EP 10
完璧なホワイト職場には『福利厚生(癒やし)』が必要です! 〜そして勘違いした元婚約者がやってきた〜
ヴァルトブルク公爵邸での、筆頭政務補佐官としての初めての朝。
極上の羽毛布団から這い出した私は、専属のメイドさんに手伝ってもらいながら、公爵家が用意してくれた真新しい執務服へと袖を通した。
上質な紺色の生地に、銀糸で控えめな刺繍が施されたドレスは、動きやすさと気品を兼ね備えており、私のテンションを大いに上げてくれた。
「おはよう、ヒカリ。よく眠れたか?」
「あ、アレクセイ様! おはようございます」
部屋を一歩出ると、そこにはすでにバッチリと着替えた漆黒の軍服姿のアレクセイ様が壁にもたれて待っていた。
わざわざ私の部屋の前で待っていてくれたらしい。朝から顔面偏差値が高すぎて直視できない。
「はい、とても快適でした。お気遣いありがとうございます」
「そうか。君が私のすぐ隣で眠っていると思うと、私は少しだけ……いや、なんでもない。さあ、行こうか。今日も君の腕に期待している」
アレクセイ様は私の手を取ると、エスコートするようにして行政棟へと向かった。
(公爵様自ら新入社員を案内してくれるなんて、なんてアットホームな職場なの!)と、私は一人で感動を噛み締めていた。
***
行政棟の執務フロアに入ると、昨日までの「ゾンビの巣窟」が嘘のように、活気に満ちた空気が広がっていた。
「よし、赤いコンテナの書類はすべて決裁に回せ! 青いコンテナの書類は午後イチで確認する!」
「ギデオン長官! 魔法の決裁印のおかげで、昨日の未処理分がすでに八割片付きました!」
「素晴らしい! この調子で一気に遅れを取り戻すぞ!」
文官たちは目を血走らせながら、凄まじいスピードで書類を処理していく。
昨日の大掃除(5S)と業務仕分け、そして『魔法のシャチハタ』の導入により、彼らの業務効率は劇的に向上していた。
しかし――私はフロアを見渡し、スッと目を細めた。
「皆さん、ストップです!」
私のよく通る声に、ギデオンをはじめとする文官たちがピタリと動きを止める。
「ヒカリ様、いかがなされましたか!? 書類の仕分けに何か不備が……!」
「違います。皆さんの働きぶりは完璧です。……ですが、完璧すぎるのが問題です。皆さん、朝から一度でも休憩を取りましたか?」
私の問いに、文官たちは顔を見合わせた。
「きゅ、休憩……? いえ、これほど仕事がスムーズに進むのが楽しくて、つい時間を忘れて……」
「駄目です! それは『効率化ハイ』という危険な状態です!」
前世でも、新しいツールを導入した直後は、みんな面白がって働きすぎてしまう傾向があった。
人間の集中力は長くは続かない。適度な休憩を挟まなければ、午後からのパフォーマンスが劇的に落ち、最終的には重大なミス(インシデント)を引き起こす。
「真のホワイト職場たるもの、『福利厚生』と『癒やしの空間』は必須です。今からこのフロアの奥を、皆さんのための『リフレッシュルーム』に改装します!」
私は宣言すると同時に、【善行通販システム】を起動した。
公爵領の完全正常化で得た莫大なポイントがある。惜しむ場面ではない。
【最新鋭・全身AIマッサージチェア(無重力モード搭載)×3台:90,000P】
【極上カフェサーバー(20種類のドリンク対応)&専用カップセット:15,000P】
【高級オフィス用・置き菓子ボックス(甘味・塩味・無限補充機能付き):10,000P】
合計11万5千ポイントを消費。
ポンッ、ポンッ、ポンッ! という音と共に、フロアの奥の空きスペースに、黒光りする巨大な椅子が三脚と、洗練されたデザインのドリンクサーバー、そしてお菓子が山盛りになったガラスケースが出現した。
「なっ……ヒカリ様、あの黒い拷問器具のような椅子は一体!?」
「拷問器具じゃありません! ギデオンさん、ちょっとそこに座ってみてください」
おっかなびっくりマッサージチェアに腰を下ろしたギデオンの背中を、私はポンと押した。
「スイッチ、オン!」
『ウィィィン……体型をスキャンします……コリの重点箇所を特定……マッサージを開始します』
「ひっ!? 椅子が喋っ……あ、あああ……っ!?」
機械のローラーがギデオンのガチガチに固まった肩甲骨の隙間に入り込み、熟練の整体師のような絶妙な力加減で揉みほぐし始めた。
「ああっ……そこっ! そこですぞぉぉぉっ! あ、ああ〜〜〜っ、昇天してしまいそうですぞぉぉっ!」
ギデオンはだらしなく口を開け、文字通り骨抜きになって椅子に沈み込んだ。
「ほら、他の皆さんも順番に座ってください! 待っている間は、こちらのカフェサーバーで好きな飲み物を淹れて、お菓子を食べてリラックスすること! これは業務命令です!」
