第48話 覚えてないわ、あったな聖水
ドォォン。
大きな音が耳に突き刺さって、天井に数多の輝きが瞬いていた。
見開いた瞳に、丸い光が弾けて広がっていった。
どことなく焦がれるような、懐かしさを感じるような、胸の奥が熱かった。
「……」
背に回された腕が、ぎゅっとクロを包み込んでいる。その香りは不思議と覚えのあるもので、知らないはずの温もりが触れたところから移って全身へ巡っていくみたいだった。
「……俺、の……誕生、日?」
降り注ぐ言葉の雨、そのほとんどをクロは理解出来ていなかった。ただ、天井に瞬く火の花弁は綺麗で、抱きしめられることが温かくて、胸がいっぱいいっぱいだった。
――分からない、分からない。
コツリと、額になにかが触れる。びくりとクロが肩をすくませれば、目の前の女性の額が、クロのそれと重なった。
(今は、分からなくてもいい)
子どもとクロに容赦なく水を掛けてきて、大きな声で叱るようにまくし立てていた女性の声が、今度は頭の中で聞こえた。
――知らない、知らない。
それは、さっきも頭に響いて何かを聞いてきた声だった。でも、クロは彼女を知らない。クロの中に、質問の答えなどあるわけがなかった。
(忘れないで、覚えておいて、今はそれだけでいい。大丈夫、何があっても放っておいてくれないって、――なら、分かっていたことよ?)
「だから今は――、おやすみなさい」
そっと額から重みが離れて、今度は直に彼女に声を掛けられた。見上げた瞳は同じ黒色で、濡れていた。
気がつけば、クロを置き去りに目まぐるしく動いていた周りの音が、静かになっている。
そこに負の感情を一つも見つけられず、クロは言われるがまま目を閉じた。
――どうしてだろう……。全然、怖くない。
いつもそばにいた幼子がいない。目の前の二人の人間は知らない人のはずなのだ。
真っ暗な闇が広がっているはずのそこに、鮮やかな灯火が未だ辺りを照らしている気がした――。
◇◆◇◆◇◆◇
「……眠った、のか?」
「眠らせとも言うかな。ここ数日は特に、かなりの血を与えていたから、そこへさらにさっきの出血を考えれば貧血も良いところよ。そうでなくとも不安定なことには変わりないの」
カリスの腕から離れて、神童が問いに応えた。アディを見つめる眼差しには、なんだか手のかかる弟を見るような情があった。
穏やかな寝息をたて始めたアディを、カリスは両手で支えて流れ落ちる涙をそっと拭ってやる。
「それは?」
「聖水、傷を癒すの。胴に空いた穴が塞がったのも、これのお陰」
周囲に流れる水を、神童は指で手繰り寄せるような仕草をすると、周りに雨を降らせていた。
――ポーションの類い、か? いや、あれは大怪我には効かない。
カリスも一緒に浴びる形となり、服に幾つもの染みが広がる。正体不明の水に怪訝な顔をしたが、モンスターの重圧により痛んだ節々が癒え、痛みが和らぐのを確かに感じた。
「つくづく……規格外、だな」
「失礼ね。聖水はアディに関係なく、もともとここにあったものよ」
「……君に、触れられるようになったのは、規格外とは言わないのか?」
すっかりいつもの調子を取り戻した神童。その足元には、畑で出会った時には無かった影がしっかりとある。
「アディが、私を別人として改めて認識したからね。ダンジョンの中で実体化するくらいなら出来るみたい。私はアディよりもずっと、コアに近いから」
「コアに近い……?」
抱いた疑問は聞けるうちに聞いておかなければ、情報を得られないとカリスは話しかける。
「毒を飲んだ時に、私は初めて喚ばれたの。その後も、外でアディに何かあれば代わることを示唆されて。……それ、許容できる?」
立ち上がった神童はカリスに背を向けた。黒いモンスターへと近づいて、無感動に見下ろしている。
――神童が現れるのは、どれもアディに何かあった時、か。確かにそうだな。
カリスならどうかと聞きながら、同意を求めているわけでもないのだろう。その表情は背を向けられて見えなかった。
「何かある度に喚ばれて、状況に戸惑って、憤って、無かったことにされる。その繰り返しは理不尽じゃないの。だから、コアに要求したわ。喚んだ今の私を保存して、そこから喚び出すようにって、その方がずっとマシだもの」
「……だからあれ以降、逆行ではなく交代として前のことを覚えていたのか」
