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君>世界   作者: 雪ノ雪
第二章『災禍の恵み』
15/111

05/特別の代名詞

 宴の翌日は平和なものだった。

 散発的な魔物の襲撃で、負傷者が数名出た程度だ。当然、そんな些末事にヴラドが参戦する事もなく、彼は昼から夜にかけて訓練を行うつもりのようだった。

 そこに関与できる余地は特にないので、リリスは早々に個人行動に移る。

(今日は、そうね、髭面の周りでも探ってみましょうか)

 昨日の件を思いだしてそう決め、実体化を解除して翼を広げ、彼等のいる陣地へと足を踏み入れる。

 髭面と部下たちもこの時間帯が訓練に丁度いいと判断したのか、軽い模擬戦闘を行っていた。魔力による身体強化を切った状態での、身体の動かし方や戦術的思考を鍛える訓練だ。

 ただ、あまり緊張感はない。今はまだ世話話の方が主題といった感じ。

「ところで、いつつけるんですか?」

 そんな和やかな空気の中、頬に刃物傷のある緑髪の男が、髭面に言った。

「なにをだ?」

「ヴラド・ギーシュへのケジメですよ。あいつ、今朝も防衛戦に参加しなかったんですよ。さすがに舐めすぎでしょう? 借りももう返したわけですし、統制を整えるためにも――」

「奴にはもう絡むな。わかったな?」

 耳の孔を小指で掻きながら、髭面は強い口調でそう命じる。

 その答えに、やや幼さの残る青年が安堵の息を漏らした。多分、ヴラドが助けた奴だろう。

 他の者達たちも、概ね異論はなさそうだった。

 不満を浮かべているのは、話を切り出した男を含めた三、四人程度。この程度の群れの中で、そこそこに位置するようなどうでもいい奴等だけだ。

「どうしてですか?」

 すぐに矛を収める脳もないのか、緑髪の男が噛みつく。

 それに対して、髭面は鬱陶しそうにため息をこぼし、

「昨日の狩りの結果が全てだ。回収されたあの変異種共の死体を見て判らなかったのか? ありゃあ間違いなく本物だ。或いは噂の方が足りてないまである。勝ちの目があるとするなら、それこそデービスくらいしかいないだろうよ」

 と、つまらなげに答えた。

 部下を前に、自分には荷が重いと言い切ったのだ。

 元々率直な人間なのだろう。部下たちも失望などを抱くことはなく、素直に「そうなのかぁ」と呟く有様だった。

 それがいいのかどうかは知らないが、とりあえず今後彼等が問題になる事はなくなったと見ても良さそうだ。

「……でもデービスかぁ。あいつって本当に強いんですか? 正直、全然そんな感じしねぇんだけど」

 和やかな空気に身を置いていた多数派の一人が、素朴な疑問を口にする。

 それに対する髭面の反応は、意地悪そうな笑顔。

「そりゃあ、お前とあいつじゃ差がありすぎるからだよ。あと二倍くらい強くなったら、きっとわかるようになるさ」

「二倍って、そんなに強くなったら俺が団長になっちまいますよ?」

「はっ、二倍じゃ足りねぇよ。せめて三倍は用意しとけ。俺が引退する前にな」

 お気に入りの部下なんだろう、不遜な物言いに怒るわけでもなく、髭面はずいぶんと愉しそうに言い返してから、他の部下たちを見渡して、

「まあ、なんにしても、本気の喧嘩売るのは勝てる相手だけにしときな。勝てる余地がある相手だけにな」

 と、釘を刺した。

「へーい」という気の抜けた相槌がバラバラに返ってくる。

 そこで、そろそろ本格的な訓練に以降しようと考えたのか、髭面は得物を握る手に魔力を込めた。

 空気が少しでも読める者たちは、それに呼応するように気を引き締めて――

「だったら、あの女に思い知らせてやりましょうよ。そこまでの強さもないくせに、傭兵と冒険者の代表面してる、あのプレタ・リリエッテに」

 それが出来ない愚かな緑色が、声を弾ませた。

 瞬間、緩やかに締めようとしていた空気が一気に凍りつく。

「……面白れぇ冗談だな。なんだ? 不意打ちでもかまして嬲者にでもしたいのか? まあ、ツラはいいもんな。身体もいい」

 髭面が愉しげに嗤った。

 ただし、その眼は一切嗤っていない。

 それに気付いている大多数は戦々恐々だ。さすがにここまで場を荒らすとは思っていなかったのか、驚き混じりの険しい視線を緑髪に向ける者も相当数いた。

 つまり、元々そこまで愚かではなかったという事だ。制域によって理性が溶かされ始めている。

 これから、どんどんこういう輩が増えてくるのだと思うとウンザリするが、

(……いや、そこまで増えはしないか)

