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君>世界   作者: 雪ノ雪
第七章『遠い半身』
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38/優しい動機

「――起きろ」

 面倒そうな声が、沈んでいた意識を浮上させた。

 こめかみの痛みに顔をしかめつつ、シャルロットはよろよろと身体を起こす。

 声の主であるマヌラカルタの姿はすぐに確認できた。次いで、ここがペドリツァーノの裏世界だという事を理解する。今居る部屋の窓から深海を見上げる事が出来たからだ。

「私、どれくらい気を失っていたの?」

「五時間ほどだ」

「その間になにかあった?」

「さあな、それは私も知りたいところだよ」

 どうやら気絶している間に、マヌラカルタの行動に制限をかけたようだ。リリスとの悪魔の契約によるものだろう。

「判っている事は一つ。今、この世界は何処かと繋がっているという事だ。覚えのある異様さだな」

 マヌラカルタの言葉で、シャルロットも理解する。

 ここは星舟の中。異世界の侵略者の拠点なのだ。

「奴等と手を組んだのか、それとも簒奪したのか、どちらにしても彼等は間違いなく勝利に向かっているようだな。未だに具体的な解決方法を見出せていない我々と違って。……いや、もしかしたら私が気付いていないだけで、貴様はもう答えを得ているのかもしれないが。そこのところはどうなんだ?」

「それは――っ、待って。人がいる」

 この上の階だ。

 見知った魔力ではなさそうだが、はたして誰なのか。

「……たしかに、そのようだな」

 シャルロットの感覚を共有したことで、マヌラカルタも把握したのだろう。

 冷ややかな視線が、どうするんだ、と訊いてくる。

 ひとまず、自分たちの自由はどの程度保証されているのか、それを確かめるべくシャルロットはドアのノブを回してみた。

 ロックはされていない。なんの問題もなく廊下に出る事が出来た。

 ならばと息を顰めながら階段を上り、気配のある部屋のドアを軽くノックする。

 ……返答はない。

 静かにノブを回す。鍵もかかっていなかった。

 ドアを開けて中に入ると、ベッドが置かれているだけの簡素な部屋には一人の女性が眠っていた。黒髪の女性だ。初めて見る顔。

「これは、無垢の天使だな。ただ、ファリンが使っていたような量産型の人形ではない。中に魂が入っているようだ」

「ん、んん」

 マヌラカルタの堂々とした呟きに反応してか、その女性は身じろぎを一つしてからゆっくりと眼を見開いた。

 漆黒の瞳がこちらをぼんやりと捉え、

「あ、シャルロット」

 と、気の抜けた声を漏らす。

 それで、彼女が誰なのか判った。

「もしかして、ルナさんなんですか?」

 自分の姿が変わってしまっている事に気付いていないのか、彼女は首を傾げ――そこで一瞬、フリーズしてから、

「……あれ、なにか、変。そっか、『夜』がいないんだ。これ、私の身体じゃないんだ。変なの」

 と、呟いた。

 それからまたこちらに意識を戻して、微かに目を細める。

「なんだかね、懐かしい熱の中に居た気がするんだ。ところで、ここはどこ? それと貴方は誰? 悪魔だよね? 契約者だったんだね、シャルロットって。これって、忘れてたのかな? ……まあ、いいや。ヴラドのことは、覚えてるし」

 噛みしめるように彼の名前を呼んでから、ルナはそこで不意に憂いを滲ませて、

「…………ねぇ、嘘じゃないんだよね? ヴラドが生きてるって、ほんとなんだよね?」

「はい、もちろんです」

「そっか。……そっか。……………会いたいな、会いたい」

 それは、本当に切実な独白だった。

 こっちの胸まで苦しくなって、自分の嫌なところが顔をだしてくる。

「あ、でも、私の事判るかな? 昔と全然違うし、ヴラドはどうなのかな? 今のヴラドは私よりも背が高いのかな? 教えて欲しいな」

「もちろん、いいですよ」

 そういったもの全てを笑顔の奥に隠しながら、シャルロットは頷いた。

 話かけられたマヌラカルタは、その隙に影の中に消えつつ、

(しかし、彼女はどういうつもりだ? なぜ、ルナ・オルトロージュと同じ場所に閉じ込めた?)

 という至極当然の疑問を、シャルロットに投げかけてきた。

 いつもの試すような問い掛けではなく、純粋に困惑しているような感じ。

 不死の魔神にとって、リリスという存在は未だに得体のしれない未知なのだろう。まあ、それはシャルロットにとってもそうではあるのだが、それでもマヌラカルタよりは彼女との関わりが深いおかげか、その疑問に対する答えはいくつか想像する事が出来ていた。

(……これは、きっと猶予)

 時間切れと言いながら、リリスはシャルロットにまだ時間を与えてくれているのだ。さらに、全ての元凶であるルシェドの情報を、こちらが手にする機会をくれている。

 その事実を噛みしめながら、シャルロットはルナに今の状況を説明した。

「……そっか」

 と、ルナは吐息を零してから、少しだけ寂しそうな表情を浮かべ、

「ヴラド、私に会うの嫌なのかな……」

「そんなわけないですっ!」

 思わず、感情が溢れ出た。

 嫉妬や悲哀、羨望なんかをごちゃまぜにしたそれに吐き気を覚えながら、シャルロットは言葉を連ねる。

 ルナの知り合いである可能性があったから、自分が死ぬ危険を負ってまでアンナを殺さなかった事。その戦いで死にかけた際に、ルナの名前を呼んだ事。飛龍と共に国を渡る際、いつも夜空を見上げていた事。

