EP 6
あまりにもホワイトすぎる雇用条件と、崩壊する元婚約者の領地
「……閣下ぁぁぁっ! 生きておられますか、閣下ぁぁっ!!」
翌朝。案内所の扉が乱暴に蹴り開けられ、悲痛な叫び声と共に一人の青年騎士が転がり込んできた。
銀色の鎧をガチャガチャと鳴らし、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにした彼は、部屋の奥の休憩室へと一直線に飛び込んでくる。
「ああ、神よ! どうか閣下の命だけは……って、あれ?」
青年騎士は、休憩室の光景を見てピタリと硬直した。
そこには、死体となっているはずの主君――アレクセイが、青白い顔色から一転、血色の良い爽やかな表情で、見慣れぬ黒い液体を優雅に啜っている姿があったからだ。
「騒々しいぞ、クラウス。朝から大声を出して、ヒカリ嬢が驚いているではないか」
「か、閣下……? その顔色、それにそのスッキリとした目元……! まさか、遂に過労で限界を超え、天に召される直前の走馬灯……!?」
「失礼なことを言うな。私はこれまでの人生で、今が最も健康で頭が冴え渡っている」
アレクセイは呆れたように息を吐くと、クラウスと呼ばれた青年騎士――おそらく彼の側近なのだろう――に、部屋の隅を顎でしゃくった。
クラウスの視線がそちらへ向かい、次の瞬間、彼の目玉がこぼれ落ちそうなくらいに見開かれた。
「なっ……なんですか、あの美しく整頓された書類の山は!? 『承認済み』『保留』『差し戻し』と、完璧にラベリングされている!? 閣下が半月かけても終わらないと仰っていた、あの絶望の山脈が、たった一晩で!?」
「ああ。すべて、そこにいるヒカリ嬢がやってくれた。彼女は私の命の恩人であり、このヴァルトブルク公爵領を救った最大の功労者だ」
アレクセイの紹介を受け、私は椅子から立ち上がって軽く会釈をした。
「初めまして。通りすがりの事務員、ヒカリと申します」
「おおおお……っ! 女神様! 我が公爵領に舞い降りた、実務と経理の女神様ァァッ!」
クラウスは文字通り床にスライディング土下座を決め、私の足元でワアワアと泣き始めた。
「ありがとうございます、ありがとうございます! 閣下が過労死したら、残された我々はどうやってこの巨大な領地を回せばいいのかと、毎晩胃薬を飲んでおりました! 貴女は救世主です!」
「え、ええと……とりあえず顔を上げてください」
優秀なトップが過労で倒れれば、下で働く人間も当然地獄を見る。彼のその悲痛な叫びに、前世の同僚たちの顔が重なり、私は深い同情を覚えた。
「クラウス、お前の感謝の言葉など後でいい。それよりもヒカリ嬢、先ほどの『雇用条件』の話だが」
アレクセイはクラウスを冷たくあしらうと、真剣な眼差しで私に向き直り、一枚の羊皮紙を差し出した。
「君の能力に対する、私からの正式なオファーだ。確認してほしい」
私は受け取った羊皮紙に目を通した。
そして、三秒後。私は思わず二度見、いや、三度見をした。
【雇用契約書】
一、職位:公爵付・筆頭政務補佐官
一、月給:白金貨十枚(※賞与は年三回、各白金貨五枚を保証する)
一、休日:週休二日制を絶対とする。加えて、年三十日の有給休暇を付与する。
一、待遇:公爵邸内に完全個室(専用の浴室・書斎付き)を用意。三食は専属の料理人が提供。衣服・日用品にかかる経費はすべて公爵家が負担する。
一、特記事項:業務時間は午前九時から午後五時までとし、残業は一切禁ずる。
「……あの、公爵様?」
「アレクセイでいい」
「アレクセイ様。この『白金貨十枚』というのは、私の計算が間違っていなければ、王都の高級官僚の『年収』を軽く超えている気がするのですが」
白金貨一枚で、平民の家族が一年遊んで暮らせる額だ。それが月給十枚? 前世の日本円に換算すれば、月収数千万円という狂気の沙汰である。