 と、悲観を振り払う。

 他の者達と比べて、この緑髪は一際『色格(しきかく)』が弱い。それが原因だと考えたためである。

 色格とは魔力の色の強さ。ざっくりと説明してしまえば絵具と同じようなものだ。白と黒を同じ分量混ぜれば必ず黒が勝つように、弱い色格は少ない量でも簡単に汚される。

 そんな哀れな汚染者は、同意を得たとでも思ったのか、下卑た笑みを浮かべて――直後、容赦のない拳を鳩尾に突き立てられていた。

「おい、なにがおかしい? 戦場で敵になる以外で、女子供相手にするのがそんなに愉しいか? 黙ってねぇで答えろよっ!」

 その場に崩れ落ち腹を抱えてのた打ち回る部下の腹を、更に蹴飛ばす。

「一人じゃろくに粋がる事も出来ねぇような雑魚が! こっちの足引っ張って調子づいてんじゃねぇよ! ぶち殺すぞっ!」

 怒号を上げながら、髭面はなおも暴力を続ける。

 本当に殺しかねない勢い。凄まじいキレっぷりだった。

 意外というべきなのか、どうやら髭面は結構な潔癖症らしい。或いは、その手の事で嫌な経験があるのかもしれない。さらに邪推するなら、そこにプレタへの特別な感情を加えてもいいだろう。

(でも、なるほどね)

 最初につっかかってきた時の事を、少し思い出す。

 あの時は、それこそ絶世の美貌をもち、これまた絶世の美少女を脇に置いたヴラドに対するやっかみで喧嘩を吹っ掛けてきたと思ったのだが、どうやらその行動原理は、ヴラドが危険な場所に戦えそうにない女子供を連れてきた事への怒りにあったらしい。

 その事実を前に、ちょっとだけ髭面の扱いを改めつつ、同時にプレタに対する認識も改める。

 てっきりヴラドから見て弱いだけの一流だと思っていたのだが、どうやら本当に強さにおいては問題のある人物だったようだ。

(コネクション作りと小賢しい立ち回りが武器の冒険者、か。……悪くはないわね)

 くすりと微笑み、リリスはこの先に発生するであろう交渉に向けての準備を優先し、情報収集はここでいったん切り上げる事にした。


                §


 制域に足を踏み込んでから五日が経過した。

 毒のような魔力を孕んだ空気に、一歩分の距離で露骨に変わる温度。零と百を行き来する湿度にまともに機能しない視覚情報と、奥に進むごとに制域は異常さを増長させていて、否応なく隊商の体力と精神力を削っていた。

 それを顕著に示していたのは表情だ。判りやすく笑顔でいる人間が減った。

 ただ、意味なく怒声をあげたり暴力をふるう人間はまだ出ていない。当然、脱走者も自殺者も零。

 以前、別の隊商と行った災禍探索の時は、制域ほど大きな変化がないにもかかわらず、このあたりの時間経過で不協和音に陥っていたので、それを考慮すれば十二分の強度と言えるだろう。

 そろそろ皆がこの異常性にも慣れてくる頃合いだし、もう峠は越えたと見ても良さそうだ。

 なら、残る問題はあと一つ。災王をどう討つか。それに足る戦力を、この隊商は果たして本当に有しているのか。

「……」

 糞からもたらされた狩場と思わしき一帯に足を運びながら、ヴラドは前を歩くプレタについて考えていた。

 現状、災王の脅威になれそうな戦力はデービス・ウルジルカだけだ。隊商の戦力で次点に来そうなのは髭面の男だが、彼では不足している。そしてプレタだが、おそらくはその髭面より少し劣る程度だろう。駆け引きの巧さや魔法の相性などの関係で彼女の方が優位に立つ事は十分にありえるが、災王という化物を相手に相性なんてものは殆ど意味をなさない。魔力の純度、強度が違いすぎるために小細工の類がほとんど通じないからだ。

