新しい朝
わたしは目を開いた。
頭上には、あの時と同じような、不細工な月が浮かんでおり、辺りを黄色に染めている。
其処は、都会の真っただ中でも、街灯が少なく、月明かりはよく冴えた。
髪に風を感じて、空を眺め終え、それから自分の脚を見る。
少しだけ震えていた。
覚悟という言葉。
決断という言葉。
言葉でいくら誤魔化してもうまく行かないものだ。
――――やっぱり、少し怖い。
あぁ、それを恐怖と感じるほど、わたしは今まで、こんなにも頑張って生きていたんだ。
四 この地で抗うもの
太陽の眩しさか、夢のせいか、砂那はゆっくりと目を開けた。
薄っすらと現れる風景。
目に入ってくる天井や欄間が、いつもの自分の部屋ではないことを示していた。だから、初めはそこがどこだか解らなかった。
しばらく寝起きで動かない頭を整理をして、周りを見渡し、ようやくそこが自分の家の客間だと気付く。
どうしてこんな所で眠っていたのだろうと、混乱した頭のまま、側らに丸まっている黒猫を見て、それの背中を二度ほどなでてから、顔を横に動かせて部屋の隅を見た。
砂那に気を使ってだろうか、彼女から距離を置くようにして、部屋の隅の方で、蒼が横になっていた。
自分のカバンを枕にして、寝苦しそうに眉をしかめたまま、畳の上で眠っている。
その姿を見て、やっと昨夜の事を思い出した。
昨夜に、家の近所の空き地で行った、試しの五十囲いは、自分でも感心するほどあっさりと出来た。
多角の囲いを使う時の注意点は何点かあり、蒼が言ったように五十枚のお札を、地面に貼り付けるのもそうだが、もう一つ大変な事も有る。
それは、十六囲い位なら、諳で芒星を描けるが、それ以上になると難しくて描けない事だ。
熟練者になるまでは、使いたい芒星を紙に書いて持ち歩いていて、囲いを張るときにそれを指でなぞらないとキッチリと囲えない。
昔に砂那が行った三十二囲いの時も、先に地面に三十二芒星を描き、それを指でなぞった。
今回も先に紙に五十芒星書いてから行ったのだ。見た目は悪いが失敗はない。あとは術者自身に、その囲いを張るだけの霊能力があるかだけだ。
そして、どうやら砂那には、五十囲いを囲えるだけの霊能力があったようだ。
左手を差し出した砂那は、瞳を閉じ集中している。
五十囲いの細かい多角の結界から放たれる、青白い淡い光が、周りの草や砂利の様な小さな石ころを照らしだす。
四十八を超える囲いは大変だと聞かされていたのだが、過剰に言われていただけかもしれないと、自分で勝手に解釈して、五十囲いを囲い終えた砂那は、左腕を下げて後ろを振り向き蒼を見た。
彼は少し驚いた様子をしていたが、頭を振ると一つ頷いた。
「流石だな………、これなら明日は何とかなりそうだ」
そう言ってから少し拗ねたように唇を尖らせながら「なんで俺の周りには、才能の有るやつばかりいるんだよ」と、砂那に聞こえないように独り言を呟いていた。
それから客室に戻り、砂那は蒼のために用意されている布団の上に寝転がり、彼がこれまで解決して来たお祓いの話を聞いていたのだ。
砂那の周りには、祓い屋と呼べる人物は祖母の華粧だけで、自分が祓った以外の内容は、その華粧の話ぐらいしか情報がなかった。それも囲い師の内容ばかりだ。
しかし蒼の話は違った。
囲い師の話だけではなく、彼自身や、彼の上司に当たるベネディクトによる魔法使いの浄霊や、知り合いの壊滅師のお祓いの話。数の少ない言霊師の話など多種多様で、初めて聞く内容も多く楽しかった。
だから、もっと聞かせて欲しいと催促していたのだが、どうも途中から記憶がない。
それもそうだろう、昨日は八坂神社で十六囲いをして、その後に自分の力を知るため、使い慣れていない五十囲いなど、多角の囲いを使ったのだ。知らず知らずのうちに、精神も体力も限界が来ていてのだろう。
砂那はいつの間にか、蒼のために用意されていた布団を占領していたようだ。だから蒼は畳の上で眠るはめになった。
砂那はその占領した布団に寝転がったまま、ボーっと蒼の寝ている姿を眺めていた。
嫌な夢を見ていたはずだが、不思議といつもの胸の痛みや、一人で熟さなければならないっと言った焦りは湧いてこない。それどころか、わたしを認めてくれる人物がいると、安心感が湧き上がってくる。