 今なら判る。彼は星を見ていたのではなく、夜を見ていたのだと。そこにルナを見ていたのだと。

 ……まったくもって、惨めでしかたなかった。次第に声も上擦って、涙までが出てくるほどだった。

 そんなシャルロットを、ルナはおもむろに抱きしめて、

「貴方も、ヴラドの事が大好きなんだね。嬉しいな」

(……嬉しい、か)

 皮肉でもなんでもないのは、すぐにわかった。

 だって、こんなに愛しさに満ちた声、聞いた事もなかったから。

「ええと、リリスさん、聞こえているよね」 

 こちらの感情が落ちついたところで、ゆっくりと身体を離したルナが口を開く。

「ありがとう。ヴラドを守ってくれて、ありがとう。きっと貴女がいなかったら、ヴラドが生きてるって、私が知ることも出来なかった」

 反応はない。

 そもそもリリスが本当に聞いているのかも判らない。ただ、おそらく聞いていると思う。リリスという女性はそういう性格だからだ。

「シャルロットも、ありがとう。私、貴女の手伝いがしたいな。なんだってするよ? だめかな?」

「今の貴様がなんの役に立つんだ? そんな人形の身で、何が出来るという?」

 また影から姿を見せたマヌラカルタが、小馬鹿にするように言った。

 きっと「今の貴様の価値はヴラド・ギーシュに対する人質くらいだ」とでも続けようとしたんだろう。まあ、実際にそれを行えるかと問われれば、出来るわけがないのだが。

「身体は戻って来るよ。別になにかをする必要はない。だって、儀式には私の全てがいるから」

「え?」「は?」

 思わぬ返しに、マヌラカルタと一緒に間の抜けた声を漏らしてしまう。なんだか仲が良いみたいですごく嫌だったが……まあ、それは今どうでもいいので、彼女の話に耳を傾ける。

「お父様は、私の魂が一番大事なんだって言ってた。『器だけが必要なら自由にする必要もないのでは?』って、ギリアムが疑問を口にした時にね、そう返したの覚えてるんだ。私だけが『夜』と溶けている。そして『夜』だけが全ての世界を繋げる事が出来るの」

「……」

 少し、言葉を失ってしまった。

 ルナの、あの理解不能な魔法を思い出してか、マヌラカルタに到っては恐怖すら覚えたようだ。

「ルシェド・オルトロージュ、奴は一体儀式を用いてなにをしようとしているんだ?」

「送還、だよ」

 躊躇いがちに放たれたマヌラカルタの問いに、ルナは穏やかな声で答えた。

 それから窓の前にゆらりと歩いて、そこから深海の空を見上げる。

「ずっとずっと高いところからね、赤ちゃんが堕ちてきたの。身体を失ってしまったその子は寂しくて寂しくてずっと泣いてるんだ。帰りたいって泣いてるの。だから、それを可哀想だと思ったお父様は、元の場所に返してあげようって決めたんだって」

 と、そこでルナは自身の耳に手を当てて、眼を閉じた。

「……そういえば、この身体だからなのかな、泣き声が全然聞こえないね。それとも、今日は揺り籠の日なのかな」


                §


「――どうした?」

 こちらの気配が揺れた事を察知してか、ヴラドが口を開いた。

「別になんでもないわ。本番までの時間をどうやって有効に使うか、考えていただけよ」

 適当に言葉を返しながら、リリスはルナたちの屋敷に仕込んでおいた盗聴機能から得た情報を吟味する。

 その情報によって齎された怒りは、幸い半身に気取られる事はなかったようだ。

(たかが赤子一匹の為に、わたしとスゥーヴィエが護ってきた世界を滅ぼすだと……?)

 それだけのために三百万年以上を費やし、臆どころか兆を超える死を生み出し、土壌を肥やしてきたというのか。

 まったくもって馬鹿げている。到底許容できる愚ではない。

 ……ただ、同時に頭の冷静な部分はそれを理解してもいた。かつてのリリスドールもまた同じだったからである。

 スゥーヴィエ以外に価値などない。他は全て塵芥。同列であるはずの原初の神すら、リリスドールにとってはそうだった。

 その根底にあるのは、もちろん彼女への執着というものもあるが、それ以上にそもそも彼等に価値を抱けなかったという点も大きい。

 邪魔だと思うだけで消せるような存在を、どうして敬えるだろうか? 

 我ながら傲慢な思想だとは思う。けれど、この傲慢さは自分が原初の神だから持っている特権というわけではない。人間にだって備わっているものだ。

 この世界の人間文明は幾度となく発展と破滅を繰り返してきたが、菌が存在することや植物が生きている事を知ってなお、彼等がそれらの命を気に掛けた事はなかった。犬や猫とは違い、存在が離れ過ぎている所為だ。

 ルシェド・オルトロージュにとっても、この世界のほぼ全ては、そういうものでしかないのだろう。だから奴は儀式のみを気にしている。そして、それこそが奴の唯一の陥穽だ。奴を後悔させるただ一つの糸口。

 ここまでは上手くやってきた。この状況も、一見すると悪くはない。

「もっとも、その本番はまだ先になるかもしれないけれどね」

「どういう意味だ?」

「仮にルナの魔法が正しく使えないのなら、お話にもならないという事よ。望んだ消耗は見込めない。アルドグノーゼへの対処が必要になる。間違いなくね」

 そう結論付けて、リリスは飴玉を一つ口の中に放り込んだ。


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