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EP 4

氷の魔王様は、深刻な栄養失調と睡眠不足のようです

「……この完璧な情報整理と、見慣れぬ物資の数々。これは、君がやったのか?」

 案内所の入り口に立つ、漆黒の外套を羽織った長身の男。

 泥と疲労にまみれてはいるものの、その男が放つ圧倒的な覇気と、氷のように冷たく鋭い青の瞳は、只者ではないことを雄弁に物語っていた。

 しかし、彼の視線は私自身ではなく、私の背後にあるホワイトボード――村の在庫状況と物流のボトルネックを可視化したフローチャート――に完全に釘付けになっていた。

「はい。村の状況が少々混乱していたので、私が持っていた物資を提供しつつ、情報を整理させていただきました」

「……信じられん。王都の優秀な文官数十人がかりでも、これほど簡潔で完璧な被害状況の把握はできなかったはずだ。君は、一体何者だ?」

「ただの、通りすがりの事務員です」

 私が淡々と答えると、男は信じられないものを見るように目を細め、一歩、こちらへ足を踏み出した。

「事務員だと? これほどの処理能力を持つ者が……?」

「あの、それよりもあなた」

 男がさらに近づいてきた瞬間、私の『営業事務としてのレーダー』がけたたましく警報を鳴らした。

 目の下に深く刻まれた、黒々とした隈。

 血の気が全くなく、透けるように青白い肌。

 立っているのが不思議なほどの浅い呼吸と、微かに漂う、胃液と強い薬草(おそらく眠気覚ましのポーションだろう)が混ざったような焦げた匂い。

(……あ、これ)

 間違いない。

 前世で、終わらない決算書類の山に埋もれ、三日連続で徹夜した末に過労死した『あの日の私』と、全く同じ顔だ。

「おい、マスター。こいつヤバいぞ。魔力の総量はバケモノ級だけど、生命力(HP)が完全に底をついてる。これ、立ってるだけで奇跡なレベルだぞ」

 足元のコハクが、小声で緊迫した声を上げる。

「あなた、最後にちゃんと睡眠をとって、温かい食事をしたのはいつですか?」

「……何を唐突に。私は辺境の状況を視察しに……っ!」

 男が反論しようと声を荒らげた瞬間。

 彼の大きな体が、まるで糸が切れた操り人形のようにグラリと揺れ、そのまま床に向かって崩れ落ちた。

「コハク!」

「おっとぉ!」

 コハクが瞬時に風の魔法を展開し、見えないクッションを作って男の体をフワリと受け止める。床に頭を打つことだけは避けられた。

「お嬢さん! その方は……!」

 村の役人たちが血相を変えて駆け寄ろうとするのを、私は手で制した。

「大丈夫です。ただの極度の過労と、深刻な栄養失調です。案内所の奥の休憩室を貸してください。すぐに処置をします!」

 私はコハクに男を浮かせてもらい、奥の部屋の簡素なベッドに彼を寝かせた。

 外套を脱がせ、首元のタイを緩める。近くで見れば見るほど、酷い有様だった。頬はこけ、脈は弱く、ひどい冷や汗をかいている。

 これほどの地位にありそうな男が、なぜここまで自分を追い詰めているのか。

(……人のこと、言えないけど)

