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EP 9

公爵様のサイン疲れは『魔法のシャチハタ』で解決! 〜一方、元婚約者は借金取りに包囲されていた〜

 大掃除と業務の仕分け(5S)によって、行政棟のフロアに平和が訪れた。

 今日中に決裁が必要な書類だけが収められた『赤いコンテナ』を公爵の執務室に運び込み、私とアレクセイ様は向かい合ってデスクに座った。

「よし、では一気に片付けてしまおう」

 アレクセイ様は気合いを入れるように頷くと、羽根ペンをインク瓶に浸し、私が内容をチェックして差し出した書類の末尾に、流麗なサインを書き込み始めた。

『Alexei von Vartburgアレクセイ・フォン・ヴァルトブルク』。

 貴族のサインとは、法的な効力を持たせるために、魔力をわずかに込めながら独特の崩し字で書く必要があるらしい。

 一枚、二枚、三枚……と、順調に決裁が進んでいく。

 しかし、三十枚を超えたあたりで、アレクセイ様のペンの動きが明らかに鈍り始めた。手首をさすり、小さく息を吐いている。

「アレクセイ様、手首が痛むのですか?」

「……情けない話だがな。魔力を込めながら長ったらしいフルネームを書き続けるのは、剣を振るうよりも手首と指の筋を消耗するのだ。かつては一日に百枚以上サインをして、腱鞘炎で剣が握れなくなったこともある」

 それを聞いて、私はハッとした。

 そうか、異世界には『アレ』がないのだ。現代日本のオフィスでは当たり前のように使われている、承認作業を劇的に短縮する魔法のアイテムが。

「アレクセイ様、ペンを置いてください。そんな非効率なアナログ作業で公爵様の腕を痛めるなど、私の『事務員としての美学』が許しません」

 私はすかさず【善行通販システム】を空中に展開した。

 現在の残高は四十万ポイント以上ある。私は迷わず『オーダーメイド・オフィス用品』のカテゴリーを開き、一つの商品を設計して注文した。

【特注品:魔力認証式・自動インク内蔵型決裁印(通称:魔法のシャチハタ)――10,000P】

 ポンッ、という音と共に、私の手のひらに、黒い円筒形のスタイリッシュなハンコが現れた。

「ヒカリ、それはなんだ? 小さな筒に見えるが」

「これは『決裁印』という道具です。アレクセイ様、少しだけ指先に魔力を込めて、この筒の持ち手の部分を握ってみてください」

 言われるがまま、アレクセイ様がハンコを握る。

 その瞬間、ハンコの中央に青い魔力のラインが走り、『マスター登録を完了しました』という微かな機械音が鳴った。

「な、なんだ? 今、この筒が私の魔力を吸ったぞ」

「これで準備完了です。さあ、この未処理の書類の署名欄に、その筒の底をポンッと押し当ててみてください」

 アレクセイ様は半信半疑のまま、書類の端にハンコを押し当てた。

 ――カシャン。

 軽いバネの音と共に、紙の上に鮮やかな青いインクで、アレクセイ様のサインと、ヴァルトブルク公爵家の紋章が完璧なバランスで印字された。

「なっ……!?」

 アレクセイ様は目を剥き、ハンコの印面と書類を二度見、三度見した。

「インク瓶につけてもいないのに、なぜ印字される!? それに、このサインから微かに私の魔力の痕跡シグネチャを感じるぞ!?」

「内部にインクが内蔵されているので、連続して一万回は押せます。さらに、アレクセイ様の魔力を認証して印字するため、他の人間が使ってもただの黒いシミにしかなりません。つまり、偽造不可能な完璧な決裁印です」

 私が胸を張って説明すると、アレクセイ様は震える手でもう一枚の書類にハンコを押し当てた。

 カシャン。カシャン、カシャン。

 これまで一枚のサインに十秒かかっていた作業が、わずか一秒に短縮された。しかも、手首への負担はゼロである。

「……神の、御業だ」

 アレクセイ様はハンコを両手で包み込むように持ち、まるで聖遺物を崇めるような目でそれを見つめた。

「こ、これを量産してギデオンたちにも持たせれば、領地の決裁スピードは数十倍に跳ね上がる……! ヒカリ、君は本当に、この世界を根本から変えてしまう気か!」

「ふふっ、まずは公爵領の業務改革からです。さあ、その調子で残りの七十枚もポンポン押しちゃってください!」

 カシャカシャカシャカシャッ!

