EP 6
氷の公爵様は『定時上がり(物理)』で迎えに来ます
鼓膜を劈くような轟音と共に、重厚なオーク材の扉が木っ端微塵に爆散した。
宙を舞う木片は、床に落ちる前にすべて白く凍りつき、カラン、カランと無機質な音を立てて砕け散る。
夏真っ盛りの王都。しかもここは、空調(魔法具)によって快適な温度に保たれていたはずの侯爵邸のサロンである。
それにもかかわらず、開け放たれた扉の向こうから流れ込んでくるのは、肌を刺すような極寒の吹雪と、息をすることさえ困難になるほどの圧倒的な魔力の奔流だった。
「ひっ……!?」
「な、なんだ……この冷気は……っ!」
私を不当に拘束しようと剣に手をかけていたガルシア家の私兵たちが、ガチガチと歯の根を鳴らし、恐怖に顔を引き攣らせて後ずさる。彼らが握りしめていた剣の柄には瞬く間に霜が張り、あまりの冷たさに耐えきれず、次々と床に武器を取り落としていった。
白く渦巻く冷気のベールを裂いて、一人の男が姿を現す。
月光を紡いだような美しい銀糸の髪。氷の彫刻のように冷徹で、残酷なほどに端正な顔立ち。そして、深淵の海よりも青く、今は底知れぬ怒りによって昏く濁りきった瞳。
「――私の婚約者を、ずいぶんと楽しませてくれているようだな」
地を這うような、恐ろしく冷たい美声がサロンに響き渡った。
我が社の最高経営責任者(CEO)にして、この国の北方を統べる氷の魔王。
アレクセイ・フォン・ヴァルトブルク公爵閣下、その人である。
「あ……公爵、閣下……?」
先ほどまで「平民が!」と金切り声を上げていたイザベラが、幽鬼でも見たかのように顔面を蒼白にし、その場にへたり込みそうになるのを必死に堪えていた。
周囲の令嬢たちに至っては、声を発することすらできず、彫像のように固まって震え上がっている。
(おおっ……! さすがはアレクセイ様、登場の際のオーラ(威圧感)が他社の追随を許しません! それにしても、王宮での緊急会議はどうされたのでしょうか? まさか、会議を途中で抜け出してきたのでは……それだと重大なコンプライアンス違反になってしまいますが……)
私がビジネス的な観点からハラハラしていると、アレクセイ様は私兵や令嬢たちには目もくれず、一直線に私のもとへと歩み寄ってきた。
その足取りは静かだが、彼が一歩踏み出すごとに、床の絨毯がパリパリと音を立てて凍結していく。
「ヒカリ……!」
私の目の前に立ったアレクセイ様は、周囲に撒き散らしていた絶対零度の殺気を一瞬にして引っ込め、まるで壊れ物にでも触れるかのように、震える手で私の頬を包み込んだ。
「怪我はないか!? 胸元のブローチが強い防衛魔法の起動を知らせた。君に危険が及んだと分かった瞬間、生きた心地がしなかった……」
「お疲れ様です、アレクセイ様。ご心配をおかけしましたが、この通り無傷です。我が社の最新技術(超撥水コーティング)が完璧に機能しましたので」
私がビジネススマイルで答えると、アレクセイ様は深く、本当に深く安堵の溜息を吐き、私の額に自分の額をすり寄せた。
「よかった……本当に。……いや、よくはない。君をあんな者たちの目に触れさせたこと自体が、私の痛恨の極みだ。……遅くなってすまなかった」
「いえ、むしろ早すぎるくらいですよ。王宮の会議はどうされたのですか?」
「あんなもの、開始五分で私の『北部の防衛データと改善案』を王の顔面に叩きつけ、全会一致で可決させて終わらせてきた。定時など待っていられるか。君に一秒でも早く会うためなら、王宮の会議室ごと凍らせて議事録を捏造してでも駆けつけるつもりだった」
(なんと……! 圧倒的なプレゼン能力で会議を強引に巻き巻き(時短)にしたのですね! さすがはトップ、タイムマネジメント能力がカンストしています!)
