかなりそうだから声を掛けたんだ。準備をしておけ。荒事になりそうな展開だからな)
そう言われたので、仕方なく聞き流していた彼等のやりとりに耳を戻す。
現状掲げられている方針は、スロウとアルドグノーゼによる世界からの離脱とカンゼリッツァの提唱する命乞いの交渉、そしてリリス主導のルシェド抹殺の三つとなっていた。
ボーゼスはカンゼリッツァについていて、アルタ・イレスは一応リリス側を支持しているといった感じ。
要は、先程から特に変わっていない。
いないが、その方針を大きく動かしそうなフェルスガリアの気配が、どうやら少し変わったようだ。
(モルガナになにかあったか)
この場に理由となりそうなものがない以上、そう考えるのが妥当だろう。
はたして、それはこちらにとってプラスの変化なのか、マイナスの変化なのか……
「どうやら、お前の方も結論が出たようね」
リリスが言う。
その言葉に、フェルスガリアは不快そうに鼻を鳴らした。
「結論など最初から出ている。彼女に出会った、あの日からな」
しわがれた声でそう答えてから、フェルスガリアは自身の左手を軽く握りしめ、淡く微笑んだ。
「彼女は面倒くさい娘だ。他者の前ではずいぶんと格好をつけたがるが、情緒が不安定な事が災いして最後までそれを通せた試しがない。衝動的な行動によって多くの後悔に苛まれ、その癖あまり学ばないから同じことを繰り返す。それでも、前向きに生きるという行為を愉しんでいる。なによりも美しく、愛らしく、優しい、尊い娘だ」
視線がルウォに向けられる。
「貴様如きが袖に振るなど、断じて許される事ではない。それを踏まえて答えろ。貴様には、彼女に報いる心はあるのか?」
「ずいぶんと抽象的な要求だな。今は重要な局面、具体的に語ってもらわなければ答えようがない」
「決闘を中止しろ」
「なんだと!?」
真っ先に驚きをみせたのはアルドグノーゼだった。
もちろんルウォの方も、そのような提案がされるとは思っていなかったのだろう、不審そうに眉を顰める。
「ルシェド・オルトロージュを討つ上で、貴様たちはどちらも足りていない。共闘をしてもらわなければ、彼女に勇姿を見せる事は叶わないだろう。この世界の管理者の一柱として勇敢に死ね。それが彼女への報いだ」
「ふざけ――」
「――ふ、ふふ、あはははっ!」
愉しげなリリスの笑い声が、アルドグノーゼの怒りを呑みこんだ。
「たしかにそれが理想よね。正直、わたしは片方だけでいいと思っていたけれど、補助に専念させるならお前たちも使えなくはないし。いいわ、乗ってあげる。その方針で行きましょう。……さあ、アルタ・イレス、お前はどうするの? 多分、これが彼等に行える最大よ。彼等にはこれ以上出せない。まあ、お前が例の呪いを解けるというのなら話は別だけど」
「元より、奴との戦いを、避けるつもりは、ない」
静かな、それでいて厳かなトーンで、彼女は言った。
これで、アルタ・イレスとフェルスガリアは完全にこちらについた事になる。どこまでが想定通りかは知らないが、悪くない流れだ。まあ、モルガナの人質問題を解決すれば、の話だが。
「……なるほど。それで、貴方はどうやってそれを我々に強要するおつもりなのですか? 是非、それを示して頂きたいですね。まあ、もう無理でしょうけれど」
嬉しそうに目を細め、スロウが言った。
次の瞬間、フェルスガリアが腰かけていた椅子から崩れ落ちる。
糸が切れた人形そのもののような異様な脱力。当然、自発的な行動ではないだろう。
「なかなかに手間取りましたが、これで終わりです。彼女の魂を捕らえました。そこからこのように、その器にも干渉が出来るようですし、どうやらほぼ全ての主導権は彼女にあったようですね。良かった。……さて、それで、どうしましょうか? 貴方が自主的に我々に協力するのなら、或いは――」
そこで、今度はスロウの表情が強張った。
「どうしたの? 急に黙って。もしかして、せっかく手にしたと思った制御権をあっさり失ってしまったのかしら? あげく手痛い一撃を喰らって退散する羽目になったとか?」
ヴラド・ギーシュが、にやにやとした笑顔を浮かべ、ずいぶんと甘いトーンで言う。
明らかに普段の彼ではない。
「あ、貴女……!?」
それでスロウも気付いたのだろう。ずいぶんと前から、ヴラド・ギーシュの意識が此処にはなかったという事実に。
「おっと、いけないいけない。違う器を同時に二つも動かすなんて、なかなかしない事だからね、喋る口を間違えてしまったわ。あっはは」
嬲るようにリリスが嗤う。
嗤いながら、なにかをしようとしたスロウに牽制の一手を放った。
「もう遅い。無知なお前は知らないかもしれないけれど、此処と向こうじゃ時間の流れが違うのよ? 届く情報には大きなラグがあるの。今からお前の全てをあちら側に送ったところで、その頃にはもう全て終わっているわ。全てがね」
「……そう、それが狙いだったのですね。私の力をこちら側に多く残すために、貴方は捨て身を匂わせた」
「ふ、く、っはは。――自惚れるなよ羽虫風情が、お前如きを主目的になんてするわけないでしょう? それも狙いの一つだった、というだけよ」
「……」
完全にしてやられたといった感じだったのだろう。珍しく、スロウが素直な憤りを滲ませる。
が、即座に微笑を取り戻し、彼女は言った。
「ですが、核は持ち込めない。使える魔法は一つだけ。それではダノラウト・デ、グゥオンの永遠を奪えはしない。平行線に変わりはないはずです」
「ねぇ、ヴラド・ギーシュの魔法が何か、お前は知っている?」
「……融合か定着、でしょう?」
魔力の色を鑑みれば、それが妥当だ。
「そうね、彼がヴィレアーシュの混血でなければ、それくらいしか候補はなかったでしょうね」
(ヴィレアーシュ?)
