言葉では表せない存在
その腕を見た瞬間、翠は一歩後ずさりした。
その腕だけは今までの腕とは意味が違う。
今まで蒼が出していた腕は、翠にも理解ができた。
方法や理由が解らないが、彼は右腕に式守神の腕を取り入れていて、それを使い攻撃しているのである。
篠田の式守神、三火八雷照や、龍のような腕もどこかの式守神なのだろう。それら以外にも、他に式守神の腕を持っているかもしれない。
確かにそれはすごい。翠の見たことのない浄霊方法だし、一人一体という数の制限のある式守神を、複数持っていることは、今までの祓い屋の常識を覆すほどの事態だ。
だが、それだけである。
それは、篠田が言う『想像を絶するもの』と呼ぶほどのものではない。
攻撃方法は、式守神を持っている術者とあまり変わりがなく、さらに、出せるのは腕だけのようで、同時に何体も出せないようだ。
それなら、砂那や篠田のように式守神一体でも、式守神を自分から離せる状態で持っていた方が使い勝手もいいし、式守神の霊力も上だろう。
しかし、今出した腕は理解できなかった。
《アンナ》と呼ばれた、淡く輝いている普通の腕。
この腕がもたらす効力を翠は知らない。なのに、それを見ただけで全身に鳥肌が立ち、胸が圧迫するほど鼓動が早くなり、息苦しくなった。
周りを支配する空気が変わる。
それから染み出る様に感じる禍々しさ。微かに光っているのに、暗く、終わりを感じさせる、闇夜に思える。
じっとりと嫌な汗が滲む。
それは、恐怖、憎しみ、嫌悪感と言った様な、様々な感情が湧き上がってくるが、言葉にすればどれも違った。
頭では解らないのに、体が知ってる。
いや、体でもない、もっと奥深くのものが、その腕を全否定していた。
細胞でもない。
DNAでもない。
魂と言っても良い物が言っている。それはこの世に存在してはいけないもの。
知らないことのはずなのに、それを知っている。
言葉に表すことの出来ないそれの、一番近い、的を得た言い方は―――――
生を受けて産れて来た者、死に行き魂だけになった者、すべての存在の――――――《敵》――――――
翠は恐怖で歯を鳴らしながら、自分の体を抱きしめた。
この場で鬼と彼の対決を見ていて、鬼が危なくなって助けに行けば、霧ヶ峰の鬼が式守神になってくれると言うのが、篠田の所論だ。
それは翠も解っている。
しかし、そんな考えなど翠の頭からは消え去り、逃げることで一杯になる。
早く逃げないと危ない。一秒たりともこの場に居たくなかった。
翠は二人から目を離し、一気に駆け出す。
あれほど重かった体は、悲鳴を上げながらも言うことを聞いてくれる。命が危険にさらされ、身体がそれを理解しているのかもしれなかった。
ザッ、ザッ、ザッと雨に濡れた草を踏みしめ、八坂神社の境内に砂那が現れる。
囲いを見上げていた篠田と、悪霊を囲っていた辰巳はそれに気付いたが、二人とも押し黙ったまま口を開けなかった。
雨の滴りで解りにくいが、彼女の目が少しだけ赤くなっていたからだ。
砂那は二人を通り過ぎ、木陰までやって来ると、ポケットの中のこぐろを出してあげ、そっとその場に寝かせた。
「ここなら大丈夫と思うけど、危なくなったら逃げてね」
そう、こぐろに言い聞かせ、自分は社務所の前までやって来ると、コートからダガーを取り出し、お札を刺していく。
その数、八本。
砂那の所持している半数のダガーを、指と指の間で挟んで全て持ち、顔を上げると、自分の張った五十囲いをキツイつり目で睨んだ。
「あなた達も逃げてね。最悪、これからここで、霧ヶ峰の人喰い鬼と戦闘になるから」
顔も向けず、篠田と辰巳にそう忠告する。
「出てきて、我が式守神、八禍津刀比売」
砂那の背中の後ろには、女性の顔と胸を持つ八本腕の鬼が現れ、全ての大剣を構える。
そして、木陰に寝かされこぐろは少女の姿をとり、立ち上がると、おぼつかない足取りで、砂那の前にやって来る。
