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君>世界   作者: 雪ノ雪
第七章『遠い半身』
111/115

27/初めての完敗

 邪魔が入らなければレナリアの刃は確実にチュルに届いていた。

 それを可能としたのは、まさに執念の一言だ。

 自分が昔どこかに落としてしまった熱。もはや掬う事のできない願い。だから、負けても終わりにしたくはなかった。

 我ながら非常に珍しい執着だ。他者の価値などろくに維持できないこの精神が、まだそんなものに執着している。

(まあ、彼女の落ち度でもないし――っと、危ない危ない)

 彼女の落下を静死させる程度の余分でしかなかったのに、そのわずかな隙間を縫うように、水の刃が手を伸ばせば届くほどの距離にまで近づいていた。

 とんでもない速さだ。間違いなく光や雷に匹敵する展開速度だった。

 急激な速度変化を察知した際に、自動的に感度を上げるシステムを構築していなかったら、おそらく対処できなかっただろう。

(反発と凝縮と膨張、あとは浸透と色合わせの同時併用か)

 やはり魔力の行使技術は度を越している。特に悍ましいのは、それら全ての色の濃淡を変えつつ、完璧な調律を為している点だ。それをこのタイミングで仕掛けてくるというのだから、本当にこの男は恐ろしい。

(他にもなにかされてるかも?)

 きょろょきょろと世界を見渡して、ついでに周囲に魔力の波を走らせて情報を更新する。

 結果、上方からこちらに近付いて来ている存在に気付いた。

 もちろん、その相手はクーレだ。こちらも実に嫌なタイミングで仕掛けて来てくれる。このあたりはウィンと同等の嗅覚といえるだろうか。

(それにしても、こちらも速いわねぇ)

 この体感の中ではっきりと動いていると感じられるなんて、アンナの半同一化並みの速度だ。ただ、ウィンほど魔力の流れは美しくない。かなりの力業なのは見て取れた。

(たしか、重力の魔法だったわよね)

 それを自身にかけて、落下速度を上げているといったところだろうか。

 壁を突き抜けてこちらの視界に入ってくるまで、体感であと三分程度。長いような短いような、もどかしい時間だ。

 その三分でウィンを始末出来ればいいが、未だに届かない。ここまで攻撃にリソースを割いているのに、まったくもって信じられない話である。そのうえで、もしクーレが彼に補助を掛けようものなら、いよいよ判らなくなってくる。

(悪魔の契約を利用して接近してくる可能性もあるわけだしね)

 こちらも彼に手は出せないわけで、接近を防ぐ手立てがないのだ。つまり今のクーレはウィンにとっての最高の盾にもなれる可能性を有していた。正直、重力関係の補助よりも、そちらの方が厄介だ。

(でも、厄介だけど、チャンスでもあるのよねぇ)

 ウィンはこちら意識配分をかなり正確に把握しているようだが、完璧ではない。僅かにあるズレをついて、間合いに引き込んだタイミングで最速の防御を戻せば、もしかしたら出し抜けるかもしれない。

 ここが大一番だ。

 優位性はまだある。ただし、大きな懸念も一つ。

 自分は果たして、この高揚をその時まで維持できているか。

 切れた途端に集中力も警戒心も切れるだろう。当然、そうなれば死ぬだけだ。

(まあ、それでもいいんだけど)

 最も評価している男に殺されるのだ。それはそれで贅沢な最期といえるだろう。

(……残念)

 切れなかった。むしろ集中力はピークだ。

 こちらの読み通りクーレが防御領域の内側に入ってきた。ウィンもその背後に隠れながらそれに合わせて全方位から水の刃を放ってくる。

 どれもちゃんと動いて見えるくらいには速い。ここにきて更にギアを上げた感じ。

 それに応じて、こちらも瞳の性能を最大に引き上げたいところだったが、今日はずいぶんと酷使した所為か、その途中で眩暈を覚えた。

 第三の瞳に激しい痛みが過ぎる。脳に錐を突き立てられたような激痛だ。これ以上引き上げるのは難しそう。

 その事実を噛みしめながら、ララエスタは攻撃の手をさらにウィンに伸ばす。

 瞬間、防御領域のギリギリ外に居たウィンが踏み込んできた。

(本当、私の魔法の全てを知っているかのよう)