 まあ、数の暴力自体は機能するので、この隊商がまったくの無価値になる事はないだろうが、それでもそれだけでは少し物足りない。

「……これが一番新しい痕跡か。やっぱり、当分戻って来ることはなさそうね」

 片膝をついて、巨大なピンヒールのような奇妙な形の足跡に触れていたプレタが小さく呟いた。

「そういえば、お前は二日ほど前に災王を目撃したのよね? どんな奴だったの?」

 と、リリスが訪ねる。

「とにかく異様だったとしか言えないわ。じっくり観察なんてしてる余裕なかったし、見つからないようにするので精一杯だったから。あぁ、でも、羽根の一部は確保できたから、糞と合わせて元の魔物はもう判明してる。……あれよ」

 空の一点を指差して、プレタはそう答えた。

 目を凝らすと、胴体と同じくらい頭の大きな鳥が不格好に飛んでいる。全長の七割を占めるくらい異様に長く細い足をばたつかせていて、まるで溺れているようでもあった。制域の影響にまだ馴染めていないといった感じ。……いや、或いは、適応したからこその挙動なのかもしれないが。

「へぇ、あれか。……他に判った事は?」

 ヴラドの眼を借りて同じ光景を見ていたリリスが、口元に手を当てて思案を巡らせる。

「習性なんかもある程度は、ってところね」

「なるほど、誰と共有しても問題ない情報ね。それに先程の物言いから、ここがそれほど危険ではないという事も分かっていたみたい。なのに、どうしてわたしたちに護衛を頼んだのかしら?」

「それは――」

「いいわ、言わなくても。恥ずかしい事だものね」

 くすりと、リリスが悪戯っぽく笑う。

 其処に不穏を感じてか、

「一体、何を言って――」

 苛立ちを含んだ声をあげながらプレタはこちらに振り返り、大きく目を見開いた。

 思っていたよりもずっと近い距離にリリスの顔があった所為だろう。片膝をついていたこともあり、両者の目線は水平に近いところにあった。

 それにしても、ただそれだけの事にしてはやけに硬直が長い。その決定的な隙をつくように、リリスの小さな両手がプレタの頬にふれた。

「こうしてよく見ても、別に不細工ではないわ。人望がまったくないほど性格が悪いわけでもない。年齢も二十を超えているから機会がなかったとも思えない。おかしな話よね」

「だ、だから、何を言ってんのよ……?」

 戸惑いよりも、そこには恐怖の色の方が強かった。

 心当たりはあるようだ。

「お前がまだ処女である事についてよ」

「――」

 プレタの表情が朱く染まる。

 怒りと羞恥、そして激しい動揺がはっきりと見て取れた。

「わたしのような可憐で幼い少女が好きなのよね? 或いは少年なのかしら? だからお前は男を選べなかった。欲しいのでしょう? わたしのような半身が」

 くすくすと悪魔は嗤う。

「……そんな理由じゃない」

 絞り出すように、プレタは言った。

 だが、視線は完全にリリスから逃げていて、

「そうね。それだけじゃない。力も欲しいものね。自身の名声を誇れる程度には。くだらない連中に陰口を叩かれない程度には。だから、契約者になる事を何よりも優先するべきだと、今のお前は考えている。そうでしょう? 変態さん」

