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EP 10

長期出張には『サテライトオフィス(支店)』の開設が必要です

 王宮からの緊急特命、すなわち旧ガルシア領の暫定統治(ターンアラウンド案件)を引き受けてから丸一日。私のデスクの上は、ギデオン長官たちが徹夜でかき集めてくれた現地の資料で埋め尽くされていた。

「……ふむ。財務諸表バランスシートを見る限り、これは完全に『債務超過の破綻企業』ね。実質的なインフラ投資は過去十年間ゼロ、それなのに領民への課税率マージンだけは右肩上がり。よくこれで組織が維持できていたものだわ」

 私は冷えたハーブティーを口に含みながら、紙の束を次々とめくっていく。

 旧ガルシア領――現在の「南部直轄エリア」は、かつての栄華が嘘のように荒廃しているらしい。前領主の放漫経営と横領のせいで、現場のモラルは崩壊し、従業員(領民)の離職率(餓死および夜逃げ)は過去最高を記録している。

「これほどのブラック環境をホワイト化するとなると、生半可なアプローチでは通用しないわね。……よし、まずは『ツール』の選定から始めましょう」

 私は誰もいない執務室で、左手首の魔導時計をタップし、【善行通販システム】の画面を空中に展開した。

 前回の「お茶会出張」での最大の反省点は、領外における『三時間の持ち出し制限タイムリミット』だった。熱湯を弾くほどの高性能ドレスが、魔力消費によって時間前に強制解職ログアウトされてしまったあの失態は、二度と繰り返してはならない。

 今回は、数週間に及ぶ長期の現地視察フィールドワークだ。三時間ごとにアイテムが消滅していては、まともな業務(内政改革)などできるはずがない。

「何か、長期出張向けの特例条項(ヘルプ画面)があるはずよ……。あ、これね」

 画面の隅にある小さなリンクをタップすると、スクロールバーの遥か彼方に隠されていた『規約:エリア外における事業所展開について』という項目が浮かび上がった。

『【特例プロトコル:サテライトオフィスの開設】

ヴァルトブルク公爵領外であっても、ユーザーが正当な管理権、または所有権を有する不動産(土地・建物)が存在する場合、一定の善行ポイントを消費することで、当該拠点を「暫定セーフティエリア(支店)」として登録することが可能です。登録された拠点の半径一キロメートル以内では、通販アイテムの維持制限(三時間)が免除されます』

「……これよ! これこそが私が求めていた『B2B(領地間)統合システム』の鍵だわ!」

 私は思わずデスクを叩いて立ち上がった。

 王命によって、旧ガルシア領の管理権はすでに我がヴァルトブルク公爵家に暫定譲渡されている。つまり、現地に到着し、適当な役所や別邸を「南部支社」としてシステムに登記すれば、その周辺はすべて通販アイテムが使い放題のホワイトエリアに変わるのだ。

「きゅい~ん……。朝から画面を睨みつけて、悪い顔をしているのですよ、ヒカリ」

 ソファの上で丸くなっていたコハクが、大きな欠伸をしながらこちらを見ていた。

「悪い顔ではありません、コハク。これは『新規事業立ち上げ(スタートアップ)』のワクワク顔です。現地は深刻な物資不足と飢饉に瀕しているようですから、まずは初期投資(先行投資)として、バルク(大量)発注をかけますよ」

 私はシステムの検索窓に、前世の防災グッズや途上国支援で使われる定番アイテムを打ち込んでいく。

『発注リスト:

・高カロリー即席レトルト米(五千食)

・携帯用・超高性能水質浄化タブレット(一万個)

・多機能サバイバルシャベル(スチール製・防錆加工)(五百本)

・高栄養価ビタミンサプリメント(バルクコンテナ)』

 これらはすべて、前世の現代日本の技術で作られた、安価でありながら劇的な効果を発揮する「奇跡の物資」たちだ。これを現地で無料配給(現物支給のインセンティブ)として投入すれば、飢えた領民たちの信頼(顧客ロイヤルティ)を一瞬で勝ち取ることができる。

 確定ボタンを押すと、画面に表示された善行ポイントがガクンと減ったが、それ以上の成果リターンが期待できるため、私の心は全く痛まない。光の粒子となってインベントリ(無限収納)に吸い込まれていく物資を確認し、私は満足して頷いた。

「よし、初期サプライチェーンの構築は完了。あとは、現地のブラック役人たちを粛清リストラするための、私の『戦闘服ビジネスウェア』ね」

 前回のドレス消滅というコンプライアンス違反を踏まえ、今回私が選んだのは、モスグリーンの高機能チノパンに、ベージュのサファリシャツという、完全に「現場主義」のスタイルだ。

