EP 5
魔法の鞄から出てきた絶望的な書類の山は、極上のコーヒーと共に処理しましょう
「……信じられん。本当に、私がサインをするだけで全ての決裁が完了するように整えられているのか」
案内所の奥の休憩室。
ベッドから身を起こした漆黒の外套の男――アレクセイは、私が差し出した書類の束をパラパラとめくりながら、呆然とした声を出した。
「ええ。王都のギルドが求めているフォーマットの必須項目と、この村の在庫状況を照らし合わせて、足りない数字は過去の取引履歴から逆算して埋めておきました。赤い付箋のところに署名をいただければ、法的に何の不備もありません」
「……」
アレクセイは無言のまま、備え付けの羽根ペンを手に取り、赤い付箋が貼られた箇所に次々と流麗なサインを書き込んでいく。
本来なら、一行一行内容を精査し、数字の矛盾に頭を抱え、関係各所に裏付けを取るために何日もかかるはずの作業だ。それが、ただ『サインをするだけ』の単純作業にまで圧縮されている。
最後の書類にサインを終えたアレクセイは、ふう、と深く息を吐き出した。
「素晴らしい。君の言う通り、これで村の物流を再開させるための手続きは完了だ。……君にはどれだけ感謝してもしきれない」
「いえ、お気になさらず。私も昔、こういう『上流の詰まり』のせいで現場が地獄を見る案件を腐るほど……コホン、たくさん経験しておりますので」
前世のブラック商社での記憶がフラッシュバックしそうになり、私は誤魔化すように咳払いをした。
書類の内容から推測するに、目の前にいるこの美形でお疲れの男性は、間違いなくこの領地を治めるトップ――つまり、公爵閣下ご本人だろう。
「それで、公爵様」
「……身分がバレていたか」
「あれだけの決裁権限を持つ方の名前が、書類にデカデカと書かれていれば嫌でもわかります。……で、本当は『まだ』あるんですよね?」
私がジト目で彼を見つめると、アレクセイはビクッと肩を揺らした。
「なぜ、それを」
「さっきの書類は、あくまで『この村の物流』に関する緊急のものだけでした。でも、公爵様のその尋常じゃない目の下の隈と疲労具合……どう考えても、慢性的なオーバーワークです。他にも抱え込んでいますね?」
前世で何人もの『過労死寸前の営業マン』を見てきた私の目は誤魔化せない。
アレクセイは観念したようにため息をつくと、腰に下げていた小さな革袋――おそらく空間収納の魔法具――を外した。
「……君の言う通りだ。王都の派閥争いの煽りを受け、本来なら国が処理すべき煩雑な事務手続きの大部分が、私の領地に押し付けられている。文官も足りず、私が視察の合間に処理しているのだが……」
アレクセイが革袋の口を開けて逆さにすると、ドササササッ! という雪崩のような音を立てて、大量の羊皮紙や束ねられた書類がベッドの上に山を作った。
その量、ざっと見積もって段ボール五箱分。
「うわぁ……」
「むにゃ……主、なんかヤバい匂いがする……」
部屋の隅で丸くなっていたコハクが、書類の放つ『負のオーラ』に目を覚まして顔をしかめる。
「これを全て処理しない限り、領地全体の物流や来年度の予算編成に致命的な遅れが出る。だが、私の処理速度でもあと半月は不眠不休で……」
「よし、巻き取りましょう」
「……は?」
「手伝いますって言ってるんです。二人でやれば、明日の朝には終わります」
私は腕まくりをして、書類の山に手を伸ばした。
不思議なものだ。前世では他人の仕事を押し付けられるのがあんなに嫌だったのに、今は『システム化されていない非効率な書類の山』を見ると、私の営業事務としての血が、それを完璧に整理整頓したくてウズウズしてしまうのだ。
「馬鹿な、君にこれ以上の負担をかけるわけにはいかない! それに、これは領地の機密も含まれる……」
「これだけ疲労困憊の公爵様を見捨てて、のんびり寝ていられるほど私の神経は太くありません。それに機密と言っても、数字の羅列ですよね。私はただの計算機だと思ってください」
有無を言わさぬ私の態度に、アレクセイは圧倒されたように口を閉じた。
「まあ、徹夜の作業を始める前に、まずは『ガソリン』を入れましょう。脳に栄養を送らないと計算ミスが出ますからね」
私は【善行通販システム】を起動し、ポイントを消費した。
【極上ドリップコーヒー(深煎り・保温ポット入り):800P】
【老舗洋菓子店の濃厚バターパウンドケーキ:1,500P】
テーブルの上に、湯気を立てる黒い液体が入ったマグカップと、分厚くスライスされた黄金色のパウンドケーキが現れる。