 どこまでも甘い声でリリスは囁く。

「そ、そうよ! 悪い!?」

 若干涙目で、プレタは叫んだ。その声は完全に裏返っていた。

「だって仕方がないじゃない! 可愛いもの見るといけない気持ちになるの! 男見ても全然何も感じないの! 独りが寂しい時だってあるの!」

「あらあら、そこまで自白して大丈夫? わたしが知らない事まで話してない?」

「どうせ盗み聞きしてたんだろ! あの記者が言ってたんだ! 突然現れて突然消えたって。だからあんな風にあたしの事を挑発してからかってたんだ! 絶対そう!」

 はぁ、はぁ、と息が乱れるほどの勢いで感情を吐き出すだけ吐きだして、勢いのままに堪えていた涙も零す。

 その涙を、リリスはおもむろに舌で拭って、

「仮に契約者になれるとしても、人間を生贄には出来ないとあの記者は言っていたけれど、お前はどうなのかしら? 契約者になるためなら、他人も殺せる?」

 と、ぎょっとした表情を浮かべながらも更に頬を染めるプレタに、優しい口調で訪ねた。

 冷静さを失っている小娘のコントロールなど、この悪魔にとっては容易いことだろう。まあ、コントロールするまでもなく、彼女の思惑通りの展開になりそうではあったが。

「……誰でもいいなら、ちょうど都合のいいが居るわ」

「そうね、対抗意識を燃やしていた商人も、此処に手を伸ばしている筈だものね。もっとも、本人が来ているかどうかは知らないけれど」

「来ているわけがないでしょう? だから勝てないのよ。絶対に」

 嫌悪感を滲ませて、プレタは吐き捨てた。

「なるほど、上手く行けば嫌いな奴に打撃まで与えられての一石三鳥か。素晴らしいわ。お前はまさしく冒険者ね。では、此処での用件が終わったら、さっそく殺しに行きましょうか。当然、そいつらの場所も判っているのでしょう?」

「…………当然でしょ」

 後ろめたさも感じているのか、プレタはやや弱めの声で答えながら、ここでの作業を再開した。

 こちらにとっては概ね悪くない展開だ。上手く行けば契約者という駒が手に入り、災王に対しても優位を得られるかもしれない。

 だが、果たしてプレタは認識しているのだろうか?

 リリスは『冒険者』という部分を少しだけ強調していた。つまり失敗のリスクも語っていたのだ。

 契約者は契約相手を自由に選べるわけではない。最悪、戦力としても性癖を満たす要因としても外れを引いて、ただ魔力を損耗するだけの可能性だってある。そして契約の破棄は、基本的に死だけが可能としている。

「……」

 ちらりと隣を見ると、シャルロットが何か言いたげな表情をしていた。契約者になる事で失うものがあるという事をよく知っている娘だから、ある意味で当然の反応だ。

 しかし、彼女はこの場では口を開かなかった。その行為はリリスへの敵対に繋がる恐れがあると判断してのことだろう。もちろん、ヴラドも指摘するつもりはない。

 この女がどうなろうと、どうでも良かったからである。


                §


 調査を無事に終え、特に問題に出くわす事もなく、ヴラドたちは敵対する隊商のいる場所へと辿りつく。

 彼等はウルタカの森から北に二十ヘクターのところにある、ガスファ平原に陣を敷いていた。まあ平原といっても、制域によってそこは湿地帯と砂漠が入り混じった混沌へと変貌を遂げていたわけだが……それはさておき、こちらが行動を起こす前に、事は既に済まされていた。

「準備不足ね。過度なストレスでおかしくなって、仲間同士で殺し合いでもしたんでしょう。……ふむ、血は渇いていない。そこまで時間は経っていないようね。まだ魔力が零れ切っていない奴がいればいいのだけど、どう?」

 リリスがこちらに視線を向けてくる。

「十五、六人程度だが……殺された奴等に抵抗のあとが少ない。半数は奇襲で死んでいるな」

 ストレスや恐慌でこの惨状が生まれたのだとしたら、それはエスカレートの果てに至った筈。暗殺めいた死体が多いのは不自然だ。

「つまり、計画的な犯行という事?」

「あぁ」

「人間って恐ろしいわね、ほんとうに」

 心にもない事を並べたその口で、

「それはそうと早く集めなさい。そうね、そこがいいわ。山積みにして。完全な死体じゃ門は開けない事を忘れないようにね」

 と、リリスはプレタを急かした。

 それから顔色の悪いシャルロットに視線を向けて、甘い声を吐きだす。

「どうせ、すでに死んでいる連中よ。魔力がまだ生きている新鮮な死体というだけ。それをどう使おうが問題ないでしょう? 少なくとも無意味に終わるよりはいい。違う?」

「それは、そうかもしれないですけど、あ、あの――」

「契約は彼女が望んだものとなるわ。だって、門について誰よりも詳しい、誰よりも聡明な悪魔である、このわたしがいるのだから」

 彼女が抱えている心配には当然気付いていたようで、その言葉を遮るようにリリスははっきりと言い切った。

 それから、こちらに視線を戻して、

「災王を殺すのが楽になる可能性は、お前にとっても都合のいい要素だと思うのだけど、手伝ってあげないの?」

「……そうだな」

 周囲に魔力を広げていたが、脅威となるものはいなかった。

 彼等を崩壊させた者達は一体どこに消えたのか。おそらくここの死体よりは多いと思うが、その数は具体的にどれだけのものなのか……そんな事を考えながら、てきぱきと死体を纏めていく。

