EP 10
国境の限界集落は、M&A(買収)と温かい社員食堂によって胃袋から掌握されます
南部の荒野を、一台の巨大な馬車が土煙を上げて疾走していた。
いや、『馬車』と呼ぶにはあまりにも規格外すぎる。ヴァルトブルク公爵家が誇る最高級の黒曜石で装飾されたその巨大な車両は、馬ではなく、アレクセイ様が使役する二体の屈強な『氷の魔獣』によって牽引されていた。
「ヒカリ。口を開けてくれ。ポポロ村に到着する前に、少しでも栄養を摂っておくべきだ」
「しゃ、社長、もう結構です! 先ほどから最高級のシャインマスカット(異世界産)を三房も食べさせられて、お腹がタプタプなんですけど!」
馬車の中――というより、完全に防音・防振設計が施された『移動式・社長室』のふかふかな長椅子の上で、私はアレクセイ様に肩を抱かれたまま必死に抗議していた。
現在、私たちは新たな拠点となる限界集落『ポポロ村』へと向かっている。荒野の道は本来なら穴だらけで酷く揺れるはずなのだが、アレクセイ様が馬車の進行方向の地面を一瞬で『平らな氷の舗装路』に変えながら進んでいるため、車内は高級ホテルのラウンジ並みに快適だった。
「遠慮は無用だ。これから君は、あの騒がしいウサギの故郷で大規模な事業(インフラ整備)を展開するのだろう? カロリーはいくらあっても足りないはずだ。……さあ、次は私が口移しで――」
「きゅぃぃぃっ! 氷の魔王、セクハラで訴えるのですよ! ヒカリが困っているのが分からないのですよ!」
私の膝の上で丸まっていたコハクが、赤い瞳を吊り上げてアレクセイ様に向かって威嚇の声を上げた。
アレクセイ様はチッと舌打ちをし、不満げにシャインマスカットを皿に戻す。
(本当に、この過保護CEO(アレクセイ様)の独占欲はどうにかならないのでしょうか……。出張中くらい、適度な距離感を保っていただきたいものです)
私が密かにため息をついた、その時だった。
「おーい! 社長さん、ヒカリちゃん! 見えてきたよ! あれがアタシの故郷、ポポロ村だ!!」
馬車の外を、並走……いや、スノー・フェンリルの全力疾走を余裕で追い抜きながら、マッハの速度で反復横跳びをしている特任隊長・キャルルさんが、窓の外から元気に手を振ってきた。
相変わらず、私の支給した『タローマン特注・魔導安全靴』を履いた彼女の無尽蔵のスタミナは、完全に物理法則を無視している。
「到着ですね。……アレクセイ様、お仕事の時間です。過度なスキンシップはここまででお願いします」
「……分かっている。公爵としての威厳は保とう」
馬車がゆっくりと停止し、護衛の騎士が扉を開ける。
私は日除けの外套を羽織り、アレクセイ様のエスコートを受けながら、荒野の大地に降り立った。
そして、目の前に広がる光景を見て、私はコンサルタントとして言葉を失った。
「……これが、村?」
そこは、私が想定していた『貧しい村』という基準を、遥かに下回る惨状だった。
ルナミス帝国との国境である深い森の手前。乾ききった痩せた土地に、崩れかけた木組みの小屋が数十軒、身を寄せ合うように建っている。村を囲む防壁はところどころ腐り落ち、魔獣の侵入を防ぐ役割を全く果たしていない。
畑には作物が育った痕跡すらなく、村全体を覆う空気は、絶望と疲労で重く淀んでいた。
「ひどい……。限界集落というより、これではスラム街の跡地です。インフラが崩壊しているどころの騒ぎではありません」
「きゅぅ……。魔獣の臭いもプンプンするのですよ。これじゃあ、夜も安心して眠れないはずなのですよ」
コハクが鼻をヒクヒクとさせながら、尻尾の毛を逆立てた。
「みんなー! 帰ってきたよー! 特大のスポンサー(ホワイト企業)を連れてきたから、もう安心だよー!!」
キャルルさんが満面の笑みで村の中心に向かって叫ぶと、崩れかけた小屋の隙間から、おずおずと村人たちが顔を出した。
獣人、人間、ドワーフ。種族は様々だが、共通しているのは、誰もが頬がこけ、ボロボロの服を着て、怯えた目をしていることだ。
「お、おらが村の特任村長……キャルル様! ご無事で……ッ! し、しかし、その後ろにおられる恐ろしい黒鎧の騎士様たちと、あの冷たい目をしたお貴族様は一体……!?」