砂那はそのまま、しばらく彼の寝顔を眺めていた。
蒼が少しけだるそうに肩に手を置き、首を曲げていると、白いカッターシャツの襟元を正しながら、砂那が玄関に現れた。
「準備は良いか?」
蒼は少しく口元を緩めてたずねる。
「えぇ、抜かりないわ」
砂那は蒼に向かって頷いた。
本日の砂那は、白いカッターシャツに、裾に青いラインの入った短い黒のスカート。オーバーニーソックスもスカートに合せてか黒だ。そして、相変わらずのロングコートは本日も健在で、こぐろ用にと、本人が昔に使っていた、肩から掛ける小さなポシェットを持っていた。
中身は揚げ物に使う竹串と、お札が入っていて、今回の五十囲いに使うようだ。
玄関を開けると、前庭の隅に咲いている、馬酔木の蜜を吸っていたメジロが驚き飛んでいく。その姿を目で追いながら、二人はそのまま空を見上げた。
昨夜まではあんなに晴れており、月明かりもきれいだったのに、本日は分厚い雲が空を覆っている。それに風が出てきて、気温も下がり涼しい。
「これは一雨来るかもしれないわね」
「あぁ、早めに片付けよう」
二人は敷地内の駐車場に向かい、停めてある自転車を押しながら道に出た。
そこで待っていたのは、蒼の上司にあたる、ベネディクトだった。
軽のワンボックス車を道のすみに停めて、腰に手を当た仁王立ちで、二人が出てくるのを待っていたようだ。
「遅いな、待ちくたびれたぞ」
別に待ち合わせをしていたわけでは無いのに、ベネディクトは文句を言う。
「ベネディクトさん?」
蒼は奈良に突然現れた上司に、目を見開き驚いた。昨夜に電話連絡した時も、こちらに来るとは聞いていなかったためである。
砂那のほうは突然現れた外国人と、驚いている蒼を何度も見比べ戸惑っている。
「来たんですか?」
「あぁ、わざわざ向こうの依頼を早く終わらせて、迎えに来てやったんだ、上司の暖かい恩恵を喜べ。なんなら絶賛してもいいぞ」
ベネディクトは楽しそうにそう述べるが、蒼は自分の上司の服装を見て短い溜息を吐いた。その服装から読み取るに、ただ迎えに来た訳では無いと悟ったからだ。
彼女は青を基調とした、自転車用のジャージを着ていた。
ベネディクトは砂那に向き直る。
「始めまして。君は折坂 砂那君かな。うちの社員の未国から話は聞いている。私は、合同会社アルクイン拝み屋探偵事務の、代表社員をやらせてもらっている、ベネディクト・アルクインという者だ。うちの未国がご迷惑をかけている」
ベネディクトはそう言うと、丁寧に頭を下げた。その様子に砂那は慌てる。
「あっ、初めまして、折坂 砂那です。蒼には…いえ、あの、えーっと、はる………あっ、んーっと、蒼さんにはお世話になってます」
砂那は蒼の苗字を呼びたかったのだが、初めから名前で呼んでいたので、どうしても出てこず、しどろもどろに成りながら、なんとか名前にさん付けをしてその場をごまかした。
その様子にベネディクトは微笑み頷いてから、砂那のシティサイクルの籠の中にある、カバンから見えた竹串やお札を見て、不思議そうに尋ねる。
「依頼は終わったと聞いていたが、何か祓うのか?」
その問いかけを聞いて、蒼は思いだす。昨夜、ベネディクトに電話で依頼を終了したと連絡してから、砂那を手伝うと決めたのだ。だからベネディクトには報告していない。
「いや、これは………」
蒼は思わず口ごもった。
別に悪いことをしている訳ではないのだが、依頼の延長上で、しかも料金を貰わず手助けしているので、なんとも後ろめたい。
それからベネディクトは、砂那に顔を向けると、「んっ?」と何かに気付いたように眼を細めてから、今度は意味ありげに蒼を見た。
その眼は説明を求めていたが、あえてそこには触れずに、蒼は今までの経緯を話し出す。
砂那の浄霊を手助けすることになり、霊関係の理由を探り、解決しようとしたが、そこに別の囲い師が関係していることが解り、祓い屋として来ている蒼では、これ以上は手出しできないと判断し、依頼を終わらせたこと。
ここまでは電話で、簡単ではあるが報告している。だから、ベネディクトも頷くだけだった。
そして、砂那の知り合いの翠が、篠田に付き添われ、暴れ神を式守神として憑いてもらう、契約の儀式を止める為、砂那が暴れ神を囲うのを手伝うことを伝えた。
「なんだか、妙なことになっているな」