「「「うおおおおおっ!! ヒカリ様、万歳!!」」」
コーヒーやココア、抹茶ラテの甘い香りがフロアを満たし、文官たちは涙を流しながらマッサージチェアとお菓子ボックスの前に列を作った。
その光景を満足げに眺めていると、背後からアレクセイ様がそっと近寄ってきた。
「見事な統率力だな、ヒカリ。彼らがこれほど嬉しそうにしている顔は、何年ぶりに見るだろうか」
「ふふっ。アレクセイ様も、後で必ずマッサージチェアに乗ってくださいね。公爵様が率先して休まないと、部下も休みづらいですから」
「ああ、君の淹れてくれたコーヒーと共に楽しませてもらうよ」
アレクセイ様は甘い声でそう言うと、私の頭をポンポンと優しく撫でた。
完璧な効率化と、至れり尽くせりの福利厚生。バルトア伯爵領での過酷な日々が嘘のように、私の心は穏やかな充実感で満たされていた。
***
――時を同じくして。
ヴァルトブルク公爵領の入り口、要塞都市イーゼングラードの巨大な正門の前に、一匹の痩せこけた馬に乗った男が到着していた。
「はぁ……はぁ……っ、ようやく、着いたぞ……!」
泥だらけの服に、無精髭を生やした落ち窪んだ目の男――エドワード・フォン・バルトアである。
彼は金目のものをすべて借金取りに奪われ、なけなしの小銭で買ったボロボロの馬で、数日かけてここまで辿り着いたのだ。
「止まれ! 何者だ!」
門番の衛兵が鋭く槍を突きつける。
「無礼者! 私はバルトア伯爵家次期当主、エドワードである! この領地で『実務の聖女』と呼ばれている凄腕の補佐官を迎えに来た! すぐに私を案内しろ!」
「はあ? バルトア伯爵……? それに実務の聖女だと?」
衛兵たちは怪訝な顔を見合わせたが、相手が(一応は)貴族であることを考慮し、彼を本邸の行政棟の受付へと案内することにした。
エドワードは衛兵の後ろを歩きながら、ニヤリと歪んだ笑みを浮かべていた。
(ふん、こんな雪と岩ばかりの辺境の地など、優秀な人材が長居する場所ではない。私が『王都に近い我が伯爵領で、最高の待遇を用意する』と言えば、その聖女とやらも喜んで私の足元にひれ伏すはずだ……!)
自分の領地がすでに破産状態であることなど棚に上げ、エドワードは根拠のない自信に満ち溢れていた。
やがて、衛兵に連れられて行政棟の分厚い扉の前に到着する。
「ここが行政棟のフロアだ。お前が探している『聖女』とやらも、ここにいるはずだが……」
「ご苦労。下がってよいぞ」
エドワードは傲慢な態度で衛兵を追い払うと、居住まいを正し、バァン! と勢いよく扉を開け放った。
「北の地でくすぶっている『実務の聖女』よ! このバルトア伯爵次期当主たる私が、直々に迎えに来てやったぞ! 感謝して……」
高らかに宣言しながらフロアに足を踏み入れたエドワードの言葉は、そこでピタリと止まった。
彼が想像していたのは、書類の山に埋もれて苦労している年老いた賢者か、あるいは野心に燃える若き文官の姿だった。
しかし、目の前に広がっていたのは、黒い謎の椅子で「あ〜〜〜っ」とだらしなく昇天している初老の男と、マグカップを片手に談笑する文官たち。
そして、その中心で――。
「……え?」
エドワードの視線が、一人の女性に釘付けになった。
美しい紺色のドレスを身にまとい、氷の魔王と恐れられるヴァルトブルク公爵その人と、親しげに笑い合いながらコーヒーを飲んでいる女性。
「あっ。あなたは……エドワード様?」
その女性――ヒカリが、彼に気づいて目を丸くした。
「ひ……ヒカリ……!? な、なぜ、お前がこんなところにいるんだ!? 追放されて野垂れ死んだのでは……いや、それより聖女はどこだ! 私には実務の聖女が必要なんだ!」
混乱の極みに達し、唾を飛ばしながら叫ぶエドワード。
その醜態を冷ややかに見下ろしながら、マッサージチェアから立ち上がったギデオンが、呆れたような声で告げた。
「何を寝言を仰っているのですか。貴方の目の前にいらっしゃるその方こそが、我が領地を救った至宝。ヒカリ様こそが『実務の聖女』その人ですぞ」
「…………は?」
エドワードの脳が、完全に思考を停止した。
自分が無能だと罵り、屋敷から追い出した地味な女。それが、自分が今最も喉から手が出るほど欲している『救世主』と同一人物だったという、取り返しのつかない絶望的な事実。
リフレッシュルームの甘いコーヒーの香りに包まれながら、エドワードは膝から崩れ落ちたのだった。
読んでいただきありがとうございます。
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