杖をついた老齢の村長代行(長老)が、ガクガクと震えながら進み出てきた。
無理もない。完全武装の公爵軍の精鋭騎士団と、一目で「絶対強者」と分かる氷の魔王(アレクセイ様)が、村を包囲するように展開しているのだ。どう見ても、強引な地上げ屋か、悪徳領主の徴税にしか見えないだろう。
「あ、心配しないで長老! この人たち、アタシたちの村を『M&A(買収)』してくれた、新しい雇い主だから! これからはヴァルトブルク公爵家・南部サテライトオフィスの正社員として、一生安泰なんだよ!」
キャルルさんは前向きな言葉(昨晩私が教えたビジネス用語)を並べたが、長老たちの顔色はさらに青ざめた。
「ば、ばいしゅう……!? 正社員……!? ああっ、ついに我々を奴隷として売り飛ばすのですね! キャルル様、いくら村の財政が苦しいからと、我々を悪徳貴族の鉱山へ送るなんて……ッ!」
「ち、違うってば! そういうブラックなやつじゃなくて!」
言葉の通じない長老たちが、絶望のあまりその場に泣き崩れそうになる。
このままでは、第一印象が最悪のまま、不信感だけが募ってしまう。
ビジネスにおいて、従業員(村人)のエンゲージメント(信頼度)の低下は、生産性の致命的な低下を招く。私はスッと前に進み出ると、完璧な営業スマイルを浮かべて長老の前に膝をついた。
「初めまして、ポポロ村の皆様。私はヴァルトブルク公爵家の事業コンサルタント、ヒカリと申します」
私が柔らかく、しかしはっきりとした声で語りかけると、村人たちの視線が私に集まった。
「誤解しないでください。私たちは皆様を奴隷にするつもりはありません。本日から、この村は我が社の『直轄事業所』となります。皆様には『労働契約』を結んでいただき、正当な報酬、週休二日制、そして魔獣から命を守る安全な住居(社宅)を提供することをお約束します」
「しゅうきゅうふつか……? 安全な住居……?」
長老が、信じられないものを見るように目を瞬かせた。
「無論だ」
私の背後から、アレクセイ様が静かに、しかし王者のような威厳に満ちた声で言葉を継いだ。
「私のヒカリが、貴様らを雇用すると決めたのだ。我がヴァルトブルクの庇護下に入った以上、飢えも、魔獣の恐怖も、私が全て絶対零度で凍らせて排除してやる。……ヒカリに心からの忠誠を誓い、粉骨砕身働くのであれば、貴様らの未来は私が保証する」
冷たくも力強いアレクセイ様の宣言に、村人たちは息を呑んだ。
彼の圧倒的な魔力とカリスマは、恐怖と同時に、決して揺るがない『巨大な傘(保護)』としての安心感を彼らに与えたのだ。
「しかし……ヒカリ様」
長老が、恥じ入るように目を伏せた。
「お言葉はありがたいですが、我々にはもう、働く気力も、体力も残っておりません。昨晩から、木の実一つ口にしておらず……このままでは、鍬を振るう前に餓死してしまいますじゃ……」
「お腹すいたぁ……」
長老の後ろから、ガリガリに痩せた獣人の子どもたちが、ぺこぺこのお腹を抱えて顔を出した。
(……なるほど。マズローの欲求5段階説における、最も低次にして最も重要な『生理的欲求(食欲)』が満たされていない状態ですね)
いくら素晴らしいビジョン(経営理念)を語ったところで、明日のパンがない人間には響かない。
腹が減っては戦(仕事)はできない。これは前世のブラック企業だろうが、異世界の限界集落だろうが、普遍の真理である。
「状況は完全に理解しました。……キャルルさん! 今すぐ村の広場を片付けて、大きなテーブルを並べてください! 騎士の皆さんも手伝って!」
「了解! おいお前ら、マッハで片付けるぞ!」
キャルルさんの号令のもと、騎士たちと彼女の超絶スピードにより、あっという間に村の中央広場にスペースが確保された。
私は左手首の魔導時計を起動し、【善行通販システム】の検索窓にキーワードを打ち込む。
(飢餓状態の人間に、いきなり重たいカツカレーや脂っこいステーキを食べさせるのは胃腸に負担がかかります。ここは、消化が良く、栄養満点で、心まで温まる『日本のソウルフード』一択です!)