 でも、予想通り完璧ではない。視認出来ているわけではないのだ。

 紙一重だが、防御が間に合う距離。自己防衛を再展開出来れば、その時点で勝てる。あれはこの世界の中で唯一速く動けるものなのだから。

 周囲の水の刃を静止させつつ、攻撃に伸ばした魔法の粒子を大急ぎで身体の中に引き戻していく。全部が戻るまで(というより一定量の粒子を第三の眼とリンクさせるまで)防御用の粒子は展開できない。その間に、ウィンとの距離は一ヘクテルを切っていた。

 近い。ドキドキする。この気持ちのまま死んでもいいと少し思う。

 少しだけだ。今は勝利の美酒の方が欲しい。

(――間に合った)

 クーレの影から姿を見せたウィンがこちらに振り抜いた右手が、肌に触れる刹那の事だった。

 体感で一秒弱の僅差。安堵の息を吐く暇もない。

 まったくもって、ひりつくような殺し合いだった。彼が勝ちに来なければなかった勝利だ。

 粒子を手の延長線上に伸ばして、ウィンの右手に触れる。

 瞬間、彼の全てが止まった。

 完全な無力化と、程なくの死の達成である。

 あとは――

(――っ!?)

 不意に予期せぬ箇所から痛みが走った。

 太腿だ。斬られた感触。両眼の眼球には映らない。

 ダメージの進行を静止させつつ第三の眼を向けると、魔力の込められたクーレの爪が皮膚を引っ掻いたのが見て取れた。

(あり得ない)

 これは明らかに悪魔の契約に反する行いだ。彼には絶対できないし、仮に彼の意図しない事だったとしても契約違反で彼は死ぬ。

 にも拘らず、その兆候もなく、それどころかたった今悪魔の契約が成立したのを、この魂は理解する事となった。

 意味が分からない。

 激しい混乱が助長するように、頭痛がより激しさを増した。

 第三の瞳の機能の一部がショートする。途端に、額から温かい雫が鼻筋を伝った。時間感覚が常人レベルに低下した証だ。

「はい、僕たちの勝ちだね」

 指先に付いたララエスタの血をこちらに見せながら、クーレが微笑む。

 狙い通り、してやったりといった表情。

「……どういう手品かしら?」

「僕に悪魔の契約を反故に出来る力はないね」

 僅かに抱いていた可能性をクーレは否定する。

 それで、気付いた。

「……あぁ、そういうことね。なるほど、やられたわぁ。そこまで外は見ていなかった」

 ウィンの体内に掛けた『静死』を解く。クーレの魔法で重力をカットされていたので、彼の身体はその場に留まっていた。

「どうやら終わったようだな」

「うん、問題なくね。やっぱり情報だけで良かったかな。まあ、たまにはこういう妥協も悪くはないけれど。でも、やっぱり面白くはなかったから、報酬は僕らしく選ばせてもらう」

「なんだか癪に障る物言いだけどぉ。それで、私になにを命じるのかしら?」

 少しだけ身構えつつ、ララエスタは訪ねた。

 すると彼は、

「別に何も。彼にかけた魔法を君は自分で解いちゃったからね。だからそうだな、もう君は自由だ。僕に無理して従う必要はない。これで、悪魔の契約の処理できたかな?」

 と、答える。

 背負ったリスクなどを考えれば、あり得ない内容だ。

「どうして?」

「だって、それが一番贅沢でしょ?」

 当たり前のように、クーレはそう答えた。

 神経の使い過ぎでじっとりと汗ばんだ身体に心地良く響く、涼しい声。

「――く、ふふ、あはは。……負けたわぁ。完敗よぉ。清々しいくらい。不思議な気持ちねぇ」

 気が抜けたら、意識がまた遠退いてきた。

 それに逆らう理由もない。ララエスタは当たり前のようにクーレにその身を預けて、

「疲れた。だから、久しぶりに眠るわぁ。少しだけね」

 と言いながら、数十年ぶりに完全な無防備を受け入れた。


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