「これは……?」
「私の故郷の飲み物で『コーヒー』と言います。眠気覚ましと集中力アップに劇的な効果がありますよ。ケーキと一緒にどうぞ」
アレクセイは警戒しつつも、コーヒーの芳醇で香ばしい香りに引き寄せられるようにマグカップに口をつけた。
「……っ!!」
一口飲んだ瞬間、アレクセイの青い瞳が見開かれた。
強い苦味の奥にある、研ぎ澄まされた深いコク。異世界には存在しない、現代の焙煎技術の結晶が、魔法で疲弊しきっていた彼の脳髄を強烈に刺激する。
「なんだこれは……頭の中の霧が、嘘のように晴れていく……! それに、この菓子は……!」
続けてパウンドケーキを一口食べたアレクセイは、完全に言葉を失った。
たっぷりのバターと上質な砂糖が織りなす、暴力的なまでの甘さと旨味。過労で枯渇していた糖分が細胞の隅々まで染み渡り、彼の中に『生きる活力』が爆発的に満ちていく。
「やだ公爵様、泣きそうな顔して食べてるじゃないですか。よっぽど美味しいんですね」
「うみゃい! 主、このケーキ神だよ! もっとちょうだい!」
いつの間にかちゃっかりケーキのおこぼれをもらっているコハクの頭を撫でながら、私はニッコリと笑った。
「さあ、脳に糖分とカフェインが行き渡ったところで、作業開始です!」
そこからの私の動きは、我ながら神懸かっていたと思う。
システムで『ホッチキス』『三色ボールペン』『クリアファイル』などの現代オフィス用品を召喚し、魔法のような速度で書類を分類していく。
「公爵様、この書類の束は『承認』『保留』『差し戻し』の三種類に分けて、それぞれのクリアファイルに入れてください。ホッチキスで留めてあるものは絶対に外さないで」
「あ、ああ。わかった」
アレクセイも、私の指示の的確さと、見たこともない便利な道具(特にホッチキス)の性能に驚愕しながら、必死に食らいついてきた。
最初は私の処理速度に唖然としていた彼だが、さすがは公爵。持ち前の優秀な頭脳で私の意図を瞬時に理解し、二人の作業はみるみるうちに完璧なシンクロを見せ始めた。
私が数字を計算し、仕分けし、彼が決裁を下す。
無駄な会話は一切ない。あるのは、ただ紙がめくれる音と、時折すするコーヒーの音だけ。
――アレクセイにとって、それは人生で初めて味わう『至福の労働』だった。
いつもなら、無能な部下に基礎から説明し、間違いを指摘し、イライラしながら進める孤独な作業。それが今、目の前の少女は彼の思考を先読みし、彼が求める情報を最も美しい形で差し出してくれる。
背中を預けられる、絶対的な安心感。
(……素晴らしい。なんて心地よい時間なのだ)
アレクセイは書類にサインをしながら、チラリと横でペンを走らせるヒカリの横顔を見た。
派手さはないが、知性に溢れた真剣な眼差し。コーヒーのおかわりを注いでくれる、さりげない気配り。
彼の胸の奥で、かつてないほど強烈な『独占欲』と『庇護欲』がトグロを巻き始めていた。
***
数時間後。
窓の外が白々と明け始めた頃、ベッドの上を占領していた絶望的な書類の山は、綺麗に三つの山に分類され、全て処理が完了していた。
「……終わった。嘘だろう、たった一晩で……」
「お疲れ様でした、公爵様。これで領地の機能は完全に正常化するはずです。はい、最後のコーヒー」
「ありがとう」
アレクセイはコーヒーを受け取ると、疲労よりも達成感に満ちた顔で私を真っ直ぐに見つめた。
その視線の熱さに、私は少しだけ戸惑う。
「ところで、君の名前をまだ聞いていなかった」
「ヒカリです。先日から、色々あってただの平民になりました」
「そうか、ヒカリ」
アレクセイは私の名前を、まるで貴重な宝物の名前を呼ぶように、ゆっくりと口の中で転がした。
「ヒカリ。君の現在の雇用状況はどうなっている? もし特定の主を持たないのなら、今すぐ私の直属の……いや、私の傍に仕えてくれないか。君のその能力に、私が見合うだけのあらゆる対価を約束しよう」
氷の魔王と恐れられる冷徹公爵からの、実質的な引き抜き(プロポーズに近い何か)の言葉。
しかし、その時の私は、彼がそこまで重い感情を抱き始めていることなど知る由もなく。
「お給料と、お休みがちゃんともらえるなら、喜んで」
前世のブラック企業と、今世のクソ元婚約者の元での『無報酬・休みなし』の待遇から抜け出せるという純粋な喜びに、満面の笑みでそう答えてしまったのだった。
読んでいただきありがとうございます。
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