それまで黙って聞いていたベネディクトは、簡単な感想を述べる。
「えぇ、それで、暴れ神が見返りを要求してくる可能性が高いため、祓おうと考えた訳です」
「なるほどな。しかし、トラブルは起こすなと忠告しておいたのに、ほんと、自分から厄介ごとに首を突っ込むのが好きな奴だ」
ベネディクトは呆れたように両肩を上げた。
「勝手なことをして、すいません」
「別に謝る必要は無い、お前が仕事を終わらせた判断は間違ってはいない。その終わった後のプライベートにまで口出しはしないさ」
今度はぶっきら棒にそう述べると、そこから砂那を見て楽しそうに付け加えた。
「しかし、お前にしては珍しく肩入れしているようだな。気にでも入ったのか?」
プライベートに口出ししないと言っておきながら、いきなりプライベートに口出ししてくるベネディクトはニヤケ顔だ。その顔に砂那は思わず身構える。
蒼はその台詞に否定もしなかったし、肯定もしなかった。ただ、少し考えたように斜め下を見ている。本人も他人に言われて初めて気付いた様子である。
「まぁ、いいさ」
ベネディクトは両手を上げてから、軽のワゴンから靴を取出し履きかえると、サイクリンググローブをはめはめながら砂那に話しかけた。
「こいつはな、目が肥えてるから、あまり囲い師を褒めないと思うが、君の事は認めている様だ」
それから軽のワゴンのリアの扉を開けると、車内に乗り込んでいく。
砂那は「そうですか」と納得した様に呟くが、実はよく解らなかった。
ベネディクトの言う目が肥えてるの意味が解らなかったし、蒼は良く自分を褒めてくれるのに、褒めないの意味も解らない。
「そんなことは無いです。すごい物は普通にすごいと褒めますよ」
思わず反論する蒼に、ベネディクトは車内から自転車を下ろしながら、こちらは呆れたように反論する。
「お前の場合、そのすごいと思う水準が高すぎなんだよ」
軽ワゴンから出てきたは、ベネディクトがいつも使っている、ひまわり色をしたロードバイクだ。
しかしいつもと違う所は、ボトルケージが二つに増やされ、小型の空気入れが付けられ、サドルの下に小さなサドルバックがつけられている箇所である。
多分サドルバッグの中身はチューブや、バンク修理の道具で、完全にツーリングで長い距離を走る装備だ。
ベネディクトはタイヤを指で押さえ、空気圧を調べてから、ハンドルの位置を確認して言葉をつづけた。
「まぁ、それでお前が判断したなら、今回の件は大丈夫だと思うがな」
普段なら、自分を信じてくれる嬉しい台詞なのだが、今は意図が有るように思え、素直に喜べなかった。
そして自転車から目を離し、ベネディクトは二人を見た。
「だから、私は手出しせず見守ることにしよう」
本人は上手くまとめたつもりだろうが、蒼はやっぱりかと溜息を吐いた。
「走りに行くのですね?」
自転車が絡むとこれだ。
最初からベネディクトは手出しする気も、手伝う気もなかったのだろう。だが、それは蒼を信頼してくれている証拠でもある。
「あぁ、少しだけに成りそうだがな」
そう言ってベネディクトは、残念そうに空を見上げた。
「降りそうですからね、気を付けてください。こっちは夕方までには終わらせますので、ベネディクトさんはそれまでゆっくりしてください」
蒼は、自分の空色のロードバイクに跨ると、砂那に向かって頷いた。砂那も自分の桜色のシティバイクに跨る。
「砂那、行こうか」
「えぇ、行ってきます」
砂那はベネディクトにたいして挨拶をする。ベネディクトは手を振って見送った。
それから、スマートホンを取り出すと、自転車用のアプリを起動させる。
奈良の自転車レースの、山岳グランフォンド吉野のスーパーロングコースを回ろうと考えていたのだが、どうやらそんな時間は無いらしい。
それは雨のせいでなく、あまりよろしくない名前を聞いたためだ。
ベネディクトは自転車用のアプリの地図を見ながら、今から走るルートを調べる。
「おっ、ちょうどいい山があるじゃないか」
顔をほこぼらせてそう言うと、まだ見える、蒼の小さくなっていく背中に対して呟いた。
「しかし、篠田とはね………なんだかんだと、お前とアイツは関わりがあるな」
ベネディクトのその自分の台詞に苦笑いして、自分のロードバイクに跨った。