 軽快なスタンプ音が執務室に響き渡り、本来なら夕方までかかるはずだった『赤いコンテナ』の決裁は、なんと午後三時前には全て完了してしまったのだった。

 ***

「はぁ〜、終わった! お疲れ様でした!」

「ああ。信じられん、まだ日がこんなに高いというのに、その日の仕事が全て片付いているなんて……」

 呆然とするアレクセイ様をよそに、私は休憩の準備を始めた。

 定時は午後五時だが、仕事が早く終わったなら有意義に休むのがホワイト企業の鉄則である。

 私はポイントを使って、美しい三段のケーキスタンドと、香り高いアールグレイの紅茶を召喚した。

「疲れた脳には糖分です。今日は『マカロン』というお菓子を用意しました。外はサクッと、中はしっとりしていて美味しいですよ」

「……ヒカリ。君がいれる茶は、どうしてこうも香りが良いのだろうな」

 アレクセイ様は紅茶を一口飲むと、ひどく優しい、蕩けるような目で私を見つめた。

 そして、淡いピンク色のマカロンを一つ手に取ると、自分の口ではなく、私の口元へと差し出してきた。

「えっ?」

「君も疲れただろう。ほら、あーん、だ」

「あ、あの、アレクセイ様? 手が汚れてしまうので、自分で……」

「いいから。君の頑張りに対する、私からの労いだよ」

 有無を言わさぬ、しかし熱を帯びた瞳で見つめられ、私は顔を真っ赤にしながら小さく口を開け、マカロンをかじった。

 サクッとした食感と、フランボワーズの甘酸っぱさが口いっぱいに広がる。

「……美味しい、です」

「そうか。それは良かった」

 私がかじった残りの半分を、なんとアレクセイ様はそのまま自分の口に放り込み、満足げに微笑んだ。

(ひ、ひぇぇ……っ! 異世界の貴族のスキンシップ、距離感がバグりすぎてる!)

 私は心臓をバクバクさせながら、冷や汗をかいた。

 まさかこれが「極めて強烈な独占欲と求愛行動」だとは夢にも思わず、私はひたすら「公爵様の部下に対するご褒美のハードルが高い」と勘違いし続けていたのである。

 執務室のドアの隙間から、その様子をこっそり覗き見していたギデオンとクラウスが、顔を見合わせていたことなど知る由もなく。

「……クラウス殿。我々は、本気で『公爵夫人』を迎える準備を進めた方が良さそうだな」

「ええ、ギデオン殿。閣下があんなに蕩けた顔をするなんて、明日は北の山脈が噴火するかもしれません」

「経費の予算枠を、結婚式用に大きく空けておくとしよう」

 有能な部下たちは、すでに主君の恋の行方を完全に察知し、バックアップの体制を整え始めていた。

 ***

 その頃。

 私が去ったバルトア伯爵領は、文字通り『地獄の底』に沈んでいた。

「持ってけ持ってけ! 売れるものは全部金に換えろ!」

「や、やめてくれ! その絵画は国宝級の……ああっ!」

 領主の館では、商人ギルドから雇われた無骨な傭兵たちが、土足で上がり込み、高価な調度品や絵画、果ては銀の食器に至るまで、次々と荷車に運び出していた。

 領地の財政を管理していた私が残した『引き継ぎ資料』を自ら燃やしてしまったエドワードは、誰にいくら借金があるのか、どこから税を徴収すればいいのかすら把握できず、あっという間に完全な債務不履行デフォルトに陥ったのだ。