私は彼の手腕に心からの拍手を送りたくなった。
しかし、感動の再会(?)も束の間。
アレクセイ様の視線が、床に散乱しているティーポットの残骸と、周囲に飛び散った紅茶のシミ、そして顔を赤くして震えているメイド長へと向けられた。
「……なるほど。これが、ガルシア家が我が公爵家の婚約者に対してもてなした『お茶』というわけか」
アレクセイ様の声の温度が、再びマイナス百度まで急降下した。
彼がゆっくりと振り返り、イザベラを射抜くように睨みつける。その瞬間、サロン内の空気が物理的に軋んだ。
「ひっ……!? ち、違いますわ、公爵閣下! これは誤解です!」
イザベラはガタガタと全身を震わせながら、必死に弁解を始めた。
「わ、私のメイドが、粗相をしてお茶をこぼしてしまっただけで……! わざとではありませんの! それに、その平民……ヒカリ様は、私たちがどれだけ好意でおもてなしをしても、的外れな言葉で私たちを馬鹿にし、挙句の果てには私に向かって熱湯を弾き返してきたのです! ご覧になってください、私のドレスが台無しですわ!」
イザベラは、紅茶のシミがついた自分のドレスの裾を指差し、あろうことか「自分こそが被害者である」とアピールし始めた。
(うーん、これは酷い責任転嫁(クレームのすり替え)ですね。監視カメラ(録画魔法)でもあれば一発で論破できるのですが……)
私が冷静に分析していると、首元のコハクが「きゅいっ!(この女、往生際が悪いのですよ!)」と怒りの波動を放った。
だが、アレクセイ様の対応は、私の想像をはるかに超えるほど容赦のないものだった。
「……黙れ」
たった一言。
その言葉と共に放たれた魔力によって、イザベラは糸が切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。物理的な重圧が彼女の両肩にのしかかり、立ち上がることすらできないのだ。
「誤解、だと? 君が私の婚約者を呼び出し、下劣な嫌がらせを行ったことは、すでに王都の私の『影』たちから報告が上がっている。メイドの粗相? 笑わせるな。煮えたぎる熱湯を人にぶちまけるようなメイドを雇っている時点で、ガルシア家の管理体制は腐りきっている」
「あ、ああ……っ」
イザベラは息を呑み、涙目でアレクセイ様を見上げる。
「それに、ドレスが台無しになったと言ったな。……君のその安っぽい布切れと、ヒカリの髪一本。どちらに価値があるか、本当に分かっていないようだな」
「公爵、様……わたくしは、あなた様を想って……! こんな平民の女よりも、私の方がずっとあなた様に相応しいと……!」
「相応しい? 君が?」
アレクセイ様は、まるで路傍の汚物でも見るような、絶対的な侮蔑の視線をイザベラに下ろした。
「君のような、他者を貶めることでしか己の価値を見出せない寄生虫が、私の隣に立てると思うな。ヒカリは、その知性で領地の民を救い、その微笑みで私の凍りついた心を溶かした、世界で唯一の『光』だ。君が百年かけても、彼女の足元にも及ばない」
その言葉は、イザベラの誇りとプライドを、根元から粉々に打ち砕く完全な「死刑宣告」だった。
イザベラはポロポロと絶望の涙をこぼし、床に突っ伏して呜咽を漏らし始めた。取り巻きの令嬢たちも、アレクセイ様の怒りの矛先が自分たちに向くのを恐れ、互いに身を寄せ合って震えている。
(おお……。社長自らによる、競合他社への強烈なダメ出しと、自社社員への手厚い評価。少し過大評価な気もしますが、トップの期待に応えるためにも、今後さらに業務に邁進せねばなりませんね!)
私が一人で社畜的な決意を新たにしていると、手首の魔導時計が『ピピピピッ!』と少し大きな警告音を鳴らした。
『警告:想定外の物理ダメージ(熱湯)を防御したため、魔力を大量消費しました。アイテムの維持可能時間が大幅に短縮されました。強制解除まで、残り三十秒』
「えっ!?」
私が思わず声を上げた瞬間。
無敵の防御力を誇っていた私のモスグリーンのドレスが、光の粒子となってポロポロと崩れ始めたのだ。
「ヒカリ!? どうした、服が……!」
アレクセイ様が驚いて目を見開く。
(まずいっ! このドレスの下、動きやすさ重視で簡素なインナーしか着てないのに! ここで解除されたら、物理的な意味で大惨事(コンプライアンス違反)になってしまう!)
焦る私の肩が、完全に露わになりかけた、その時。
バサァッ!
視界が真っ暗になった。
アレクセイ様が、自身が羽織っていた分厚く上質な漆黒のマントを素早く脱ぎ、私の全身を頭からすっぽりと包み込んだのだ。
「ア、アレクセイ様?」
「……見せない。君の肌を、君のすべてを、こんな下劣な連中に一ミリたりとも見せてたまるか」
マント越しに、アレクセイ様の力強い腕が私の腰を抱き寄せる。彼の体温と、冷たくも心地よい香りが私を包み込んだ。
「さあ、帰ろう、ヒカリ。こんな不衛生な職場は、直ちに視界から消し去るべきだ」
「は、はい! 直帰いたします!」
アレクセイ様は私を軽々と抱き上げると、氷漬けになったサロンを振り返り、イザベラに向けて冷酷なトドメを刺した。
「イザベラ・フォン・ガルシア。今日のこの不祥事、お前の父親であるガルシア侯爵が『国家予算を横領していた』という確固たる証拠と共に、明日の朝一番で王家へ提出させてもらう。……ガルシア家は、今日で終わりだ」
「お、お父様……が……? そんな、嘘よぉぉぉぉっ!!」
イザベラの悲痛な絶叫と、令嬢たちの悲鳴が交差する中。
圧倒的な勝者である私たちの最高経営責任者は、私を腕の中に抱き抱えたまま、悠然と別邸を後にしたのだった。
読んでいただきありがとうございます。
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