 見ず知らずの他人のためにここまで働くなんて、よっぽど責任感が強いか、部下に恵まれていないか、あるいはその両方か。

 前世の自分と重なるその姿に、私は迷わず【善行通販システム】を起動した。

 現在の残高は、村を救ったことで得た150,000P。

 私は『医療・サプリメント』のカテゴリーから、現代日本の叡智の結晶である品を即座に発注した。

【超高純度・経口補水ゼリー(疲労回復・胃腸保護成分配合):2,000P】

【医療用アミノ酸&ビタミン総合サプリメント:5,000P】

【極上肌触り・疲労回復リカバリーウェア:15,000P】

 異世界のポーションは傷を治せても、蓄積された疲労と栄養不足までは根本的に解決できない。弱り切った胃腸に固形物を入れれば、最悪の場合ショックを起こす。

 必要なのは、体に負担をかけずに瞬時に吸収される『現代の栄養』だ。

「少し、失礼しますね」

 私は男の頭をそっと持ち上げ、ゼリー飲料のパウチを口元に運んだ。

 最初は警戒して歯を食いしばっていた男だったが、唇の隙間からひんやりとしたマスカット味のゼリーが流れ込むと、ビクッと体を震わせた。

 甘く、爽やかで、そして枯れ果てた砂漠に水が染み込むように、細胞の隅々まで行き渡る圧倒的な栄養の奔流。

 男は無意識のうちにパウチを吸い込み、あっという間に一つを飲み干してしまった。

「よし、いい子いい子。次はサプリメントのお水ですよ」

 私は前世で、熱を出した同僚の営業マンを介抱した時の手つきで、テキパキと栄養を補給していく。

 さらに、彼が着ていた泥だらけの服を魔法で簡単に洗浄し、その上から特殊な繊維で編まれた『リカバリーウェア(疲労回復毛布)』をしっかりと掛けた。

「ふぅ……これでひとまずは安心ね。あとはたっぷり寝るだけ」

「主、手際良すぎっしょ……。あの冷血そうな兄ちゃん、完全に赤ちゃんみたいになってるし」

「過労で倒れた人間は、みんな赤ちゃんと一緒よ。誰かが強制的に休ませないと、死ぬまで走っちゃうんだから」

 私はベッドの脇の丸椅子に座り、男の青白い顔に少しずつ赤みが戻っていくのを、どこか懐かしい気持ちで見守った。

 ***

 ――アレクセイ・フォン・ヴァルトブルクは、深い、本当に深い泥の底から浮上するように意識を取り戻した。

(……私は、どうしたのだ)

 重い瞼を開ける。見知らぬ木組みの天井。

 だが、すぐに異常に気がついた。

 いつもなら鉛のように重い体は羽のように軽く、常に脳を苛んでいた鈍い頭痛が綺麗に消え去っている。胃のむかつきもなく、むしろ心地よい温かさが全身を包み込んでいた。

 何年ぶりかわからないほどの、完璧で質の高い『休息』を終えた感覚。

「あ、気がつきましたか」

 横から聞こえた落ち着いた声に、アレクセイは弾かれたように身を起こした。

 ベッドの脇で、ランタンの灯りに照らされながら、分厚い書類の束を信じられない速度でめくっている紺色のドレスの女――先ほどホワイトボードの前にいた、あの『事務員』と名乗った女だ。

「君は……。ここは、案内所の奥か」

「はい。あなたは極度の過労と栄養失調で倒れたんです。丸一日、眠っていましたよ」

「丸一日だと!? 馬鹿な、私はすぐに王都に戻って手続きを……!」

 焦って立ち上がろうとしたアレクセイの肩を、ヒカリはペンの尻でトントンと軽く叩いて制止した。

「駄目です。三日は安静にしてください」

「ふざけるな、領地の物流が止まっているのだ! 私が書類に目を通し、ギルドと折衝しなければ、領民が……!」

「ああ、それなら私が巻き取って処理しておきました」

「……は?」

 ヒカリは机の上に積まれた書類の束を、トントンと綺麗に揃えてアレクセイに差し出した。

「村の役人に頼んで、差し止められていた書類の写しをもらいました。王都のギルドが要求している書式の不備をすべて修正し、優先順位別に仕分け済みです。あとは、あなたがこの『赤い付箋』の箇所にサインをするだけで、明朝には最速の早馬で発送できます」

 アレクセイは息を呑み、差し出された書類に目を通した。

 ……完璧だ。いや、完璧以上だ。

 複雑に絡み合っていた権利関係や数字の矛盾が、一目でわかるように付記され、誰が読んでも絶対に差し戻しが起きないレベルにまで昇華されている。

 自分が徹夜で三日かけても終わらなかったであろう絶望的な書類の山が、彼が眠っているたった一日の間に、この女の手によって完全に『処理』されていた。

「君は、これをたった一人で……?」

「ええ、まあ。徹夜の書類仕事は前世……いえ、昔から慣れていますので。それに、あんな非効率な書式を放置している上層部にも問題があります。ついでに業務改善フローの提案書も作っておきましたので、後で読んでおいてください」

 あっけらかんと言うヒカリを見つめながら、アレクセイの心臓が、今までとは全く違う理由で激しく早鐘を打ち始めた。

 王国最強の魔導軍を率い、『氷の魔王』と恐れられながらも、腐敗した王都の裏方作業をすべて一人で背負わされ、過労死寸前だった孤独な公爵。

 彼が人生で最も渇望していたのは、武力でも権力でもなく、自分の背中(実務)を完璧に任せられる、真に『有能な理解者』だった。

(……見つけた)

 差し出された温かいスープの香りに胃袋を掴まれながら、アレクセイの青い瞳に、暗く、そして強烈な『執着』の光が灯った瞬間だった。

読んでいただきありがとうございます。

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