(最高位の淫魔の事だ。魔神に分類される支配種だな)
チュルの疑問に、アブロイが答えた。
(そいつの種族特権なら解決できんのか?)
(不明だ。定着の魔法と支配特性の二つがあるからこそ出来る芸当もあるのだろうが、ハッタリである可能性の方が高いな。ただ、不明である以上無視もできない)
つまりはそれが狙いという事だ。
まどろっこしくて無駄に複雑で、本当にウンザリする。
(まあ、こちらが気にする事ではない。向こう側にはリズもいるのだからな。彼女がきっと上手くやってくれるだろう)
(……ならいいけどな)
アブロイほど全幅の信頼を抱けていないチュルは、小さく鼻を鳴らした。
ずいぶんと余裕そうなルウォの表情が、妙に気になっていた。
§
そのリズは今、混乱の渦中にいた。
残念ながら、事態を把握出来る立場に居なかったのだ。
いつものように自身の魔法である全知の書庫に籠っていた結果である。普段なら定期的に外の様子を確認するのだが、それをしなかったのも大きな失態だった。
ぶつけられる全ての戦力を用いてなお、まったくルシェドに届かなかったという事実が、思いのほか響いていた所為だ。
深呼吸を一つして落ち着きを取り戻してから、全く覚えのない場所を見渡す。
(……裏世界、規模はそれほどでもない)
行使者はペドリツァーノ。
ただし、魔法自体は分割されているような感じだ。
(そうか、ここはリリス陣営の領域か。マウロがここに居ないのも彼女の所為? ……いや、違うな。この感覚は、夢、か)
特殊な夢の中にマウロは囚われている。
こちらもそこに赴くことは出来るが、それをすれば器が完全に無防備だ。まあ、既に無防備だったので、今更それを気にしても仕方がない気もするが。
(いずれにしても、これは絶好の機会)
リリスは、アンフェノではなくトールヴェンだ。
ルナという存在を知った事で、リズの中でその可能性は非常に高いものとなっていた。彼女の魔法なら、おそらくあの永遠の牢獄にすら孔を開ける事が出来るためだ。
そして、もしリリスドール・エル・トールヴェンが力を揮う事が出来るのなら、その脅威はアルドグノーゼの比ではない。本体を用いる事が出来なくとも、十二分にルシェド・オルトロージュを討つ事が出来るだろう。両者ともに儀式を使う事を考えているので、その衝突で世界が滅ぶ心配もない。
問題は、リリスが勝った場合も世界はリセットされるという点だ。大雑把な結果はルシェドと変わらない。
ただ、ヴラド・ギーシュもそれに賛同しているわけではないだろう。つまり勝利の後には決闘が待っている。
(ヴラド・ギーシュには、どの程度の勝算がある……?)
そして自分が加わる事で、どの程度それを引き上げる事が出来るのか。
いずれにせよ、こちらの勝機は彼にしかない。彼との協力関係を進める必要がある。向こうもおそらくそのつもりで、この身体を生かしたのだろうから、そう難しい話ではないと思うが、懸念なのはリリスもそれを把握している可能性が高いという事だ。出し抜く必要がある。
まあ、そのあたりの事はおいおい考えるとして、とにかくまずは接触したい。
(今、ここにはいないか。……が、これは無垢の天使か? 中に、何か入っておるな)
それがなんなのか、すぐにわからないのは半身が侵されている所為か、それともこの世界の特性か。何の制限も与えずにリズを放置しているとも考えられないし、おそらくは両方なのだろう。
少し考えて、立ち上がる。
マウロの身体を動かすのは久しぶりなので、足元が少し覚束ない。それでなくとも、身体を動かす行為自体が苦手なのだ。
慎重に慎重にドアの前に立ち、ノブに手を掛ける。
当然というべきか、開かない。
具現化の魔法を行使しようとしたが、魔法も使えなかった。
(……ふむ、身体の中に刻印が刻まれておるのか。その所為でこの器の核を上手く使えない。書庫の方に問題はないが、劫火は抑えられておる。喜ばしい不味さじゃな。これで確定か)
なにせリズの特性を事細かに理解していなければ、絶対に出来ない拘束なのだ。こんなものを用意できるのは、自身の源流であるトールヴェン以外あり得ない。
(さて、少なくとも器は放置しても問題なさそうじゃが、それでも今は此処に残るべきか、それとも向こう側に赴くべきか。まあ、妾が動かずとも解決できる問題だとは思うが……)
それでもマウロが心配だし、と意識を内側に向けたところで、無垢の天使が近付いてくる気配を捉えた。
程無くしてドアを開けて、天使が入って来る。
「なんだ、何がいるのかと思ったら、ただの人間か」
つまらなそうな物言い。どことなく子供っぽさを感じさせる喋り方だった。
「ここは、星舟の中ですか?」
マウロの口を使って訪ねると、天使はあからさまに不快そうな顔を見せて、
「それがなに? っていうか、なに勝手に質問なんかしてるのさ?」
ゆらりと右手を突き出した。
が、殺す事は不味いと思い直ったようだ。溢れ出た殺気を仕舞いこむ。
この短絡さと幼さ、なにより星舟の中に隠されているという事実が、中に入っているものが誰なのかを教えてくれていた。
「そなた、アンフェノじゃな?」
「……え? もしかして、リズ姉さま?」
それが、リリスドール・エル・トールヴェンによって生み出された姉妹の、初めての出会いだった。