 着の身着のままに近い、ヨレヨレの服を着たエドワードは、もぬけの殻となった執務室の床にへたり込んでいた。

 目の前には、白紙の羊皮紙と、インクの乾いた羽根ペン。

「なぜだ……どうしてこうなった……! 領地の経営など、適当な文官にやらせればすぐに回るはずだったのに!」

 適当な文官たちは、複雑怪奇な過去の取引履歴(私がすべて暗記と手計算で合わせていたもの)を読み解くことができず、次々と逃げ出してしまった。

 今や館に残っているのは、逃げ遅れた老齢のメイド一人だけである。婚約者だったマリアも、財産が差し押さえられた翌日には「貧乏人はごめんですわ!」と実家へ帰ってしまった。

「エドワード様……」

 老メイドが、憐れむような声で声をかけた。

「街で、妙な噂を聞きました。なんでも、北のヴァルトブルク公爵領が、長年の業務過多から劇的な回復を遂げたと。それも、突如現れた『実務の聖女』と呼ばれる凄腕の補佐官のおかげだそうです」

「……実務の、聖女?」

 エドワードの濁った目に、僅かな光が宿った。

「そうだ……! その聖女を引き抜けばいい! 北の野蛮な公爵領よりも、王都に近い我が伯爵領の方が魅力的だと言って、その聖女を雇い入れるんだ!」

 エドワードは狂気じみた笑みを浮かべ、立ち上がった。

「そうと決まれば、すぐに北へ向かうぞ! 残った馬をよこせ! その聖女さえ手に入れれば、私の領地は元通りになる!」

 彼が求める『実務の聖女』の正体が、自分が「地味で無能だ」と嘲笑い、無一文で追放した元婚約者のヒカリであることなど、今の彼が想像できるはずもなかった。

 自ら破滅の道を全力で逆走していることにも気づかず、エドワードは北の地へと旅立とうとしていた。

 ***

「ここが、今日から君の部屋だ」

 午後五時。きっちり定時で仕事を終えた私は、アレクセイ様に案内されて、本邸の居住エリアへとやってきた。

 重厚な扉を開けた瞬間、私は「ひゃっ」と変な声を上げてしまった。

 広大な部屋には、王族が使うような天蓋付きのふかふかのベッド。床には足が沈み込むほどの高級絨毯。そして、専用の広々とした大浴場まで完備されている。

「あ、あの……アレクセイ様? ここ、豪華すぎませんか? 一介の補佐官が使う部屋ではないような……」

「何を言う。君は私の恩人であり、この領地の至宝だ。これでもまだ足りないくらいだよ」

 アレクセイ様は私の肩にそっと手を置き、甘く囁いた。

「ちなみに、この隣の部屋は私の寝室だ。夜中に何か困ったことがあれば、壁を叩いてくれればすぐに駆けつけるからな」

「……え? と、隣……!?」

 公爵様の寝室の隣=つまり正妻や愛妾の部屋ではないのか、と一瞬脳裏をよぎったが、私はすぐに首を振ってその考えを打ち消した。

(違う違う! これはきっと、緊急の書類対応があった時にすぐ呼べるようにっていう、社長室と秘書室が隣接してるアレよ! 究極の職住接近ね!)

 前世の社畜根性が、見事に真実から目を背けさせる。

「ふふっ、ありがとうございます。今日からしっかり休んで、明日もバリバリ働きますね!」

「……ああ。おやすみ、私のヒカリ」

 アレクセイ様は優しく微笑むと、私の髪にそっと口付けてから部屋を後にした。

 フカフカのベッドにダイブし、私は枕を抱きしめて足をバタバタとさせた。

 定時退社! 完全個室! 最新のオフィス設備(通販)!

 私の『最強ホワイトバックオフィス生活』は、控えめに言って、最高すぎるスタートを切ったのだった。

読んでいただきありがとうございます。

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