 もちろん、見た目は地味な冒険者風だが、そのスペックは【防刃・耐熱・UVカット・自動空調機能・防泥コーティング】が施された、軍事用インフラ作業服と同等のものである。

 髪を後ろで一つにきゅっと結び、鏡の前でポーズをとる。

「うん、素晴らしい。動きやすさ、実用性、ともに過去最高だわ。これならドロドロの農地を歩き回っても、一滴の泥汚れすら寄せ付けない。まさに『現場の鬼』ね」

「きゅいっ! 格好いいのですよ、ヒカリ! ボクも戦闘モード(襟巻き形態)になるのですよ!」

 コハクが嬉しそうに私の肩へと飛び乗ってきた。その最高級ファーの暖かさが、私のモチベーションをさらに高めてくれる。

 準備を整え、行政棟のエントランスへと降りると、そこにはすでに、遠征用の巨大な装甲魔導馬車と、それを囲むようにして整列した黒い鎧の騎士たちが待機していた。

 そして、その中心に立つのは、軍服をベースにした漆黒の旅装を纏った、アレクセイ様だった。

 腰に佩いた細身の魔剣、冷徹に引き締まった表情、そして風に揺れる銀糸の髪。そこにあるのは、いつもの「社長」としての姿ではなく、北方を武力で支配する「冷酷なる氷の魔王」そのものの威圧感だった。

「……おはよう、ヒカリ」

 しかし、私を視界に収めた瞬間、その絶対零度のオーラが嘘のように霧散した。

 アレクセイ様は長い足を大きく動かして私のもとへと歩み寄り、私の服装を見るなり、その美しい青い瞳をわずかに見開いた。

「その姿は……。いつもと随分、雰囲気が違うな」

「はい! 今回の任務は現場での実務フィールドワークがメインですので、機能性を最優先した『南部出張用ユニフォーム』を新調いたしました。いかがでしょうか?」

 私がその場でくるりと一回転して見せると、アレクセイ様は片手で口元を覆い、ふっと視線を逸らした。その耳の先端が、微かに赤くなっている。

「……素晴らしいな。君が纏えば、そのような簡素な服ですら、洗練された特別な衣装に見える。いや、その……足のラインが強調されていて、その……」

「? ああ、このチノパンは伸縮性(ストレッチ性)に優れていますので、スクワットや泥地での歩行にも最適なのです。御社……我が領の定番作業着として採用を検討しても良いレベルですよ」

「……君は本当に、私の視線の意味を理解しようとしないのだな」

 アレクセイ様は深く溜め息を吐くと、私の手首を優しく、しかし確固たる力で掴み、自分の方へと引き寄せた。

「だが、その服の機能性の高さは認めるが、現地にはまだ、ガルシアの息がかかった不届き者が大勢残っている。君のその瑞々しい姿を、他の男たちに無防備に晒すことは許さない。移動中も、現地での視察中も、必ず私の傍を離れるな。……分かったか?」

 至近距離で見つめられる青い瞳には、昨晩社長室で告げられた『終身雇用のプロポーズ』の熱が、まだはっきりと残っていた。

 私の心臓がトクン、と跳ねる。

「は、はい。トップ(最高経営責任者)の直属秘書として、常に密着同行(OJT)させていただきます」

「……仕事の言葉で返すなと言ったはずだが。まあいい、出発しよう」

 アレクセイ様は苦笑しながら、私の手を引いて馬車へとエスコートしてくれた。

「ヒカリ様――っ! どうか、どうかご無事で――っ!!」

 行政棟の窓から、ギデオン長官を筆頭とする文官たちが、涙ながらにハンカチを振って見送ってくれている。彼らにとっても、今回のプロジェクトは領地の未来を賭けた大勝負なのだ。

 私は窓から大きく手を振り返し、馬車のシートへと深く腰掛けた。

 ガタリ、と馬車が動き出す。

 豊かな北部の雪景色から、荒廃した南部の穀倉地帯へと向かう、超大型M&A(事業再生)プロジェクトの幕開けだ。

「さあ、アレクセイ様。タイムマネジメントを徹底し、最短最速で南部支社をホワイト企業へと変革させましょう!」

「ああ。君の望む通りに、すべてを塗り替えてやろう。……私の最愛の補佐官」

 冷たい氷の公爵様と、鋼のメンタルを持つ元社畜事務員。

 二人の新たなる戦い(第三章)へのプロローグは、糖度1000%の車内空気と共に、力強く加速していくのだった。

読んでいただきありがとうございます。

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