「陣はわたしが用意する。お前、剣を貸しなさい。あぁ、もちろん短剣の方よ。長剣なんて重いもの、か弱いわたしに持てるはずがないんだから」

 そう言ってプレタの短剣を手に取り、リリスは陣を描きはじめた。

 かつてヴラドが行ったものとは違う形。かなり簡素だ。

(ただ門を開くだけなら、これでいいのよ)

 頭の中に、悪戯っぽい悪魔の聲が響く。

 続いて、奇妙な紋様のヴィジョンが届けられた。

 どうやらプレタには聞かれたくない内容のようだ。つまり、それはこれから彼女に詐欺を仕掛ける事を物語っていた。

「門が開くわ」

 新鮮な死体に留まっている純度の高い魔力を吸い取って、魔法陣が朱く光る。

 ほどなくして、陣の中心の次元が裂けた。

「血を捧げなさい。そこまで多くなくてもいいわ。はい」

「……これでいいの?」

 返された短剣で自身の掌を傷つけ、そこから溢れた血をプレタは裂け目に放つ。

 すると、陣は更に輝きを増していき――

「ええ、これでお前は誰かと繋がる権利を得た。ところで、お前は契約というものをどの程度理解しているのかしら?」

「時期と波長と器と同意、でしょう? 例外はあるみたいだけど」

 ちなみにその例外とは神子の事であり、彼等の契約に波長はあまり関係ない。対象である神が主導で行う場合が非常に多く、彼等の権能によって無視出来てしまうケースも多いためだ。

「つまり、必ずしも望んだ出会いになるとは限らないという事は知っているわけね。それでも求めた」

「あたしは冒険者よ。当たり前でしょう?」

 緊張を隠した、強い声。

 それを歓迎するように、リリスは微笑んで、

「それは良かった。――じゃあ、後悔するといいわ」

 瞬間、プレタの肉体から魂が抜けた。

 今、彼女の意識は向こう側に漂っている。必死になって、契約相手を探している筈だ。

 だが、おそらく彼女が望むものが見つかる事はない。あれはそういう門だ。剥き出しの欲望だけを抱えた、下級の存在が蠢く牢獄としか繋がっていない。

「さぁ、それらがお前を欲している者達よ。早く掴んであげないと、掴まれてしまうわ。そして魂だけとはいえ門の中に入った以上、契約からは逃げられない」

 ……リリスの声が、やけに遠くから聞こえる。

 放たれている場所が違うのだ。その声は門の中から響いている。ゆえに、プレタにも届いている事だろう。

 そのプレタの表情が、徐々に恐怖に沈んでいく。魂の方が感じている刺激が、肉体の方にゆっくりと反映されているのだ。その変化がピークに達したところが、おそらく限界値となる。

 現状こちらからでは判別できないが、内部の状況が判っているだろうリリスなら、見誤りはない筈。

「お前は自分に覚悟があるみたいに(うそぶ)いたけれど、違うわ。お前にあるのはただの自惚れよ。どんな分野でもそうだけど、それなりの成功者というのは、総じて自分を過信している。他と違って自分なら出来る、自分にはそういった天運があるってね。まあ、だからこそ挑戦することが出来るのでしょうけれど、そんなものはただの錯覚。お前は無力な凡人で、その世界では食い物にされて肉体を乗っ取られるだけの子羊に過ぎない。……そう、わたしが追加で手を貸してあげない限りは、ね」

