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EP 8

社長室での『残業ティータイム』は甘く危険な香りがします

 王都からの長旅を終え、魔導馬車がヴァルトブルク公爵領の行政棟前へと滑り込んだのは、すっかり夜も更けた時間帯だった。

 普段の我が領であれば、文官たちはとっくに『定時退社』をキメて、領内の酒場でエールを傾けたり、家族団欒の時間を過ごしたりしている時間である。しかし、今日ばかりは様子が違った。

 馬車の扉が開いた瞬間、目に飛び込んできたのは、魔導ランタンの温かい灯りに照らされた大勢の文官たちの姿だった。ギデオン長官を筆頭に、行政棟の職員たちが総出で私たちの帰還を待ちわびていたのだ。

「公爵閣下! それに、ヒカリ様……! おお、ご無事で何よりです……!」

 ギデオン長官が、安堵のあまりボロボロと涙をこぼしながら駆け寄ってきた。

(おお……。皆さん、こんな時間まで自主的に『残業(待機)』して、私の安否を心配してくださっていたのね。他社(ガルシア家)のギスギスした派閥争いを見た直後だからこそ、このアットホームで仲間思いな職場環境が身に染みるわ!)

 私は深い感動を覚え、アレクセイ様に抱き抱えられたままの体勢で、元気よく右手を上げた。

「皆様、ご心配をおかけしました! 王都への出張任務、無事に完了いたしました! 敵対的クレーマー(イザベラ令嬢)への対応も、我が社の最新防護技術によって完璧に処理済みです!」

「おおおっ……! さすがはヒカリ様! あの悪名高きガルシア派閥の包囲網を単独で突破されるとは!」

 文官たちが一斉に歓声を上げ、拍手喝采が巻き起こる。まるで、大型コンペで競合他社を打ち負かし、見事に契約を勝ち取ってきた営業エースを称えるかのような熱狂ぶりだ。

 だが、私を抱きかかえているアレクセイ様の周囲の空気は、マイナス五十度ほどの冷たさを保っていた。

 彼が一瞥をくれただけで、歓声を上げていた文官たちが「ヒッ」と息を呑み、即座に静まり返る。

「……ヒカリは、くだらない茶番に巻き込まれてひどく疲弊している。今日の業務はここまでだ。全員、速やかに帰宅して休め。明日以降の業務に支障をきたすことは許さん」

「は、ははっ! 直ちに撤収いたします、閣下!」

 トップ(CEO)からの冷徹な帰宅命令が下ると、文官たちは蜘蛛の子を散らすように、あっという間にそれぞれの家路へと向かっていった。

(素晴らしい。無駄なダラダラ残業を許さない、トップ自らによる完璧な労務管理ですね)

「さて、ヒカリ。私たちも部屋へ行こう。……約束通り、極上のハーブティーを用意させてある」

「はい、お供させていただきます!」

 私はアレクセイ様の分厚い黒マントに包まれたまま、彼に抱き抱えられて公爵邸の最上階――アレクセイ様の私室(社長室)へと運ばれていった。

 コハクは「ボクはもう眠いのですよ」と欠伸をしながら、私の自室の方へとトコトコ歩いて帰ってしまった。どうやら、これ以上の「糖度」にあてられるのを避けたようだ。

 ***

 アレクセイ様の私室は、彼自身の性格を表すかのように、無駄な装飾の一切ない、シンプルで洗練された空間だった。しかし、家具の一つ一つが最高級の素材で作られており、暖炉の火が部屋全体を心地よい温度に保っている。

「まずは、その消えかかったドレスを着替えてこい。隣の更衣室を使っていい。……私が用意させた服を置いてある」

「ありがとうございます。お借りしますね」

 私はマントをしっかりと押さえながら更衣室へ入り、アレクセイ様が用意してくれていた衣服に袖を通した。

 それは、公爵家のメイドが着るような簡素なものではなく、まるで妖精の羽のように軽くて柔らかい、純白のルームウェア(ワンピース)だった。肌触りが異常なまでに良く、着ているだけで一日の疲労がスッと抜けていくような、極上のリラックス効果(回復魔法)が付与されているのが分かる。

