EP 9
競合他社の倒産(没落)は『M&A(吸収合併)』の始まりです
チュンチュン、と窓の外から平和な小鳥のさえずりが聞こえる。
爽やかな朝の陽光が、私の自室のベッドに降り注いでいた。
「…………うわああああああああっ!!」
私はベッドの上でガバッと跳ね起き、そのまま枕に顔を押し付けてジタバタと足をバタつかせた。
昨晩の記憶が、鮮明な映像と温度(体感)を伴って脳内にフラッシュバックしてくる。
『私の「隣」という役職を、君に終身雇用で任せたい。事務員としてでも、政務補佐官としてでもない。……私自身の、生涯の伴侶として』
『今日だけは。無事に帰ってきてくれた君に、褒美を与えさせてくれ』
「あわわわわ……っ! け、経営トップからの直接のプロポーズ(ヘッドハンティング)……! しかも、額へのキス(物理的インセンティブ)付き……!」
思い出すだけで、顔面から火が出そうだった。
前世の社畜時代を含めても、あんなに甘く、かつ逃げ場のない「査定面談」を受けたことはない。アレクセイ様のあの本気の瞳と、優しく触れた唇の感触が、一晩経っても全く消え去ってくれないのだ。
「きゅぃぃ……(朝からうるさいのですよ、ヒカリ。発情期の猫みたいに身悶えして、ボクまで寝不足になりそうなのですよ)」
ベッドの足元で丸くなっていたコハクが、薄目を開けて呆れたような念波を送ってきた。
「ち、違います、コハク! これは発情などではなく、経営陣からの過大評価に対するプレッシャー(重圧)による情緒不安定です! あそこまで期待されてしまったら、今後の業務目標(KPI)を大幅に上方修正しなければならないではありませんか!」
「きゅい(はいはい、そういうことにしておくのですよ。素直に『イケメンの社長に口説かれて嬉しい』って言えばいいのに、変な女なのですよ)」
コハクの的確すぎるツッコミ(痛恨の一撃)に反論できず、私はそそくさとベッドから抜け出して制服(事務服)へと着替えた。
とにかく、今は仕事だ。仕事に集中して、この浮ついた心を正常なビジネスモードへと戻さなければ。
気合を入れて行政棟の執務室へと向かうと、そこはすでに朝から異様な熱気に包まれていた。
「おはようございます、皆様。本日の朝礼を――」
「ヒカリ様! おはようございます!!」
私が挨拶を終える前に、ギデオン長官がものすごい勢いで駆け寄ってきた。その後ろでは、大勢の文官たちが興奮した様子で束になった報告書を振り回している。
「聞いてください、ヒカリ様! 今朝の王都からの早馬で、正式な通達がありました! ガルシア侯爵家、国家反逆および予算横領の罪で、全財産没収ならびに一族の平民降格が確定いたしましたぞ!」
「おお……! 見事なまでのスピード倒産(経営破綻)ですね」
私は冷静に頷いた。アレクセイ様が昨日の王宮会議で提出した証拠が、あまりにも完璧だったのだろう。コンプライアンス(法令順守)を軽視した組織の末路としては、当然の結果である。
「これで、王都における旧態依然とした貴族派閥(抵抗勢力)は完全に力を失いました! 我がヴァルトブルク公爵領が推進している『能力主義』や『労働環境の改善』といった新政策も、国全体に広めやすくなりますぞ!」
ギデオン長官が感涙にむせびながらガッツポーズをした。
(なるほど。最大の競合他社が市場から退場したことで、我が社のシェアが拡大し、業界標準を握りやすくなったというわけですね。素晴らしい市場環境の好転です)
「長官、浮かれるのはそのくらいにしておきましょう。他社の倒産は喜ばしいことですが、市場に空きができたということは、そこに新たなトラブルや『業務のしわ寄せ』が発生するということでもあります。気を引き締めて、本日のタスクに――」
私が文官たちに訓示を垂れようとした、その時だった。
執務室の重厚な扉が静かに開き、アレクセイ様が姿を現した。
「……おはよう、ヒカリ。それから皆の者」
「「「公爵閣下! おはようございます!」」」
文官たちが一斉に最敬礼の姿勢をとる。
アレクセイ様は普段通りの完璧な氷の美貌を保っていたが、私と視線が合うと、ほんの一瞬だけ、その青い瞳が柔らかく細められた。昨晩の「残業」を思い出させるような、甘い視線。
私は咄嗟に目を逸らし、咳払いで誤魔化した。
「お、おはようございます、社長(閣下)。朝から自ら執務室にいらっしゃるとは、何か緊急の案件でしょうか?」
「ああ。ヒカリが先ほど言っていた通り、『業務のしわ寄せ』が早速やってきた」
アレクセイ様は手にした羊皮紙の束を、私のデスクの上にドサリと置いた。
そこには、王家の紋章がでかでかと押印されている。
「王宮からの緊急通達(追加発注)だ。……ガルシア家が取り潰しになったことで、奴らが治めていた南部の穀倉地帯と、主要な物流拠点の管理者が不在となった」
「ふむ。倒産企業の管財業務ですね」
「王家は、ガルシア家の不正を暴き、現在国内で最も豊かな財政と安定した統治を実現している我がヴァルトブルク公爵家に、その旧ガルシア領の『暫定的な代官(管理者)』を任せたいと言ってきた」
「…………なんと」
私は目を丸くした。
つまりそれは、競合他社が手放した優良事業(領地)を、我が社が引き受けるということだ。ビジネス用語で言えば、まさに『事業譲渡』、あるいは『M&A(吸収合併)』である!