「君の処理能力と、もたらす利益を考えれば当然の額だ。むしろ安いくらいだが、足りないか?」
「いやいやいや! 多すぎます! それに週休二日制で残業禁止って……私、前世から含めてそんな好待遇で働いたことないんですけど!?」
「前世がどうであったかは知らないが、私の下で働く以上、君の健康と精神の安定は領地の最重要課題だ。私が君を絶対に守り抜く」
アレクセイの青い瞳は、冗談を言っているようには全く見えなかった。
無報酬、休日なし、感謝なし。それが当たり前だった私の人生に、突如として舞い降りた『超ホワイト企業』の圧倒的な福利厚生。
「……っ、うぅ……」
「ヒ、ヒカリ嬢!? なぜ泣いている!? やはり条件が不満だったか。ならば城を一つ君の名義に……」
「違います、嬉し泣きです……! こんなに正当に、私の裏方の仕事を評価してくれた人は初めてで……っ!」
私は羊皮紙を胸に抱きしめ、ボロボロと涙をこぼした。
前世で報われずに死んだ私への、これは神様からの最高のご褒美なのだ。
「喜んでお受けいたします、アレクセイ様。私、一生ついていきます!」
「……ああ。絶対に、後悔はさせない」
私の言葉を聞いたアレクセイは、ふっと相好を崩し、酷く優しく、そしてどこか独占欲に満ちた暗い熱を孕んだ瞳で微笑んだ。
***
その頃。
ヒカリを追放したエドワードの治める、バルトア伯爵領の中心都市。
領主の館の執務室には、エドワードの怒号と、物が壁に投げつけられて砕ける音が響き渡っていた。
「どういうことだ!! なぜ王都からの冬の備蓄物資が一つも届かない! 金は払ってあるはずだろうが!」
エドワードは目を血走らせ、目の前に立つ初老の男――王都最大の商人ギルドのギルドマスター、ギュンターを怒鳴りつけた。
しかし、ギュンターは冷ややかな目でエドワードを見据え、分厚い帳簿の束を机に叩きつけた。
「金? エドワード様、寝言は寝てから仰ってください。バルトア伯爵領からの支払いは、今月に入ってから完全に停止しております。……それどころか、先月までの『前払い金』の帳尻すら合っていない状況です」
「な、なんだと!? 馬鹿な、帳簿を見ろ! 我が領地は豊かだ!」
「その帳簿のどこに、正確な数字が書かれているのですか?」
ギュンターが突きつけた帳簿は、日付も数字もバラバラで、計算ミスだらけの酷い代物だった。
ヒカリがいなくなってから、エドワードが適当な文官に作らせたものだ。
「これまで我がギルドがバルトア伯爵家と優先的に取引を行ってきたのは、他でもない『ヒカリ様』という極めて優秀な管理者がおられたからです。ヒカリ様の作成される支払い計画書と在庫管理表は一寸の狂いもなく、我々商人に絶対の安心感を与えてくれました」
ギュンターは、忌々しそうにエドワードを睨みつけた。
「しかし、今のバルトア伯爵領はただの泥舟です。倉庫の在庫も把握できておらず、発注書の書式もデタラメ。おまけに冬に向けた融資の担保書類すら提出されていない。……本日をもって、商人ギルドはバルトア伯爵家との全取引を停止いたします」
「ま、待て! 取引停止だと!? それでは領民が冬を越せない!」
「それは、管理能力のない領主様の責任でしょう。我々も慈善事業ではありません。これまでの未払い金に関しましては、この館の美術品や領地の税収から強制的に差し押さえさせていただきます」
ギュンターが指を鳴らすと、屈強な傭兵たちが次々と執務室に入り込み、高価な壺や絵画を運び出し始めた。
「や、やめろ! それは私が買ったものだぞ!」
「キャアアアッ! 何をしているのよ、汚い手で触らないで!」
悲鳴を上げて執務室に駆け込んできたのは、真紅のドレスを着たマリアだった。
彼女は運び出される宝石箱を見て、顔を真っ赤にしてエドワードに詰め寄った。