それはまるで、彼女を守るための様に。
「こぐろ?! ダメよ寝てなさい!」
慌ててこぐろに話しかけるが、こぐろは手の爪を猫のように尖らせ、囲いに向って一つ「シャーっ」と鳴いた。
それは、蒼に言われたからではない。こぐろにも砂那のやろうとしている意味がわかったのだ。だから、彼女の前に立った。
使い魔の気持ちがサブマスターの砂那にも流れて来たのか、渋々頷く。
「こぐろ………解った。ただし、これは命令です。危なくなったら逃げること!」
砂那はそうこぐろに言い聞かせると、再び囲いを見上げた。
その様子を見ていた篠田は、仕方が無いかとでも言いたげに、首を一つ鳴らすと、砂那の横に並び、ステンレス製の安い串を腰バックから取り出し、それにお札を刺した。
その行動に、辰巳は思わず「マジかよ」と呟き、うなだれる様に肩を落とした。
篠田から聞いた話によれば、この囲いの中では、暴れ神を式守神にするために、上高井の孫娘と、それを阻止しようと、先ほど会った篠田の知り合いが入ってるはずだ。
方法は解らないが、大丈夫だと篠田はのんきに言った。
なのに、今、この二人のやっていることは、出て来た暴れ神と戦う準備である。
こんな危険な暴れ神と戦うなど考えていなかった辰巳は、自分の運の悪さを嘆いた。
まったく安部に見込まれ、それを手伝ったのが運の尽きだ。
しかし、ここで囲い師として力の劣る辰巳が加わった所で、足を引っ張ることは有っても好転はしないだろう。
だからと言って、砂那のあんな顔を見せられては、逃げ出すことは出来なかった。
「くそっ! なんでこんな事に………言っとくけど、俺では戦力にならないからな、あんまり期待するなよ!」
そう弱腰な断りを入れてから、砂那の隣に並ぶと、辰巳も小ぶりなナイフにお札を刺す。
「流石に、ここで逃げたら囲い師の名が泣くよな」
篠田は茶化したように言う。
「好き勝手言いやがって!」
そんな二人には何も告げず、砂那はイヤホンマイクに向かって呟いた。
「蒼、危なくなったら囲いを解除するから、直ぐに言ってね」
蒼からはいい返答が来たのだろう、砂那は少しだけ口元を弛め頷いた。
そんな彼女に対して篠田が話しかける。
「心配することは無い、ハルはこの程度の相手に遅れは取らねーよ」
砂那と辰巳は篠田を見た。
いつものように軽口を付いていたように聞こえたのだが、その顔は真剣で、睨んだように砂那の張った五十囲いを見ていた。
「だから気楽にいこうぜ」
そう言って振り向いた顔は、いつもの表情に戻っていた。
霧ヶ峰の鬼はその腕を見た瞬間に動きを止めた。
危険を感じているのか、先ほどの様に攻めて来ない。
そんな鬼に対して、蒼は無防備に歩いて近づき、懐に入り込む。
負の要素が高いと言えど、流石は大きな神社に祀られてた霧ヶ峰の鬼だ。
蒼の腕が危険なことを解りながらも、一度だけ、ピクリと身体を震わせたが、後退すること無く右腕を上げると振り下ろした。
蒼はその鬼の右腕の第二関節に、アンナの腕で手刀を食らわす。
まるでナイフでバターを切る様に、微かに光りながら鬼の右腕は切断され、空中に舞う。
「アンインストール」
素早く、蒼はアンナの腕を消して、宙を舞う鬼の切り落とした右腕に、自分の短くなった右腕を向けて叫んだ。
「インストール、霧ヶ峰の鬼!」
その途端に、蒼の胴回りほど有りそうな、太い大きなその腕が、彼の右腕にくっ付く。
蒼は霧ヶ峰の鬼の腕を獲ったのである。
霧ヶ峰の鬼は右腕を失ったが、直ぐに右腕が現れ元の姿に戻る。霊体とは本来、形を持っていない。だから粘土の様に形を変えることが出来る。しかし、神掛かった存在や、強力な霊力を持ったものは、有る程度は姿が決まっている。だから、霧ヶ峰の鬼も元に戻ったのだ。
蒼はその大きな右腕で鬼を一撃する。