私は『購入確定』ボタンを力強く押し込んだ。
【善行ポイントを消費します。……『極上・特製豚汁(超大鍋)&塩結び(無限湧きバスケット)』を召喚しました】
ピロンッ!という電子音と共に、広場の中央に魔法陣が展開される。
光が収束した直後、そこに現れたのは、大人十人がかりでも抱えきれないほどの『巨大な鉄鍋』と、熱々の白いご飯が握られた『山積みの塩結びバスケット』であった。
「なっ……!? なんだ、この途方もなく良い匂いは……ッ!」
長老が杖を落とし、村人たちの鼻が一斉にピクピクと動いた。
大鍋から立ち上る、味噌とごま油、そして根菜と豚肉の濃厚な香り。
大根、ニンジン、ごぼう、こんにゃく、そして厚切りの豚バラ肉がたっぷりと煮込まれた『極上豚汁』の湯気が、限界集落の淀んだ空気を一瞬にして多幸感で塗り替えていく。
「さあ、皆様! 我が社の『社員食堂(福利厚生)』の第一弾です! お腹がいっぱいになるまで、何度でもおかわりしてください!」
私が持参したお椀にたっぷりの豚汁をよそい、長老に手渡す。
長老は震える手でお椀を受け取り、一口、その温かいスープを啜った。
「…………っ!!」
長老の目が見開き、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「う、うんめぇぇぇ……っ! なんだこれは……五臓六腑に、温かい命が染み渡っていくようだ……ッ! この白くて丸い食べ物も、塩味が絶妙で、噛めば噛むほど甘味が……ッ!」
「おじいちゃん、わたしも! わたしもたべる!」
「うおおおおっ! 生きてて良かったぁぁぁっ!」
村人たちが一斉に大鍋に群がり、豚汁とおにぎりを夢中で頬張り始めた。
ある者は熱さに涙し、ある者はあまりの美味しさに天を仰ぎ、誰もが無我夢中で、空っぽの胃袋に『生きる活力』を詰め込んでいく。
「ひゃははっ! ヒカリちゃん、これ最高に美味しいよ! アタシも三杯目おかわり!」
キャルルさんも顔を味噌だらけにしながら、おにぎりを両手に持って豪快に頬張っている。
「ゆっくり食べてくださいね。いくらでもありますから」
私は満面の笑みで、おたまで豚汁を配り続けた。
企業の変革は、トップダウンの命令だけでは成し遂げられない。
従業員の心と身体(胃袋)を物理的に満たし、「この会社(領主)についていけば間違いない」という強烈な『成功体験』を植え付けること。これこそが、M&Aにおける究極の融和政策である。
「……フッ。まるで、神の奇跡でも見るような顔だな」
少し離れた場所で、腕を組んでその光景を眺めていたアレクセイ様が、誇らしげに口角を上げた。
「私のヒカリの手にかかれば、死に体の村を蘇らせるなど造作もないことだ。……おい、騎士ども。村の周囲に魔獣除けの結界石を設置しろ。ヒカリの食事会を、下等な獣どもに邪魔させるな」
「ははっ! 直ちに!」
騎士たちが一斉に動き出し、村の防衛網を瞬く間に構築していく。
こうして、限界集落『ポポロ村』の買収劇は、一滴の血も流れることなく、ただ大量の『豚汁とおにぎり』によって平和裏に完了した。
満腹になり、笑顔を取り戻した村人たちの顔を見渡しながら、私はコンサルタントとしての次なる一手を脳内で組み立て始めていた。
生理的欲求は満たした。次は、安全性(住環境の改善)と、労働インフラ(農地の土壌改良)の整備だ。
ヴァルトブルク公爵家・南部のホワイト企業化計画は、ここからがいよいよ本番である。