「素晴らしいではありませんか、アレクセイ様! 我が社の領土(事業規模)の拡大です! 特に南部の穀倉地帯と物流拠点を手に入れれば、我が領のサプライチェーンはさらに強固になりますよ!」
私は興奮のあまり前のめりになったが、アレクセイ様は渋い顔をして首を横に振った。
「そう単純な話ではない。……ガルシア家は、長年にわたって領民から重税を搾り取り、インフラ整備を一切怠ってきた。報告によれば、旧ガルシア領の民は飢えに苦しみ、治安は最悪、農地は荒れ果てているそうだ。さらに、前領主に媚びへつらっていた腐敗した代官や役人たちが、まだ現地にのさばっている」
「……なるほど」
私はスッと表情を引き締めた。
これは、単なる優良事業の買収ではない。莫大な負債(赤字)と腐敗した組織風土(ブラックな職場環境)を抱え込んだ、超難易度の『企業再生案件』なのだ。
買収した企業を自社のシステムと統合するプロセス、いわゆる【PMI】は、M&Aにおいて最も失敗しやすい魔のフェーズである。
「王命とはいえ、あのような腐りきった土地を押し付けられるとは、厄介事もいいところだ。私は断るつもりだったのだが……王が泣きついてきてな。ヒカリ、君の負担が増えることになるが、どうだろうか。もし君が『やりたくない』と言うなら、今からでも王宮に怒鳴り込んで白紙撤回させてくるが」
アレクセイ様は、本気で私を心配してくれているようだった。
私の負担を減らすためなら、王命すら蹴り飛ばす(コンプライアンス無視)。その過保護すぎるトップの姿勢には感謝しかないが、私の社畜魂(コンサルタントの血)が、それを許さなかった。
「お断りします、アレクセイ様」
「そうか、やはり君も嫌か。ならばすぐに王宮へ――」
「違います。白紙撤回を『お断り』するのです」
私がニヤリと笑うと、アレクセイ様とギデオン長官はぽかんと口を開けた。
「アレクセイ様。これは我が社にとって、これ以上ない『ビッグチャンス』です。腐敗したブラック企業(旧ガルシア領)を、我が社の完璧なホワイト規格(コンプライアンス遵守)に染め上げ、最短で黒字化(V字回復)させる。……これほど燃えるプロジェクト(仕事)が、他にあるでしょうか!?」
私の目が、爛々と輝き始める。
善行通販システムで最新の農機具やインフラ設備を召喚し、荒れた土地を一気に開拓する。腐敗した役人たちをリストラ(物理)し、公正な人事評価制度を導入する。そして何より、飢えた領民たちを「我が社の優秀な従業員」として再雇用し、圧倒的な福利厚生で報いるのだ。
「ヒカリ様……! なんて崇高な使命感……!」
ギデオン長官がまたしても勝手に勘違いして(?)感涙を流している。
「いいでしょう。旧ガルシア領の立て直し(PMIプロジェクト)、このヒカリがプロジェクトマネージャーとしてお引き受けいたします! まずは現状把握が急務です。現地への視察日程を早急に組みましょう!」
「……君という人は、本当に……。厄介事を前にして、誰よりも楽しそうに笑うのだな」
アレクセイ様は呆れたように息を吐いたが、その口元には、隠しきれない柔らかな微笑みが浮かんでいた。
「分かった。そのプロジェクト、全面的に君に一任しよう。もちろん、予算は上限なしだ。公爵家の全権をもって、君の好きにやってくれ。ただし……」
アレクセイ様はスッと私の傍に歩み寄り、他の文官には聞こえないような小さな声で、私の耳元に囁いた。
「治安の悪い土地へ、君一人を行かせるわけにはいかない。……視察には、私が同行する。君の護衛として、な」
「へっ……!? し、社長自らが現場の視察に同行されるのですか!?」
「当然だ。君を再び危険な目に遭わせるつもりはない。それに……君と一緒に過ごす時間(出張)が増えるのは、私にとっても悪くないからな」
アレクセイ様の低く甘い声と、耳元に吹きかかる吐息に、私の心臓がまたしても限界を超えて早鐘を打ち始めた。
(ち、ちがっ……! トップ直々の護衛とか、プレッシャーで胃に穴が空きますって! それに、二人きりの出張って、それはもう業務じゃなくてただの……!)
「きゅいきゅい!(ヒカリ、顔がゆでダコみたいになってるのですよ! 業務中なのに不純なのですよ!)」
コハクの容赦ないツッコミが脳内に響く。
「と、ととと、とにかく! 大至急、出張の準備を開始します! ギデオン長官、旧ガルシア領の過去三年分の財務データと、現地の役人のリストを至急まとめてください! 明後日には現地へ向かいます!」
「ははっ! 直ちに取り掛かります!」
こうして、王都でのお茶会騒動の余韻に浸る暇もなく、私とアレクセイ様は新たなる超大型案件(M&A)へと突入することになった。
舞台は、腐敗と絶望が渦巻く南部の旧ガルシア領。
我が社のホワイト経営術と【善行通販システム】の力で、このブラックな土地を史上最高の「優良子会社」へと変革してみせようではないか!
次への力強いキックオフ宣言と共に、幕を閉じたのであった。