「エドワード様! どういうことですの!? わたくしに毎晩夜会で新しいドレスを買ってくださると約束したではありませんか!」
「マ、マリア……今はそれどころじゃないんだ! 少し我慢してくれ!」
「我慢!? 冗談じゃありませんわ! お金もない、領地も貧乏になるような無能な男の妻になるなんて、絶対に嫌です! わたくし、実家に帰らせていただきます!」
マリアはエドワードの顔に扇子を投げつけると、ドレスの裾を翻して足早に部屋を出て行ってしまった。
「ま、待ってくれマリア! ……くそっ、どうしてこんなことに!」
エドワードは頭を抱え、床に崩れ落ちた。
彼の脳裏に、数日前の夜会の光景が蘇る。
『……業務? お前が部屋でやっていたおままごとなど、明日から私が適当な文官にでもやらせる』
自分が高笑いしながら放ったその言葉が、今になって鋭い刃となって自分の首を絞め上げている。
ヒカリがやっていたのは「おままごと」などではなかった。彼女は、この広大な領地の血液とも言える『物流と金』の流れを、たった一人で、無休でコントロールしていたのだ。
「ヒカリ……。そうだ、ヒカリを連れ戻せばいい! あいつに謝って、もう一度書類を作らせれば……!」
エドワードは這いつくばるようにして立ち上がり、かつてヒカリが使っていた薄暗い執務室へと駆け込んだ。
しかし、部屋の中はもぬけの殻だった。
机の上には何も残されておらず、唯一、暖炉の中に、彼自身が数日前に投げ捨てた『完璧な引き継ぎ資料』の焼け焦げた表紙だけが、虚しく転がっていた。
「あ……ああ……っ」
すでに灰となった領地の生命線を前に、エドワードは絶望の叫び声を上げることしかできなかった。
彼が自らの手で全てを壊し、破滅の運命を決定づけたことに気づいたのは、あまりにも遅すぎたのである。
***
『ピロリン♪』
【ヴァルトブルク公爵領の中枢機能を正常化させた功績により、善行ポイント:300,000Pを獲得しました】
【現在の残高:416,700P】
村の案内所の前。
豪華な装飾が施された、公爵家専用の大型馬車の前で、私の脳内に景気の良い電子音が響き渡った。
(三十万ポイント……! これで、いざという時の防衛装備や、最新の家電だって買えちゃうわね)
私はホクホク顔で、馬車のふかふかの座席に乗り込んだ。
膝の上では、子狐モードのコハクが、さっきポイントで買ってあげた高級カステラを幸せそうに頬張っている。
「ヒカリ、乗り心地は悪くないか? もし揺れるようなら、サスペンションの魔法を二重にかけ直させるが」
向かいの席に座るアレクセイが、私の様子を気遣うように声をかけてきた。
「いえ、とても快適です。ありがとうございます、アレクセイ様」
「そうか。……これからは、君が私の領地を支える要になる。王都の本邸に着いたら、まずは最高の仕立て屋を呼ぼう。君にふさわしい、美しいドレスが必要だからな」
アレクセイはそう言って、私の髪を一房すくい上げ、そっと口付けを落とした。
そのひどく自然で、けれど熱を帯びた仕草に、私は思わず顔を赤くする。
(なんだか、思っていた『事務員』の扱いと少し違うような気がするけど……)
まあ、お給料も高くて休みもある超ホワイト企業なのだ。これくらいのスキンシップは、西洋風の異世界特有の挨拶だと思って受け入れておこう。
ガタゴトと、馬車が動き出す。
向かう先は、この国の北方を統べるヴァルトブルク公爵領の中心地。
窓の外に広がる澄み切った青空を見上げながら、私は前世と今世の呪縛から完全に解き放たれた、新しく輝かしい日々に胸を躍らせていた。
――私の『最強バックオフィス・スローライフ』は、まだ始まったばかりだ。
読んでいただきありがとうございます。
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