第47話 覚えてないって、だって三歳って十年前だぞ
『今日のことは、覚えてなくていい。いや、ずっと忘れていてほしいかな』
とく、とく、と真っ暗な中で、心地いいリズムが伝わってくる。
『でもね。君が命を投げ出したくなったら、今日を思い出してほしいんだ。
君が生きるのが辛くて苦しいのなら、ユーストゥス・ヴェネラティオが、いつでも君を引き取ろう。
僕は、君が居てくれて本当に良かったよ。
君が教えてくれたから、大切なものを失わずに済んだ』
低く優しい声が音を紡いで、頭に響いている。
『君の魔眼が見せる世界か、それとも君自身に関することか、僕には分からない。
これからたくさん、辛いこともあるだろう。強い力に悩む日も来るだろう。他人と違うのは、とても傷つくことだろう。
でも、忘れないで。終わることは、いつでも出来るんだ』
伝わる温もりが、じんわりと熱を帯びる。閉じた目蓋越し、暗かった辺りが明るくなるのを感じた。
『クストス家の人は皆、温かいだろう?
今の君の新しい家族になってくれるはずだ。
もう少しだけ、もう少しだけ。そうやって先伸ばした未来に、いつか救われる日が来るかもしれないよ。
僕やクストス家以外にも、きっと君自身を受け入れてくれる人が現れるはずだ』
ふわりと、頭に重みが乗る。何度も何度も撫でられた。
『これはおまじないだよ。優しい君が、幸せになれるように――』
――これは、いつの夢だろうか?
たぶん忘れている続きだ。真っ赤な世界から、連れ出されたあの日の記憶。
◇◆◇◆◇◆◇
「……」
アディは、静かに目を開けた。
見上げた視界は、水が浮いて広がっていた。水槽を下から覗いているような――そう感じた。
――きらきら、ゆらゆら。
そしてアディ自身、身体の半分が水に浸かっている感じがする。
ふわふわとした浮遊感があって心地がいい、とても不思議な感じがした。
しばらくの間、そうアディはぼんやりしていた。
――俺、どうなった?
ふと疑問に思ったアディは起き上がって、辺りを見渡す。
部屋のようなそこは角がなく、ぐるりと壁に囲まれていた。造りは七階層と似ている。
違うのは天井の水。それは、壁伝いに流れ落ちているようだった。
上から落ちてきた水は、部屋の中央に集まるように床を流れている。
中央にある少し盛り上がった台座の下、穴の中へと水が続いていた。
手に重みを感じてアディが見ると、隣にケレルがいた。目を閉じてぐったりしている。
――え、いつから?
アディは怖くなって、ケレルの口元に手を当てる。ケレルの呼吸は、しっかりとしていた。人知れず、アディはホッと息を吐いた。
――寝ているだけか。心配させやがって。
ふと気づくと、アディの手をきつく握ったケレルの手があった。まるで、もう離さないというような力強さだ。
――なんだか、あの時と同じだな。
それは、仮眠室での時を思い出させた。あの日も、彼はアディの手を握っていた。
ひどく遠い日の出来事のように、アディはそれを懐かしんだ。
――そう、俺は?
夢うつつのままに飛び出して、ダンジョンに潜ってたはず。帰りを考えずに、ただ間に合うようにと進んでいた。
記憶にある限り、疲労とダメージが積み重なっていたと思う。
記憶も体感時間も飛び飛びで、我ながら無茶をしていた自覚もあった。
――終わって良いと、思ったのにな。
それなのに今、身体のどこにも痛みはなく、異常に軽かった。
最後の記憶では、瓦礫と共に呑まれたはず、けれど周囲には物が一つもない。
ここに居るのは、ケレルとアディの二人だけ。
訳の分からない状況に、一つ思い当たることがあった。ゲームと言えば定番の――。
――もしかして、隠しステージ的、な?
パシャリと水音が響いた。
アディが無意識に動いて出来た、水の波紋。意識がそちらに向いて、じっと手元の水をなんとなく見た。
瓦礫と落ちたのに、それはとても澄んだ水だったから、どうしてだろうと思ったのだ。
【聖水】
傷を癒す聖なる水。魔を祓う浄化水。
「……は?」
ポコンと浮かび上がるようにして、水の上にウィンドウのようなものが見えた。
アディは思わず、ゴシゴシと目を擦る。
「……」
キョロキョロと部屋全体を見ると、風景以外なにも見えない。ただ、水を見ようとアディが意識を向ければ――。
【聖水】
傷を癒す聖なる水。魔を祓う浄化水。
再びアディの目に映ったのは、メッセージだった。
「はぁ……」
無言で、空いている片手で顔を覆う。とうとう頭がおかしくなったのか。
それとも、と考えて元ゲーマーのアディは理解してしまう。
――原理は分からないけど。俺の目がレベルアップ的な?
目に見えた情報が、本当に正しいのなら。
アディの体調に異変がなく調子が良すぎるのは、この水に浸かっているせいだろう。
ここはおそらく、隠しステージ関連。通常なら入ることの出来ない空間と、考えるのが妥当だった。
出口のない空間。聖水。目の異変。
「はは……」
アディは顔を覆った手を握る。前髪がくしゃりと乱れた。
じわりと視界が滲んで、ぼやける。その中でも、ハッキリと見てえしまう文字。
――こんなの、知らない。
熱い雫と乾いた笑みが、同時に溢れた。




