32/儀式の始まり
ターカスの王宮だった場所の、だだっ広いホールにて、スロウは気を失っている自身の身体を見下ろしながら、今利用しているルナの身体の適合率に安堵とも落胆とも取れるため息をついた。
魂と肉体が殆ど結びついていない。大体二割程度で止まってしまっている。辛うじて魔法が使えるくらいだ。そしてそれは入れ替わってすぐに行えたことなので、あれから一向に進展していないという事でもある。
正直、かなり異常な状態だった。
この身体の、重要な部分にはまるで触れられていないという現実。
まあ、それは裏を返せば分離も容易いという事でもあるので、全てにおいてマイナスというわけでもないのだが。
「――もうじきだね」
不意に、中世的な声が届いた。
視線を向けると、そこには声に見合った中世的な容貌の地味な人物がいる。
一見すると、どこにでもいるような人間。だが、その中に在るのは、スロウが未来を託した原初の神たるカラエルだった。
正確に言えば、その意識体だ。故に、以前に破壊した使い捨ての器と違って一切力を揮うことも出来ないが、代わりに本体をこの世界に引き寄せる触媒としての価値を有している。
「あと、五時間ほどですか」
すでに夕刻が終わり、夜も深まってきていた。
ターカスの民という巨大な門を開くために必要な大量の生贄も既に配置しているし、エルラカとカラエルがいる領域にまで干渉するための必要な神子の生命も、四人分、先行投資というカタチですでに捧げられてる。
あとはこの身体を空にして、元の身体に戻るだけ。
おおよそ全てが上手くいっている、といっても差し支えはないだろう。
懸念があるとすれば、本来ここに居る筈のチュルがいない事くらいか。サラヴェディカで思った以上に大きなダメージを受けた所為だ。おかげで守りが幾分薄くなった。
とはいえ、その状態を把握している敵勢力はサラヴェディカだけだろうし、こちらにはまだミッドラインダ帝国の司祭にして今の君主でもあるダリーメジェス・カンターノットが残っている。
いがみ合っていた二人の神子を従わせ、ミッドラインダ帝国を纏め上げた、カラエルの信奉者たる魔神ロマの器。
彼女は非常に強力な戦力だ。契約者であるロマが儀式に全てのリソースを割くので万全とは言えないが、それでもチュルと同等に挙げてもいい程度には、神子の中でも上位に位置している。不安を覚えるのは、さすがに弱気が過ぎるだろう。
「私はいつ、元に戻りましょうか?」
そうは思いながらも、ついついスロウは訪ねてしまった。
「法の行使は上手く出来そうかい?」
「……いえ」
元の肉体を失ったところで、そこにあるのはペンテラの核だけなので、本来なら自身の魔法は遺憾なく発揮出来るはずなのだが、ルナの色格の影響か、今のスロウにはそれが叶わなかった。
おかげで、元の身体に戻るのにも他人の手が必要となっている。まあ、そちらの準備も既に完了しているので、カラエルが決定さえしてくれれば全て解決なのだが――。
「あぁ、そうだ、その魂は君が確保しておくといい」
「何故でしょうか?」
「保険だよ。ルシェド・オルトロージュという存在に対する人質に使える可能性があるからね」
カラエルのその言葉で、スロウはその外神を宿す神子の事を思い出した。
最大限警戒しなければならない相手を、今思い出したのだ。明らかに異常な事態だった。
「驚いた顔。なるほど、君は認識出来ていなかったんだね。まったく補足できなかったよ。潜伏に力を入れると、どうしても情報収集能力は鈍ってしまうものだな。まあ、そのおかげでここまで殆どの勢力に気付かれずに来れたわけでもあるのだけど……うん、そうだな、やはり計画を変更する必要がありそうだ。ルウォ・アルドグノーゼの始末は後回しにして、先にルシェド・オルトロージュを迎え撃つ。どうかな? なにか意見はある?」
「……少々お待ちください」
そう言って回答を引き延ばしつつ、スロウは二つのパターンをシミュレートする。
どちらを先に叩くか、この問題の中心にあるのはモルガナという神子の存在だ。
当初の計画通りルウォ・アルドグノーゼの始末を優先した場合、モルガナは防戦というカタチを取る。その時表に出ているのがアルドグノーゼだからだ。彼女はアルドグノーゼの命令はきかない。まあ、ルウォとは運命共同体なので、奴が追いつめられる展開となれば最終的には加勢するだろうが、それまでは傍観を決め込むだろう。これはリズの見解なので、極めて信憑性が高い情報だ。
逆にルシェドの迎撃を優先した場合、表に出ているのはルウォなのでモルガナは積極的に仕掛けてくる。攻勢側の彼女の驚異は計り知れない。下手をすれば即行でこちらの主力が潰される恐れもあった。
だから、ここだけを見れば前者を選ぶべきなのだが……
「ええ、そうですね。私もそれで良いと思います」
アルドグノーゼと違って、ルシェドという存在は未知数だ。リズは同程度の脅威だと言っていたが、魔法が不明という点を踏まえれば、そちらに対してこそ万全の構えで向かっていく方が良い。それに、ルウォ・アルドグノーゼを後回しにした場合は、チュルの回復も見込める。
モルガナとの相性の良さは彼女の最大の武器だ。初動さえ凌ぎ切れば、あとは一対一を任せられる。そしてそうなれば、アルドグノーゼより間違いなく弱いルウォという存在を叩き潰すだけで済む。……まあ、最後のくだりはさすがにそう都合良くもいかないだろうが、それを抜きにしてもカラエルの方針に意を唱える理由はなかった。
「賛同を得られて何よりだ。では――」
と、そこで、部下が駈け込んで来る。
「て、敵襲です!」
「サラヴェディカかな。不死の神子と『真深夜』の隔離には成功しているはずだけど……まあいい。少し実行を早めようか。補佐はお願いできるかな、スロウ」
「ええ、問題ありません」
小さく微笑み、スロウはやってきた部下に告げた。
「摘出の魔法持ちと神子候補を連れてきてください。防衛に関しては――」
「――もちろん、私が指示をする。貴女たちは儀式にのみ集中するといいのだわ」
鈴のように可憐でありながら、腹に響くような凄みも帯びた声がホールに響き渡った。
一瞬で周囲の意識を釘付けにする存在感。
視線をそんな声の方に向けると、そこには非常にボリューミーな深紫色の巻き髪を太腿まで伸ばした少女の姿があった。
猫のように吊り上がった大きな目と、青いルージュを引いたぷっくりした唇が特徴的な彼女は今、ミッドラインダ帝国において決戦時にのみ使用される黒に近い蒼色の厳かな意匠の軍服を身に纏っている。
「素晴らしい気迫ですね」
思ったままの感想を口にすると、彼女はくすぐったそうに微笑んで、
「私が最後の砦なのでしょう。だったら、気合も入るというものなのだわ」
と、高揚を隠しきれない様子で答えた。
虐殺ではなく闘争を好む性質は、神子にしては珍しい。正直、侮蔑に値する愚かさだ。程度の低い存在と同じ目線をもつなど穢れ以外の何物でもない。
「では、お任せしますね。ダリーメジェス様」
恭しく頭を下げて口元に滲んだ侮蔑の感情を隠しつつ、
「ご武運を」
それはもう真摯な声で、心にもない言葉を贈ったのだった。