自らの腕の一撃だ。
鬼は大きく足元を乱れさせよろめいた。
蒼はその腕を確かめる様に、何度も右手を開いたり閉じたりを繰り返してから、鬼に向って口元を緩める。
「アンインストール」
霧ヶ峰の鬼の腕が消える。
「ダウンロード、アンナ!」
再び現れたのは、鬼の右腕を簡単に切り裂いたアンナの腕。
霧ヶ峰の鬼は一歩、後退した。
鬼の本能が告げる。
あれに関わっては駄目だと、逃げろと告げる。
切られたから余計に解る。
あれに触られると消えてしまうと、魂が訴えかける。
霧ヶ峰の鬼はそれに従った。
走り彼から距離を開けようと一目散に山を降る。しかし、囲われた空間では逃げ切れない。
そこで鬼は思い出した。
二週間、口では美味いことを言いながらも、心では喧嘩を売っていた、餌になるだけの無力な人間。
そいつは言っていた。
『あなたが危なくなったら、私が助ける。だから、その時は私の式守神になりなさい』
それは正しく、藁にもすがる思いだった。
翠は荒い息のまま足を止めた。
後ろから救済を訴えかけてくる、霧ヶ峰の鬼。
助けてほしいのはこっちも一緒だし、あんな存在に自分が太刀打ち出来るとは微塵にも思わない。
しかし、翠は振り向いた。
最初はどんな犠牲を払っても、霧ヶ峰の鬼を式守神にしようと決めていた。
しかし、蒼が危なくなった時に、思わず砂那に早く霧ヶ峰の鬼を祓えと言ってしまった。
解っていた。
彼女にとって霧ヶ峰の鬼は、式守神になって守ってもらう存在では無く、祓い還す存在と見ていたからだ。
そう、心のどこかで翠は、本当はこの人を喰う霧ヶ峰の鬼を、人間の敵と見なしていたのだ。
だから、口で何を言っても霧ヶ峰の鬼は、答えてくれなかった。
しかし、それなら自分の身の危険を冒してまで助ける道理はない。
なのに翠は足を止め振り向いた。
それは、人間にとっての敵よりも、もっと大きなカテゴリーの敵が現れたから。
魂を持つ者の共通の敵が。
「私は上高井 翠! 名を、名を名乗れ!」
翠はこちらに向かってくる、霧ヶ峰の鬼に問いかけた。
彼女の頭の中に自分ではない、鬼からの思考が生まれる。
《我は霧ヶ峰の鬼》
「違う!」
直ぐ様、翠は否定する。
「神名を名乗れ!」
《――――――――》
その問いかけに、霧ヶ峰の鬼は躊躇したようだった。
しかしその間に蒼が近付いているのか、翠の鳥肌が大きくなる。
「時間が無い、早く!」
《――――祓戸狭霧神》
「よし! 祓戸狭霧神よ契約しよう。私、上高井 翠の式守神になると忠誠を誓え! ならば、この場から助けてあげる!」
《―――誓おう》
翠の目の前に現れた祓戸狭霧神は、膝をつき忠誠を誓うように頭を下げる。
「祓戸狭霧神が、私の式守神になることを許可する」
祓戸狭霧神は翠の後ろに回り込むと、ゆっくりと姿を消す。
そして、祓戸狭霧神を追っていた、蒼がその場に姿を現し、翠を見て驚いたように直ぐに右腕を自分の後ろに隠す。
翠は一言だけ呟いた。
「バケモノ!」
すいません、長く掛かってしまいました。
まだまだ不思議な蒼の技。真相を語るのはもう少しだけ先になります。ただ、この技についての掛け声が、疑問に思った方もいるでしょう。
それは、敵から腕を奪う時はインストール。
まぁ、解ります。
腕を出すときは、ダウンロード。
まぁ、これも解ります。
しかし、腕を消すとき、ダウンロードの反対なはずです。だから、本来ならアップロードが正しいのです。
でも、書いていて、
「アップロード!」
………アップロードね、アップロード。
なんか、消えなく思わない?
そう思い、アンインストールにしたわけです。だから、間違ったわけでは無いですよ。
まぁ、呼び方は蒼が勝手につけたので、言いやすいから取ったと思ってください。
あと、二話で奈良篇を終えるつもりです。長引いたらごめんなさい。では、次のあとがきで。