(さ、さすがは社長室の備品……。福利厚生のレベルが規格外すぎるわ)

 私は感動しながら更衣室を出て、アレクセイ様の待つソファへと向かった。

「お待たせいたしました、アレクセイ様。この服、とても着心地が良いです。素晴らしい福利厚生(支給品)ですね」

「……」

 私を見た瞬間、アレクセイ様は手にかけていたティーカップをピタリと止め、息を呑んで固まった。

 暖炉の炎に照らされた純白のワンピース姿の私を、彼の青い瞳が、まるで宝物でも見つけたかのような、あるいは酷く飢えた獣のような、熱を帯びた視線で食い入るように見つめている。

「ア、アレクセイ様? サイズが合っていませんでしたか?」

「……いや。似合いすぎている。むしろ、その姿を私以外の者に見せたくないという独占欲が、今、猛烈な勢いで私の中で暴れ回っているところだ」

 アレクセイ様は片手で顔を覆い、大きく、深い溜め息を吐いた。

 そして、私の隣のスペースをポンポンと叩き、座るように促す。私が大人しく腰を下ろすと、彼は私が座ったことによるソファの沈み込みを利用して、自然な動作で私の肩を抱き寄せた。

 ローテーブルの上には、王都の別邸で出されたものとは比べ物にならないほど、豊かで心安らぐ香りを漂わせるハーブティーが用意されていた。

「さあ、飲んでくれ。我が領の薬草園で採れた、最高品質の茶葉だ。……イザベラとかいう女が出した泥水とは違う」

「いただきます」

 一口啜ると、清涼感のある香りと、優しい甘みが口いっぱいに広がった。今日一日の緊張感(出張のストレス)が、文字通り溶けて消えていくようだ。

「美味しい……! 心身の疲労が一瞬でリセットされます。やはり、自社製品(領地産)の品質管理は世界一ですね」

「君が気に入ってくれて何よりだ。……さて。君に、一つ業務報告をしておこう」

 アレクセイ様は私と同じようにティーカップを傾けながら、ふと、その瞳の温度をビジネスライクな冷たさへと切り替えた。

「ガルシア侯爵家の件だ」

「ああ、お茶会でアレクセイ様が『国家予算の横領』とおっしゃっていた件ですね。すでに監査部(影の部隊)が動いていたのですか?」

「ああ。君が我が領に来る前から、奴らの金の動きが不自然であることはマークしていた。だが、決定的な証拠の隠滅工作が巧妙でな。しっぽを掴むのに少し時間がかかった」

 アレクセイ様は冷酷な笑みを浮かべた。

「だが、奴は焦った。君という『平民の事務員』に論破され、私の冷気で追い出されたことで、王都での派閥の威信に傷がついたからだ。失地回復のために、奴は裏帳簿を動かして、強引な資金調達(賄賂)に走った。……そこを、私の影が見逃すはずがない」

(なるほど。前回の行政棟での一件が、結果的に敵のコンプライアンス違反(不正会計)を炙り出すトリガーになっていたのですね!)

「私が今日、王宮の会議で王の顔面に叩きつけたのは、その横領の決定的な証拠(裏帳簿のコピー)だ。ガルシア家が私腹を肥やしていた額は、国家予算の約一割にも上る。……もはや、言い逃れは不可能だ」

「国家予算の一割……! それは重大な横領事案(重罪)ですね。当然、上場廃止……いえ、爵位の剥奪は免れないかと」

「当然だ。ガルシア侯爵はすでに近衛騎士団によって拘束され、地下牢へ投獄された。一族は全財産を没収された上で平民に落とされ、王都からの永久追放が決定している。……あのイザベラとやらも、北部の過酷な修道院で、一生をかけて労働と祈りの日々を送ることになるだろう」