 くすくすと、リリスが可憐な嗤い声をあげる、

「さて、ここで問題よ。悪魔を動かすのには何が必要かしら? お前は、わたしになにを捧げられる? …………あぁ、良い答えね。では、契約をしましょうか。お前の選択肢を増やしてあげる。その代わり、どんな内容だったとしても、お前はわたしの命令に二度、必ず応えなければならない。もちろん、死ねと言ったら死ななければならないし、わたしがローマンを殺せと言ったら殺す事になる。違える事は絶対に出来ない。それが、悪魔のもう一つの特権である『契約』よ。どうかしら? 同意できる?」

 そこで、静寂が過ぎった。

 無意味な抵抗だ。

 それを示すように、プレタの下半身が濡れだした。

 殺し合いの経験だってそれなりにある筈の冒険者が、失禁するほどの恐怖。

 そんなものを耐えきる事など、まともな人間に出来るわけがない。そしてプレタは、性的思考がやや特殊なだけの普通の人間でしかなかった。

「あっはは、契約成立ね。良かったわ、お前が特別な人間で。――ヴラド」

「……」

 ため息をつきながら、魔法陣に先程脳裏に浮かんだ紋様を、斬撃をもって付け足す。

 すると、裂けた空間の中で奇妙な魔力の発生が確認できた。この世界にあって、この世界にない、曖昧な気配。

「今、精霊界と繋げたわ。お前は器もそれなりに大きいから、彼等も知性すら保てない魂の残滓たちの集合体を蹴散らして自分をアピールする程度には積極的になるでしょう。基本的に実体のない連中だけど、だからこそお前が好む姿にもなってくれるわ。その中でも、特にお前と波長が合っていそうなのはシルフィかしら? そう、それ、そいつと契約しなさい。これが最初の命令よ」

 代表的な風の精霊との契約は、戦闘力の向上としてはそこまで強いものではない。つまり、戦闘以外での運用をリリスは考えているようだ。

「――っ、はぁ、はぁ」

 プレタの魂が、肉体に戻ってきた。

 と同時に、門から契約を果たした存在が現れる。

 碧髪をした十歳程度の少女だ。やや釣り上がった目尻が気の強さを表している。それでいてどこか優雅な雰囲気もあり、それら表層の裏側には気の弱さのようなものも感じられた。

「なるほど、本当にわたしのような造形が理想だったのね。まあ、その美意識だけは褒めておきましょうか」

 ちらりとこちらを流し見ながら、リリスがどうでもいい感想を並べた。

 門が閉じる。

 シルフィは目の前にいるのが悪魔と気付いてか、プレタの背中に慌てて隠れた。だがすぐにまた顔を出して、ちらちらとこちらを窺ってくる。

「さて、晴れて『契約者』になれた感想はどうかしら? お漏らしさん」

「? ――っ!?」

 手放していた肉体になにが起きていたのか分かっていなかったのだろう。気付いた途端、プレタの表情が引き攣った。

 みるみるうちに、その顔は青ざめていく。

 だが、そこにリリスが追撃を加えるよりも早く、下半身を濡らしていたものが消え去った。

 背後のシルフィが唇を動かす。こちらに音は一切届かなかったが、プレタには伝わったようで、

「……ありがとう」

 と、視線をシルフィに向けながら、気恥ずかしそうな感謝を述べた。

 それから彼女は、睨みつけるようにリリスを見据え、吐き捨てる。

「最高の気分よ。あんたに貰った最悪全部清算した上でね」

「そう、それは素晴らしい出会いだったようね。仲人をしたわたしも鼻が高いわ。――あぁ、そうそう、あと一回ある事を忘れないようにね?」

「わ、わかってるわよ……!」

「では、そろそろ戻――いえ、その前にもう少し調べてもいいかもしれないわね。元が何人だったのかくらいは把握して――」

 リリスの言葉を遮るように、プレタの懐から振動音が響いた。

 どうやら通信石が応答を求めているようだ。

「なにかあったの?」

 災王絡みの危険度の高い内容に取り組んでいた関係上、基本的によほどの事でなければプレタに連絡が飛ぶ事はない。

 だからこそ、プレタも悪い事態を想定した声色で訪ね、

『……ローマン様が、誘拐されました。お願いしますプレタ様、一刻も早く戻ってきてください。お願いします……!』

 通信石越しに届けられた秘書の声は、それ以上の悲痛と不安を宿していた。


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