「そう。アディの目を通して、リアルタイムもある程度は把握出来たわ。さながら多重人格みたいよね。ただ今回みたいに、ゲーム外であるコアのことは、まだまだ分からないことも多いのだけど。まるで、成長型AIみたい」
「その……、コアは、アディから外せないのか。それで危険は、ないのか? さっきの様子だって……」
「さあ? ただ、コアと分かれたら今度こそ衰弱して死ぬみたいね。コアは魔道具で例えると魔石と同じ、アディにとっては心臓と同義。
そのコアに乗っ取られる可能性も、周囲に危険を振りまく可能性も、アディが許容しないと思うわよ。私もそうだもの」
他人事のように語りながら、それでいて神童は、譲ることの無い強い意思を滲ませている。
アディとしてのお人好しである性が、確かにそこにあった。
「アディが目覚めたあの最後に、ユーストゥスがすぐに解除したけれど、あの時、トラップとでも言うべきかな。自壊の魔法は発動していたんだよね。モレスと交えた時にも、私が油断したせいで脳を焼かれてねぇ。
コアに保存されてる私は、ある意味無事だったけど、聖水で傷を癒せても、アディにはその限りじゃなかったみたいね」
「……アディ、は」
カリスはその先が言えなかった。本当に救いたかったものが、もう手の届かないところへいってしまったようで。
腕の中で眠るアディは、面差しが確かにそっくりなのに、髪色が違うせいで別人にも思ってしまう。
――幼さの見える寝顔は、本当に同じなのにな。
「ダンジョンに転移して、聖水で傷が癒えた今も、ほとんどを寝て過ごしていたの。本当なら、とっくに死んでてもおかしくないわけだし、脳なんて医学が発展した前世でも未知数だったから、予後を推し測ることなんて無理ね」
――時間も定まらず、神出鬼没に現れていたのは、そのせいもあった、と?
報告に上がった目撃情報、日時も時間もバラバラで単に移動があったからだと最初は思った。
だが、目の前で消えた移動手段を知れば、そうではないのだとカリスは気づかされる。
「でも、全てを失ったわけではないから。そもそも、事が起こる前から内に引きこもっていたのは事実だし、何かのきっかけがあれば戻る気もするし、……じゃないと、困る。
私は、アディとしては生きたくないもの。まぁ今の人格が強すぎて、私が表に出れないんだけどねぇ」
「君は……、そんなに嫌、なのか?」
「嫌ね。でも、私に選ぶ選択肢は与えられてないから。今はどちらかと言うと、コアの立場を利用して、ダンジョンの主としてなら居ても良いかもくらいかな。一番マシなのを言えばだけど……」
「そう言えば、ミニベアを従えて、畑を作っていたな……」
ダンジョンの管理を人間がする。カリスがよく知るその言葉は本来、氾濫しないようにモンスターを増えすぎないようにすることを指す。
畑などと人の営みを、ダンジョンの中に取り入れることでは決してない。
「流行りよ、流行り。私がダンジョンの管理を担えば、遠隔管理による負荷を肩代わり出来る。アディの傾眠とかが改善するのだから、そう悪いことでもないって。私も四六時中、アディの視界を共有しなくて済むし」
「遠隔、管理……?」
彼女があまりにも子どものように不機嫌を隠さず言うので、カリスは毒気を抜かれたように脱力する。
が、そこにまた不穏な一語を聞き取って、カリスは少し面食らう。常識を塗り替えさせられて、思考がそろそろ麻痺して来そうだ。
「最初に明示されたの。ケレルと帰るって約束したから、アディはそこを何よりも優先させてね。
コアを抱えたまま、ダンジョンの維持のため無意識下でリソースを割く代償を払った。ダンジョンから離れるほどに、ポンコツになるって言われてたかなぁ。今はそこに、私っていうCPUを増やして対応してる形になるねぇ」
「いや、待て。アディは、いったいどこまで……」
唸るような声になったのは、カリスのせいだけでは無いだろう。そもそも、アディが抱え過ぎなのが悪いのだ。
「ふふふ。ダンジョンの権能。わりと自由度が高いみたいだから、やりがいはあるよねぇ。カリスにもあらかた話したし、もう解散でも良いかな?」
「――は?」
あまりにも突然の彼女の発言に、カリスは間抜けな声が出ていた。
その顔を面白そうに見つめる彼女は、共犯者を見つけたような、肩の荷が下りたような笑みをしていた。