 アレクセイ様の言葉には、一ミリの慈悲も含まれていなかった。

 自社の社員(私)に危害を加えようとした競合他社に対する、完膚なきまでの徹底的な報復(法的措置)。

 私はその完璧なリスクマネジメントと、敵対的勢力を完全に無力化する手腕に、心からの拍手を送った。

「素晴らしい成果です、アレクセイ様! これで、我が公爵領の行政システム改革を邪魔する旧態依然の勢力アンチは一掃されましたね。今後のプロジェクト展開が、非常にスムーズになります!」

「……君は、本当に仕事のことばかりだな」

 アレクセイ様はティーカップをテーブルに置き、私の肩を抱いていた腕にぐっと力を込めた。

 そのまま、彼の大きな体が私に覆い被さるように傾き、ソファの背もたれとの間に私を閉じ込める形になる。

「ひゃっ……!?」

 突然の至近距離に、私は思わず変な声を上げてしまった。

 アレクセイ様の美しい顔が、私の鼻先数センチの距離にある。彼の銀糸のような髪が私の頬に触れ、冷たくて甘い香りが私の思考を完全に麻痺させた。

「あ、あの、アレクセイ様……? これは、どのような意図のポジショニングでしょうか……?」

「……業務外の、残業プライベートだと言っているだろう」

 彼の低い声が、直接鼓膜を震わせる。

「ヒカリ。君は今日、私に『定年まで、骨を埋める覚悟で働く』と言ってくれたな」

「は、はい。もちろんです。これほど働きがいのある職場を離れる理由は――」

「ならば」

 アレクセイ様の長い指が、私の唇をそっと塞いだ。

「ならば、私の『隣』という役職を、君に終身雇用で任せたい。事務員としてでも、政務補佐官としてでもない。……私自身の、生涯の伴侶として」

「っ……!」

 それは、これまで「偽装婚約」という建前でごまかしてきた彼からの、あまりにも直球で、甘すぎる本気の『プロポーズ(ヘッドハンティング)』だった。

「君が私に与えてくれた光は、領地を救っただけではない。氷に閉ざされていた私の心を、誰よりも温かく溶かしてくれた。……私はもう、君なしでは息をすることさえ難しい」

 アレクセイ様の瞳には、一切の迷いがない。

 彼の真摯な想いが、真っ直ぐに私の心に突き刺さる。

 私の脳内フィルター(社畜マインド)は、この瞬間、完全に機能を停止していた。

 「これは福利厚生の一環だ」「トップからの評価だ」という言い訳が、彼のこの熱を持った瞳の前では全く通用しないことを、私自身が一番よく分かっていたからだ。

「ア、アレクセイ、様……」

「返事は、急がない。君が納得するまで、私がどれほど君を愛しているか、毎日証明し続けてみせる。……だが、今日だけは。無事に帰ってきてくれた君に、褒美キスを与えさせてくれ」

 アレクセイ様は私の返事を待たず、静かに、本当に大切そうに目を閉じると、その完璧な形をした唇を、私の額へと優しく落とした。

 ちゅっ、という小さな音が、静寂に包まれた社長室に響く。

 額に触れただけの、とても紳士的なキス。

 しかし、そこに込められた圧倒的な愛と独占欲は、私の全身をカァァァッと沸騰させるには十分すぎた。

「ふふ、顔が真っ赤だぞ、私の優秀な補佐官殿」

「~~~っ!! そ、それは、この部屋の暖炉の温度設定が、少々高すぎるせいかと……!」

 私が両手で顔を覆って必死に言い訳をすると、アレクセイ様は今日一番の、心からの楽しそうな笑い声を上げた。

 こうして、王都での「お茶会(アウェイ出張)」という名の大きなトラブルは、ガルシア家の完全な没落と、私とアレクセイ様の関係が「業務上の契約」から「本当のパートナー」へと確実に一歩踏み出すという、最高の成果リターンをもって幕を閉じたのである。

 ……しかし。

 完璧なホワイト領地を作り上げ、平穏な日々が続くと思っていた私の前に、次なる『超大型プロジェクト(厄介事)』が迫っていることを、この時の私はまだ知る由もなかったのである。

読んでいただきありがとうございます。

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